江戸の風俗八百八店

永井義男

第8話 品川宿U(その一)

 品川の客にんべんのあるとなし
 という川柳は、品川宿の女郎屋の客筋を言っている。人偏のあるのは「侍」、ないのは「寺」。つまり、常連客は武士と僧侶だった。品川宿は、ほど近い場所に薩摩藩島津家の芝藩邸(現在の戸板女子短大からNEC本社にかけてのあたり)、高輪藩邸(高輪プリンスホテルのあたり)、田町藩邸(JR田町駅前のあたり)などがあり、芝増上寺とその子院も多数あった。つまり品川宿の近くには薩摩藩の勤番武士と増上寺寺中の修行僧という、膨大な数の独身男性が居住していた。言い換えれば、大きな潜在需要が存在していたのだ。
 天保三年(一八三二)ころの品川宿である。

 昼すぎになっても、昨夜降った雪がまだあちこちに消え残っていた。
 後藤屋の座敷では、竹下太郎吾が威儀を正した姿勢で座り、面白くなさそうな顔で話をしていた。
 後藤屋は、品川宿の女郎屋のなかでも大見世である。
 竹下は二十七、八歳で、髷を大髻に結い、ひげの剃り跡が青々としている。薩摩藩士だが、参勤交代で江戸に出てくるのは今回が三度目だった。
 相手をしているのは、竹下を後藤屋へ案内してきた、高輪の茶屋三州屋の番頭の太吉である。
 そのとき、幇間の染太夫が芸者四人と無駄口をたたきながら廊下を歩いてきた。表座敷の客に呼ばれていたのだが、宴席が終わり、連れ立って引きあげるところだった。
 染太夫は開いている障子からなかをちらりと見て、たちまち満面に笑みを浮かべた。
「これは竹さま、まずは一別以来、ご機嫌のてい。今日はよう、おひとりさまで。イヤ、おきつい、おきつい」
 染太夫は芸者に先に行くよう手を振り、ずかずかと座敷に入ってきた。数年前、薩摩藩士数人の宴席に呼ばれたことがあり、竹下の顔も覚えていたのだ。うまくいけば、祝儀として金一分くらいはありつけるかもしれないという下心だった。
「これは太吉っつあん、ご苦労さん。昨夜は毎度ごひいき。ときに竹さま、だいぶ女を泣かせているようで、へへへ、小耳にちらちらと」
 染太夫は竹下を持ちあげながらも、太吉にも如才ないあいさつをするのを忘れない。
 竹下はにこりともせず、
「きょうは来られぬはずなれど、ようよう繰り合わせて参ったゆえ、早く帰らねばならぬ。手前たちにも無沙汰をいたした。まあ、ひとつ呑みやれ。太吉、その肴をそっちへ出すがええ」
 太吉が酌をしてやり、
「へいへい、サア、染さん、ひとつおやんなせえ」
「これはこれは、まず竹さま、ヘイ、いただきます」
 染太夫が杯を口に運んだ。
 太吉は染太夫の登場をよいきっかけにして、
「モシ、竹さま、お迎えはいつものとおりで。ヘイ。ところで、お山さんはきついごもったい。ちと、見て参じます。では、さようなら、染さん」
 と、座敷を出て行く。
 染太夫が、その後ろ姿に声をかけた。
「おやどへ、よろしくお頼み申しやす」
 太吉は三州屋に戻るのだが、それに先立って階下で後藤屋の楼主に話をつけ、できるだけ早く女郎のお山を竹下の座敷に行かせるよう交渉するつもりだった。お山は廻しを取っていて、さっぱり竹下のところには寄り付かない。太吉としても、かなりつらい立場だったのだ。
 しばらくして、お山が現われた。
 年齢は二十一、二歳、色白で端正だが、やや険のある顔立ちだった。金糸で縫い取りをした打掛を着ていた。
 お山はぬっと座敷に入ってくるや、
「おや、染さん」
 と言ったきり、ツンとしている。
 じつは、お染は惚れた客が別な座敷にいるため竹下など眼中になかったのだが、三州屋の手前もあり、とりあえず顔だけ出したのだ。
 竹下は相変わらず難しい顔をしていたが、横目でちらちらとお山の様子をうかがっている。その目には好色な光があった。
 お山は突然、
「チョッ、忘れていた。どうしたんだのう」
 自分の膝をトンとたたくや、立ちあがり、そそくさと座敷から出て行った。
 染太夫は、お山が竹下を「ふる」つもりだと察したが、
「ヨッ、お山さん、例の物忘れ」
 と、調子を合わせてやった。いっぽうで、竹下にも調子を合わせて、
「お山さんは品川ではまあ第一でしょうな。十匁の値打ちのある女でございますよ。おべっかを言うわけではありませんが、あの気性をなびかせるのは、おそらくおまえさまくらい」
 品川には、「品川女郎衆は十匁」とも唄われたように、揚代が銀十匁という高級女郎がいた。
「なかなか、そうはいきおらぬ」
 竹下は仏頂面で言ったが、内心ではまんざらでもない気分だった。
「モシ、喰い隠しは罪になりやす。ところで、琉球人の来朝はいつころでござります。あちこちでたいそうな道普請が始まりまして、大乱痴気さネ」
「多分、霜月なかばにもなるであろう。どうじゃ、風邪はひかぬか」
「しあわせと、のがれました。いやもう、風邪が大はやりで、てえげえ、どこのうちでも、人間の半分が寝ております」
 染太夫はつまらない話に辛抱強く付き合いながら、内心では「埒の明かねえ野郎だ、さっさと一分よこせ」とじりじりしていた。早く家に帰り、按摩を呼んで腰でももませたかったのだ。
 竹下がようやく羅紗の二つ折りの紙入れを取り出し、もぞもぞとなかを指でさぐり始めた。
 染太夫はいよいよと思ったが、素知らぬ顔をしていた。
 竹下が紙包みを放り出した。
「この薬は国もとで製す大奇薬で、諸病に効く丸薬だ。酒の酔い、風邪などには別してじゃ。手前たちなぞにはイイ薬だ」
「ヘイ、これはどうも……」
 染太夫はあてが違い、がっかりして言った。
 金一分は期待できないとわかった以上、もうこんなところに長居は無用だった。薬の包みをふところに押し込みながら、急に思い出したように、
「ヤ、大変なことを忘れていた。ちょっと行ってめえります」
 染太夫はさっさと座敷から出て行った。
 
                             (続く)  


第8話 品川宿U(その二)

 ひとり座敷に取り残された竹下太郎吾は、手持ち無沙汰である。
 煙草を吸ったり、屏風に貼られている『唐詩選』の漢詩を上から読んだり下から読んだり、硯蓋に盛られた煮物の蓮根の穴を数えたり、布団に寝転がったり起きあがったり、そして廊下で足音がするたびに胸をときめかすのだが、女郎のお山はいっこうに現われない。
 竹下もついに堪忍袋の緒が切れた。なまじ期待が大きかっただけに、怒りもひとしおである。荒々しく手を鳴らした。
「お呼びなさいましたか」
 二階座敷を仕切る遣手の女が駆けつけてきた。
 竹下は怒りで顔を紅潮させ、
「急に帰らにゃならんようになったによって、さいぜんの羽織を出してくれ」
 登楼するときに階下であずけた羽織を返すよう求めた。
「マア、お待ちなさいませ。ちょっとお山さんに聞き申してから」
「なに、聞くことがあるものか。おいの羽織を、おいが着て行くに、誰が咎むるものか。早く出せ」
 竹下は声を荒らげた。
 遣手はこういう場面には慣れているし、武士に対しても臆するところはない。とにかくなだめて時間稼ぎをする。
「お帰しすると、あとでわっちがお山さんに叱られます。ちっとお待ちなさいませ」
「イヤ、待たぬ」
 ふたりが言い争っているところ、騒ぎを聞きつけ、お山がけろりとした顔をして現われた。
「もしえ、馬鹿馬鹿しい。どうしたんですえ」
 竹下の胸のあたりに手をあてながら言った。
 遣手が説明して、
「さっきから、帰ると言っていなすって」
「なぜぇ。いま時分、どうしたんだのう」
 竹下はなおも怒りを示して、
「イイヤ、どうでも帰る。離せ、離せ」
「それほど帰りたかァ、帰してあげまさァ。まあ、みっともねえ、まずはそこへ入んなまし」
 と、お山が強引に竹下を座敷のなかに押し戻す。
 竹下も依然として口では強硬なことを言っていたが、ずるずると座敷に押し戻されていた。
 お山は相手の煙管や紙入れを取り上げて放り出し、強引に帯も解き、小袖も脱がせながら、
「竹さん、おまはんは実なしだねえ。こないだも、何と言いましたえ。わっちが好きで他の客の座敷に出ていると思っていなんすのかぇ。わっちがそれほどイヤなら、なぜ男らしくそう言いなせん。そんなにもわっちが憎いかのう」
 竹下はもはやあらがうこともなく、お山のするままになっている。
 遣手はもうだいじょうぶと見て、脱ぎ捨てられた小袖をていねいにたたみ、落ちていた帯や紙入れを手早くかたづけた。
「お山さん、ひどい目にあわせておやんなさい。憎い竹さんだよう」
 そう言い残し、遣手は座敷を出て行く。
 竹下はなおも小声で言い続けていた。
「ほんに帰らにやならぬ。遅うなると門が閉まり、務めをしくじる」
 大名屋敷の門限はきびしい。表門は暮六ツ(日没)の鐘とともに閉じられる。もちろん、裏門からこっそり入るという手段もないわけではないが、それも限度がある。勤番武士にとって、屋敷の門限はもっとも大事な心得のひとつだった。
「なぜに男というもなァ、そう邪険だのう。そうなったら、わっちが引き取ってあげまさァ」
 お山が唇を合わせた。
 竹下もお山を抱きしめた。
 ふたりは布団の上に倒れる。
 お山は夜着ですっぽりおおいながら、
「オオ、寒ぅ。温めておくれよね」
「むむぅ」
 竹下がうなりながら、お山の体に重なっていく。もう、さきほどの怒りは雲散霧消していたし、門限もどうでもよくなっていた。
 女郎の手練手管にかかれば、無骨な薩摩藩士などいちころである。
 廊下からなかの様子をうかがっていた遣手はニヤリと笑うと、鼻唄を歌いながら雪隠に向かった。

                          (終わり)

第9話(その一)へ
ご意見ご希望、どうでもいいお話も  くろにかメール まで