江戸の風俗八百八店

永井義男

第7話 吉原

 公許の遊廓である吉原はもともと現在の東京都中央区日本橋人形町のあたりにあったが、明暦三年(一六五七)の江戸の大火をきっかけに、浅草の浅草寺の裏手にあたる辺鄙な場所に移転を命じられた。現在の、台東区千束の地である。正式には移転前は元吉原、移転後は新吉原であるが、一般に吉原と言った場合、新吉原のことをさしている。吉原は江戸最大の歓楽街であり、堀に囲まれた約二万余坪の区画に二千人から三千人の女郎が暮らしていた。妓楼の従業員や、各種関連産業の従業者も加えると、女郎の人数の数倍にあたる老若男女が吉原で生活していたことになろう。
 寛政二年(一七九〇)ころの吉原である。


 浮浪は御簾紙を持った手で着物の褄を取り、廊下を歩きながら、胸がときめくのを覚えていた。自分の部屋では、初会の新三郎が待っているはずである。浮浪は部屋持ちだった。
 初会のときは、まず引付け座敷で相方をきめ、盃のやり取りをしているあいだに、若い衆が女郎の部屋に寝床を用意する。まず客のほうが先に床につき、あとから女郎が部屋に向かうという手順となる。
 年明け早々に突出、つまり見世に出た浮浪は十六歳だが、昼三だった。昼三とは、揚代が昼三分夜三分という、吉原では高位の女郎である。髪をしのぶに結い、額無垢の着物に平絎の帯を締めるという寝巻姿だった。
 浮浪は部屋に入り、行灯の火の届かないほの暗いところに座ったあと、呼びかけた。
「上着をお取んなんせんかえ」
「あい」
 新三郎がか細い声で答え、上着を脱いだ。
 十八歳くらいの、いかにも育ちのよさそうな若旦那だった。三枚重ねにした敷布団の上に羽織を脱いだだけで腹ばいになり、火鉢の灰を火箸でもてあそんでいるところだった。
 浮浪は男の羽織と上着をたたんで床の間に置きながら、
「ぬしは、いっそ気がつまりんすよ」
「なぜえ」
「黙っておいでなんすから」
「わっちは何と言ってよいのかわかりません」
 新三郎はきょう、遠い親類にあたる忠兵衛に案内されて登楼したのだった。
「憎らしいの」
 浮浪はにらむ真似をしたが、火鉢の火が消えているのに気づき、手を鳴らした。
「なんざんすえ」
 現われた禿は、頭に挿した簪が重そうだった。
「火を入れてきてくりゃ。よくいけてヨ」
「あい」
 と返事をして、禿が火入れを持って出て行った。
 隣りの部屋の朋輩女郎が、襖越しに言った。
「お楽しみざんすね」
 さきほどの引付け座敷で、浮浪が新三郎にぞっこんであることを見抜いていたのだ。いま火鉢の火で部屋を暖める様子を聞いて、冷やかしたのである。
 浮浪は、「ちっとも聞こえんせん」と言い返しておいて、新三郎にほほえんだ。
 禿が火入れの炭火をフーフーと吹きながら、戻ってきた。火鉢に真っ赤な炭を入れる。
「これをしまっての。そして、着替えてモウ休みや」
 浮浪が髪に挿していた櫛と笄を抜き、御簾紙に包んで禿に渡した。
「アイ、そんならお休みなさりいし」
 禿が立つ拍子に、袖が部屋の隅に立てかけてある琴に触れ、コロリンジャンと鳴った。
「静かにしやヨ」
 と言いながら、浮浪は布団の上に横になった。
 新三郎は黙っている。
 浮浪は話のきっかけをさがし、
「ぬしのうちは、どこざんすえ」
「言わずともいいじやァねえか。マア、遠いのさ」
「言ってお聞かせなんし。お言いなんせんと、くすぐりんすよ」
「じゃあ、当ててみな」
「そんなら、かしら字を言ってお聞かせなんし」
「かしら字は、にの字さ」
「そんなら、日本橋かえ」
 新三郎は笑った。
「違ったね」
「じれってえ、どこだのう」
「やっぱり、本当は日本橋の近所の、西河岸サ」
「ソレ、見なんし。よく当てんしたろう。おおかた、内にはおかみさんがござんしょうね」
「まだ、そんな者があるものか」
「そんなら、どこぞの女郎衆に馴染みがありなんすだろうね」
「内がやかましいから、こっちのほうには出て来られない。去年、酉の市の帰りに連れがあって、ほかの見世にあがったのが最初。きょうは二回目サ」
「じゃあ、わたしらがような者だから、もうこれぎりでおいでなんすめえね」
「もってえねえ、おめえのような美しい女郎衆だものを。呼んでさえくんなさるなら、来る気さ」
「マア、うそにも嬉しゅうざんす」
「それがうそさ」
「ほんの事サ」
「どれ、本当か、うそか」
 新三郎は相手を抱き寄せ、両脚のあいだに割り込む。
「冷たいが、堪忍しなんしえ」
 と言いつつ、浮浪が足で締め付けてきた。
 そのとき廊下から、連れの忠兵衛が、
「今夜はでえぶ寒い晩だ。入ってもよしか」
 と、かなり酔った声で言った。
 四十歳くらいで、自分では通人気取りである。
 浮浪はいちおう愛想よく、
「よくおいでなんしたね。サア、おはいんなんし」
 忠兵衛は障子を開けて部屋に入ってきた。片手に煙管と煙草入れを持っている。ふたりが寝ているそばにどっかと座り、
「そんなら、一服としよう。花魁、わっちが弟分だから、可愛がってくんなせえ」
 訳知り顔で言った。
 忠兵衛は相方の女郎が廻しを取って自分のところにはまったく寄り付かないため、退屈しのぎに話をしに来たのだった。
 浮浪は、相手が新三郎の連れだけに持ちあげて、
「ぬしがお師匠さんだから、憎らしいはずさ」
「おいらァもう老い込んだぜ。第一、酒を呑むとすぐ眠くなるから、もう肝心のことができねえ。俺もこの里には」
 忠兵衛の、これまでの吉原遊興の自慢話が始まった。
 話に夢中になり、煙管の雁首から火玉が膝に落ち、仕立ておろしの上田縞の小袖がくすぶっているのにも気づかない。
 浮浪が煙を見て、
「ソレ、火が落ちんした」
「ほい、これは粗相」
 忠兵衛は女郎の手前、はたいて火を消しただけで、着物に穴が開いたのには気にとめていない様子をよそおっていた。
 浮浪も長話にいい加減うんざりしてきた。黙って御簾紙をこよりにして、さも退屈そうに床の間に活けられた杜若に投げつける。
 忠兵衛も自分が迷惑がられていることがようやく気づき、
「でえぶ眠くなった」
 と言いつつ立ちあがった。
 行灯のそばで着物に開いた穴をたしかめると、かなり衝撃を受けた様子で部屋を出て行く。
 新三郎と浮浪は顔を見合わせ、そっと安堵のため息をついてほほえんだ。
 もう、時刻は七ツ半(午前五時ころ)であろうか。だが、ふたりにはいよいよこれからだった。

                             (終わり)
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