江戸の風俗八百八店

永井義男

第6話 内藤新宿(その一)

 東京都新宿区の新宿駅は、東京でも一日あたり最大規模の乗降者数を誇る。また、新宿の歌舞伎町は東京でも最大の歓楽街である。現在の新宿は交通の要衝であると同時に、歓楽街であるともいえよう。江戸時代の内藤新宿も同じだった。甲州街道の宿場であると同時に、江戸の男たちにとって手軽な歓楽街としても栄えた。道中奉行から宿場全体で百五十人の飯盛女(宿場女郎)を置くことを許されていたが、実際にはそれ以上の女郎がいることは公然の秘密だった。安永十年(一七八一)の記録では、三十一軒の飯盛旅籠屋(女郎屋)があったという。
 享和三年(一八〇三)ころの、内藤新宿である。

 入相の鐘の音が響き、夜の帳がおりたにもかかわらず、櫛比する茶屋の掛行灯にいっせいに火が入ったため、通りは明るい。
 昼遊びを終え、外の冷気に肩をすぼめながらあわてて帰途につく客もいれば、寒さもものかは、やおら繰り出してくる男たちもいる。「オイ、ア、トウ」と、白い息を吐きながら乗り込む四ツ手駕籠が続けば、妓楼などにあつらえの料理を運ぶ台屋が忙しげに行き交い、行商の風鈴蕎麦が通れば、按摩の呼び声がする。内藤新宿の通りはごったがえしていた。
 そんななか、四谷大木戸のほうから、武士の三人連れが歩いてきた。
 ひとりは後藤向兵衛といい、歳のころは四十近く、紬の藍納戸の着物に藍びろうどの八丈の羽織、腰に短い大小の刀を差していた。
 もうひとりは小林藤五郎で、二十二、三歳、御納戸縮緬の着物に黒七子の羽織、同じく短めの大小を差していた。
 三人目は原田甚助で、三十歳ばかり、太織縞の着物に縮緬の羽織、腰には脇差だけを差していた。
 三人とも幕臣だが、しばしばともに外泊もする遊び仲間だった。歩きながらの話題は内藤新宿の茶屋や女郎屋、女郎などについてばかりである。
 目あての茶屋に入った。
 女将が向兵衛を見るなり、
「これは、向さん。どなたも、おそろいあそばして」
 続いて、藤五郎に向かい、
「藤さんは、まことにお久しぶりでございますね。きついお見限りで」
 藤五郎は苦笑した。
「身持ちが堅くなってね。今夜は、向さんに引き出されさ。ともあれ、向さんは悪玉だよ」
「おきやァがれ」
 向兵衛が言い返した。
「おホホホ」
 女将は追従笑いをしながら、火鉢にかけてあった薬缶で茶を注ぎ、三人に出す。
「国田屋に案内してくれ」
 向兵衛が言った。
 国田屋は内藤新宿でも一、二を争う大見世である。
「藤さんは、稲町さんのお裏だね」
 女将が確認した。藤五郎は先日、向兵衛といっしょに国田屋に登楼し、そのときの初会の相手が稲町という女郎だったのだ。女将は客の相手が誰だったか、初会か、裏を返すのかまで、ちゃんと覚えていた。
 藤五郎が当惑気味に、
「これまで遠ざかっていたから、いまさら裏というのもおかしいじやァねえか」
「なに、ようござりますよ。ところで、おまえさまは国田屋はお初会だね」
 甚助が答えて、
「わっちにやァ、相応なところを」
 女将はちょっと考えていたが、
「お茂世さんにしましょう。ねぇ、向さん」
 と、いちおう向兵衛に了解を求めた。
 向兵衛の馴染みはお八重というのだが、もちろん女将は飲み込んでいるため、とくにたずねもしない。
「うむ、よかろう」
 向兵衛が、甚助とお茂世という組み合わせにうなずいた。
「では、まいりましょう」
 と、女将が提灯をともした。
 和国屋という妓楼の二階座敷では、大一座がドンチャン騒ぎをしていた。
 幇間が三味線の音に合わせ、
「きょうは旦那の稲刈りだ、小束にからげてちょいと投げた…
 と、唄いながら、ひょうきんな仕草で踊る。
 座敷の男も女も、みな腹を抱えて笑い転げていた。
 三人は女将を先に立てて国田屋に向かいながら、和国屋の騒ぎを見て、「派手にやっておるな」と、いかにもうらやましそうに言った。
 ちょうど、別な茶屋の女将の案内で、三丁の駕籠が国田屋の店さきに横付けになったところだった。
 国田屋の若い衆が迎えに飛び出す。
 駕籠から出た三人が奥に入ったあと、茶屋の女将が若い衆に向かい、
「おひとりは折鶴さんのお裏、おふたりはお初会」
 と、指示をする。
 そこへ、蕎麦屋の出前持ちが蕎麦を運んできた。
 そこへまた、職人風の若い男のふたり連れが入ってきた。茶屋を通さない、直接の登楼である。
「これは、いらっしゃりまし」
 と、若い衆が陰見世に案内した。
 ふたりは陰見世に座っている女郎を見ながら、
「あの、端から三番目の、黒衣装にしやしょう」
「あれあれ、いま煙草を吸いつけたのにしよう」
 若い衆が陰見世に向かい、
「美代鶴さん、井津花さん、お支度ぅ」
 と、声をかけた。
 組み合わせがきまり、二組の男女が階段をのぼって二階座敷に向かう。
 いっぽう、二階の小便所では、背の高い男と小太りの男が連れ小便をしながら言い合いをしていた。
「俺が帰ろうと言うに、おめえが残ろうというから。あげくは、廻しをくらって、かたっきしおえねえ。俺は芸者の割り前は出さねえ。ひとりで出さっし」
「けちなことを言いいねえな。ここへくる駕籠賃は俺が出したし、昼の茶代もみんな、俺が出したぜ」
「外聞の悪いこと言いやんな。あした、渡すわな」
「そう言いながら、いままで、おめえがあとで寄越したことはねえわ」
 二階座敷のどこやらで、芸者の唄と三味線が始まった。
 向兵衛、藤五郎、甚助の三人は、お八重の部屋に落ち着いた。お八重は部屋持ちの女郎である。稲町とお茂世もそろって、まずは盃のやりとりがおこなわれた。案内してきた茶屋の女将もまだ残っている。
 幇間と三味線弾きも呼ばれ、ちょっとした馬鹿騒ぎが始まった。幇間が着物を尻っ端折し、手ぬぐいで頬被りをして踊り出す。
 そんな騒ぎのなか、稲町は茶屋の女将となにやら小声で話をしていた。藤五郎に別座敷を割り振るよう、頼んでいたのだ。じつは、稲町は先日の初会以来、藤五郎にぞっこんだった。
 ころあいを見て、茶屋の女将が言った。
「ちっとお休みになりませんか」
 向兵衛があくびをしながら、
「それもよかろう」
 幇間と三味線弾き、それに茶屋の女将も引きあげる。
 若い衆が、低いがよく通る声で、
「引けだよーッ」
 と、告げた。
 国田屋は大見世だけに、二階に客用の小便所が設けられていた。
 向兵衛、藤五郎、甚助が連れ立って小便所に行っているあいだに、手早く座敷に寝床が用意される。
                     (つづく)

第6話 内藤新宿(その二)

 稲町が茶屋の女将を通じて国田屋の亭主に頼み、その夜だけ特別にあたえられた奥座敷はなかなか立派だった。
 床の間には山水画の掛軸が掛けられ、花瓶には美笑流で水仙が生けられ、香道具、料紙、硯箱が置かれていた。琴、碁盤、将棋盤が並べられ、ピカピカに磨きたてられた箪笥の金具は行灯の明かりを受けて輝いている。衣桁、長持もあった。
 金箔の屏風を立て回したなかに三枚重ねにした布団が敷かれ、その上に、羽織を脱ぎ捨てた藤五郎が寝転がっている。
 しばらくして、稲町が座敷に入ってきた。
 十八、九歳であろうか。煤竹縮緬と紫縮緬の額小袖の上に板締の小袖を重ね着して、白繻子のしごき、紫縮緬の打掛、髪は島田に結っていた。
 稲町は脱ぎ捨てられている藤五郎の羽織をたたみ、自分も打掛を脱いで屏風に掛けたあと、煙管を吸いつけて渡し、
「おまえさん、初会のとき、すぐに裏を返すなんのと、よく人をおだましなんしたね。覚えておいでなんしよ」
 恨み言を言いながらも、あでやかにほほえんだ。
「うそをついたわけではねえ。すぐにこようと思っていたのだが、向さんも知っていなさるが、おおきに患いやした」
「うそをおつきなんし。二度まで文もあげんしたけれど、なんとも言っては寄越しませんでしたね。あんまりでございますよ」
 藤五郎は稲町が涙ぐんでいるのを見て、
「コレサ、謝る。わっちが悪かァ、どうともして、堪忍してくんねえ」
「そう言っておくんなんせば、わっちは真に嬉しゅうございますよ」
 稲町は夜着を掛けながら、そばに横になる。
 藤五郎がやや体をずらした。
「なぜ逃げなんす。こっちへお寄んなんし」
 と言いつつ、稲町がひしと抱きつく。
 ふたりがおたがいの帯を解いて夜着の外に放り出し、さあこれからというとき、甚助が障子を開けながら、
「藤さん、入ってもよしか」
 藤五郎もやむを得ず、
「うう、よしさ」
 甚助は夜着の下でふたりが抱き合っているのを見て、
「豪勢だの。そうくっついてばかりいるもんじゃあねえよ。わっちのような独身者の手前もあるもんだぜ」
 そこへ、向兵衛が、「おや、にぎやかだの」と言いつつ現われた。相方のお八重も一緒である。
 藤兵衛が夜着から出ようとした。
 向兵衛がそれを制して、
「おっと、そのまま、そのまま」
 藤五郎と稲町は夜着にくるまったままで、話が始まった。
 向兵衛が甚助に尋ねた。
「甚公、おめえのカカシはどうした」
「わっちの女郎衆は、おおかたどこやらで薩摩芋でも食っているのだろう。わっちはどこへ行っても悪しくされたことはねえから、今夜のような扱いも珍しくっていいのさ」
 甚助が強がりを言った。
 稲町がなぐさめて、
「お茂世さんはさっき癪が痛いと言いなんして、下で薬を呑んでいやした。おおかた、間もなくお出なんしょう。お寂しくって、お気の毒でざいますね」
「だいたい、女郎買いというものは、色男でもふられたり、醜男でも惚れられたりすることがあるので面白いのよ」
 甚助は腹立ちまぎれに、とうとうとまくしたてる。
 藤五郎と稲町は夜着の下で、こっそり愛撫を続けていた。
 向兵衛がお八重を示しながら、
「たしかにな。俺に大惚れだ」
「あつかましい」
 お八重が煙管で叩くまねをした。
向兵衛がなおも、
「そうは言っても、じつは俺も床上手に迷ったのさ」
「エエ、憎いのう。どうしてやろうの」
 お八重が煙管で向兵衛の太腿を打った。
「コレ、痛え、謝る、謝る。さて、話がとんだ長くなった。サア、寝やしょう」
 向兵衛が立ち上がる気配を見せた。
 甚助がいやみを言った。
「俺のところに遊びに来なせえ。独身者もなかなか気楽でいい」
 向兵衛お八重、甚助がそれぞれの座敷に戻る。
 稲町がほほえみながら、
「いろいろな邪魔が入ったけど、サア、寝ようねえ。前回、おまえさんはうそをおつきなんしたから、きょうは、わっちがひどい目にあわせてあげ申すよ」
「どうやってひどい目にあわせるのだ」
「こうしてさ」
 稲町が藤五郎の下腹部に手をのばした。
 遠くから、
「按摩、鍼ぃー」
「甘酒ぇー」
 という声が伝わってくる。
 独り寝を余儀なくされた甚助は悶々として、寝付くどころではない。あくびをしたり、鼻をかんだり、煙管に煙草をつめたりしながら、ひそかに女郎の茂世が来るのを期待しているのだが、いっかな現われない。
 廊下を、寝ずの番の若い衆が八ツ(午前二時ころ)の拍子木を打って回った。それからさらにかなりの時間がたってから、ようやく廊下に面した障子が開いた。
 お茂世が座敷に入ってきて、黙って甚助の枕もとに座った。
 甚助はすでに期待が怒りに変わっていた。夜着をはねのけ、布団の上に起き上がるや、
「なんでえ、いま時分。もう何ン時だと思う。おおかた、芋でも食らっていたろう」
「癪が痛くって、いままでちっと押してもらっていんした」
「おきやァがれ。癪が聞いてあきれらァ。アカギレが痛いという面しやがって」
「病気のことでございます。ちっとは了見してしておくんなんすがいい」
「糞があきれるわえ。こっちがいい加減了見していれば、つけあがりやがる。なんだ、くやしいか、縁の下の猫のように光る目で俺をにらみやがって。俺は江戸っ子だぞ。江戸で生まれて、江戸で育ったんだァ。てめえのような小便臭い、田舎出の猿女とは違うんでぇ」
 甚助は巻き舌で、ひたすらまくし立てた。
 お茂世はもはや弁解する気も、謝る気も失せ、黙って立ちあがる。
 甚助はあわてて、
「どけえ行くのだ」
「どけえでも勝手に行くから、うっちゃっておきなんし。馬鹿らしい」
 お茂世はさっさと座敷から出て行った。
「うぬは、ふてえあまだ」
 甚助は憤然と立ちあがり、お茂世のあとを追おうとしたが、足の爪を布団に引っ掛け、顔面からその場に転倒した。
 そのとき、天竜寺の七ツ(午前四時ころ)の鐘がゴーンと鳴った。
 甚助は闇のなかにうずくまったまま、
「い、痛てててて…」
 と、うめいた。
 別な座敷では、すでに房事を堪能した向兵衛お八重、藤五郎稲町がそれぞれ抱き合ったままで熟睡している。

                             (終わり)
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