第40話 深川新地(その一)
「深川七場所」とも称されたほど、深川には岡場所が多かったが、新地もそのひとつである。現在の、東京都江東区越中島一丁目のあたりであろう。
江戸は水路が発達していたが、とくに深川には縦横に掘割が張りめぐらされていた。江戸の各地から深川におもむく人々は、もっぱら舟を利用した。そのためもあって、深川の遊興では船宿の船頭の存在が大きかった。船頭はたんに客の送迎をするだけでなく、女郎との取り持ちもおこなった。いわば吉原で引手茶屋がになっていた役割を、深川では船頭が果たしていたのだ。 なお、深川では、客は女郎屋に登楼するのではなく、いったん料理茶屋にあがって、そこに女郎を呼び寄せ、奥座敷で同衾する仕組みになっていた。 また深川では一般に、女郎屋のことを「子供屋」、女郎のことを「子供」と呼んだ。 天保二年(1831)ころの深川新地である。 松之助は大店の若旦那で十八歳、遊びを覚えたばかりだった。深川には友人に誘われて何度か行ったことがあるが、いつも人に案内されてばかりでは悔しい。そろそろ、ひとりで遊んでみたいと願っていたが、恥ずかしさと気後れもある。 たまたま外出していて、西河岸を通りかかった。日本橋川南岸の、一石橋と日本橋のあいだを西河岸と呼んでいる。 掛行灯に大和屋と書いた船宿が目についた。先日、友人といっしょのときに利用した船宿である。 「これからなら、夜がふける前に家には帰れよう。そうすれば、親父もうるさいことは言うまいし」 松之助は勇気をふるいおこし、思い切って大和屋に足を向けた。 女将のお竹はもちろん、客の顔は覚えている。 愛想よく出迎え、 「おや、よくいらっしゃったね。まことにお珍しい。おまえさんおひとりかえ。お連れさんは、どうでございますえ」 と言いながら、茶と煙草盆を出す。 「きょうはひとりで来やした。早く舟をこしらいてくんな。人に見られるかと思うと、気が気でなくってね」 松之助は障子の陰で身を縮めている。 お竹は、そんな初心な男を好もしく思った。 「おまえさんは実がありますねぇ。では、さっそく舟をこしらえさせましょう。亀どん、亀どん」 と、船頭の亀吉を呼ぶ。 だが、いっこうに返事がない。 「ついさっきまで、そこにいたのに。まことに世話が焼けるよ。おおかた、二階で昼寝でもしているのでございましょう」 ぶつぶつ言いながら、お竹は二階に通じる階段の下に立ち、声を張り上げた。 「亀どん、寝ているかえ。お客だよう」 亀吉もようやく目を覚まし、「あああ」と、大あくびをしながら階段をおりてきた。客の顔は見覚えている。 「旦那、よくいらっしゃいました。このところ、さっぱりお目にかかりませんので、案じておりました」 調子のよいことを言いながら、さっそく屋根舟の準備をする。 猪牙舟では姿が丸見えになってしまうため、松之助は屋根舟を頼んだのだ。 人目を避けるように、松之助は足早に桟橋に向かう。 お竹も桟橋までついてきて、 「お危のうございます。亀どん、気をつけなよ。お帰りがおそくなると、お屋敷の首尾が悪いよ。きっと七ツ(午後四時ころ)にはお連れ申しなよ」 と、亀吉に指示した。 船宿の女将だけに、商家の若旦那の隠れ遊びであることをちゃんと察していた。 松之助が屋根舟に乗り込み、簾をおろした。 お竹は桟橋の端に立ち、舟を見送る。 「旦那、たんとお楽しみなはいまし。ただし、おずるけはなりませんよ。七ツには、きっとお帰りなはいましよ。亀どん、いい子供さんを、お出し申してあげなよ」 亀吉が棹から櫓に切り替えた。 舟は日本橋川をくだり、日本橋をくぐり抜け、さらに江戸橋をくぐり抜けると、左手は小網町で、白い蔵が建ち並んでいた。右手は、田辺藩牧野家の上屋敷である。 そのあと、湊橋、豊海橋をくぐり抜けると、もう隅田川だった。 隅田川に入ると、左手上方に大きな永代橋が見えた。 舟は永代橋を後ろにして、隅田川を下る。 しばらく下ると、もう目の前には江戸湾が広がっている。海の中に佃島と、帆を揚げた大小さまざまの舟が行き交っているのが見えた。 松之助を乗せた屋根舟は左に寄せ、新地の河岸場を目指す。 (続く) |
第40話 深川新地(その二)
新地には、百歩楼、大栄楼、船通楼という有名な料理茶屋がある。
船頭の亀吉が松之助を案内するのは、佐野屋という中どころの料理茶屋だった。 舟が河岸場に近づくと、亀吉が大声で呼んだ。 「佐野屋ぁ、佐野屋ぁ」 「おーぃ」 と返事をして、河岸番の若い者が飛び出してきた。 「よく、いらっしゃい」 舟をもやうと、松之助の草履を亀吉から受け取り、桟橋にそろえた。続いて、店のほうに向かって、声を張り上げる。 「大和屋のお客、おひとりさんだよーッ」 女中が七、八人、そろって迎えに出てきた。おたがいにしゃべっているため、騒々しい。 女中頭のお町がさきに立って、階段をのぼる。 「よくいらっしゃいました。まことに、きょうは暑くございますよ。どこぞ、風のよくまいるところがよろしいでしょう。こちらへ」 と、松之助を風通しのよい座敷に導いた。 別な女中がさっそく煙草盆と茶を持ってくる。 お町が松之助に言った。 「おまえさん、きょうがお初めてでございますか。お馴染みでもございますか」 「わたしはきょうが初めてさ。万事よろしくお頼み申します」 「では、亀どんとよく相談いたしましょう」 初めての客だけに、その身分や、金のあるなし、好みなどを船頭に確認してから、誰を呼ぶかを判断するつもりだった。 舟の櫓などを片付け、着替えをすませた亀吉が座敷に顔を出した。 お町は遠慮がない。 「おや、亀どん、お珍しいね。たまには来てもいいじゃないか。石場へご盛んと聞いたが」 「そんなに愚痴を言いなはんな。これからは毎日来るよ」 女中が酒と肴を持ってきた。 料理は玉子の厚焼や、かつおの刺身など、吸物は赤味噌仕立てのしじみ汁だった。 お町と亀吉が小声で話をした。 「では、芸者は梅吉さんにしよう。子供衆は……」 お町はしばし考えていたが、 「お鶴さんがあいているかどうか、聞いてみておくれな」 と、別な女中に見番に確認に行かせた。 見番とは、女郎の名札をさげた、いわば会所である。 しばらくして、女中が戻ってきて、お鶴が可能であることを告げた。 お町がすぐに指示した。 「じゃあ、早く口をかけてやってくんな。あの子もはやり子だから、おそいと、わきに取られるよ」 そこへ、芸者の梅吉が現われた。 「おや、よくいらっしゃいました。亀どん、おまえさんは憎い人だよ。先日、両国であたしが声をかけても、知らん顔で筑波山を見ていたよ。ぶってやろうか」 亀吉は茶碗に酒をなみなみとつぎ、差し出した。 「梅吉さんなら、おいらはいつでもぶたれたいよ。まあ、あげましょう」 梅吉が松之助を見た。 「その前に、旦那のお杯をいただきたいね」 「はばかりながら」 松之助は杯の酒を飲み干し、ちょっと振ってから、酒をそそいで梅吉に差す。 梅吉は杯の酒を飲み干した。 「旦那、あまりぶしつけだが、ご返杯申し上げます」 「もらいましょう」 杯の遣り取りが終わると、梅吉が三味線箱の真田紐を解き、三味線を取り出す。 調子を合わせたあと、潮来節などを弾いた。 そこへ、女郎のお鶴がやってきた。廊下に立ち、障子の隙間から中をうかがっている。 お町がすぐに気づいた。 「お鶴さん、お入りなさいましよ」 松之助は動揺して、杯の酒をこぼしそうになった。あわてて煙管を手に取り、とりつくろう。 (続く) |
第40話 深川新地(その三)
座敷に入ってきても、お鶴は松之助とは向き合わず、はすに座って恥ずかしそうにしている。
「旦那、その杯を取って。お鶴さん」 と、お町が杯の遣り取りを仕切った。 座敷のめいめいにも杯がまわる。 梅吉がよしこの節を弾き、亀吉が手ぬぐいをおかしな手つきでまわしながら、ひょうきんな踊りを披露した。 ころあいを見て、お町が言った。 「亀どん、ちと、あちらにいたしてはどうだ」 そろそろ床入にしようかという含みである。 亀吉も賛成した。 「よろしかろうね」 お鶴は座敷を出て、着替えるために階下に向かう。 お町が松之助をうながした。 「旦那、お手水にいらっしゃいまし」 「うむ」 松之助は立ち上がり、階段を下りて便所に行った。 亀吉とお町も座敷を出る。 途端に、女中たちが集ってきて、残った梅吉と一緒になり、料理のつまみ食いを始めた。 便所までついてきた亀吉は、手水鉢のそばで、柄杓に水を汲んで待っている。 松之助が用を足し終えるや、 「旦那、お水をあげましょう」 と、柄杓を出す。 松之助が手を差しのべた。 「玉はどうでございます。新地の一番のはやり子でございますよ」 「ずいぶん、よしさ」 ふたりは二階に戻る。 お町が廊下の奥から呼んだ。 「亀どん、お床はここだよ」 「涼しいところへお頼み申します」 「ここが一番涼しいよ」 亀吉と一緒に、松之助は寝床が用意された座敷に入った。 麻の布団の上に、比翼茣蓙が敷かれていた。夜着も表は麻で、縁はビロードだった。 亀吉がお町に、遊興費を支払った。吉原の引手茶屋と同様、深川では客を案内してきた船宿がすべて立替えて支払う仕組みになっていた。客はあとで、船宿からまとめて請求される。 お町が亀吉に、勘定の受取書を渡した。 そこに、床着に着替えたお鶴が現われた。 「煙草盆に火をよくいけて、お茶をふたつ、持ってきておくれよ」 お町が、女中に命じる。 煙草盆と茶が届いたのを見て、お町が挨拶をして立ち去る。 亀吉も立ち上がる。 「旦那、たんとお楽しみなさいまし。お鶴さん、お頼み申しますよ」 「亀どん、ちょいと話をしていきな。一服呑みな」 お鶴が煙草を勧めた。 亀吉も、それが言葉だけということはわかっている。 「はい、ありがとう。なにぶん、よろしく。はい、さようなら」 と、障子を閉めた。 あとは、松之助とお鶴のふたりだけである。 「お脱ぎなさいまし。お召し物が皺になっちゃあ悪いよ」 と言いながら、お鶴が寝床のまわりに屏風を立てまわした。 松之助が帯を解き、帷子を脱いだ。 お鶴が受け取り、屏風にかける。 枕紙を直したあと、お鶴がいざなった。 「さァ、寝転びなはいな」 「やっこらさ」 松之助は照れくさいため、やや離れて横になった。 「おまえさん、どこかにお楽しみがありましょうね」 「楽しみはきょうが初めてさ」 「嘘をおつきなはいまし。お客ほど嘘をつくものはないよ」 「まことに、実のことだよ」 「実があるのなら、暑くっても我慢して、こちらへお寄りな」 お鶴が枕の下から手をまわし、男の体を引き寄せた。 唇と唇が合う。 「初会からこんなことを言うとおかしく思いなはろうが、あたしは勤め気を離れているよ」 お鶴は最初から情熱的である。 じつはお町から、松之助が大店の若旦那で、まだ初心ということを耳打ちされていた。きょうは秘術のたけをつくして、何が何でも男を篭絡し、金づるのひとつにするつもりだったのだ。 (終わり) 第41話(その一)へ |