仕事場日記 FILE

                    江波戸哲夫

[2003年11月1日]

26 碁会所

 午後一番の取材を終えてから夕方の飲み会まで、夢のようにたっぷりと時間が余った。
15:10に品川の「S」の大きな玄関を出たところで小さく口笛を吹いた。
 この後18:30にお茶ノ水の「Y」に行けばいい。移動時間は多く見て50分、2時間30分も余るのだ。
 最近、都心でこれだけの自由な時間を手にすることはなかった(さいたま市鹿手袋/都心は遠く/なりにけり=季語無し、大幅字余り。東京駅まで電車で40分なんですがね)。
もちろん前から分かっていたから、いちおう 計画らしきものがあった。
 有楽町で映画を見ようというのだ。マリオンや日比谷にはたくさんの映画館がある。その中で空き時間にぴったりのものが見つかるだろう、とタカをくくっていた。
 この半年ほど劇場で映画を見ていないから、何でもいいと思った。
 あの大きなスクリーンに向かって座り、映画でのドラマツルギーやリアリティの構築に目のウロコの欠片でも落ちればいいのだ。ちなみに半年前に見たのは「アバウト・シュミット」。丁寧な作品で映画評は誉めるものばかりだったが、活字人間にはシュミットの振る舞いに膝を叩くリアリティは感じられなかった。
 マリオンのアーケードの中に到着したのは15:45。私は両側の切符売り場の上映時間表を次々と見ていった。合計7館(?)、いま大広告中の派手派手映画ばかりだが、どれも時間がぴったりとしない。
 慌てて日比谷シャンテに移動した。こちらは3館、どれも初めて目にする映画ばかりだが、一つだけ時間がちょうどいいのがあった。
『永遠のマリアカラス』
(おい、何でもいいって、これでもいいか? オペラ歌手の生涯なんて見たいかね)
 自問が湧いた。ためらっている私の傍らをばらばらといくつもの人影がその劇場の入口に向かうのに気がついた。
 オバちゃん軍団である。こっちもれっきとしたオジちゃんだが、こんなとき、徒党を組むオバちゃんの姿は気分をガックリ萎えさせる。あんなオバちゃんたちの趣味と同調したくないな!
……てえことで、その場を離れた。五歩歩いてから愕然と思った。
(さてあと2時間10分。どうするか!)
 ここまで4〜50分ほど立ち詰め、歩き詰めで少し足が痛くなっていたが、ここで喫茶店に入ったらせっかくの夢のような空き時間が霧消してしまう。
 そこで思った。
(それなら碁会所だ)
 交通会館に碁会所が入っている記憶があった。3〜400メートルほどを飛ぶように歩いて交通会館に向かい、案内板を見たが碁会所はない。潰れたのだろうか? 記憶違いか?
 ますます足が痛い、交通会館にも駅前にも喫茶店があるのが目に入る。ふらふらと引き込まれそうになったが、せっかくの空き時間を喫茶店でぼんやり過ごすのはあまりにもったいない。
 私は痛む足を引きずって電車に乗りこんだ。新橋駅前にかつて知ったる碁会所がある。こっちは間違いない。
    *
 中に入って驚いた。
 昔はぎっしりと混みあっていた10坪足らずのスペースは三分の一しか埋まっていない。それもジイちゃんばかりだ。いま子どもの囲碁人口は「ヒカルの碁」のおかげでグーンと増えているらしい。しかしサラリーマンの街、新橋では何を生業としているか分からない老人しか碁会所を訪れず、彼らの数は減る一方なのだろう。
 そこで60代半ばの、6段と自称するおじさんと打つこととなった。
「何段?」
「6段です」
 地元さいたま市では7、8段ということで打っているが、都心に敬意を表したのだ。それに数年前ここで打ったときには6段でちょうどよかった。同じランクならハンディなしで打つことになる。碁盤の前に座りお茶をすすると、ようやくほっとした。
 碁の方はてんで勝負にならず二番続けて勝った。おじさんはしばしば長考して、
「こう打つでしょう、こう来るでしょう、……弱った弱った、弱った魚は目でわかる」
 などと碁打ち定番の愚痴をこぼしたが、こっちはほとんど考えることもなかった(ちょっと偉そうすぎか? でも実録です)。
 都心でも7段で通用するな、いや8段でもいけるかもしれないとひそかにほくそえんだ。
「囲碁将棋チャンネル」を10ヶ月間、見ていたのがよかったのだ。(しかし3月前にケーブルテレビは解約してしまった。囲碁ばかりか他のものも見過ぎて仕事に差支えが出てしまう。なにしろ、黒澤明、コロンボ警部なんかをしょっちゅやっているのだから)
 何度か書いたように記憶力や手指の器用さなど色んな能力が衰える中、どうやら囲碁はまだ強くなっているらしい。
「囲碁将棋チャンネル」を見ていたからとて脳が衰えている(?)のに、どうしてこんな複雑なゲームで上達が可能なのか分からないが、なんだか嬉しい。文章もそうかもしれないという気にもなってくる。




[2003年10月1日]

25 仕事場の散らかり

 都心から離れたわが仕事場に、いろんな客が来る。
 まずはヤクルトおばさん、いやまだ、おばさんといっては気の毒だ。
 年齢は二〇代後半か。茶髪・ため口、屈託ない笑顔はちょっと色っぽくもあり、"イケイケ"風にも見えるが、幼い子どもが二人いて、ヤクルトの託児所に預けて働いているという。
 半年前、桜の季節。顔見知りになって間もなく、近くの桜並木の祭でばったり出会った。幼子を連れていたので、お好み焼きやら綿菓子やら、子どもの望むものを奢ってやった。
彼女に下心があると思われるのは潔しとしなかったので、子どもらがそれを食べ始めるのを横目に、すぐにその場を離れた。やや不自然だったかもしれない。
 彼女の驚くべき特長は、ごくかんたんな暗算ができないことである。
 150円のタフマン5本で750円、が電卓を使わないと出てこない。
 やればできるけど電卓がクセになっているというのとは違う、あっけらかんと、「だめなの」という。150円3本だって電卓を取り出し、500円玉を渡せば、つり銭まで電卓で計算するのだ。
 唖然として、つい学生時代の彼女に思いが向かう。暗算がこれでは他の科目も苦手だったに違いない。そのせいで学校生活では嫌な思いをしたろう、それが原因で、グレて、イケイケに走って、できちゃった結婚で、亭主はろくに働かず、生活が苦しくなり、ヤクルトおばさんに……。(他の科目も苦手で、以降は無根拠の妄想ですよ)
 しかし彼女はまったく平然としてニコニコしているので、こっちもそのことにびっくりしているという顔を決して見せない。普通の会話では、まったく普通の知性を感じさせるのである。

「ものみの塔」の信者もよくやってくる。
 仕事場が赤羽にあったときも、定期的に彼らの訪問を受けていた。
 二ヶ月に一度くらいか、必ず女性が二人組みでやってくる、年齢は30から60前後までと見えた。
 当初、ドアを開けると、「世界の環境が破壊されていることをご存知ですか」などといいながら、パンフレットを手渡し、こっちを教化しようとしてきた。
 教義がどんなものであるかには少し興味があったが、彼女たちから環境破壊の講義を受ける気にはなれないので、パンフレットだけをもらってお引き取りいただいた。
 その後も同じ頻度でやってくる。やがてドア越しに、
「それじゃパンフレットだけ新聞受けに入れていってください」
 というようにしたら、その通りにする。
 赤羽で数年、この鹿手袋に引っ越してから一年強、ここでは彼女らの顔を見たことは一度もないが、いつもドア越しの短いやり取りだけでパンフレットを新聞受けに入れていく。
 声をかけずにパンフレットだけを入れていったことはない。彼らの訪問マニュアルには(必ず訪問相手と言葉を交わすこと)という条件があるに違いない。
 私が赤羽からここへ引越したことを、あっちの信者がこっちの信者へ連絡したとは思えない。どこにもここにも「ものみの塔」の信者たちが徘徊しているのだろう。
 それにしても私は"いずれ信者になる可能性のある男"というリストに書き込まれているのだろうか?

 編集者もごくたまに来る。
 仕事の打ち合わせに遠くまで来てもらうのは申し訳ないとも思うし、私も都心に出たいので埼京線沿いの池袋か新宿にすることが多い。
 それでもたまには、はるばるここまでやってくる人もいる。
 訪問客が仕事場の中に踏み込むことが分かっているとき、私は必ず周辺をちょっと片付ける。よくテレビで"片付けられない女"というのをやっているが、断じて私の仕事場はあれの二十分の一も散らかってはいない。
 それにしても日ごろ見慣れている部屋の中を他人の目で見ると、どこか突拍子もないのである。
 廊下の真ん中に本が20冊ほど積み上がり、その周辺に薄っすらと綿ぼこりがまとわりついていたりする。一時的にと思っていたものが長引いて辺りの光景に溶け込み、気にならなくなったのだ。
 本棚の本の間から、紙切れがビヨーンと15センチほどはみ出しているところが何箇所もある。自分の本に、献本リストだとか書評のコピーなどを挟んでおいて、ときどき参照したりしているうちに飛び出してきてしまったのだ。
 壁には、以前の仕事場日記に書いたように、いろんなメモをびっしり張っているが、これがわざと汚くしているように乱雑になっている。一見、破れ障子のようにも見える。わざとではない、単にだらしないというだけなのである。
……などなど。
 これらをすっかりきれいにして訪問客を迎える。
 にもかかわらず訪問客の視線が予期していなかったところに向けられ、その目ん玉に驚愕の光が浮かぶことがある。
 いつだったか本棚の一角にジューサーが挟まっていた。いつどうしてそんなことになったか私自身が覚えていない。
 赤羽では碁敵の後藤さんが毎日のように来ていたが、引っ越して以来一年半、電話も来ない。薄情はお互い様だが、両方で(これで仕事がはかどる)とほっとしているところもあるのだろう。
 かくして仕事場に上がりこむ訪問客が途絶えると部屋の中はどんどんちらかっていく。



[2003年9月3日]

24 迷路の壁

 コラムなどでやや抽象的な理屈を唱えることがある(いま書いているこれも、理屈の方へいってしまいそうですねェ)。
 文章にはしていなくても、日ごろから頭に浮かんでいて、自分の中で確かにそうに違いないと考えている理屈でも、文章にすると確信がもてなくなり、
(これは迷路に入ってしまった)
 とオタオタすることはよくある。
 締切が迫っていれば、迷路に入っても、何とか通り抜けてゴールまで行かなければならない。
 そんなとき、迷路の壁をぶち破って、論理展開のルール違反をしたかどうかさえ確認するゆとりもなく、不安を残したまま、けりをつけなければいけないこともある。
 私はそれが嫌なので大抵のコラムは少し前に仕上げて壁に貼っておく。時間をおけばたいてい自分のルール違反がくっきりしてくる。
                  *
 文章にせずに頭の中で考えていたことというのは、ほんの核の部分でしかない。
 文章にすると核の周辺にどんどん考えを展開していかなければならないし、核そのものも形を変えていくことも多い、核がいつのまにか消えてしまうこともある。
 その考えが閃いたときは、凄いことを発見したぞ、と自分ながらに感激したのに、どうってことなかったなと苦笑することもあるが、その逆に閃きの先にもっと深い収穫を掘り起こすこともある。
 少しワープするが、〈〈意識は存在の意識的形態である〉〉というマルクスの言葉は、社会主義国がいかにも無残だったと歴史的に確認されたいまも、私の中でサンゼンと輝いている(マルクスだったと思うのですが、資料で確認しようとしても、何も見つかりません。責任は負えませんのであしからず)。
 エバトテツオが意識していることはエバトテツオのごく一部である、ということである。原稿を書いているといつもそれを実感する。
 一文字一文字を書いているうちに今まで思い浮かべもしなかった考えや感じ方を辿っていることがままある。ネタ探しに苦労し、とりあえず最初の一行を書いたら、するすると面白い話が産まれてくることもある。
 一文字一文字がエバトテツオの無意識を意識化しているのだ(といっても前々回に書いたように物忘れが激しくなっているので、せっかく意識化したものがすぐにまた無意識の下に潜り込んでしまうのですがね)。
 今回は理屈づくし。迷路の壁をぶち破りはしなかったと思いますが……?



[2003年8月2日]

23 新聞の整理

 このところ新聞に追い立てられる気分になっている。
自宅で「朝日」と「産経」、仕事場で「毎日」と「日経」「日経金融新聞」と「赤旗日曜版」をとっている。
 でもぼくがきちんと精読しようと思っているのは、仕事場の「毎日」と「日経」だけで、後はまあ、面白そうなところを拾い読みすればいい。
 ところがこの半年ほど連載の原稿書きが押せ押せで、その間に単行本のゲラ校正などが入ると、もう新聞を読む時間がなくなる。
 いや、時間ではない、体力気力だ。無理に読むと頭が痛くなる。吐き気がすることもある。
(もしかしたら鬱病かもしれないぞと、いう考えがたまに頭をよぎります。仕事に気が乗らないなと思っていたら欝だったという記事を、この頃よく目にしますからね。「はらたいら」なら男の更年期だけど、おれもそうかなと思うこともあります。しかし彼、ウコンを飲んですっかりよくなりました、と広告やテレビに出ているけど、あの顔も体もどう見てもまだ病気にしか見えないから、ウコンにマイナスだろうにね)
 そこで読まないままの新聞がどんどん溜まっていく。
 二週間くらい経つてようやく気力を回復すると、いや、どうしても放っておくわけにいかないと追い込まれて、一つの部屋に乱雑に投げ込んである新聞の山と格闘する羽目となる。三紙が二週間だとたっぷりある。
 いまぼくがスクラップしている記事は、金融関係(銀行小説)、ソニー関係(盛田昭夫評伝)、サラリーマン受難関係(コラム)、石油関係(勉強会)てところで、他の記事もいちおう目を通す。
 これも気力がたくさん(?)あるときは熱心に拾っていくし、そうじゃなければ、どんどんすっ飛ばす。
 一日の新聞だけで新書一冊より活字の分量が多いというから、二週間分なら丸一日はかかるはずだ。それを数時間で終えるのだから、どれほどすっ飛ばしているのか見当がつくだろう。
(切り取った記事を台紙に貼るのは、息子にアルバイトに出しているのですが、家に持ち帰るのもモタモタするようになりましたね。ショッピングバッグに入れたまま一月も忘れていることがあるんです)
 部屋が片付き広々した畳が現れると、気持ちがすっかり晴れる。うつ的気分などどこかへ消えてしまう。ゴミやホコリは部屋の中だけでなく、そこに暮らしている住民の胸の中にも溜まっていくにちがいない。
 でも翌日からまた同じサイクルが始まるのだ。
 その日その日に新聞を読んでしまう、という当たり前の習慣は当分戻ってきそうもない。



[2003年7月1日]

22 記憶力

 私はあと10日ほどで57歳。モノ忘れがどんどんひどくなっている。
 とくに思い知らされるのは、テレビを見ているとき。
 よく知っているはずの芸能人の名前が思い出せない。これまで何度も見て、人と話題にもして、昨日までは、確かにいえた名前が、いえない。
 ときには「姓・名」の姓だけ出てきて、名が出てこない、あるいはその逆もある。
 そんな馬鹿な、と自分で呆れている。ついこの間までは、姓・名のどっちかを思い出せば、もう片方も必ず思い出した。姓・名の記憶は脳の中でつながっていた。それがいまではつながってない。
 忘れにくい名前もあれば、覚えにくい名前もある。
 泉ピン子は忘れにくいが、坂口良子は覚えにくい。それから保坂尚輝のあの奥さん、あれが覚えにくい。今も思い出せないからあの奥さんと書いているが、せっかく思い出しても翌日また忘れている。何度も思い出しては、何度も忘れている。
 すぐに思い出せなくても30秒とか、あるいは5分、10分と、必死で脳味噌の中を探っていると思い出すこともある。
 時間をかけると大抵は思い出す。三時間後、トイレの中で「あ、中村晃子だった」なんてこともある。
 なるべく思い出すように心がけている。そのほうが物忘れの治療? 予防? になるような気がするからだ。
 名前を忘れるだけなら、世間でもよく言われていることだし、芸能人が会話に出てこなくてもいいのだから、そう困りもしないが、普通名詞を忘れたり、会話の文脈がおかしくなることも起きている。
 ある文脈で話し始めて、途中で「これじゃ、論旨がつながらないな」などと気付くことがあるのだ。
(もうボケが始まったのか、困ったな)と思っていたが、いろんな人に聞いたり、注意深く観察していると、私と同世代の人たちには、大なり小なり同じことが起きているようだ。
 飲み屋なんかで世間話しているとき、唖然とするほど、固有名詞が出てこない人が増えている。
 みんな「あの人」とか「アレ」で済ませている。代名詞のオンパレード。年をとると誰でも脳の配線がイカレてくるということなのだ。
 お笑い芸人のトーク番組などを見ていても、若手で"噛む"人はほとんどないが(未熟者は別ですよ)、タモリは十年以上前から噛むようになり、たけしも数年前から噛み始めた。
 最近、さんまも「踊るさんま御殿」などで、ごまかしきれないほど噛むことがある。「とんねるず」のゴーマンなほうの石橋貴明も噛み始め、穏やかなほうの木梨憲武はもっと噛む。
"立て板に水"だった彼らのしゃべりの脳の配線も、とうとうおかしくなってきたのだ。
 いまのところ私はまだ原稿を書くのには差し支えてはいないと思っている(ここまで書き並べたタワゴト、どうでしょう? ダメ?)。
 しかしそのうち差し支えてくるだろう。少しくらい差し支えても売り物になる原稿を書けるのだろうか? それとも商売替えをしなくてはならないのか。
 いやいや、原稿をかけないほど脳の配線がおかしくなってもできる商売なんて、ありはしないだろう。
(どうしよう?)
…………。
 ありがたいことに脳の配線がイカレてくると、心配も長続きはしない。


[2003年6月1日]

23 プチ依存症

 ネット上に「まちがいさがしマラソン」というゲームがあるの、知ってますかね。
 画面にはたとえば(ビートルズ)という言葉が、タテ30×ヨコ10=300個ほどびっしり並んでます。
ビートルズ ビートルズ ビートルズ ビートルズ ビートルズ ……
ビートルズ ビートルズ ビートルズ ビートルズ ビートルズ ……
 その中に一つだけ(ビートルズ)じゃない異分子が混じっているので、それを見つけてクリックします。
 そうすると次の問題(犬も歩けば棒に当たる)の画面が出てきます。
(いかりや長介)(メリークリスマス)などを乗りこえ踏みこえて、36問目の(のび太)が最終問題。どれも異分子はかなり文字ヅラが違っていて、見つけられないはずはないのに、これがなかなか見つからないんですね。
 見つけられなきゃ、次の問題にいかれない。
 せっかく23問目の(ダイヤモンド)までたどり着いていても、どうしても見つからず「諦める」をクリックすると、次にやるときはまた1問目からだから、本当にいらいらします。
 やっとこ36問までいって(のび太)の異分子を見つけられなかったときは、印刷用紙の端をモニター上に当てて、一行ずつ確認したんだけど、どうしても分からない。
 もうその頃は目もチカチカしちゃって、文字がニジんでるんですよ。
 仕方ないから一つ一つシラミ潰しにクリックすることにしました。右上から丁寧に丁寧に。
 うっかり一つ飛ばして、それが異分子だったら泣くに泣けないですからね。
 117個目くらいで、もうほとんど無意識に手を動かしていたとき、ふいに画面が変わって……、

「よくここまでたどり着きましたね(笑)」

 ねぎらいの言葉が飛び出してきました。
 コン畜生め! と力が抜けちゃいましたよ。
 でも、ぼーっとねぎらいの言葉を眺めていたのではなく、すぐに「戻る」をクリックして、どれが(のび太)の異分子か、確認しました。
(どうしてこれが分からなかったのかね)
 失った時間がアホらしくなりました。

 私は、何の因果かこの手のゲームが大好きで、深夜まで原稿を書いてたり、ネットで資料を探していて、目がジンジン、頭ズキズキ、下手をすると吐き気までもよおしてきて(もうダメ)というとき、ふっとgoogleに飛んで「まちがいさがしマラソン」と検索ワードを入れてしまうんです。
 ある種の依存症ですね、チャチだけど。
 テトリスだったこともあるし、囲碁ソフトだったこともあるし、言いたかないけどジグソーパズルだったこともある。
 ゲーム相手に、末梢神経をぎりぎりまで使わないと落ち着かないってのか、そこんところの生理はよく分からないけれど、症状はそんな具合で、疲れてくるといっそうこの傾向が激しくなります。
 まあ、やりすぎて夜明かしするわけじゃないし、原稿が書けずに失踪しなきゃいけないってこともなかったけれど、そんな神経を持っているから不眠と縁が切れません。
 眠ろうとしても眠れない、じゃなくて、眠ろうとすることができないんです。
 布団の上に横たわって、目をつぶって、じっとしている、ってことができない、自分では不眠症と少し違うと思っています。目をつぶってじっとしてさえいれば眠っちゃうのですから。
 ときどき自分の末梢神経が可哀想になります。
 休めてやればいいのに、休めてやらないのですから。
 でも依存症とか中毒ってのはみなそういうことなのですよね。
 昔、サルがオナニーを覚えると死ぬまでやめられないって話を聞いたとき、思わず噴き出したけど、笑っちゃいられないね。

 これ、読んだあなた、(まちがいさがしマラソン)をちょっとのぞいてみようと思ったでしょう。やめておいたほうがいいですよ。
 時間と神経の大いなる無駄づかい、この作者の独特の世界は癖になるし、彼お勧めのとんでもリンクにまで引き込まれること間違いなしだから怖いですよ。
 まして(ジグソーパズル)なんてキーワードで検索するのはとんでもないこと。
 4万も5万もあって、めちゃくちゃ多種多彩多能多様多才多色多勢多難多弁多情多動多感多岐多元多言だから、身の破滅でっせ。

 さ、私はちょっくら、いってくるかな。

(ミニコミ「くろにか」では、もちろん、紙の上に文字が並ぶ前提で<仕事場日記>を書いていた。電脳「くろにか」ではモニター上に並ぶことを意識したが、実際は紙のときと同じものだった。今回から電脳版<仕事場日記>第1回)




[2003年5月1日]

22 原稿料

 仕事場のパソコンの前の壁がメモ類で一杯である。
 画びょうで直接、貼りつけたものもあれば、画びょうの間に張り渡したヒモに通した目玉クリップにはさんでいるものもある。
 不揃いに並んでいて、紙の角がめくれ上がっているのもあり、どこか破れふすまの風情を放っている。
 ゲラや取材メモ、手紙文のプリントアウト……、その中に古い原稿依頼のファックスが混じっている。なぜそんなものを残しておくのか? わけがあるのだ。
 ときどき手帳で、以前の原稿の締切日などに目がいき、
(あ、ここはまだ原稿料をもらっていないぞ)
 と思い出すことがある。
 さっそく通帳を調べて未入金を確かめ、もちろん担当者に電話をする。
 うっかり忘れてしまったのなら仕方ない。ところが、
「エバトですが……」
 と名乗ると明らかにしどろもどろになる奴がいる。まだ払っていないと記憶していたに決まっている。こっちが忘れていたら払わないつもりだったのだろう。
 この野郎ふざけやがってと思うが、そうはいわないで「いつになりますか」と穏やかに問う。大抵はすぐに払ってくれる。こんなときちょっと"思わぬ儲けもの"って気分になる。忘れてなるものか。
 だから依頼書は原稿料をもらうまで貼りつけておくのだ。
 支払われていたのに見過ごして催促したこともあった。思っていた以上に早く振り込まれていたので、通帳の死角に記入されていた。これは恥ずかしかった。
 支払いが遅れていても催促すること自体を恥ずかしがる人もいるようだ。金のことを口にするなんて、ということらしいが、私にはそんな感覚はない。講演の依頼なども、向こうから講演料をいわなければ大抵は聞きただす。
 友人が「あんまり予算がないんだ」といって依頼してくるようなときはもちろん聞いたりはしない。お互いがビジネスで向き合っているときに聞く。ビジネスで金のことをいうのは、ちっともはしたないと思わないが、プライベートでは"武士は食わねど高楊枝"をやっていたいのだ。
 支払いがしばしば遅れる連載もあった。このときは振り込まれるはずの日から10日も遅れれば、「振り込まれていないようですが」と確認した。
「ああ、ちょっと、遅れてまして」
 どういうわけかその次の号はきちんとスケジュールどおりに振り込まれたが、遅れた分はそれよりさらに遅くなった。先方の資金繰りがよく飲み込めない。
 それが二度になっても三度になっても四度になっても督促は繰り返した。
「……に払います」といった日から何日たっても音沙汰ないこともあった。そんなときも一定のゆとりをおいて律儀に催促した。
 担当者のルーズではなく確かに資金繰りに困っている、ということがまざまざと伝わってきた。言い訳に苦汁がにじんでいた。それでも催促はやめなかった。支払うといわれたときに支払われていなければ催促しなくてはならない。これは商談なのである。




[2003年4月1日]

21 おお、舟木君

 仕事の合間、何を探すでもなくテレビのリモコンをいじっていたら、突然、懐かしい顔が目に飛び込んできた。
「おお、舟木君」
 思わず声を出していた。
NHKのBSで、舟木一夫の<40周年リサイタル>を放映していたのだ。
 舟木一夫が「高校三年生」でデビューしたのは、私が高校二年のときだった。
 舟木と橋幸夫、西郷輝彦の元祖"御三家"は、いわゆる受験高におとなしく通っていた私の青春時代の友だった。
 何しろ、橋君、舟木君、西郷君などと「君付け」で呼んで、二つ年下の弟と話題にしていたくらいだ。いや御三家にかぎらず、当時の青春歌謡(こんな呼び方だったっけ?)のほとんどの歌手たちは半ば友達だった。
「美しい十代」の三田明、「女学生」の安達某、「青春の城下町」の久保浩、「………」の望月某……、玉置宏の「一週間のご無沙汰でした。ロッテ歌のアルバムです」を毎週のように見ていた。
『平凡』やら『明星』の付録につく分厚い歌集を、えいやと当てずっぽうに開いて
も、見開き三つのうち二つはちゃんと唄えた。
 舟木一夫の歌ならあまりヒットしなかった歌でもフルコーラスで記憶していた。

 君は歩いていく 遠い道

 君は歩いていく 風の中

 後ろ姿に ただ祈る

 君と過ごした 青春の日を

 忘れてくれるな いつまでも

 誰がこんな歌詞を覚えているだろうか? 私は今でもごくたまに思い出して口ずさんだりしているのである。
 しかしわが青春の友たちは皆、次々と消えた、あるいはすっかり変貌した。中には無残に変貌した奴もいる。
 舟木一夫も一時期、無残だった。悲恋の末、自殺未遂をしたと週刊誌が大騒ぎをし、もう社会人になっていた私は少し胸を痛めたけれど、そのまま忘れてしまった。
……しかしいつのころからか舟木一夫は蘇っていた。
 昼のワイドショーや懐メロ番組に出るようになったり、ドキュメンタリに取り上げられたり……、そしてどういうわけか無残に変貌していないのだ。あの青春時代のころの面影のまま中年になっていた。
 たとえば某女流作家の人気エッセイに、――あるレストランで隣り合った素敵な人が誰あろう、舟木一夫であった、と書かれるようなイメージをまだ残していた。
 さてBS放送である。
 カメラが舞台の上の舟木君からそれて観客席を映し出すと、案の定そこにはおばさんたちがぎっしりと塊り合っていた。
 ここでおばさんに対する嫌悪感やら皮肉っぽい感情を書けば、話の流れが分かりやすいかもしれないが、実はそうではなかった。
 おばさんたちも私と同じ時期に「舟木君」を友としていた、いや恋人としていたのだな、と優しい気分になれたのだ。
 40年前には細身のワンピースが似合ったかもしれないおばさんは、いまでは恐ろしげに太くなった腕に花束を抱え、次々と舟木一夫に差し出す。
 三つほど受け取ると、舟木一夫はワンコーラスだけそれを抱えて唄い、歌の合間に舞台に設けられた台の上の置く。
 しかし花束攻勢はいつまでも止まらない。
 太い腕、花束を受け止めて、ワンコーラス唄い、台に置く。
 太い腕、花束を受け止めて、ワンコーラス唄い、台に置く。
 舟木君もたまらないだろうな、いや嬉しいかな、いやたまらないだろうな、いや。
 ステージが進むにつれ、私の記憶の底に沈んでいた歌が次々と蘇る。
「修学旅行」「学園広場」くらいまでなら誰でも知っているだろう。「君たちがいてぼく
がいた」となるとどうだろう。「絶唱」「高原のお嬢さん」「北国の町」……。ああこんな歌も唄っていたんだ。舟木には珍しいアップテンポ。

 夏、夏、夏、夏、なつこ

 夏、夏、夏、夏、なつこ

 今年も会えたね なつこ

 初めて 心を打ち明けた

 眩しい ビーチの昼下がり

 素晴らしい なつこ

 なつこ なつこ 素晴らしい

 メロディの記憶を確かめるように、私も彼と合唱してしまった。
 すばらしい〜な、つ、こ、と来たもんだ。
 まあ、私のほかには誰もいない仕事場なのだから、誰に遠慮もいらないわけで……。




[2003年3月1日]

20 続・渡された原稿


 さて前回の続き。
 25歳の社長秘書君から、小さな講演会後の立食パーティで預かった原稿であるが――
 そこには某アジアの国のシティホテルでフロントをした体験談が連ねてあったが、野心に満ちた彼女の苦労話と孤独感との相克がなかなか上手に書かれていて、想像以上に面白かった。
 しかし書店で売れる物にするにはまだ少し距離がある。
 体験談に、ハラハラドキドキする強いドラマ性があったり、これまで誰も語ったことのない発見があったりはしない。
 原稿を預けられた翌日、彼女はメールで数本のコラムも送ってきた(私の名刺にアドレスが書いてある)。
 こちらも面白かった。こっちの方が短い分だけ面白さが凝縮されて、文章に一種の叙情みたいなものもあった。

 ほぼ一週間後にこんな感想をメールでいくらか婉曲に彼女に伝えた。
 以下、メールの文章をそのまま貼り付ける(固有名詞は伏字)。

――『******』面白く拝読しました。
文章も素敵な箇所が多く、あなたの体験も積極的で痛快なものだと思いました。
文才も十分だし、成功するための積極性も十分です。
ところでこれはどのような目的で描かれたものでしょうか?
市販性のあるものとするには、どのエピソードもちょっとあっさりとしていて、
全体にパワーが足りないように思います。
そもそも〈ある若い女性の****OL体験記〉というような中身で、
市販性のあるものにするのは、なかなか大変です。
私的な日誌なら十分合格で、
友人知人はみんな面白がり絶賛するでしょうが、
本屋の店頭に置いておいて1500円くらいを出させるには磁力が少し不足しています。
以上が忌憚のない感想です。何かお役に立てるようでしたら、ご協力します。――

 ご協力するといいながら、あまり頼られることになっても困るなと思っていた。いやそれも面白いかなという気持ちもあった。
 彼女からは、すぐにきちんと距離感のあるお礼のメールが届き、頼られることもなさそうで、やれやれ一段落かと思い仕事にかまけていた。
 ところが、数日後マグマグの有料メルマガの案内欄を見ていたら「キャロラインの*****」という文字が目に飛び込んできた。紛れもなく彼女の原稿のタイトルだった。
 いやあ、なんという逞しさと舌を巻いた。同時にいささか敬意も感じた。
 前々回紹介した私の友人の50歳代半ばのおじさんより、ずっと自立自尊の精神が強い。私に頼って出版社巡りをするどころか、もっとストレートにお金をとって読者に読ませようというのだ。
 教えてくれた彼女のホームページを覗いてみると、現在はせっせとセミナーなどに通い、「なんとか30歳までに事業を起こしたいんです」となかなか美形のご本人の写真がにっこり笑いかけている。
 私がもっと彼女に年齢が近くて、彼女の身近にいるのだったら、その積極性にめまぐるしさや息苦しさを感じたかもしれないが、私の長女より若い彼女の旺盛な行動力には好ましさを感じている。みな何にひるむこともなくやりたいことをやればいいのだ。
 さてまだ話の続きがある。
 つい数日前、彼女からチョコレートが送られてきた。原稿の感想を送ってからはもう一月あまり、バレンタインデーからも2週間経っている。
 どういう意味のチョコレートなのだろうかと思ったら、中に手紙があった。
 なんと、あの原稿が某出版社の公募原稿の優秀賞を取ったという。大賞ではないのですぐ出版するということにはならないようだが、私に見せる以前にそこに応募していたのだという。
 彼女はきっと近いうちに、どこかマスメディアに顔を出すような存在になるのではないかという気がし始めている。




[2003年2月1日]

19 渡された原稿 


 先日、小さな集まりで講演をした。
 30人ほどの出席者のほとんどが女ばかりだったが、もうそんなことで嬉しかったりどぎまぎしたりはない。いや、「もう」ではなく、たんに今の心身の状況がそうなのかもしれない。
 終わった後に立食パーティがあった。そのとき一人の若い女から原稿を預かることとなった。その内容を荒っぽくいえば香港外資系企業のOL体験記である。
 25歳の彼女は目を輝かせてこういう。
「どこかで出版できないかと、色々な伝を辿っているんです」
 これまでにも何度も原稿を読んでくれといわれたことがあるが、ほとんど断ったことはない。エエカッコシイになるが、〈人が望む方向に進もうとすること〉に役に立てるのは悪いものではない。それにせいぜい年に二本ていどだ。
 その中で一番いい結果につながったのは友人を介してA氏から持ち込まれた原稿である。読むとなかなかの出来栄えだったので、私が某出版社に紹介したら、そこから刊行されてかなり売れ、A氏はその後いくつもの著作を出し、いまやベストセラーも出す市民運動家になっている。
 念のためにいっておくが、私は最初の出版に関わっただけで、その後は彼が自分で切り開いた。いまではA氏はよく彼の事務所で開く、うまい酒の飲み会に私を誘ってくれる友人である。
 一番まずい結果になったのは、これはもっと古い友人の原稿である。
 四年ほど前、最初に持ち込まれた彼の原稿は、彼の専門のI Tに関したもので、いかにも最先端でオリジナリティが高く、すぐに大手出版社Bを紹介したら、たちまちそこから新書として刊行された。
 それから一年半ほどして二本目の企画、もう半ば原稿になっているものが、私の元に持ち込まれた。まず最初にごく当然のことをいった。
「Bの編集者と相談したらいいじゃないか」
「ちょっと敬遠されているんだ」
 仕方ないから原稿を読んだら敬遠されるわけだ、今度の原稿にはほとんど市販性がない。I Tには関係あるのだが、新聞や週刊誌に書かれているような事件の解説や世間話ていどの論評をいくつかまとめようとしている。
「これじゃダメだよ」と婉曲にいったが、なかなか首を縦に振らない。たぶん最初の原稿がすぐに本になったので、出版をなめてしまったのだろう。
 やがて少し憤然として「君には頼らない、ぼくにも出版界に伝はある」といいだした。
 それならそれでいいじゃないかと忙しさにかまけていたら、半年後にまた連絡があった。
「やっぱり君のいうとおりだと編集者からもいわれてしまった。また書き直したから見てくれ」
「いいよ」
 すぐに郵送されてきた原稿を読んでみたら、どこを書き直したのかさっぱり分からない。
 彼が、勘違いのフランクな文章を使い、架空のエピソードがいくつか加えられているだけだ。当然のことながら、面白さの基本は、文章ではなく中身である。
 ちょっと憂鬱になったが、都心の彼の行きつけのバーにまでいって、もう一度同じことを彼にいった。(バーに誘うことが私をもてなすと彼は思っているようだが、こっちは遠出するよりメールと電話だけで効率的にやりたいのだ)
 大手企業に勤めていたからというわけでもないだろうが、彼はぬらりくらりとなかなかのタフネゴシエーターである。だからバーに呼んだのかもしれない。駆け引きをやっていても仕方ないから、こうわかりやすく言った。
「そんなにこのテーマに自信があるのなら、ハイライト部分だけ30枚くらいにまとめたらどうだろう。面白ければ雑誌に紹介するよ。そういうのを何度か繰り返したら一冊の本になるだろう」
「そうか。わかった」
 そういって三月後にまた書き直したと称する一冊分の原稿が送りつけられた。
 中を見ると同じことの繰り返しだった。彼はもう天下り先に転籍していて、時間はたっぷりあるのだ。
 しかしなんで30枚を書こうとしないのだろう? それなら手取り足取り雑誌原稿になるまでのアドバイスはできるが、丸ごと一冊分の原稿を送ってきて、まったく使い物にならないのではお手上げである。
 今度は少し丁寧な感想文を書いてメールで送った。
 一言で言えば(市販性のあるオリジナリティがなければ、出版社は受け容れない)といものである。(ただしそれはぼくの意見で、人によってはこの原稿をオリジナリティがあると思う人もいるから、誰か他にも見てもらったらどうか。面白いと評価する編集者がいれば本になるんだから)と付け加えた。
 すると彼は「もう一度、書き直す」という。結局、同じ事の繰り返しになるだろう。
「ぼくが何をアドバイスしているかわからなければ書き直しても無駄だよ。30枚の雑誌原稿はどうしてイヤなんだ」
 といったら怒ったのか音沙汰がなくなった。
 年賀状も来なかった。ちょっと切ない。
 彼にえらそうにする気持ちは毛頭ない。こっちは本当に役に立つアドバイスだけをしたつもりなのだが、彼にはそう感じられなかったのだろう。
                  *
 さて25歳のOLの原稿のその後だが、次回に回すことにする。彼女との間でいくつかのメールの交換もしたから、それまでにいろいろな進展があるかもしれない。




[2003年1月1日]

18 季節ごとの桜


 仕事場から歩いて2分のところに、1キロほど続く桜並木がある。
 ここへ引っ越して間もなくそれがほころび始め、私は毎日そこを散歩し、ふわふわと綿菓子のような花群が華やかに頭上に広がっていくのを楽しんだ。
 桜の嫌いな人など日本にはいないだろう。私も大好きである。毎年、春の二週間ほど、私は日々眺めを変えていく桜の魅力にほとんど溺れてしまっている。
 一日二日の満開の後、花吹雪となって花びらが散り落ち、すっかり葉桜に姿を変えてもまだしばらくは、青々とした葉の色が目に染み入るのを楽しめる。
 しかしそれでもう桜の生命の舞台は終わり、また来年の春の定期公演まで待たなくてはならない、いつもこう思っていた。
 しかし今年は違うのである。愚かなことに、桜と付き合ってから半世紀もたってようやく桜は季節ごとに違う魅力を放っていることに気がついた。
 夏。炎暑の中を、私は用事を果たそうと自転車のペダルををこぐ。汗がとめどなく噴き出し、私はじりじり照りつける太陽を呪う。ところが、桜並木の下を通ると一転、ヒヤリと涼しいのである。陽射しが遮られるだけでなく、重たげに枝いっぱい葉をつけた桜にはまるでクーラーのように辺りの炎暑を和らげる効果がある。
 秋。桜の木は、日々、黄に、赤に、茶に、その葉の色を変える。それも一本いっ本、一枝ひと枝、一葉ひと葉、微妙に個性的な色の変容を見せる。隣りあった葉の色の違いが、互いの魅力を強調しあっている。
 やがて桜の木はひそかな音を立てて色づいた葉を脱ぎ始める。自転車をこぐ私の頭へ、散歩をする老人たちの肩へと。葉は舗道を埋めつくし、私たちの足元でもひそかな音を立てる。
 冬。桜は黒い幹と枝だけになる。遊歩道の両側から伸びた枝がつくるアーチの下、私はたまに最寄りの中浦和の一駅手前、武蔵浦和から仕事場まで15分の距離を歩いて帰る。
 私の頭上には枝と枝とが重なり合ったアミメ模様ができている。いやアミメなら平面だが、これは立体図形なので、私が足を踏み出すのに伴い不可思議な連続オブジェを造りだす。
 まるで大掛かりな万華鏡だ。子供の頃、万華鏡の変幻自在、千変万化に驚嘆した記憶があるが、それになぞらえれば私自身があの丸い筒になってしまい、黒いアミメの下をくるくる回っているようだ。
 万華鏡なら美しさの基は一定の形をした色紙の断片であるが、桜の枝には一つとして同じ物がない。多分、昨日と今日、今日と明日でも形を変えているだろう。生命の一回性、一期一会性、それが私の一足ごとに頭上に流れているのだ。
 不思議なことに、この15分が長く感じられたことは一度もない。もし商店街を15分歩くのだったら退屈するだろうに、宇宙を満たしている生命の先端では、一瞬と永遠が交錯しているにちがいない。
 新しい年が始まるが、この季節の桜がどんなかおを見せるか、まだ見たことがないのでちょっと楽しみだ。




平成14年師走・記

17 喪中の知らせ


 寒い。朝から氷雨が降り続いていて今夜は雪になるとか。私は痩せているので体の芯まで寒さが届く。
 この雨の中、これから遠い親戚の通夜に行かなければならない。
 凍りつくような時期の通夜や告別式を何度も経験した。
 通夜は往復だけだが、告別式は戸外に長いこと立っていることになる。手違いで坊さんの到着が遅れ、頬を刺すように詰めたい空気の中、足の指先を凍らせ小さく足踏みをしていた記憶がある。
 もちろん死者に向かって「いい季節に逝け」などと罰当たりをいうつもりはない。寒さの中を往復三時間かけることは故人にとって供養になるだろう。
 暮にはいつもよりずっとたくさんの「喪中の知らせ」がやってきた。私もいよいよそういう年回りになってきた。
 中に一通、目にしたとたん「あっ」と声を出してしまったものがある。知人のMが54歳という若さで亡くなっていた。
 6〜7年前、彼が大手メーカーから外資系のライバル企業に転職する真っ最中、私は彼を取材していた。
 彼は私に向かって「これまでは消極的な自分を生きてきたが、これからは積極的な自分をやってみようと思う」と静かな気負いをにじませた。好ましい男に思えた。
 それから2年ほど後、今度は彼のほうから会いたいと連絡をよこした。彼はすでに外資系企業をやめていて、今度は会社勤めをリタイアした世代の人生を豊かにするサービス業を起こすので何かアドバイスをしてくれという。
 この間、私は『辞めてよかった!』という気恥ずかしいタイトルの本を出していた。二度、転職した私の体験を基に、企業にしがみついていなければ人生が成り立たないと考えなくてもいいでしょう、と他人様に僭越なことをいっている本である。
 Mはそれを読んでくれていたから、あれほど意気込んで転職した外資をすぐに飛び出した後でも、私に会いやすかったのだと思う。
 Mの新事業の企画書をちょっと見ただけで、これは危ういと思った。リタイア世代はそうかんたんに金を出して人生の豊かさを買うまい、と。
 しかし彼はもう踏み出している、後戻りのできないところに来てしまった。否定的なことをいっても彼のやる気をそぐだけで何の助けにもなるまい。
 私はただ彼の思い切りの良さを称え、事業の内容についてはあいまいな話に終始した。私の懸念は一言も口にはしなかった。
 それからずっと年賀状のやり取りしかなくて、突然の早すぎる訃報である。
「あっ」と声を上げたのは、一瞬、彼が自殺したのではないかと思ったのだ。近頃、事業に行き詰まって死ぬ人のニュースがあまりに多いので、とっさにあの事業がダメになったのではないかと、いやな想像が働いた。
 すぐに共通の友人に確かめたら自殺ではなく病死だった。
 それを聞いてほっとしたなどということはない。何しろ54歳なのだ。私はもうすでに彼より2年も長く生きている。



[2002年12月10日]

16 新たな仕事場

 仕事場を赤羽から鹿手袋(しかてぶくろ、旧浦和市内。かつてこんなところに鹿が住んでいたのだろうか?)へ移して1年近くがたった。
 自宅から自転車で15分、埼京線・中浦和駅からは歩いて3分の3DK。近所に背の高い樹々が大きな沼を取り囲んでいる「別所沼公園」がある。
 どの樹も真っ直ぐ天に向かって伸びており、いつも大勢の釣り人が沼の周囲でのどかに釣り糸をたれている。
 その風情にひかれてこの場所を選んだのだが、いかにせん近隣の文化的、レジャー的、飲み屋的、喫茶店的環境はガクンと落ちた。
 駅前で、東西南北の各方面をよくよく見わたしても、飲み屋らしきものは、おでんの屋台、焼き鳥屋、お好み焼き屋、酒場チェーンの四軒しかない。どれも素敵とはいいがたく、飲む回数はすっかり減った。
 いつだったか仕事場に泊り込んだ真夜中、無性に酒が飲みたくなり、自転車で近所をぐるぐるぐると20分も探し回ったが、それらしき所はいずれももうシャッターを閉ざしていた。(自転車で10分の京浜東北線・浦和駅周辺に行けばたくさんあるのは分かっているが、もっと近くにいいところを見つけたかったのだ)。
 ようやく見つけた居酒屋はじいちゃんとばあちゃんの二人でやっていて、奥の座敷には孫が寝ていて、先客はゲートボール仲間でと、酒はちっともうまくなかった。ばあちゃんの愛想はよかったが、二度と行く気にはならない。
 文房具屋へ行くのに自転車で10分。書店へは5分、図書館へは8分。赤羽にいたときはどれも歩いて3分ほどだったから、機動力がずいぶん落ちた。一つの用事で遠出しても非効率だから、いくつかを組み合わせるようにしているが、注意散漫にしていると一つくらい忘れることも少なくない。
                  *
 記憶力は落ちているのに、囲碁はここのところ急速に強くなっている。
 碁会所での通り相場だが、6段半だったのが7段半くらいになったのではなかろうか? この年齢でこのレベルでの1ランクの 上達は、われながら驚くべきものがある。
 思い当たる理由がある。
 4か月前、地元のケーブルテレビと数十局が見られる契約をした。その中に「囲碁将棋チャンネル」というのが入っていた。
 仕事の合間にそれを見ている、いや仕事にも食い込んでいささか弱っている。
番組ではプロたちが実戦を材料に「どう打ったらいいのか」を解説してくれる。1局、1時間半ほどの解説は、本にしたら優に単行本1冊になるだろう。それだけの内容を、アマチュアの聞き手を相手に、手取り足取り分かりやすく教えてくれるのだ。強くならないはずがない。
 10年ほど前、強い碁会所の主人に教わって、4段から急速に6段になったことがあるが、そのとき以来の急激な上達ぶりである。
 たまに自宅近くの碁会所にやりに行く機会があるが、その度にライバルたちにどんどん差をつけていく。気のせいかもしれないが、彼らが私と打つのを敬遠し始めているような気がしている。
 何かに上達するには正しい指導を受けることが大切なのだ、と改めて経済小説家らしい総括をして感じ入っている鹿手袋の住人であった。




15 息子の選択

 二年前の春、高校を卒業したわが家の末っ子、次男がフリーターになった。
 別に大学受験に失敗したからとか、不登校を続けた挙句にというわけではない。姉と兄は何のためらいもなく大学にいって、今は社会人になっている。
 末っ子も三年生になってから夏休みまでは、彼には珍しく、熱心に大学受験の勉強をしていた。それが九月に入って、「論文」とやらの練習に取りかかり、「自分の将来について」というテーマで書き始めたら、
 ―大学なんかにいきたくない―
 ということに、はっきりと気付いたという。大学なんかにいかずに、小説を書いたり音楽をやってみたい、外国にもいってみたいと目を輝かせていった。
「そういうことは大学にいってもできるじゃないか」
 と私がいうと、
「大学にいかないほうができるし、授業料がもったいない」
 と決然としてはねつける。
 仕方なく、私は、高卒にはいろいろな不利があると、こんなことを息子にいった。
 曰く、大学を出ていないと就けない職業がある、かりに就いたとしても面白い仕事はたいてい大卒に取られてしまう、
 曰く、大学に行けばいろいろいい友達に出会える、
 曰く、知っている結婚相談所では、高卒の男は登録しないそうだ、なぜなら女が高卒を選ばないからだ。
 その結果、「父さん、そんなことをいうのか?」と、息子にすっかり軽蔑の眼で見られてしまった。
「そんなことをいうから学歴主義がなくならないんだ」「いい友達なんてどこにだっているさ」「そんな女のどこがいいの」というわけである。
 いやごもっとも。
 私とて、そんな俗な世情は、口にするさえ口が汚れると思っている。しかし息子が世の中をよく知らないための選択をしてあとで後悔しないよう、少しくらい口が汚れても、それを伝えるのが親の責任だと思ったのだ。
 ふり返ってみると幼い頃から成績に関心のない息子だった。私も関心を持つように育てはしなかった。
 たまに学力テストなどでびっくりするようないい成績のこともあったが、大抵は中の上。私は学期末に通信簿を見せられると、何か誉めることを心がけていたが、5が4になったのは知らぬふりで、3が4になったのを見つけては、「おお、よくやった!」などといっていた。
 息子が中学二年のとき、
「高校はどこへいくつもりだ?」
 と聞いたら、
「うちから一番近いところ」
 といわれ愕然としたのを覚えている。
 私の子供の頃は、勉強でも何でも、力を尽くして、少しでも好位置につけることをよしとしてきた。恥ずかしながら明治以来の「身を立て、名を上げ、やよ励めや」である。
 大人になって軌道修正してきたつもりだったが、「高卒の不利」を説明しなきゃいけないと思うくらいには、肌の感覚として残っているのだろう。
 しかし説明責任は果たしたからには、あとはお前の勝手だと、高みの見物を決め込んでいる。あれから半年、小説も音楽も外国もどこかに吹き飛んでしまい、いま息子はファーストフード店のアルバイトを楽しんでいる。
「今日は厨房に入れてくれた」「今日は盛り付けのコツを覚えた」と目だけは相変わらず輝かせているが、一生そうであってくれるだろうか? 父親の肌の感覚を吹き飛ばしてくれるだろうか?
       *
 二ヶ月ほど前、碁仇きの佐藤さんから、「ちょっと相談があるのですが」と電話があった。
 よく仕事場の昼休みに碁を打っている佐藤さんの改まった口調に、私は何事かと怪しんだ。すぐにやってきた佐藤さんは、神妙な顔で切り出した。
「実は知合いの連帯保証人になって」
 今その人の代わりに月に五万円ほど返済しているが、今月は別に急な出費があったので少々足りない、二、三万円でも貸してくれないかというのである。
 説明はよくある詐欺話のようだが、日頃付き合っている佐藤さんは信頼できる人だ。そこで三万円を用立てた。返済は秋になるといわれたが、当てにしないようにした。これまで誰かに貸した金が返ってきたことは滅多にない。
 ところが翌日からぱたっと連絡が途絶えてしまった。いつもなら二日に一度は「今日、やれる?」と誘いの電話があるのに何の音沙汰もない。
 さて私は解釈に苦しんだ。かりに金を踏み倒すつもりがあるにせよ、秋まではまだ日があるのだから、それまで囲碁を楽しめばいいではないか?
 一週間後、私のほうから連絡した。
「なにかあったの?」
「いや、なんだか申し訳ないような気がしてさ」
 佐藤さんはそう答えて、その日からまた仕事場に碁を打ちにくるようになった。申し訳ないどころか、再開した日に遠慮なく私を負かした。
 それから以前のように勝負は続いているのだが、私は秋まで貸し金のことは思い出さないよう記憶装置を止めていた。
 そしたら昨日、佐藤さんが明るい顔でいった。
「あの金、もうじき返せそうだよ。知り合いの奥さんのほうでお金が工面できたんだってさ」
 ふうん、それはよかった。私は格好の碁仇きを失わずに済んだ。




14 見えそで見えない男女の仲

 近くに明け方までやっているカラオケスナック「カピタン」がある。〈始発まで歌えるよ〉が売りである。
 ごく稀にしか行かないが、どういう渡世をしている奴らか、深夜二時過ぎからやって来る老若男女が引きも切らない。
 そういえば鮨屋の奥さんてのもいたな。ン年前、ひょんなことで知り合った彼女、しばしば深夜に「歌いましょうよ」と電話をかけられて往生したことがある。れっきとした亭主子供持ち、しつこくされる覚えはまったく無し、もちろん断った。
「最近の主婦は何を考えているんだ」
 私より年長のマスターと、大いに世を憂えたものだ。
 先日、ここに久しぶりに立ち寄ったら、とんだびっくり情報を聞いた。
 以前に書いた小料理屋「行灯」の女将がつい最近、マスターにこんな打ち明け話をしていったという。
「行灯」に入り浸っていた鉄のゴールキーパー佐々木さん。「行灯」の店舗を女将に斡旋し、きれいなメニューや案内地図もパソコンで製作した男で、いかにも女将の情夫と見えるが、それにしては腑に落ちないことがいくつもあった。
 その佐々木さんが脳梗塞で倒れて入院した。女将は何とかして見舞いに行きたいのだが、奥さんが会わせてくれようとしない、病院の名前さえ教えてくれないという。佐々木さんに会えないのが辛くて、女将は食欲もないのだそうだ。
 私は一年半も「行灯」に顔を出していないから、最近の状況は何も把握していなかったが、やはりそういう関係だったらしい。
「女将は、他の誰にも言えやしないって、うちで泣いていったのだけどね。まさかそこまでとは思わなかった」
 そんなことに敏いはずのマスターも、早い時間よく「行灯」に通っていながら、分からなかったというから、私が鈍感だったというわけでもない。ちょっと死角に入ってしまう男女の関係もある。
 あのことを書いた「くろにか」は「行灯」の常連に見せようと持っていった。登場人物たちは皆苦笑していたが、佐々木さんはいたく気に入って、来る客来る客に見せていた。自分が情夫かどうか分からないと書かれて、アリバイができたと喜んでいたのだろう。
 当時の佐々木さんは、ほとんど家に寄りつかなかった。日曜日でさえ、
「競馬帰りだよ」
 などといっては「行灯」に来ていた。それなのに、奥さんはもうすっかり行動の自由を失った夫を自分の手の中に隔離しておきたいのか?
「おい、色男」
 とからかってやりたいが、それもままならなくなった。
「カピタン」といえば、もう一つ面白い男と女の物語がある。
「仕事場日記9」に書いたスナック「由美」。ママの由美が誰にでも「愛しているわ」の大安売りをするスナックだ。
 そこにすっかり禿げ上がり、ガッシリしているというか肥っているというか、エネルギッシュな40代前半の高校の先生がよく来ていた。持ち歌は横文字だらけの若者のもので、これが嫌味なほどうまかった。
 そいつがいつも女を連れていた。ほっそりとした多分40歳少し前、男には妻子がいると聞いていたから、つまりは不倫。女は不倫が似合うちょっといけるタイプ。男はまるで似合わないが、蓼食う虫も好き好きだ、と思っていた。
 ところがこの女がいつの間にか「カピタン」のマスターの女になってしまい、いまや「カピタン」で甲斐甲斐しくママさん役を務め、街中で買い物帰りらしい二人の姿を見かけこともある。
 よくよく見ると高校の先生とマスターはかなり似た体形をしていて、目をつぶって抱き合えば抱き心地はそう変わるまい。人間的には、優しそうという点でも、怒ればやくざとでもやりあえそうだという点でも、マスターのほうが二歩も三歩も上だろう。
 高校の先生が、得意の喉を聞かせに女を「カピタン」に連れてくるうちにそうなったようだ。可哀想な先生! とも思うし、大怪我をしないうちに分相応に戻ってよかったのだとも思う。
 夜の街の男と女はかほど危うい、いや最近では昼もそう変わらないようだ。
「掟はお天道様の眼差しの下にあらず、わが内にのみあり」
 気取りすぎか?
     *
 以前に書いた肩の痛みは、やはり五十肩だった。『家庭の医学』の解説通り、痛みを我慢して一生懸命に動かしていたら、しだいに痛みは和らいできたので安心している。
 一時、痛みのせいで熟睡できず、体調が悪かったのがょうやく復調してきた。キーボードも打てるようになり、またこうして駄文を連ねている。社会の迷惑より己の生業である。
 体とは不思議なものだ。
 18歳の頃の大学の体育の時間。腕立て伏せを一気に30回やるのは、ちょっときついこともあったのを覚えている。
 53歳の今はそれほど苦労せず40回はできる。もちろん体力作り(ああ恥ずかしい)のために時々やっているのだ。1ヶ月もサボれば20回を過ぎたころからへばり始める。
 それにしても18歳と53歳でこういう筋力に差がないとは、若いころには思いもしなかった。もうしばらくは騙しだまし使えるようだ。
  この文章は「くろにか」NO8(1999年9月16日号)に掲載されたものです。
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13 肉体の変調

 2ヶ月ほど前から右の肩から指先にかけて猛然と痛むようになった。
 話に聞いていた「五十肩」とはちと違うような気がする。肩が回らないというより、上腕を捻るときひどく痛む。
 右の人差し指と中指は、3年ほど前から腱鞘炎で、ワープロを使うときは、指の関節に、サポーター替わりにバンドエイドを巻いていた。どうやらその痛みが肩まで攻め上ってきたらしい。
(ああ商売上がったりだ)
 心細い気分の中で、そうだ、腱鞘炎なら鍼だと思い付いた。
 タウンページで探したら、池袋に「健やかサロン」と大きな広告を出しているところがある。
 さっそく電話をかけると、第一声、「はい、治療室」ときた。名前を名乗らないのは、なんだか怪しげな気がした。料金を問うたら、「3700円からあるんだ」、さらに「池袋の北口だけど、分からなかったら、女の医者に迎えに行かせます」。まるで風俗店だ。
 池袋東口から2分の盛り場の入口の歩道に、歩行者に迷惑なほど大きな看板が立っていた。これで分からないはずがない。黄色地に墨文字の「健やかサロン」。これもいかにも怪しげだ。
 しかし他に怪しくない鍼医に心当たりはないから、看板の案内どおり雑居ビルに入る。8階でエレベーターを降りると目の前の扉がそれだった。
 鍼医はボディビルが趣味だとかで筋肉隆々である。
 1時間ほどの治療を受けた後の心証は、まあ半信半疑。もう少し試してみなければ、効果のほどは分からない。
 痛みは放っておけないし、しばらく通ってみるかと思った私の顔色を、筋肉隆々は素早く読んだのだろう。おもむろに料金の説明をし始めた。
「初診料は2500円、これは仕方ないでしょう。1回の治療費は4700円」
 あれれ話が違うぞ、と思う私に話を続けた。
「ただし10回の回数券を買えば、1回当たりは3700円になります」
 愚かにも通う気になっていた私は、その話に乗って回数券を買ってしまった。
 その翌日も「健やかサロン」にいった。今日でそれから4日経つが、痛みはちっとも治まっていない。この午後も治療に行くことになっているが、とにか回数券は止めりゃよかった。
 もっとひどくなって、キーボードを触れなくなったらどうしよう、と思い始めている。
 手書きに戻るか。昔、水性ペンを使っていたころは、(ワープロなんかで原稿が書けるか!)と思っていたが、今では手書きじゃ書けないような気がしている。
 口述筆記でもやるか。いやいや、己惚れてはいけない。私はそれでやっていけるほど売れちゃいない。ああいうのは、「てにをは」が少しぐらいおかしくても、作品が飛ぶように売れる作家のやることだろう。
 いっそ転職するか。
 36歳で出版社を辞めてもう16年。物書きにもちょっと飽きた。
 仕事場には捨てようか取っておこうか迷っている本が氾濫している。本だけじゃない、物書き生活の隅々にまで色んな澱が溜まってしまった。これを一遍に放り出したら、どんなに気持ちいいだろう。
 しかし、今の私に、物書き以外に何ができるだろう。辞めてきた出版社とは今も付き合いがあるが、「もう一度雇って下さい」といっても迷惑がるだろうな。さて、さて?
     *
 某雑誌に『小説東京管理職ユニオン』というのを連載している。ほぼ完全な実録小説である。事実を繋ぎあわせて小説にするのは安易だ、ととる向きもあろうが、そうでもない。
 つい先だっては「会社ごっこ」という章を書いたのだが、こんなことがある。
 この章は、組合員たちが管理職ユニオンを母体に1000万円以上の出資を募り、会社を起こして結局は潰した話だが、数人の主たる当事者のいうことが、あるいは微妙にあるいは大幅に違う。
 ルポルタージュなら違いを付き合わせながら書けば面白くなる。しかし小説では、複数のストーリーを並べるわけにはいかない。
 どうするか? とことん関係者を取材し彼らの矛盾を整理して、「これが本当のところだろう」と私なりの回答をストーリーにするのである。
 今後さらなる取材もあるし、単行本にもするから、関係者とは良好な関係を保っていかなければならない。その条件の中で関係者の自己弁護を排して、事実はこうだったでしょう、と結論を出し、納得を取り付けるのである。相手に言い抜けされないためには、ルポルタージュより取材が余計必要な場合が少なくない。
(きっと怒るだろうな、書かないでくれといわれるかもしれない)
 そう思いながら、関係者と原稿の確認作業をするのだが、ほとんどそうは出てこない。本人にとって不名誉のはずのストーリーがどんどん通ってしまう。
 この商売をやっていると、いつも人々の自己顕示欲の強さに驚く。少しくらい不名誉であっても活字に登場したい人が少なくないのだ。
 日頃は受け手としてのみ参加している情報社会で、たまには送り手の側に回りたいのだろう。そのお陰で多くの物書きの生業が成り立っているわけだ、合掌……ちょっと変か?
この文章は冊子「くろにか NO7」(1999年3月24日発行)に掲載されたものの再録です。



12 心に抱えたもの

 その夜、7時過ぎ。私は仕事場近くの喫茶店兼レストランで、カツカレーを食べていた。
 その店には大小様々なテーブル席があり、定員は40人ほどだが、そのとき数人の客がいただけだった。
 そこへ奇妙な客が入ってきた。20代半ばの、ベージュのスーツを着たがっちりした男で、一見したところ普通のサラリーマンである。
 何が奇妙かといえば、店に入ってからずっと独りで何かしゃべっているのだ。いかにも腹立たしげに唇を尖らせて。
(こっちへ来ないで欲しいな)
 なんだか物騒な気がしたから、私はそう願っていたが、空席がたくさんある中、彼はまっすぐ私の席の隣に来てどってかと座った。
 もしかしたら店に入る直前に、何か腹の立つことがあり、その勢いのまま店に入ってきたのかもしれないと思った。それなら少し納得できる。ところがウェートレスがオーダーを取り終えても、腹立たしげな独り言は止まらない。
 カツカレーの味が急に分からなくなり、私は密かに彼の様子をうかがった。突然バタフライナイフでも取り出されたら事だ。
 やがて彼の独り言に耳が馴れ断片的に聞きとれるようになった。
「顔を洗って出直してこいってんだ」
「おれだって、遊んでいるわけじゃないだろう」
 察するに、彼は職場での怒りをここまで引きずり、すぐ隣に先客がいるのもかまわず、罵り続けているのだ。
 私は早々に席を立ち、レジで勘定を払いながら、女の子にこっそり聞いた。
「あの人、今までも、来たことある?」
「ええ」
「いつも、あんななの?」
「ええ」
 彼女は引きつった笑いを浮かべていた。彼を恐れているのだろう。
 ふうむ。彼はいつもいつも職場の上司に腹を立てているのだ。いや、たぶん相手は上司だけではない、同僚ともうまくいっていないに違いない。そして仕事が終わるとこの店に来て、人目を気にせずその鬱憤を吐き出すのだ。
 最近、はやりの切れやすい少年たちと大差ない気分を、がっちりした体いっぱいに溜め込んでいるのだろう。そのうち、あの顔を新聞の社会面で見ることがあるかもしれない、ふと、そう思った。
     *
 年に数回、思い出したように電話をしてくる学生時代の友人がいる。このあいだも何日か続けて電話があった。
 第一声は、「江波戸さん、いま忙しい?」などという。30年近く顔を合わせてないから他人行儀は仕方ないが、それはないだろうと、いつも思う。しかし口にしたりはしない。
 彼は《過激派》と呼ばれる党派に所属していて、学生運動に精力を傾けていた。ヘルメット姿の彼を何度もキャンパスで見かけた。時間がその時点で止まってしまったかのように、彼はいつも当時の思い出を熱心に語る。
 電話が重なるうちに、彼は自分の過去を記録した原稿などを送ってくるようになった。それを見ると確かに凄まじいものだったようだ。私も学生運動に少しは関わっていたが、ケタが違う。
 内ゲバ、学生結婚と離婚、地下活動、爆弾製造、就職と失業……。
 そしていつだったか、
「おれ、精神が壊れちゃってさ」
 と精神科医に通っていることを打ち明けられた。そういえば共通の友人からそんなことを耳にしたことがあった。
 彼の話を親身に聞いていると、なかなか止まらないが、30年も会っていない男に電話してくるのだから、他に聞く人もいないのだろうと、耳を傾ける。
「君の小説は20も読んでいて、ファンなんだよ」と世事を言うときもあれば、「君も劇画みたいな小説を書いていないで歴史に残るものを書いてくれよ」などときついこともいう。
 たいていは大人しく聞いているのだが、先日はうっとおしくなって、早々に電話を切ろうとしたら、突然、怒鳴り始めた。
「偉そうにしやがって、なんだ。おれは軟弱な全共闘とは違うんだ。爆弾を作った男なんだ。ピストルだってやくざを通せば50万円足らずで手に入るし、日本刀なら10万円だ」
 今にも殴り込みに来かねない口調に、ああ、本当に精神を病んでいるんだな、とそのとき初めて思った。
 彼とは主に高校時代に親しかったのだが、受験校なのにのどかな男だった。授業中に居眠りしているのを何度も見た。
 学生運動の後遺症なのか、それとも持って生まれたものの方が大きいのかは私には分からない。電話のやり取りでは、反体制だった男にふさわしくない権威主義がときどき感じられた。
 彼はいま稼業を細々と手伝っていて、「忙しくて、やりたいことができない」といつもいうが、いかにも忌々しげな口調になる。大過なくやってくれば手に入ったと彼が夢想しているものと、いま手に入れているものとのギャップが、精神を傷めているのかもしれない。
 学生運動をやっていた人の多くが、実は権威主義や上昇志向の持ち主だったことは、いまではよく知られている。普通の人の普通の心の有り様だから、精神を傷めてしまうほど、それを否定しなくてもよかったのだろう。
 あの翌日、彼から「怒鳴ったりして悪かった」という電話があり、「こちらこそ悪かった」と応じた。
 またすぐに次の電話が来るような気がしているが、音沙汰がない。

この文章は冊子「くろにか NO6」(1997年9月1日発行)に掲載されたものの再録です。


9 物書きの格好


 昔たまに行っていたクラブの幸代さんが、飲み屋の女将になった。
 40歳をすぎたいまでは少し衰えたが、20歳のころ盛り場を歩くと「よく芸能プロダクションのスカウトマンの声がかかったのよ」というほどの凄まじい美人だった。私が知り合った当時の30歳すぎの彼女でも、街を歩けば雑踏の空気がサーっと静まり返った。
 早くに結婚し子供を2人作った後、離婚してクラブに勤めていた。そこをパトロンに引かされ、毎月高額の手当てをもらっていたが、不景気でそれが打ち切られ、飲み屋を始めたという。
 その開店通知をもらい、私もごくたまに店に行くが、幸代さんはかつての私をこういってからかう。
「あなた、昔は汚い格好でクラブに来てたわよね」
 たとえば真夏、ノーネクタイにYシャツ腕まくり。クラブの客では珍しいかも知れないが、本人はちっとも汚いとは思っていなかった。そこで文句をいう。
「高そうなスーツを着ていた奴らは地上げ屋かやくざだろう。こっちはそんなのと張り合う気なんかないよ」
 物書きは中味で勝負なんだから、とまで傲慢なことはいわない。
「でもあたしたちは、きちんとした身なりのお客に来てもらいたいのよ」
 今となればその気持ちが分からなくもないが、物書きになって数年の私に、身ぎれいにしようなどという気持ちはまったくなかった。ちと年は食っていたが、青雲の志を抱いていたのだ。
 そういえば「汚い格好している」と、面と向かって私にいった奴がもう一人いる。学生時代の友人の運輸省のキャリアH君。そのときの私のファッションは普通のジャケットにYシャツとネクタイ。立派なもんじゃないか。
「どこが汚いんだ?」
「おれたちから見れば、スーツを着てなきゃ汚いってことになるんだ」
 ホンマかいな? その2、3年前『小説通産省』を書くのに、通産次官のKさんに4度も会ったが、毎回、上等とはいえないジャンパーに不精ヒゲだった。
 私はそれが物書きの、天下ご免の制服だと思っていた。Kさんだって機嫌を悪くしているようには見えなかった。内心、不快だったのだろうか? そういえば広報室長は嫌な顔をしていたような気がする。キャリアとホステス、共通点があるようなないような。
 ところで幸代さんが気楽にそう指摘するのは、今の私が小ざっぱりしているからだろう。40代半ば頃から私の心境に変化があった。不精ヒゲやよれよれの服で街を歩く自分の姿が、みっともないような気がしてきたのだ。
 仕方ないからほぼ毎日ヒゲを剃り、そう安物ではない服を着るようになった。恥ずかしながら青雲の志は失せてしまったわけだ。当たり前か?

「女は、女というだけで金が稼げていいよな」
 ときどき男はぼやく。うんといい女なら、うんと稼げることになる。
 このことを私は幸代さんでしみじみと実感した。パトロンがいたとき、彼女の月の手当は百万円単位なのだ。彼女に金を出したのは彼だけではない。
 彼は中小企業のオーナー社長だが、「ここぞ」というとき大金を湯水のごとく注ぎこんで、前のパトロンの大地主から奪い取った。それと並行して数十万円のプレゼントをする男は次々と現れたというから呆れてしまう。いや、少し羨ましい。もちろん幸代さんではなく、そんなに大金が自由になる男たちのことだ。幸代さんはその社長の専属だったわずか数年間に、数千万円も貯め込んだらしい。
 幸代さん、40歳をすぎた今でも、まだ自分の美貌に揺るぎない自信を持っている。先日面白い場面を見た。
 閉店まぢかの飲み屋でのことだ。かなり酔った中年男(ちょっと遊び馴れている風だった)が、勘定を払うどさくさに紛れ、幸代さんをしつこく抱きすくめキスをしようとした。そのとき切った幸代さんの啖呵、ちょっとハンパじゃない。
「あんた、ビル一つくらいたてるつもりがあるの!」
 ビルも腹も立てるつもりのない私は、クラブよりはずっと安い酒をおとなしく飲んでいるしかない。
     *
 このところ過去2年間にためこんできた、書下ろし小説用の資料を読んでいる。資料を読むのはなかなか楽しいのだが、読んでいる間、どこか時間を空費しているような落ち着かなさを感じる。
 物書きの仕事には取材や執筆の他に、アポ取り、資料読み、移動、編集者との打合せなど色んな局面がある。
 ところが私ときたら、ワープロに向かって原稿を書いているか、取材をしているとき以外は、仕事をしているという実感があまりない。ああ、そうだ。取材のアポ取りも、とりわけ難物に了解されたときなどは「やった!」と飛び上がりたいような充実感がある。
 しかし取材相手のいる場所までの移動時間など、2時間かけようと3時間かけようと、まったく遊んでいる気がする。
 これほどではないが、資料を読むときも仕事をしている実感が弱い。もちろんそれによって仕事の完成に少しでも近づいているのは、頭では分かる。しかしほとんどの資料は100頁読んでも、せいぜい2、3頁が役に立つくらいなものだから、あまりに迂回路すぎて仕事をしている実感が薄いのだろう。
 ワーカホリックの変形のような気もするが、どこかに似たような症状の人がいるのだろうか?
本稿は「くろにか NO4」(1997年9月1日発行)に掲載されたものです。     [戻る]


8 仕事の合間に

 半月ほど前から毎日のように、昼近くになると電話がかかってくる。
 その呼出し音を聞くと、私は嬉しいような困ったような気持ちになる。
 今日も案の定、彼だった。
「佐藤ですけれど、どうですか?」
 佐藤さんは十年来の私の碁仇である。自分では工事会社を経営しているのだが、いま工事現場が私の仕事場の近くなので、昼休みにひと勝負しようというわけだ。私も囲碁を、ほとんど愛しているといってもいいほどだから、ひと勝負の誘いには大いに食指が動く。だから彼がやってくるのは嬉しくはある。
 しかし打っているうちに両者とも熱くなって、ひと勝負で済まず、「もう一番、もう一番」となりかねない。そこでちょっと困りもするのだ。
 彼はいつも自販機で缶コーヒーを二つ買ってから仕事場にやってくる。碁盤は、ちょっと贅沢な五寸の榧(かや)のものが、仕事場にある。
 仕事場の壁には、もうすでに佐藤さんと私の「星取り表」が貼ってある。
 現時点では私の方が一ランクほど強い。しかし日々の勝敗によってそのハンデ差を移動させるから、なかなかスリリングである。
 佐藤さんがうんうんと苦吟しているとき、彼の携帯電話がルルルと鳴ることがある。すると佐藤さんは、一転明るい声を出して、
「はい佐藤興業です」
 と仕事の顔になる。ときにはそれが事務を預かる奥さんで、
「あんた、何やってんのよ」
 と受話器から怒声がもれ、佐藤さんは声を潜めて状況をごまかす。
 もちろん私の電話が鳴ることもある。
「いま、お時間、よろしいですか?」
 などと編集者に丁寧にいわれると、ちょっとくすぐったいが、
「はい、どうぞ」
 ともったいつけながらも、頭の中は碁盤の上の難局をどう乗り切るか、で一杯のことが多い。
 私にとって、ちょっと困るのは時間だけではない。佐藤さんの仕事は戸外で体を使うものだから、昼休みに室内で囲碁を打つのは、ちょうど心身の活動のバランスがとれている。
 こっちは屋内のワープロの前で、ためつすがめつ文字をいじるのが仕事だから、白石と黒石の組み合わせをとことん考える囲碁とよく似ているのだ。
 先日など、昼ではなく土曜日の夕方だったが、立てつづけに五番もやってしまい、終わってから頭がクラクラした。若かったころは「執筆」と「囲碁」が、頭の似たような部分を使うなどと思ったことはなかったが、いまは囲碁に夢中になりすぎると、しばらくは頭がぼーっとして執筆できないから、それが分かる。
 ああ、それなのに、今日もひと勝負が三勝負になってしまった。佐藤さんは明日も電話をかけてくるのだろうか?

   飲み屋の行き着けも、このところ少しずつシフトしている。
 三月前までは、花咲かじいさんのように、誰にも彼にも、「愛しているわ」という言葉をサービスしてくれるママのいるスナック「由美」が多かった。
 それが、最近はグラマーな女将の小料理屋「行灯」が多い。なにも、「愛しているわ」よりグラマーに、花より団子に、目が眩んだわけではない。
「由美」のママもなかなか捨てがたい味を出しているのだが、「由美」へいくと夜中の2時3時まで帰してくれない。シンデレラのごとく12時に帰ろうとすると「もう帰るの」と睨まれるのだ。
 喜ぶべきなのだろうが、3時まで飲んでいると、翌日は午後からしかワープロに向かえない。以前はそれでもよかったが、この頃はそれでは間に合わないだけ原稿を抱え、一方で体力も落ちている。
「行灯」の方は、仕事を終えて11時前後に立ち寄ると、
「またこんなに遅く来て」
 と愚痴られることもあるほどで、12時にはたいてい追い出される。それくらいの酒量と時間が、私にはちょうどいい寝酒になる。
 ところが「由美」の客ときたら、私とそれほど年齢の変わらない50前後が多いのだが、どんな仕事をしているのか、2時3時まで平気でカラオケに興じている。まったく羨ましくなる、いや脅威を感じてしまう。
 客の一人「カンちゃん」は50代半ばの独身。彼と共通の飲む店が2軒あるが、カンちゃんはどちらにも私の10倍は熱心に通っているだろう。
 聞けば睡眠時間は1日2時間で足りるそうだ。その上、毎月の飲み屋の予算は50万円だったか60万円だったか。これなら思い切って遊べるだろう。
 ところでバーでもスナックでもクラブでも、女のいる場所は、どうしてあんなに勘定が高いのだろう。先日。初めて入った近くのスナック「カラス」で、30分でビール中瓶2本を飲んだだけで5000円をとられ、あらためてそう思った。男だけの店なら2000円でお釣りがくる。
 いかなる付加価値がついたかといえば、私の娘よりもっと若い東アジアの女性が、テーブルを隔てた向かいに座って、ニコニコしていただけである。
 私はその娘に触ったわけでも、口説いたわけでも、面白い話を聞かされたわけでも、うっとりするような美形だったわけでもない。
 経営者も娘も、なぜビール中瓶2本が5000円になるのか、もう少し真面目に考えたらいいだろうにと、私が不満に思うまでもなく、「カラス」はその後すぐに店を閉めてしまった。

  なお、この文章は「くろにか」NO3(1997年5月15日号)に掲載されたものです。



7 生き物への「愛」とパソコン

 この春、丸10年利用した前の仕事場から、徒歩15分ほどのところへ仕事場を移した。
 まるで長い業病からけろりと回復したように爽やかな気分になり、こんなことならもっと早くに引っ越すんだったと、悔しがっている。平均余命20年ちょっとしかない人生の快適さを少し損した。
 快適さの理由はあまり単純だ。
 第一はスペースが広くなったこと。第二は部屋が新しいこと、さらにすぐ近くにローソンがあって何かと便利だし、飲み屋や食事をする所が、バラエティに富んでいることも気に入っている。
 下見のとき、隣に新聞配達所があるので、泊まりこんだ早朝などうるさくないかと心配したが、まったくの杞憂だった。実際早朝に目覚めたこともあるが、人の気配さえ感じなかった。
 集金人が来たときそれを告げたら、
「こちとら、気を使ってまさあね」
 こんな言い方ではなかったが、いかにも得意そうにいわれた。
 ちょっと憂鬱なのは、ゴキブリとコオロギを足して2で割ったような虫が、たくさん発生することである。一階の部屋で、ベランダの前に草一杯の、小さな庭があるせいか。
 最初はその虫を見つけるとためらいなく、ティッシュで潰していたが、どういうわけかあるとき突然に
(おれは命を抹殺している)
 という罪の意識に捉えられた。
 それ以来、けっして潰すことはなく、虫どもが部屋中を走り回り飛び回るのを放ってある。それどころか、
「おい、頼むから、あっちへ行ってくれよ」
 などと話しかけることさえある。小さな体で生きているのが健気に思え、なんだか自宅で飼っている猫にでも話しかけているような錯覚に陥る。
 そういえば中三になるわが末っ子は、ゴキブリさえも殺さず、紙に止まらせて、屋外に出すのだそうだ。見上げたものだ。が、私は今のところゴキブリには情け容赦ない。
 かりにいつの日か、私がゴキブリと語り合うようになっても、それはこの「仕事場日記」には書くまい。そんなことをしたら人間の話し相手を失うだろう。
 仕事の方は、今年の春までやっていた2本の連載の片方に、まだまったく手入れができてないのに、次の連載の1本が始まり、もう1本も2月後にはスタートさせなくてはならない。今いく人かの手を借り、体力脳味噌をアップアップさせながら泥縄で取材をやっている。
 間に短いものだが、単行本の書下しをやったのが無茶だった。とはいえ、これは半分は自分の過去27、8年の経験を書いたもので、どういう読まれ方をされるか楽しみで引き受けたのだから仕方ない。
 新しい連載は、無謀にも2本とも「企業とコンピュータ」をテーマにする。のみならず、片方はインターネットのホームページに連載されるので、私は今コンピュータに首までいや頭まで漬かって、この世界に馴染もうとしている。
 小学校5年生ころから中学1、2年にかけて、トランジスターラジオとか並3ラジオなどを作っていた。秋葉原にも抵抗、コンデンサーなどの部品を買いに行っていて、メカには強かったはずなのに、いつの間にか、ビデオの操作さえ子供に頼むような「メカ音痴」になってしまった。
 3年前から持っていた(使っていたとはいわない)パソコンには、ウィンドウズ95がインストールできないので新しく買い、インターネットにも加入し、噂のヘアヌードも覗いてみた。電子メールも交換し始めている。恥ずかしながらまさに「パソコンお上りさん」状態だ。
 驚いたことに私より子供の方がずっと早く上達する。私はマニュアルを見ながら、ソフトを壊さないようにと恐る恐る触れるのに、あっちはハラハラするほど手当り次第触りまくり、いつの間にかいろんな操作を身につけている。
 ファミコンで完膚なきまでにやっつけられたときと同じくらい悔しい、いや、あのころよりは少しは諦めているか。
 パソコンに限らず、子供と私とでは世界の理解の仕方が違うのだ。こっちは観念すなわちマニュアルに誘導され、向こうは感覚つまり触りまくることで世界を理解している。
 向こうも捨てたものじゃないとは思うが、今から触りまくることで世界に触れるやり方が、うまく私の身につくとも思えない。参考にはしつつ、自分の慣れ親しんだやり方を取るしかあるまい。
     *
 連載の準備の間に、雑誌の短編小説がある。月に50枚1本くらいならできるだろうと思っているが、2本になることもある。多分、限度を超えているが、親しい編集者が依頼してくれるのだから、断る気にはならない。
 ポルノのように体験と想像力だけで書くジャンル(いや、あれもわざわざ取材に行くのかな?)ではないから、取材をする。簡単に取材できるテーマもあれば、なかなかしゃべってくれる人がいないテーマもある。
 某雑誌では潰れたコスモ信組の職員の話を聞くことが必要になり、これを探すのには少し苦労した。しかしほとんどの取材は、時間をかけ「犬も歩けば棒に当たる」だと信じている。
 コスモ信組もやっぱり棒に当たった。けっこう太い棒だ。この週末その太い棒の自宅を訪ねる。
この文章は冊子「くろにか NO1」(1996年10月1日発行)に掲載されたものの再録です。


6 活字と映像

 今回は「活字と映像についての体験」を。
 初体験は平成元年、拙著『兜町』がTBSで2時間半ドラマになった。ある日、同局のFプロデューサーから電話があり、「テレビ化を考えているから、しばらく他から来た話は断ってくれ」といわれた。後になってエンタティメントには、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、と声だけはかけてみるテレビ人が多いことを知ったが、当時は素直に喜んで期待もした。
 やがて本決まりになり、TBSの旧館でFプロデューサーとその後輩のNプロデューサーに会った。私はテレビ人は横柄だという偏見を持っていた。そんな噂も聞いていたし、この少し前に会いたいといってきた某局のプロデューサーが、酒乱でとんでもない威張り屋で、殴ったこともある。
 しかしFもNも紳士的だった。Fはこんなことをいった。「テレビは今や女子供のものとなっているから企業物はちょっと冒険だが、田村正和を押さえているし、女性とのドラマの部分をもっと大きく扱えば視聴率も取れると思う。私は大人の男の見るドラマをやってみたい」。『兜町』の主人公は、体格雰囲気とも田村正和とは違うキャラクターだったが、それにクレームをつけることはしなかった。何しろ先方は原作を気に入ってくれているのだ。
 間もなく脚本家の手になる一稿が上がった。テレビも映画も完成までに数稿を要し、それをさらに撮影現場で変えていくことも多い。
 私は脚本を見て驚いた。原作をある程度変えているのは覚悟の上だったが、こんなことは実際には決していわないだろうという台詞が幾つも混じっていた。(こんな台詞の原作者は嫌だな)と思った。
 そこでFさんにそういうと彼は答えた。「田村正和にあの表情でこういわせると、なかなかいいんですよ」。
 彼は台詞を文字で読まずに、イメージの中で訳者にいわせていたのだ。その時、遅ればせながら活字のリアリティと映像のリアリティは成立ちが違うと実感した。そもそも芝居がかった台詞という言葉さえあるではないか、と。
 それから台詞にクレームをつけるのはすっかり止めることにした。だからといって臭い台詞をいいと思っているわけではないから、映像は自分の小説とは違うのだと、原作者の誰もが口にする納得の仕方をした。
 2回目は『総合商社』。これもTBSのFプロデューサーで2時間半。この時は初期のイメージを決める段階でこんなことがあった。FとNと脚本家と私の4人の席で、Fが次から次へと自分のイメージを話していく。しかしそれは少しずつ原作を離れてしまう。私は違和感を覚えていった。「それだけ原作から離れるなら、ぼくの原作じゃなくてもいいじゃないですか」。
 そしたら、大げさにいえばその席が凍りついた。3人が黙り、彼らの表情が失われた。
 私の考え過ぎかも知れないが、小説のテレビ化は作者にとっても有り難いから、かなりいじってもクレームをつけることは多くはないのではないか。それを前提にテレビ関係者は好きにいじる。それが突然クレームを受けたから面食らった。
 そういう印象を受けた。私だって有り難いに違いないが、どこかに限度があると思ったに過ぎない。
 そういえば最初のテレビ化の時、花屋の女主人をやっている中学校の友達がお祝いの花を家に送ってくれた。新聞雑誌に私の小説の広告を見てもどうということもない友人や行き着けの飲み屋の女たちが、テレビ欄に名前を見ると「すごい」というのだ。しゃくといえばしゃく、こんなものといえばこんなもの、がテレビ化である。
 3回目は『ヘッドハンター』。これは平成3年のことなのにすっかり記憶が薄れているからカット。
 その後、またFプロデューサーから、「次のをやりたいが、既発表の作に適当なものがないからオリジナル原作を書いてくれ」と頼まれた。
 その時の注文がいかにもテレビドラマらしい。キャリアウーマンと男のビジネスマンの闘いで、キャリアウーマンがビジネスでは勝ち、2人の間に恋愛を絡めてそれでは男が勝つ、という具合にしてくれという。その他、クライマックスに火事が起こるような場面を取り入れ、いろんな部分にあざとい台詞、仕掛けを入れてくれ、ともいわれた。ちょうど「冬彦さん」が受けていたころだから、テレビ界は挙げてあざとさを追及していたのだろう。
 あざといのは好きでも得意でもないが、私は1月ほどかけて細かなプロットを立てた。ところがそれを検討している最中、Fさんは異動となり、あわれプロットは宙に浮いてしまった。もちろんその1月は金銭的にはまったく保証されていない。
 東映から『集団左遷』の映画化の声がかかったのは一昨年の正月頃。最初、世界文化社の編集担当K氏から話を聞いたとき、期待しないようにしていた。有り難い分だけダメになればがっかりする。
 やがて話が具体化し、うまくいけばやくざ路線の替わりにビジネス路線を敷くという。監督やプロデューサーと色々なすりあわせを経て、間もなく第一稿が出てきた。それを見たらテレビの時よりもっと台詞のリアリティがない。
 テレビではもう口を出さないと決めていたが、映画はそれよりずっと反響が大きいと思い、へぼな台詞が私のお陰と思われるのは嫌だからせっせと赤字を入れた。
 たとえばこんなのがある。
 ヒロインの女性が、モーレツサラリーマンの副社長に惚れていた。その理由を彼女はこう説明する。「(副社長は)くたくたに疲れて泣くんです。疲れて泣く人なんて初めてだったからもらい泣きしました」。
 疲れて泣くから惚れるなんてどうしても納得できないから手を入れた。その台本は先方に渡したままだから大雑把に再現すると、「(副社長は)まるでマシーンでした。精巧で、パワフルで、クールで、あたしはその魅力に吸い込まれたのです」。
 後者も芝居がかっているが、これなら私もリアリティに文句はいわない。ところが先方は私の手直しを採用せず、結局この台詞自体がなくなった。
 もう1つ、主人公軍団の1人が分譲住宅に火をつける。それを買ってくれるはずの安売り王のところに謝りに行って再度買ってもらうためにいった台詞。「自分たちの売り物に火をつけた。狂っている。だけど狂っているのはこの人だけじゃない。左遷されたのに精一杯仕事をしてしまう私たちみんなが狂っている」。
 これで買ってもらえると私にはどうしても思えない。設定が無理なのだが、それにそったまま手を入れた。「社長は今まで何度も転んではドン底を見て、その度に起き上がり今の成功を掴まれました。私たちにもう一度だけ起き上がるチャンスを下さい」。
 これだって安売り王が首をタテに振ると思わないが、第一稿よりリアリティがあるだろう。
 しかしこれは第一稿がそのまま残った。
 脚本家もプロデューサーも映画をヒットさせようと必死だった。あきれるほど、はたまた頭が下がるほど必死だった。その彼らが私には納得できない台詞を書いてくる。私はまだ映像のリアリティの成立ちが分かっていないのだろう。
 ちなみに原作料はテレビが60−80万円、映画が150万円。これにテレビでは若干のビデオ料、映画ではかなり大きいビデオ料とテレビ放映料が加わる。    (了)
  なお、この文章は「上落合通信 10号」(1996年4月15日発行)に掲載されたものです。


5 筋道より気分か?

 最近、講演の依頼がふえた。
 もともと講演は好きではなかったが、それでも3、4年前まではけっこう気楽にやっていたのに、最近はいったん引き受けても、それが終わるまでずっと気が重い。
 ずらっと聴衆が座っている会場の講師の席で、司会の紹介を受けている最中に(講演料なんかいらないから、今から帰っちまおうかな)など腰を浮かせそうになったこともある。
 わたしがこんなことをいっても、日頃よほど図図しく見えているのか、友人は誰一人信じてくれない。しかし図図しい(本人は認めてはいませんが)のと講演が苦手なのは別モノのようである。
 先日、深夜のテレビを見ていたら中森明菜と旧YMOの高橋幸宏がトークショーをやっていた。明菜は公演の舞台に出て行くのに気後れして、舞台の袖で「助けてえ」と逃げ出したくなることがあるとかそけき声でいい、高橋幸宏もそれに大いに共感していた。「こうえん」違いであるが、天下の人気者たちでもそんな気弱になるのかと、えらくシンパシーを感じた。
 昔から人前でしゃべるのが得意ではなかった。
 数人しかいない席でしゃべっていても、いつの間にかいいたいことと違ったことを口にしているのに気が付くことがある。(ああ、まずい)と軌道修正をするのだがそう巧みにはいかず、聞き手が変な顔をしているのが分かる。自転車の習いたての頃、障害物のある方へある方へとハンドルを切ってしまうのにやや似ている。数人ならまだしも、これを数百人の前でやるのはちときつい。
 いつだったか講演の後、主催者に「下手くそで済みません」といったら、「作家はそれでいいんですよ」などと追い討ちをかけられるような慰められ方をした。自覚しているよりさらに下手くそなのだろうと苦笑いをしてしまった。
     *
 学生の頃からものを要約してしゃべるのが、わたしの生理にかなっていて、身の回りに起きたことを順を追って話す、いわゆる世間話が苦手だった。
 誰かがわたしに世間話をし始めるとじれったくなって、「それで結論は何なの?」などとぶち壊しをいいたくなってしまう。会話に結論なんかない、プロセスがすべてだと頭で分かっていても生理が受けつけないことがあるのだ。
 講演ではこの世間話の親戚(?)の見聞譚が面白さのポイントだと思うが、わたしはそれが絶望的に下手なのだ。
「(彼は)右の手の知っていることを、左の手に伝えないことができる」
 以前小説の中で、口の固い人物をこう描写したことがある。口の固いことは人間にとって貴重な資質だと思ってきた。
 サラリーマンになっての数年間、みんながあまりに噂好きなのに驚いていた。わたしは噂話は滅多にしなかったし、そういう自分を自賛してもいた。しかし今思えばわたしにたしなみがあったわけではなく、たんにおしゃべりが巧みではないせいだったのだろう。
(その後、噂話は会話の重要なジャンルだと納得し、できるだけそれを取り入れるように心がけてきたのだが……)

 以前より講演が嫌いになったのは、ワープロで原稿を書くようになったからだろうと思う。ワープロを使うと原稿を徹底的にいじることができる。
 たとえばエッセイを書く時、推敲を十分やるかそうじゃないかで、説得力に大きな差が出てくることをしばしば実感している。
 あるいはある理屈が頭に閃いたとき、「凄いことを発見した」などと思っても、原稿にするとちっとも論理が通っていないということがよくある。原稿は書きながらそれを止揚することで論理が深まる。ワープロを使うと思いつきと論理整合性のギャップが際立っていることを嫌というほど思い知らされる。
 ところが講演は思いつきの勢いでしゃべらなくてはいけない。もちろん大体の流れは頭に入っていても、原稿を読んでいるような、勢いのない講演は面白くない。それは他人の講演やスピーチを聞いていれば分かるから、わたしも勢いでしゃべりたいのだが、勢いで口にした言葉に筋が通っている自信がない。
 田中角栄の演説が面白いことには定評があった。ところが彼の言葉をテープに取って再現すると何をいっているのかさっぱり分からないということもまた定評がある。わたしもテレビなどで見て、二つの定評を確認している。
 たぶん講演に論理的な筋道など必要はないのだろう。聴衆が後で「何を聞いたんだっけ」と思うような空っぽの話でもその時、ふむふむと納得したような気になれればそれでいいのだ。
 しかしわたしは後で自分の話したことの断片を思い出し、(あそこでいったことと、ここでいったこととが矛盾していた)なんて気がつくと当分気になる質なので困るのだ。
     *
 講演をするときわたしがもっとも恐れるのは、しゃべろうと用意してきたことを全部しゃべってしまったのに、まだ時間がたっぷりあるということだ。
 時々たとえば1時間の予定の講演で、(もうかなりしゃべったから、そろそろ終わりにするか)などと時計を見たらまだ30分もあって、愕然とすることがある。
 それからは海図のない航海に出なくてはならない。大勢の聴衆がいたからとて上がることはないのだが、話題をひねり出すのに四苦八苦、冷や汗まみれになることはある。必死になって口を動かし船がどこについたか分からぬが、とにかく時間だけは終わったということを何度か経験している。
 だから長い講演がいっそう苦手である。
 どんなテーマだって、1時間もあれば重要なことは皆しゃべれていまう気がする。1時間以上しゃべるにはテーマを巡る面白おかしい見聞譚をしなくてはならない。見聞譚! ああ思い浮かべるだけで舌がもつれる。
 先日、1時間のつもりで引き受けた講演を、後から1時間半といってきたので断ってしまった。先方はまさかその30分が、わたしにとってそれほど重要だったとは夢にも思っていないだろう。
 にも関わらず、企業のものから友人の勉強会まで、たいていは引き受けてしまう(もっともそう多くはないのだが)。何故か?
 講演料が高ければ、「金に目が眩んで」と自分でも納得できるが、友人のものなど「只だぞ」と初めから念を押されることもあるから、そうばかりでもない。人前に立つ恍惚感もあるのかもしれない。とにかく活字だけでなく、しゃべることでも自分を表現できた方がいいと、どこかで思っているようなのだ。
     *
 それでも講演が終わった直後、聞いていた人から次の講演の依頼をされることもあるから、面白くしゃべれることもあるのだろう。
 数日前にやった講演は良かったらしい。終わった後、近いうちにまたやって欲しいと頼まれた。人数が少なかったから、話の途中でたっぷりと一問一答の時間をとった。その時の和気あいあいがよかったのだろう。
 若い頃から会話による人とのコミュニケーションをもっと楽しめていたら、もう少し違った人生を歩んでいたかもしれない?

  なお、この文章は「上落合通信」NO9(1995年6月15日号)に掲載されたものです。



4 囲碁の時間と執筆の時間

 物書きになって最初の小説『小説大蔵省』を書き下ろしたとき、執筆日数が2週間だったのを懐かしく、恐ろしく思い出す。原稿枚数は450枚、私は37歳だった。取材とか資料の整理にはそれ以前に2ヶ月ほどをかけていたが、原稿を書いていた日数は正真正銘14日間だけ、1日平均30枚強、我ながら呆れてしまう。
 いま48歳の私は1日に10枚書ければよしとしている。
 37歳の頃、原稿の締切があるのにどこかで酒を飲み、さらに次の会合に行かなきゃならないので、電車の中でかなりの酩酊状態で草稿を書いたことがある。いまでは五合の酒を飲めば、その場で気は確かでも翌日の昼過ぎまでワープロに向かう気力が湧いてこない。だから楽しかるべき酒の席がちとこわくなっている。
 編集者時代にある作家の原稿取りにその自宅に詰めていたことがある。彼は4、50分原稿に向かうとテレビを付けてそれに見入ってしまい、なかなか原稿に戻ってくれなかった。目の前でそれが何度か繰り返され、私は彼の集中力の短さを不思議に思ったことを覚えている。
 物書きになりたてのころ友人の物書きに、
「毎日、原稿に向かうほど集中力が持続しない」
 と聞かされて、
「へえー、おれはそんなことないや」
 と心丈夫な気がしていた。
 しかし、いまその作家の友人に自分も近くなっている。
 たとえば10時から原稿を書き始めて昼飯1時間半を挟んでも3時頃になると、もうどうしてもワープロの前に座っていたくなくなることがある。無理に座っていると吐き気か頭痛が起きてしまう。
 そうしてワープロの前を離れて目指すのはたいてい碁会所である。またワープロに戻らなくてはと思うから遠出は避けたい気になるのだ。
 執筆と囲碁とは、ひたすら神経を消耗と、ちっとも体を使わないという意味でよく似ていると思うのだが、原稿に吐き気がしてそっちに行っても、囲碁だとぶっとおしでかなりの長時間集中できる。囲碁の4、5時間はたちまち過ぎ、原稿の4、5時間は息も絶え絶えになる。一体どういうわけだろう。
    *
 先日、新宿で時間が空いたので碁会所に行った。ちょうどいい相手がおらず所在なげにしていたら席亭が「Kさんが奥で打っているからよかったら見物してください」と耳打ちしてくれた。Kさんはれっきとしたトッププロ。喜んで見に行くとアマの強豪と打っていた。彼は私と同年配、細身で非常な男前、アマ出身の美人の妻とはアルコールが原因で別れ、囲碁界の主だった舞台から遠ざかって数年経ち、かなり荒れていると噂を聞いていた。しかしたえずビールを飲んではいたが、饒舌で回りの3、4人のアマたちと機嫌よさそうに話していた。
 時間が来たのでその場を離れたが、私は出口で席亭に「お礼に彼にビールを御馳走したい」と申し出た。もちろんこっそりのつもりだったが、名のらなきゃ受けてくれないといわれ、あれよあれよで自己紹介することになってしまった。私に目を合わさず「いただきます」とだけいったKの表情。噂はどうあれプロならではのぞっとする鋭さがあった。よく来るというからいつか彼と打つ機会があるかも知れない。ああ、その後の酒席が恐い!
 ワープロの前が嫌になっても碁会所に行くほど時間がなければテレビをつける。テレビでワイドショーみたいなものを10分、いや30分、いや1時間と、ずるずる見てからまたワープロに戻る。まるで試合中のボクサーのようにテレビの前で10分休んでは、ワープロというリングに1時間上がる、ということをくり返す時もある。私はもともと芸能界にかなりの関心のあるミーハーであるが、最近いっそう詳しくなっている。この年でSMAPのメンバーを全員フルネームでいえるといったら、バーの女の子は「わーっ、凄い」と喜んでくれたが、普通の人はきっと不気味に思うだろう(SMAPを知らない人も多いだろうな)。
 旅の番組も好きだ。海外なんぞ行かなくても日本にいい所がいっぱいあるな、としみじみ思う。突然、「いつか日本中の滝を見てやろう」などと思い付くこともある。どんな原稿を書くより、二千年もの歴史を見てきた屋久杉を目の当たりにすることの方が価値があるんじゃないかと思うこともある。
 しかし「いつか、きっと行ってみよう」と胸にしまっておくのも、37歳なら意味があるだろうが48歳となってみれば、「いつか」ではなく、今日、あるいは精々明日、出かけなくては仕方ないだろう。
 まるで都心の孤老のように、仕事場に一人の私にとってテレビはいい友である。
 2年前まで、書き下ろしをやっているとき、テレビの誘惑を避けるため一時的にアンテナを外したこともあったが、いまはそれができない。テレビ界を舞台にした小説を書いているから、という自分自身への言い訳もないではないが、いまや私は体力も気力も、日常をそれほどコントロールできないところに来ている。
 嗜好というのがある。シンナーやアルコールなら可愛いが、殺人、強姦となると困ったものとなる。しかし自己コントロールできないという一点では似たようなものだ。試験を前にした子供が、勉強机で漫画に読み耽っているのにもすっかり寛容になった。
    *
 週に1、2度なかなか眠りがやってこない夜がある。もう少し床の中でじっとしていれば眠れると経験で分かっていても、そのもう少しが辛抱し切れなくなる。そして翌日の原稿に差し支えると思いながら、起き出して睡眠薬代わりに酒を飲んだり、トランキライザー代わりにテレビを見てしまう。
「朝まで生テレビ」など見出したら大変だ。わずかな眠りで翌日ワープロの前の人にならなきゃならない。そういえば舛添要一が、
「朝生の出演者は番組が終わった後、軽く一杯飲んでから、そのまま大阪への出張などへ出かけてしまう、タフですね」
 といっていたが、まったく羨ましい。彼らはワープロの前でもそれほどタフなのだろうか?
 私は子供の頃から徹夜などほとんどしたことがない。この20数年はタフでなかった子供時代など思い出すこともなかったが、最近の集中力のなさから「そういえば昔もそういうことがあった」と振り返るようになった。
 3年前までは週に1度、子供と近所を走ることがあった。その頃は眠りはもっとコンスタントだった。ところが3年前に右足首を思いきり捻挫して、その後遺症がいまでもある。電車の吊り革に15分も掴まっていればそこがずーんと痛くなってくる。立食パーティなど地獄だ。当然、走れないし旅もハードなやつは望めない。
 これではならじと足に負担があまりない水泳を始めたが、これもどうやらよくないようだ。少し収まっていた痛みがまたぶり返してきた。この先、屋久杉にご対面することがあるのだうか? 胸の中にしまってある旅の計画は、一体何が障害で実現できなくなるのだろうか? 時間か? 金か? はたまた体力か?
    *
 自己コントロールできず夜遅く碁会所から仕事場に戻り、「ああワープロがつけっぱなしだった」と慌てる自分を「まいったな」と思う。しかしここからなのだろうと思う。コントロールできていたと思えた時期は、そのこと自体が錯覚だったのかも知れない……まあ遊んでいたようなものですね。

  (なお、この文章は「上落合通信」第8号/1995年1月20日に収められたものです)


3 文章とはうまくなるものだろうか


 たまに昔書いた原稿を見ることがある。学生時代の同人誌の小説とか、フリーになった頃のルポとかである。
 若書きだから今だったら見るに耐えないだろうと思い込んでかかるのだが、読み進めるうちに、
(けっこう書けてるじゃないか)
と思ってしまう。情けないが、
(今では書けないかも知れないぞ)
と思う部分さえある。 この30年というもの、私には進歩がなかったのだろうか? いや、そもそも原稿とはうまくなるものだろうか。
 原稿の上達を考えるとき、私は囲碁における上達との比較をすることがある。
 私が囲碁を覚えたのは小学校のとき、ただし熱心にやり始めたのは大学に入ってからで、大学を卒業するときにはアマチュアの初段になっていた。それから30歳くらいにかけて、たまに町の碁会所などに出入りするだけで四段にまで上達した。それ以降40歳まで10年間、実力はずっと横這い、自分でもそれ以上にはならないだろうと思っていた。誰かと囲碁を打っても、自分がいい手を打ったのか悪い手を打ったのか判断できないのだから進歩するはずがない。
 ところが40歳の頃、八、九段の実力のある青木さん(仮名)が席亭をやっている碁会所を知り、青木さんから教えられわずか二、三年で六段までなった。青木さんは口頭でも手の善し悪しを解説してくれるが、実践の中で私が悪い手を打つとすぐにそれを咎められ、完膚なきまでにやっつけられてしまう、この方が力が身に付く。
 ……こういうことをこの連載の一回目に書いた。
 青木さんに出会ってから二、三年間の私の進歩は目覚ましく、自分の中の囲碁の力が、少年期の身長のようにめきめき育っているのを感じることができた。
 体力に関わる、ほとんどあらゆるものが衰え始めている四〇歳を過ぎて、こういう進歩の体験をするのはとても心強い。
 囲碁でこうなのだから、原稿もきっとまだ進歩しているのだろうと能天気に考えているが、本当のところはどうなのだろうか。
    *
 実践のある局面で、プロなら誰もが共通して指摘する次の一手があるのに、ほとんどのアマはそれを思いつきもしないことがある。
 テレビの囲碁番組で対局者が考慮中、解説者が、
「ここではこの一手です」
と確信に満ちていう手を、すかさず対局者が打つのを見ると、感嘆してしまう。一手ならまだしも、かなり複雑な二〇手くらいまでぴたりと当てることも希ではない。プロはアマの見えないものを見ているのだ。
 アマには及びもつかない手段が、なぜプロの常識なのか?
 囲碁の力がどんな要素で構成されているのかといえば……。
・まず定石、手筋などと呼ばれる定形をどれほど知っているか、
・それを応用する力(定形と定形を組み合わせる能力、流動的実践で定形を適用する能力、ある場面では定形に拘束されない能力)をどれほど持っているか、
 大雑把にいってこの二つである。
 定形の数がどのくらいあるかといえば……「定形大事典」などという本はB五判一千頁で三巻もあるが、それでも定形の数%を網羅しているにすぎない。定石とまでいわない定形をすっかり網羅したら、たぶん全20巻の百科事典くらいになるだろう。
 プロの常識を作り上げているものはこうした膨大な定形の知識なのだ。その前提的な知識を身に付けていないと、彼らの常識の水準には到達できない。ところがそれを身に付けるには、ある才能を持ち合わせた上で、たとえば毎日10時間ずつ五年間は囲碁に時間を割かなくてはならない。そんなことをやれるアマなど滅多にいはしない。
 もう一つの定形を応用する力。これは定形そのものを身に付けながら養うものであるが、控えめにいえばその碁打ちのセンス、大げさにいえばその碁打ちの人生観に関わる。前回、碁打ちには厚く打つタイプと薄く打つタイプがあるといったが、厚さ、薄さを彼に選ばせるものは、彼の人生観である。
 これ以上こちらの話を進めると、青木ヶ原の樹海に紛れ込んで出てこれなくなるからここで引き返そう。
 定形を覚え、その応用力を養うため私は囲碁の解説書を次々と読み漁るというより、信頼できる20冊ほどの解説書を繰り返し読む。電車の中、トイレの中、食堂や喫茶店の中、興が乗ればいつでもそれらを見ている。こうしていると一巡目にある解説書を見てよく理解できなかったことが、二巡目に飲み込めるということがしばしばある。繰り返し見てたから記憶が鮮明になるということもあろうが、それ以上に一巡している間に、先に理解できなかったことを理解する前提となる知識を身につけるからだと思う。
 企業小説を書く時にも似たようなことがある。
 ある業界を舞台に選ぶと、私はその業界の専門誌のバックナンバーを2年分ほど集めて、片端から読むということをやるが、これも一巡目と二巡目では理解が丸で違うし、三巡目にはもっとよく分かる。一巡目におぼろげでもその業界を理解しておけば、それが前提的な知識となって、次のレベルに理解の水準が高まる。どんなジャンルでもその世界を理解するプロセスにこういうことがあるに違いない。レベル1K知識を身につけていなければ、レベル2以上は理解できないということが。
    *
 もう一度、私が青木さんに鍛えられて囲碁が強くなってのは、どうしてか、に戻ろう。
 解説書を見ただけでは理解しにくかった定形やそれの応用の仕方を、実践的に教えられたことが最大だったろう。
 しかしそのことを通じて、私の囲碁の力がテイクオフするレベルまで上がったということの方がもっと大きいと思っている。
 どのジャンルでもその人の力がある水準を上回ると、地表から離陸(テイクオフ)して空に舞い上がる。いや曖昧な比喩は止めよう。つまりそのジャンルの神髄が見えてきて、誰に教えられなくても、そちらの方向に進もうとするようになるのだ。
 前回紹介したプロの藤沢秀行は、
「囲碁の神さまが100わかっているとしたら、我々はせいぜい五か六しかわかっていないだろう」
 といっているが、この囲碁の神さまの存在を意識するようになったら、もう離陸しているといえる。碁友を見ていると、囲碁ではアマチュアの五、六段あたりからそういう境地にいたるようだ。だから現在の私はもう青木さんに教えてもらわなくても、解説書を読んだり、実践を重ねるだけでまだ実力が上昇するだろう。きっと、いや多分。
    *
 さて、文章はうまくなるかどうか、以下は走り書きと逃げを打っておこう。
 囲碁と文章を比較して考えるのは、もちろん乱暴である。
 囲碁には勝ち負けがあって、うまいか下手かの判断がすぐつくが文章はそうはいかない。それに文章はうまい下手が評価の重要な要素ではない。
 囲碁の世界で、たとえば一級の人と六段の人が対局しても両方ともあまり面白くない。力量の差がありすぎるから、丁々発止の醍醐味がないのだ。それぞれ実力の近い人同士が打つと、お互いに響きあうモノがあって愉快なのである。
 少し荒っぽくいえば、文章では勝ち負けではなく、書き手と読み手が響きあうことこそ重要である。とすればうまくなるという概念そのものが、文章の世界にはあまり馴染まないのかも知れない。
 にも拘わらず、多くの人は文章に関しても、「うまさ」という物差しを紛れもなく持っている。読み手も書き手も(私も向田邦子の『思い出トランプ』『あ・うん』などを読むと舌を巻くほどうまいと思う。彼女にはもう少し長生きして、もっと沢山の傑作を残して欲しかった)。
 書き手が読み手と深いところで響きあうためには、自分の深いところを叩かなくてはならない。つまり自分の深いところを原稿に載せなくてはならない。生身で向き合えば深い人間でも、その深さを原稿に載せられるとは限らない。多分この過程に伎倆というものが関わるのだろう。

 今回は仕事場日記がとんだ迷路に入ってしまい、冷や汗をかいた。



2 碁打ちの生態


 近くの碁会所まで、仕事場から歩いて一分しかかからない。
 そこの奥さんから時どき、
「今お忙しいですか?」
 と電話でお呼びがかかる。
 私と同じくらいの力量の人が碁会所に来て、それにふさわしい相手がいない場合だ。
 月に二、三度くらいのことだし、こっちも一日中でも打っていたいほど好きだから、原稿の締切の最中でも、二時間くらい余裕があると思えば、行ってしまうことがある。好敵手にいつでも会えるとは限らないからだ。そのままずるずると居続け、後で後悔することにもなる。
 行ってみると、待ちかまえている人は色々だが、その中にたとえばプロ志望の中学一年生の女の子がいる。彼女は私より半ランクほど強い。
 女の子で、中学生だと、私にとって二重の意味で大変だ。いやかつては大変だったといいなおそう。何が大変だったかというと、気楽に打てなかったのである。
 普通、待中にある碁会所で女性と打つことなどまずない。ところがここでは奥さんが四、五段の高段者だから、その関係で女性も多いし、そもそも奥さんが客とよく打つ。
 私はこの碁会所と出会うまで女性と打ったことはなかったが、最初にこの奥さんと打ったときは、恥ずかしながら肩に力が入った。つまり女性には負けたくないと、思ったのだ。最初のころ、彼女に負けると頬が硬張るのが自分でも分かった。
 しかしそれは単なる馴れであった。
 何度も打ってお互いの実力が分かってくれば、それなりのハンディをつけ対戦して負けても、その口惜しさは男相手のときと変わらないようになった。
 それと同じ経験が、あんと年少の相手との間にもあったが、それにも同様に馴れた。そこで今や、中学生の女の子に負けてもニコニコしていられるようになった。
 人生、馴れだ。
 馴れてはいけないこともあろうが、こんなことは馴れるにこしたことはない。
     *
 囲碁というのは基本的に陣取りゲームである。
 碁盤は19×19の線(路という)で仕切られていて、この線の交点に白と黒が交互に石を置き、石の連なりが囲った交点の数を競う。
 これではあまりにシンプルで幼児にでもできそうに思えるだろうが、そうはいかない。
 陣地を囲いあう白石と黒石がクロスする部分が出てきて、そこをどちらの陣地(単に地という)とみなすかという問題が生じるのだ。
 そこで、「石の生き死に」というルールが登場してくる。これは文章で説明するのは無理なので、そういうことがある、とだけ理解して欲しい。
 このルールに従い、白黒のクロスした部分は、どちらかの石が死んでいると認定し、死んだ石の数も含めて反対側の陣地と数える。
 石が死ぬと大変だ。たとえば15個の石が死ぬと相手側に30の陣地ができる。だから陣地を囲いながら、かつ死なないように打たなくてはいけない。
 死ぬかもしれない石の一群の石を「薄い」とか「弱い」という。
 その反対に決して死にそうにもない石を「厚い」とか「強い」という。
 陣地を効果的に囲おうとすると、必ず「薄く」なる。
 目先の陣地なこだわらず「厚く」打てば勢力圏ができて、生き死にをかけた闘いが有利にできる。自分の石が死ぬ心配はほとんどないが、最終的に陣地か足りなくなる心配がある。
 碁打ちには「薄く」ても地を稼ぎたがる人と、地は少なくても「厚く」打って、後半戦で相手の「弱い」石を脅かしながら、一気に抜き去る人とがいる。
 若いうちからこつこつ稼いでおけば人生の勝者になれると考えるのが前者で、若いうちに利殖に励むようでは大成しない、若いうちは自分に投資せよ、利は必ず後に自ずとついてくるというのが後者である。
 人生と同じで、囲碁界でも、後者の生き方が魅力的と考える人が多数派である。私もどちらかといえばこちらに引かれる。
 そもそも後者の考え、というより感覚だろうが、それを持っている人の方が人間の出来がハチャメチャ、豪放磊落であることが多い。プロ棋士の中では藤沢秀行が後者の代表選手で、豪放磊落を絵に描いたような人だ。
 妻以外に複数の女性に何人かの子どもがいて、アル中、ギャンブル狂、巨額の借金漬け、おまけにタイトル獲得の最高年齢記録保持者で、彼を師と仰ぐ若手碁打ちは雲霞のごとく、遠く中国や韓国にまでいるのだ。
 彼が囲碁界の巨人として君臨しているから、「厚く」打つことが魅力的に見えるという要素さえある。もし実生活は、しみったれで堅実第一の石部金吉が、碁風(囲碁の打ち方)だけは「厚い」のでは、囲碁ファンをそう魅了しないだろう。うまいことに碁風と性格は概ね合致する。
 しかし、最初に地を稼いで先行し、死にそうな石を全部生きてしまい、逃げ切るという碁風も、なかかな捨てがたく思える。
「厚く」打つのが、すぐに計算できない力を蓄えるのに対して、「薄く」打つのは最初から計算できる実利を蓄えるのである。
 しかし計算できるといっても、19×19の上に白黒の石を置いていく組み合わせは天文学的になる。
 計算する碁風の人は、この天文学的な組み合わせを見通して計算し尽くさなくてはならない。これまた凄まじいプロフェッショナリズムの所産である。将棋の方はよく知らないが、近年あっちでは、コンピュータを使い先例を徹底的に勉強している若手が席巻しているようだ。彼らはこの「計算派」の極北にあるのではなかろうか。
     *
 わが碁会所ではその人の力量に応じて持ち点を与え、点数の開きによってハンディをつけて対戦させる。その上で勝てば一点増やし、負ければ一点引く。
 この点数の移動が常連にはたまらなく刺激的である。
 私も負けが混むと却って頻繁に通いたくなる。失った点数を早く取り返したいからだ。
 麻雀などは、賭けてなければやる気がしないものだが、囲碁はそうではない。このたかだか点数の移動のために、喧嘩になる者さえいる。
 組んずほぐれつの長期戦が果てての後、
「三勝二敗だったよね」
「何言ってるの、三勝三敗じゃないか」
 嘘だろ、あの時、こう打ってああ打ってと険悪な表情で、お互い星を数えあう光景はよく見られる。
 いや点数が移動しなくても勝負の行方は碁打ちを翻弄する。テレビの囲碁番組を注意深く見れば、歴戦のプロといえども勝ちと決まったときに、思わず喜びに鼻の穴を膨らませるのが分かるはずだ。
 私もまた勝てば、だらしなくも自然に笑いが込み上げ、負ければ自己嫌悪に陥って、「あほ、死んじまえ」と自分を罵倒することになる。
 いつだったかもう80歳近い老人が、勝負が終わってのち、互いに地を数える時に、こっそり自分の地を押し広げ、
「だめじゃないか」
 と、これまた還暦はとうに過ぎた人に怒鳴られているのを見た。



1 碁会所通い

 JR赤羽駅西口に2DKの仕事場がある。一階に信用金庫の支店の入っている古い建物の一室だ。
 私がここへ来てもう七年が経った。
 四畳半の一部屋はほぼ全部、六畳とDKは三分の一ほどを書棚で埋めているが、しばらく放っておくとあちこちに、定位置をもてない単行本、文庫、雑誌が堆く積まれ、足の踏み場がないようなことになる。
 仕方なく書棚を点検して、もう読みそうもない蔵書を選んでは捨てることになる。いや蔵書などと偉そうにいうことはない。大抵は古本屋にもっていっても、一山幾らにしかならないものばかりだ。
 それにしても置いておけば、いつか参照することもあろうにと残念である。現に何か仕事に取りかかったとき、それまで忘れていた本を書棚で見つけ、よい参考になったという体験を何度となくしている。かといってダンボール箱に入れ押し入れに放り込んでおくのでは、持っていてもほとんど無意味だ。
 本はページを開かなくても、本棚で時々背表紙を見なくてはいけない。それだけで何がしかの知的刺激を放射してくれる。
 だだっ広い部屋に書棚をずらりと置き、心おきなく本を並べたいと、物書きなら一度や二度はそう思うことがあるだろう。私も時々夢見るが実現する日はくるだろうか?
     *
 池袋駅西口の盛り場の外れに、1DKの仕事場があったときは、すぐ隣にスナックや小料理屋の入っているビルがあり、仕事を終えた後、晩酌するのに不自由はなかった。
 美人できっ風のいいママに旨い酒肴、何の仕事をしているか分からないが魅力的な友達もでき、愉快な時間を過ごした。
 赤羽に移ってからも同じような店を探したのだが、なかなか好ましい店は見当らず、その内こちらの酒量も落ちたので、あまり飲み歩かなくなってしまった。
 飲み屋の代わりにいいものを見つけた。
 碁会所である。
 私が囲碁を覚えたのは小学四、五年のころか。大学時代、参加したのは同人誌のサークルだったが、隣接した囲碁部の方に余計通い、学生の間に初段くらいにまでなった。勝負事は何でもそうだろうが、囲碁も溺れて破滅する人もあるくらいに面白い。当時、蒲団に入ると白石と黒石が頭の中で格闘をし始め、なかなか眠れないという夜が何度もあった。
 とくに集中的な練習をしたわけでもないが、30歳にはすでにアマチュア四段くらい(免状を取ったわけではなく、町の碁会所の通り相場である)になっていた。
 その後十年間ほどは一貫して四段のままだった。自分でももうそれが限度だと思っていた。勝負をしていても、いい手を打ったのかそれとも悪い手か、自分で判断がつかなかった。それでは上達するはずもない。
 ところが赤羽の碁会所の席亭に教えてもらうようになってから、たちまち六段になった。この席亭、青木さん(仮名)の実力は八〜九段というところか。プロのトップクラスと二、三ランクの差しかない。
 青木さんと私は最初は四ランクの差で打ったのだが、一年半で一ランクずつ差を詰め、いまは二ランクの差となっている。
 青木さんと打つと自分の手の善し悪しがはっきりと分かる。言葉で解説してもくれるし、実際の局面で私がおかしな手を打つと、青木さんがすぐにその不備を突いてくるので、そのおかしさを思い知らされるのだ。
 手の善し悪しが分かってくれば、上達への道は見えたようなものだ。四段のときに「もうこんなものか」と諦めていたのが嘘のように、いまはまだこれ以上上達できる気がしている(この三年ほどは急速に進歩はしていないが、それだけ高いランクに来ているせいだと思っている)。
     *
 こんないい先生がいるからといって、この碁会所のメンバーは皆どんどん上達するかというと、そうはいかない。
 まず青木さんの厳しい性格という関門がある。
 青木さんの氏素姓はよく知らない。大手企業に勤めていた技術屋さんが、定年退職して碁会所を始めたらしい。年は多分60代半ば。もう若いうちからいまと同じくらい強かったというから、囲碁への打ち込み方は並大抵ではないし、ある種の能力が非常に秀でているのだ。それは青木さんの激しい性格と表裏一体になっているのだろう。
 奥さんもかなり強い。アマチュア四、五段くらいか。奥さんは長いこと青木さんの弟子という立場にあったようだ。そのせいだろう。奥さんが客と打っているとき、下手な手を打つと、側で見ている青木さんは、
「なんだ、その手は気が狂っているぞ、もう碁なんか止めた方がいい」
 などと激しい口調で罵倒する。こちらがはらはらするくらいだ。さすがに客にはそこまで厳しくはないが、びびって青木さんと打ちたがらない客も少なくない。私はなぜかこういうきつい人が嫌いではない。しかも自由業で昼間でも碁会所に行けるのだから、しばしば青木さんに教えてもらえる。
 もう一つなかなか上達しない人の共通点がある。低次元の自己流に満足しているということだ。
 たとえば囲碁の参考書に「こう打ってはいけません」と書いてあるのを知りながら、いけないという手を打つ人は少なくない。なぜならそこだけ教科書に従っても、後の打ち方が分からないからだ。自己流で打てば彼なりに後の打ち方があるのだ。
「自信なき正統より、確信に満ちた自己流の方がよい」
 という含蓄ある言葉があるが、正統をとことん追い求めた上での自己流なのだろう。

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