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[2006年10月3日]
61 ネットの海を漂いつつ×月×日このところ(おそるべしアマゾン)の日々が続いている。 以前も書いたように、最近かなりの時間をネット遊泳にふけっている。 原稿に向かうきつさをつい避けて、ネットに逃げ込んでしまうのだろう。 逃げ込む先は種々雑多……。 いくつかのブログを<お気に入り>に入れているが、入れたときは「こりゃ面白い」と感激したのに、しばらく見ているとすっかり飽きてしまう。最初の感激がなんだったんだろうと思うこともある。時々「追加」したり「整理」したりしているが、そのつど同じことになる。 きっと脳内でネットの面白さを感じるのは、紙の上の活字を味わうとはもっと別の飽きやすい部分なんだろう。 その点、<アマゾン>とか<インフォシーク・ニュース>は、面白さだけで成り立っているのではなく、情報性・実用性・読み物性……飽きることはないので、しばしば立ち寄ることとなる。 興味の赴くままに<アマゾン>の海をさまよえば、つい、「これも買わなきゃ、あれも買わなきゃ」となる。 職業柄、一応は目を通しておいたほうがいい本がやたらに出ているし、ほとんどの本が翌日、届くので待ちぼうけということもないし、(ユーズド)を見つければ、<定価1円>なんていうのもある。 その挙句いつの間にか読みきれないほどの本を買っていることとなる。(毎月の銀行引き落としが、ちりも積もってン万円となってしまいます) 届いた本は本棚に入れてしまえば読み忘れる可能性があるので、パソコンの後ろの床の上に積んである。片端から読むつもりなのに、ついついネットに引きずりこまれてしまい、積ン読の山は高くなるばかりである。 ネットの吸引力はすごいものだ。 ネットの海を遊泳していれば、自分の指がキーボードを叩く度にモニターに変化が現れる。自分が刻々に対象化される……いや、こんな面倒な言い方をすることもないか? サルに××××を教えると死ぬまでやり続ける、という逸話があるが、たぶん共通するものがあるのだろう、とにかく末梢神経をひきつける。これが中毒を引き起こす根本要素にちがいない。 孤独な自由業にとって、ネットは仕事場の中に渚を広げている危険な海である。 ×月×日 「24(トゥエンティ・フォー)」の1シリーズ24話を数日かけて見てしまった。 「ER(緊急救命室)」、「デスパレートな妻たち」などみなそうだが、短いインパクトのあるシーンで構成されている米国のテレビドラマは、小説のドラマツルギーとして非常に興味深い。 ストーリーに矛盾が多くて「なんだかな」と思えるドラマでも、細部のハラハラ・ドキドキ感だけで息もつかせず最後まで見せてしまうのだ。 まあ、長いスパンで見た生き方や言動が「統合失調症」めいていても、そのときそのときのきらきらした妖しげな魅力で、周り中をひきつけてしまう女も男も、世の中にはいっぱいいるからな。 [2006年11月1日] 62 機械のもどかしさ20年以上も長持ちしていたリコーのFAXと、6年ほど使ったエプソンのプリンターが急に具合が悪くなった。(このFAX。リース契約だったのですが、1万1千円×5年間+1万1千円でぼくのものになりました。総支払い額=67万1千円! 誰かに話すと、たいていギョッとされます。高額と持ちのよさに)10年来のNTTの電話機はまだまともだったけど、ずいぶん長いことシンプルなものを使ってきて、子機や留守録機能のあるものが欲しくなっていた。 そこで近くの家電量販店にいき、FAXとプリンターと多機能電話とコピー(コピーはそう使わないのでなくても良かった)が一台にまとまっているマシーン?を手に入れたのだが、ちょっと騙された気分になっている。 最初からいやな予感がしていた。何しろ、この3機能がそろったマシーンはブラザーとシャープからしか発売されていない(by店員)。 素人考えではこの3機能がオールインワンなら便利だろうに、なぜ2社でしか発売していないのか? ちょっと不安になって店員に質してもあやふやにしか教えてくれない。 不安は消えなかったがすぐにFAXとプリンターを手に入れなければ仕事にならない。店頭にシャープの在庫がなかったのでブラザー製を買うことにした。3年間の追加保障を上乗せしておよそ2万5千円。 翌日、届いたそれをせっせと組み立て? 「取説」を読みながら1つ1つ機能を試していった。そして愕然とした。 >>FAXの送信が複数枚、連続してできないのである<< 20年前のリコーでさえ10枚でも20枚でも連続で送れた。セットすれば放っておいてもマシーンが一人で? やってくれる。だからそんなことは当然と思って、店員に確認しなかった。 ところがこのブラザーはだめなのである。 どうするかといえば、まずマシーンに一枚ずつ原稿を記憶させ、それからまとめて送る。記憶させるときは1枚1枚手差しである。 「なんだよ、こんな旧式なのあるかよ!」 カスタマーセンターに電話をして怒ってしまった。怒るために電話をしたわけではない、そこまで情熱的な男ではない、いや近年、そうではなくなった。 この部分の「取説」が分かりにくかったので電話をして説明を受け、そのついでに怒ったのだ。 声のトーンは抑えたつもりだが、相手はしどろもどろ、たぶん怒る客が多いに違いない。いまどき手差しなんて! それで2社でしか出していなかった理由がわかった。 このオールインワンは何かの理由で連続送付機能を組み込むのが大変なのだろう。技術的に面倒でコストがかかりすぎるということかもしれない。 しかし手差しじゃ、売れない。そこで一般メーカーは商売にならないということで発売していないのに、ブラザー(とシャープ)はニッチな市場でもいいということで発売していた。そのニッチな市場の迷路に、私が迷い込んでしまったのだ。 ……いや、単なる推測である。 しばらくの間、「手差しかよ、手差しかよ」とクヨクヨしていた。 ところが私はすぐに初心? を忘れる"住めば都"体質男である。手に入れたものにたちまち馴染んでしまう。 以前のエプソンはA4原稿1枚を印刷するのに25秒もかかった。20枚もプリントするときは、25×20=500秒つまり8分強もかかり、その間じゅう落ち着かなかった。これは1枚10秒くらいでいい。電話の子機は快調だし、FAXの記憶させて送る機能も一応使いこなしている。 ま、いいか、と思い直し、いまではたまにブラザーちゃんと呼んであげているのである。あ、なんだか六本木辺りのブラザー大好き女みたいか? [2006年12月1日] 63 成長する若者たち月刊誌『R』の私の担当者、I君はまだ26歳の若者である。私は『R』でこの5年ほど書評をやっているが、3年半前、前任の担当者から新入社員のI君に引き継がれることとなり、旧知の社長兼編集長・W氏と3人で顔合わせに飲んだ。 初対面のI君は初々しくおどおどしているようでさえあった。ふっと(自分の子供も職場ではこんななんだろう)と思って親身な気分になった。 「江波戸さん、Iを鍛えてくださいよ」 W氏にいわれその気になったが、やれることはあまりない。仕事をいつもより丁寧にやるしかなかろうと考えた。 まず原稿を出す数日前に、何を採り上げるか、I君に知らせておく。 I君は原稿ができるまでにそれを読んでおき、私が提出した原稿をゲラにして返すとき、送り状にその本の感想を書いてくることとなった。こちらから要求したわけではない、阿吽の呼吸でそうなったのだ。 ゲラをもらった私はまず普通の校正をやってから、彼の付けた見出しやリードにほとんど毎回ダメ出しをし、彼の感想にさらに感想を書いた。 それだけである。 見出しやリードのセンスはすぐには上達しなかった。いくらダメ出しをしてもまた同じピント外れをくり返す。私も新米編集者当事にそうだったという覚えがある。たんに文章技術の問題ではなく、体の内側から感受性が変わらないと直らないのだ。 私はそれをしつように指摘し続けた。W氏からいわれていなかったらいくら新人相手とはいえ、そこまではやらない。 しかし彼の感想は最初からなかなか面白かった。年齢が30才以上違うから、視点や教養?がまったくかけ離れていて、(はあ、20ン才はこの記述をこんな風に思うのか?)と視野を広げられることが多かった。 1年半経った頃、この雑誌で別の連載を頼まれた。今度は<団塊の世代の60年史>を小説の手法でやることとなった。書評はなくなるのだろうと思っていたら、ありがたいことにそれも続くことになった。 新しい連載はたとえばある章で<東大安田講堂に立てこもった団塊青年のドラマ>を書くのである。 彼らがバリケードの内側の講堂の中で仲間同士どんな会話を交わしたのか、どんな場所で寝たか、機動隊の攻撃はどうであったか、それをどう迎え撃ち、どう降参したか。史実に忠実であろうとすれば、詳細な描写を必要とするドラマのほうが資料がたくさん要る。 私は毎回、関連図書をたくさん買い込み、必ず図書館に行って該当時期の新聞縮刷版を見ることとなった。初期のラジオドラマのことを調べに彼と一緒にNHKの図書館に行ったこともある。 「たいへんですね」 最初はそんな風にいっていたI君が、ある時期から私が送った原稿に詳細な疑問を提起するようになってきた。なんとI君もたくさんの資料を入手して原稿をチェックしているのだ。 いつだったか電話のこっちとあっちで、同じ資料を見ながら記述の正誤を付き合わせたことがある。 いや、彼の突っ込んだ質問に防衛的な気分になった私が「ぼくはいま××という本を見ながら答えているのだけど……」といったら彼も「ぼくも同じの見ています」といったことでわかったのだ。 このとき彼の熱心さに舌を巻いた。そこまでの資料を手に入れるのは著者の領分だ。 初対面から2年経った頃には書評の見出しやリードにもほとんど注文をつけないですむようになっていた。 取り上げた本を読んで感想を書いてくるのは今も続いている。読み方が私とまったく違うこともあるが、本を読むというのはそういうことだ。いつも彼の感想を楽しみにしている。 考えてみれば、新人とはいえ外部の著者のダメ出しにそんなに素直に耳を傾ける人はそう多くない。その素直さが彼の成長の理由なのだろう。 [2007年1月1日] 64 我が姓のルーツは?先日、学校時代の友人S君からメールがあった。「おれの取引先に、江波戸N夫さんてのがいるんだけど、君の親戚関係じゃないか?」 「はてさて」と私は、最近、脳内のクモの巣に絡めとられすっかり頼りなくなっている記憶の中を探し回った。 指折り数えると25年前に亡くなった大正2年生まれの父は、8歳のときに母親を亡くしあまり幸せではない子供時代を送ったらしい。8人きょうだいの末っ子だというのに、親戚付合いはほとんどしていなかったし、昔話も数えるほどしか聞いたことがない、いわゆる"田舎"もない。 ないない尽くしで私は<江波戸>姓の親族をほとんど知らない。わずかに知っていた人もとうに亡くなってしまった。 会ったことはないが噂話にだけ登場した人もいるが、記憶はクモの巣の奥深くですっかりぼやけている。その噂話の中に「江波戸N夫」さんという名前があったようなないような……。 S君のメールの中に「N夫さんは千葉県にルーツがあるようだ」という一説があったので、俄然、興味を引かれた。父も千葉県八日市場市に嫁いだかなり年上の長女の家で育てられたことを何度か話していた。「工場をやっていた姉さんの旦那は怖い人だった」……。 杉並区馬橋(現・高円寺南)に住んでいた私は物心ついたときから<江波戸>はめったにない姓だということを自覚していた。とにかく同じ姓をラジオでも新聞でも雑誌でももちろん近隣や学校でも耳にも目にしたことがないのだから。 ところが小学5年生で千葉の富津に臨海学校に行ったとき、列車の沿線に『江波戸××』という看板をいくつも見つけて(ああ、千葉にはこの風変わりな姓がいっぱいあるんだ)と感激した。友人たちもその看板に目を見張り「あ、えばちゃんと同じ」などというものだから、どういうわけか得意になったのを覚えている。 しかし杉並では圧倒的に少数派だ。 中学2年の新学期の最初の世界史の時間、出席簿を片手に出席をとり始めたメンデルスゾーンによく似た風貌の先生は私の順番になって、 「エナミ」といったまま黙り込み、二、三度首をかしげた後、 「トテツオ君」といったものだから教室中がどっと沸いたことがあった。 とにかく「佐藤さん」や「鈴木さん」と違って、<江波戸>は自然と姓にこだわりを持つようになる。そういう私の前に、江波戸N夫という名前で、おまけに千葉がルーツの人が現れたから、どこかで先祖がつながっているのだろう、とすぐに思い込んでしまった。 S君の仲立ちで何度かメールを交換したが、親戚関係があるかどうかなかなかはっきりしない。「それはともあれ会いましょう」ということになり、S君も交えた懇親会が設定された。 場所は高輪にあるNさんの会社グループのクラブ。当日、指定された時間ちょうどに風情ある和風の屋敷の奥の一室に行くと、S君とNさんがもう座っていた。 Nさんは私と同じ細身で、額が後退しているのも似ているが、一見して技術者タイプである。私はたぶん技術者タイプではない……。 乾杯して、少し言葉をやり取りしていたら、たちまち打ち解けてしまった。年齢が同じというのも打ち解ける材料となっていたし、お互い「哲夫さん」「N夫さん」とファーストネームで呼ぶ必要があったこともよかったのだろうが、やはり<江波戸>同士というのが大きい。日本人をほとんど見かけない異国で日本人に出会うと思わず微笑んでしまう、あれに近い、イヤ違うか……。 やがてN夫さんがカバンから茶封筒を取り出し、テーブルの上に何枚ものコピー用紙を広げた。文字がびっしり並んでいる。 なんとN夫さんは千葉県某市に依頼して<江波戸>姓のルーツを調べてもらい、それをコピーしてきたのだ。 ぱらぱらと眺めていたらN夫さんが黄色い蛍光ペンでくっきりと傍線を引いた箇所が飛び込んできた。私はそこをじっくりと読み込むことにした。 ――天正18年(1590) いいぞ、いいぞ、<江波戸>はこんな古いのか、由緒正しいんだ、と先を急いだ。 ――秀吉の軍勢によって……わが娘と重胤を娘の乳母夫・江波戸五郎左衛門に預け自らは下総……徳川家康の軍と戦って戦死した。 あれっ、何だって? 私は急いでもう一度そのもっとも大事な部分を読み直した。 ――娘の乳母夫・江波戸五郎左衛門 肩書きは乳母の夫としか出ていないではないか。五郎左衛門自身は何をやっていたのだろうか? このままだと髪結いの亭主ならぬ、乳母の亭主としてのみ存在していたことになる。 ありゃりゃ。古いのはいいけど、自分の肩書きがないような人が先祖じゃ、まずいだろう。それとも当時から夫婦共働きで、時代の先端を行っていたというべきなのだろうか? それに自分の肩書きがない男に<姓>がもてるのだろうか? 妻の七光りで<姓>があるのだろうか? 一瞬のうちに私の胸の中をあれこれ思いがよぎったが、もちろんN夫さんにそんなことはいわず、 「某市ってのはいい自治体ですね、こんなことまで調べてくれるんだ」 とうれしそうな声を上げたのだった。 [2007年2月2日] 65 同窓会の夜「今年は27日だからね」その電話は、07年が明けて間もなく、軽やかな声でかかってきた。 <阿佐ヶ谷中学校の同期の新年会>は年中行事になっているから予想もしていたのだが(今年は連絡が来ないかもしれない)という気持ちもあった。 というのはこの6、7年この会を欠席していたのでそろそろ見放されるかもしれないとも心配していたのだ。しかし永久幹事の花屋の女将さんをしているCさんが、いつもの通り電話を寄越し、「エバトクンが来ないと、わたしがみんなに怒られちゃうのよ」と殺し文句までいってくれた。 お世辞とわかっていても、われわれもそろって還暦を迎えたんだし今会行かないともう本当に誘ってくれなくなるかもしれない、ふっとそういう思いが頭をよぎった。 「わかった、いくよ」 会場は、中野駅北口の居酒屋。20分遅れて到着すると、なんとすでに40人ほどが大きな部屋をぎっしり埋めていた。 入り口に立ってあちこちに頭を下げながら席をうかがうと、そこここから手など振られ、中には十数年ぶりにもなる懐かしい顔もあって、一気に昔の感覚がよみがえった。参加者の半分以上が小学校も一緒である。 端っこに座り生ビールを飲みながら「若いねー」などと周囲と軽いジャブの応酬を始めると間もなく、向こうの席から魚屋だったK君がやってきた。 「うちの娘がさ、お袋に背負われて、歩いていたら、エバトに会ってさ、頭なでてもらったんだって」 「はあ?」まったく記憶にはない。 「それでうちの娘はエバトと同じ高校にいったんだよ」 「なるほど」 私の母校は昔の受験校だった。K君は学業より剣道に打ち込んでいた体育会系だが、私のひと撫でがK君の娘さんを発奮させたということなのか? しばらくK君の母上の話をしていたらO君がやってきた。O君はビール関係の会社員だが、彼が新入社員の頃、一緒にレストランに行ってO君の会社のビールが出てきたら、直立不動になり店員に向かって「ありがとうございます」と最敬礼したので、これがサラリーマンかとびっくりさせられたことがある。 O君が耳元で問うた。「ちょっと聞きたいんだけど、KS全集を見ていたら、謝辞にきみの名前が出てきたけど、なんか関係があるの?」 「ああ、ちょっと手伝ったんだ」30年前の編集者時代の話だがどこかこそばゆい。 こっちからもO君に聞いた。 「もう定年だろう? いまどうしているの」 「正社員じゃなくなったけど、仕事は前と同じことをやっているよ。あと2年だ」 「2年経ったらどうするの? 最近、企業をリタイアした人の地域デビューが話題になっているけど、きみもそうするの」 「いやごめんだ」と渋い顔をされた。まだ完全にリタイアする自分をイメージしたくないようだった。 そこへKさんがやってきた。Kさんの実家はわが実家から直線距離50メートルで、本当の幼馴染み。事業家となった彼女の兄貴とはいまでも親しく付き合っている。 「てっちゃん、今度の定期公演には必ず来てよ。うちの母ももう90でこれが最後になるだろうから」 母上が踊りの先生でKさんも師範代をやっている、50年前に私の姉も教わりにいっていたこともある。これまでも何度か同期がツアーを組んでKさんの公演に行っているが、この数年私はご無沙汰だった。 「もちろん、いくよ」 私の母は40年前に46歳で亡くなった。母とも親しかったKさんの母上がお元気とは私も感無量である。 Hさんがやってきた。Hさんは子供の頃から絵やクラフトなどをたしなみ、いまでは教室も開いている。10年前からときどき出版に関してアドバイスする機会もあったので、それほどご無沙汰ではない。 Hさんが愉快そうにいった。 「あのエナミ、トテツオ君の話、笑っちゃったわよ」 Hさんは<電脳くろにか>(仕事場日記64)を見たのだ。それを聞いて生協の幹部だったI君が話に入ってきた。 「ああ、メンちゃんね」 私をエナミトテツオと呼んだ世界史の先生は、禿げ上がった額といいテンパーといい作曲家メンデルスゾーンによく似ているのでメンちゃんと呼ばれていた。 I君「おれも君がエナミトテツオ君と呼ばれたときのことはよく覚えているよ。みな笑い転げていた」 少し話してからトイレに行き、戻ると別の席から手招きされたのでそっちへいった。 F君が酔っ払って盛んに何か話しかけてきたが、駄洒落ばかりをいうので、中身はほとんど覚えていない。小学校の頃、一緒に銭湯に入った仲である。 Tさんは上着を脱いで1人袖なしを着ている。まあ、確かに人様にお見せしたくなるようなきれいな二の腕をしていた。 「元気だな」 「そうよ、あたしは家でも一番強いのよ」 横からJ君がヘッドロックをしながらいった。 「お前、もっとしょっちゅう来なきゃダメだろう」 「わかったよ、もっと来る」 …… 書いている私には1行1行懐かしく愉しいが、読み手には何がなんだかさっぱりわからない夜は二次会まで続き、私は例によって最終電車に乗りそこなったのであった。 [2007年3月2日] 66 積荷を降ろして書き下ろし小説の再校のゲラ校正を終え、梱包して、明日の朝、忘れずに宅急便に出すため、玄関の靴の上にいま置いた。400字詰め580枚、ほぼ1年間大きな迷路に迷い込んだかのように四苦八苦していたものが、これですっかり手を離れた。バンジャーイ! あの超美人ママの店に酒を飲みに出たいけど、遅れ遅れになっているものもあるし、もうちょっとの間、減量中のボクサーのようにストイックに行かなきゃ・・あ、明後日は飲み会が入っているか。 * 4チャンネル水曜日22:00の「ハケンの品格」が面白い。 篠原涼子は、もう絶対に平成19年ジャパンにはありえないスーパー・ハケン社員なのだが、そのとてつもないスーパーぶりが痛快で、ありえないストーリー展開の疑似?リアリティにそそられてしまう。 何しろ悪役の正社員(大泉洋)と篠原涼子のホチキス対決(300通?の資料を閉じる速さを競う)だけで手に汗を握らされ、結局大泉が勝ってアレレとがっかりするんだけど、そこには涼子ちゃんの深い読みと冴えた仕事ぶりがあったことが後に判明するのだった。 またあるいは商談にいった洋菓子屋で突如、臨月の社長の娘が破水したら、篠原涼子はカバンの中の資格の束をかき分けて助産婦の免状を探し出し、見事、赤ちゃんを取り上げて、社長の覚えをめでたくして商談に成功するのだった。 あ〜あ。 これは、ターザンの叫びではなく、ためいき…… 私の『小説 盛田昭夫学校』は「小説」と銘打ちながら95%は実録である。 あと5%は当事者の取材や資料だけでは100%断定しきれない部分を想像力で補い、会話やシーンを再構成した。テレビなら<再現フィルム>とテロップが入る部分であろうか。それだって蓋然性(=ある事柄が起こる確実性や、ある事柄が真実として認められる確実性の度合い←大辞林)をとことん追求してある…… 同じ? 物語を作るんでも、あっちは気楽でいいな、で、「あ〜あ」。いや、あっちはあっちで別な勝負をしていることはわかっているんですけどね…… * 某業界の(次期幹部候補の研修会)でリーダーシップについて話した。 10年前の私の小説をテキストにしたいといわれたが、久しぶりに再読したら(リーダーシップ)を語るにはテーマが限定されている。 そこでいま某誌で連載中の(名経営者の自著を読む=たとえば本田宗一郎の『夢を力に』など)からいくつもの面白エピソードも紹介して要望に応えようと思った。そういう構想のレジュメを送って事務局に打診したら「それでいい」という。 ところが当日、会場について渡された資料を見て驚いた。20名ほどの受講生は私の小説をまるで古典研究のように精読していて、私には思い及ばないほど詳しい(リーダーシップ論)を展開している。 もったいなや、恥ずかしや、と思いながらもレジュメに沿って話していたら、途中から校長格の人(私の年長の友人)が割って入ってきて、小説に沿った質問をし始めた。そこからは私と彼との一問一答のような展開となった。 それはそれで楽しかったのだが、独演会よりずっと楽チンになったし、会場に足を踏み入れた瞬間その研修会は企業で主催する普通の講演会とはまったく違うものとわかったから、示されていたけっこう大きな"企業相場"の謝礼はもらえないと思った。 そこで終わってから校長格にエレベーターまで送ってもらったとき「謝礼は半額にしてください」と申し出た。彼がどう判断するのか、振込みは半月後だと聞いている。 [2007年4月1日] 67 スーツを新調するこのところ講演とか勉強会が重なるのでスーツを新調することにした。以前、活字版の「くろにか」に書いたが、私はファッションにあまり関心を持たない人生をやってきた。場末のクラブのお姉さんに「あなたはよく汚いカッコしてきてたわね」と昔語りをされたくらいだ。 私にいわせれば特別に汚かったわけではない。当時、肩で風を切っていたヤーさんや地上げ屋のように贅沢なスーツを着ていなかったというだけで、物書きとしては普通の格好をしていた。クラブで数万円使うのは惜しくないというか、酔った勢いであれよあれよと巻き上げられていたが、素面のときにファッションに金なんかかける気にならなかったのだ。 さてスーツの新調であるが、私の小学校時代からの友人が某デパートにいる。彼がいつも「お得意様オーダーメード紳士服特別セール」のご購入券というのを送ってくる。うそかホントか正価の半額近いというので、時々利用させてもらっている。 デパートの会場に行って彼に会い「堅気のサラリーマン風ではない、物書き向けのを選んでよ」とアドバイスを求め、山ほど並んでいる生地の中から選ぶのである。ぴかぴか輝くシルバー地のものを勧められたこともある。 日頃の私のスーツ姿が珍妙であればこの友人のせいである。時々自分でも(これは変かな?)と尻ごんだりするのだが、そのつど(プロが選んだのだから)と開き直っていた。 ところが今回は行き違いがあって彼が付き添ってくれないことになった。 仕方なく一人で会場に行き、大勢の店員や客の間を通り抜け、予定していた予算の生地の並んだコーナーに向かうと、中年女子店員がニッカと笑いかけてくれた。 「あまり平凡でなく、落ち着いたものが欲しいんだけど」 自分でも矛盾していると思うことをいったが、彼女は矛盾をあざ笑ったりはしない。 店員にアドバイスを求めてもだめだと近年、気がつくようになった。彼らはなるべくスムーズに、なるべく高いものを買ってもらいたいだけなのだ。中身のあるアドバイスをすると時間がかかるし、結局他人の趣味などよくわからないと思い知らされているのだろう。客の悪趣味だってほめなければならない仕事なのだ。 仕方ないから私は一人で生地を見較べ、手にとって、体に当て、鏡をのぞいたが、判断などつきはしない。 なにしろ、まだぺラッとした生地だし、照明は不自然だし、鏡はへんな角度をしているし、手の中の生地と鏡の中の生地は違った色に見えるし……。 それでも何とか選んで店員に渡した。 「あら、お似合いですわ」 なにを選んでもそういっただろう。 今度は採寸である。 たぶん60代半ば、つまり数年前に定年を迎えその後、嘱託契約で会社に残ったと思われるごま塩頭の男が担当してくれた。 着ていったものも3年前にこの特別セールで買ったものでデータがここに保存してあった。それと見比べながらもう一度、採寸するのだが体型にそう変わりはない。新たな採寸より、着ているものの若干の不具合を調整すればそれでよかった。 採寸されているうちにはっと気がついた。選んだ生地は私の手持ちにあるスーツによく似ている、なんと迂闊な! 今回はアドバイザーもいないから、結局、私の狭い趣味の幅に収まってしまったのだ。 「あ、やっぱり、これ、やめます」とはいえない段階に差し掛かっていた。すでに10分もごま塩頭と女子店員の笑顔にサンドイッチされている。 採寸が終わった後、デパートの近くで友達(デパートの人ではなく別の人)と会って深夜まで飲んでから仕事場に戻ったのだが、気掛かりはまだ消えていなかった。私は押入れダンスのスーツを恐る恐る点検した。 ほっとした。いくらか似ているが、新調した意味がないというほどのことはない。これなら定例の勉強会に出ても、(エバト、いつもの着たきりスズメではないないな)と思ってくれるだろう。 それとも私と同世代の会員は他人の服装なんか意識することもないだろうか? まあどっちでもいいや、新しいスーツが届いたらそれを着てどこかへ遊びにでもいこう。 [2007年5月1日] 68 パーティー前後先日、某出版社が新しく創刊する雑誌の出版記念パーティに出席した。パーティの類はあまり好きではないが、たまには行く流れになる。 18時開始の会場に5分ほど遅れて入ったらもうぎっしり満員で、誰かのよく通る声が部屋中に鳴り響いていた。 その後、次々に挨拶に立つ人を見て驚いた。テレビによく出る評論家、前大臣に現大臣……、満員の会場にも顔の知られた評論家などがうろうろしている。 主催者が大手出版社であれば驚くこともないが、数年前に創設されたばかりのミニ出版社だし、20年来の知己である編集長兼発行人はギラギラしたところを見せることのない穏やかな紳士だ。 (彼はこんな人脈で仕事をしているのか)と改めて舌を巻いた。 やがてご同業や編集者など、何人もの久しぶりの友人と顔を合わせることになった。 「やあ、元気、してた?」などといって背中を叩きたくなるような相手ばかりである。 そして語られるのは、共通の知り合いの噂やちょっとした内幕、スキャンダル、話半ばで実らなかった企画のその後、初対面の人の紹介……。 さいたま市の鹿手袋などに蟄居していると人と会うのはけっこう億劫になるが、たまに古い友達に会って、こんな話をするのも悪くはない。 私にとってパーティーは、行く前は気が進まないが、行ってしまえばたいていは愉快な時間となる。 この日は19時から近くの高層ビルで別の会合があった。30分ほど遅れてそちらに参加した。 これは2月に1度の勉強会である。参加者のほとんどは企業の幹部や官僚。私は2年ほど前に講師をした後、メンバーに加えてもらった。 この会合はほとんどホットなテーマが題材となるし、参加者もバラエティ豊富なのでいつも楽しみにしているが、肩の凝る面もある。私以外のメンバーの多くは都心での仕事仲間でもあるので、それに関わる話が出てくる。そうなるといちいち詳細を質して話に加わるわけにもいかず、私は寂しく蚊帳の外……。 今日の講師は某省OBの県知事で、つい先日当選したばかりの人である。 「話すのは大好きでマイクを持ったら離しませんよ」と切り出したとおり、シナリオ化されたユニークなマニュフェストを参加者に配ってから、面白い話を次から次へと繰り広げた。 10数人の参加者も話の途中で適当に質問したり自分の話をしたりする。 「最近は、景気がよくなったので、企業の採用が増えてきて、県はなかなかいい人が採りにくくなっています。早めに手をつけるようにしているんだけど、うまくいきません」 知事がいかにも悩ましげにこういったとき、ふっと思いついて、私が口を挟んだ。 「いま東国原知事の人気がすごいですが、知事もなかなかタレント性があるように見えます。知事が広告塔になって、学生たちに"この知事とだったら一緒に働いてみたい"と思わせるようなアプローチをしたらどうでしょうか」 知事は如才なく感心したように? うなずいてくれたが、端っこの参加者が「そういったって、この知事がいつまでもいるわけじゃないもの」と愉快そうに混ぜっ返すのが私の耳に入った。 なるほど、と答えたのだが、考えてみれば今の就活学生なんて、知事の任期の4年以上もの長期見通しを持っているとはとても思えない。次年度の宮崎県の職員採用は "東国原人気"で学生に大人気になるのではなかろうか? 帰りはいつも流れ解散でこの日は某金融機関の幹部と同じエレベータとなった。 「例の法律で金利が低く抑えられて大変ですね」 「そうなんですよ」 「引当金はどのくらいになるんですか……」 といったところでエレベータが1階に着き、彼は駐車場のある出口へ、私は地下鉄につながる出口へと別れ別れとなった。 [2007年6月2日] 69 褒めたくて先日、某新聞社の幹部A氏の個展に行った。十数年来の友人だが、知り合った当初から、飲むと「おれは学生時代から油絵を描いている、本職が絵画で新聞記者は趣味だ」とうそぶくような男だった。 「いまも描いているの?」 「いや、いまはそんな時間が取れないから、早く本職に戻りたいんだ」 この言葉にはもちろん(笑い)とつけなければならないが、ナントカ展にも入選したことがあるという彼の作品を、一度見てみたいという気になっていた。 それが仕事はますます多忙になっているはずなのに(本当のところは知りませんが、肩書きはどんどん偉くなっている)、新作をいくつも描いて個展を開いたというのでびっくりした。 場所は銀座の外れのバー&ギャラリー。共通の友人のM氏と待ち合わせることとしたが、以前にも3人でここで飲んだことがある。 会場に向かう途中、頭に浮かんでいた思いがある。 (下手だったら、どうしよう?) 多忙を縫って描き上げた作品が目を覆うような出来でも、「なんだ、下手糞だな」というわけにはいかない。そんな表情を浮かべるだけでもまずかろう。 (気をつけろよ)と自分に言い聞かせて会場に入ると、手前のカウンターにすでにM氏の姿があった。1人で水割りを傾けている。 「やあ」とM氏は苦笑い。 「え? おれ、遅れたの?」 どうやら30分の行き違いがあったようだ。 奥のギャラリー部分のシートにA氏がいて、数人が取り囲んでいる。 そして、彼の背後の壁面にずらりと作品が掲げられている。 2人とのやり取りもそこそこに作品に見入った。 旧作と新作が半々で、大は60号、小は10号くらいのものが、10点強ほど展示されていたが、ほとんどが実にいいのである。 ほっとした。 「ふ〜ん、大口を叩くだけのことはある」 などといいながらゆっくりと作品を見終えてから、M氏の席に行った。取り囲んでいるのは高校時代の友達だという。 「学生時代のものより最近のもののほうがいいね」とか、 「このあたりの白の使い方がさえているね」だとか、 本当はよくわからない生意気なことも言いながら、とにかくしっかりと気持ちよく褒めることができたのでした……。 * 先日、某新聞で対談をした。 対談の相手は某労組の委員長。数年前からの知り合いではあるが、じっくり話したことは一度もない。 対談といってもほとんどは記者の仕切りに沿って進行していき、2人の話は編集者を媒介にしてしか、かみ合うあうことはない。 1時間半ほど話して解放されてから、2人で飲むこととした。場所は有楽町駅に近いビアホール。 彼の嗜好にあわせて、ハーフ&ハーフの大ジョッキと、ソーセージと生ハムとピクルスとを頼んで、今度はまったく自由な話に花を咲かせた。 共通の知人のあれこれの噂、最近の労組事情、さらには労組は金と女の誘惑に満ちているとか……ジョッキ3杯ほどの間に、こっちはすっかり話がかみ合ったのでした。 ああ、そういえば拙著を差し上げる約束をしたのにまだ果たしていなかった、今からすぐに送る手配をしよう。 [2007年7月1日] 70 新たな碁会所最近、近所の碁会所がつぶれたり、都内の碁会所がある辺りに仕事のついでがなかったりで、長いこと碁会所に行っていない(その代わり、しばしばネット=yahooゲーム=で打っています)。これまで色んなタイプの囲碁仲間と打ってきたが、大学のゼミOBたちの月1回の碁会というのもある。 メンバーのほとんどが、もう現役を退いた60代半ばすぎ。碁会はウィークデーの2時から6時までに催され、時間が合わずに欠席し続けていた。 以前はお茶の水の碁会所を会場にしていたのだがそこも閉店し、1年ほど前に歌舞伎町の碁会所に引っ越してからは1度も行っていない。 毎月、先輩から会のご案内をいただくので気にはなっていた。それにもう一つ気になることがふえた。ゼミの先生と毎年かわしている年賀状を今年はいただけなかった、もう米寿を過ぎていらっしゃる、具合が悪いのではないか、先輩たちに様子をうかがおう、という気持ちもあった。 そこで2週間ほど前、夕方から仕事の予定を作って、昼間の歌舞伎町に行った。 飲み屋街の、太陽の下で、客引きが行きかう一角にその碁会所はあった。そこだけ辺りのギンギラギンとは違うセピア色に染まっていた。店の中もセピア色、ついでに30代と思しきおねえちゃんもセピア色。 ふっと疑問が頭をよぎった。 (なんで先輩たちは、こんな盛り場ど真ん中の碁会所を選んだのだろう) 店の一番奥に先輩たちの姿があった。彼らはセピア色というよりシルバー色か、私ももちろん周囲からは同じ色に見えているだろう。 出席者はわずかに4人。1年前、御茶ノ水に行ったときはこの倍はいたのに(会員は合計20数人はいるはずです)! 人数が少なくてさびしいですね、などとは誰もいわず、「いや久しぶり」とさっそく打ち始めた。こんなとき囲碁は気楽でいい。打つこと自体が会話になって、それ以外の言葉がなくても、気まずい沈黙など訪れない。 自慢になるが、私はメンバーでほぼ最強なので、先輩たちは一緒に打つのを喜んでくれる(たぶん?)。 最初に当たった10年ほど先輩には2ランクのハンディを上げて打ち始めた。打ちながら、最も親しくしている隣席の4年先輩に先生の様子を尋ねた。 「ああ、もう年賀状は、ごく近い人だけにして、すっかり減らされたようだよ。××さんもいただけなかったということだ」 4年先輩は大先輩の名前を挙げてそういった。それなら安心。ぼくがごく近い人に入らないのはよくわかっている。それどころか名前を覚えていただくのも申し訳ないほどゼミ生が多いのだ。 それからは勝負に集中した。終盤までは大きな石を召し取っていた私の大優勢だったのだが、ちょっとうっかりしてそれを取り返され逆転負けを喫した。 しかし負けたほうも勝ったほうも、互いに相手が気分よくなるような観想をひと言ふた言交し合って、次の相手と変わった。 この先輩には1ランクのハンディを上げることとなった。前の相手より1ランク強いのだ。 今度は負けられないと私も気を引き締めた。ハンディ戦とはいえ、2連敗したのでは最強の看板に傷がつく。 以前に打ったことがある相手だが、打ち始めてすぐにムムムとなった。私が記憶していたよりずっと強い。 しばしばこちらの意表をつく手を打ってきて、それがかなり有力なのである。ネットでばかり打っていた私は、生身の相手と打つ力が落ちたのであろうか? いや、心理戦など関係しない盤上だけのゲームにそんなことがあるわけはない。 戦いの中盤で「どうじゃ、参ったか」という手を放ったのだが、逆襲をされてこっちのほうが参った。 いくら考えてもよい手が浮かばない。仕方なく次善、三善の手を打った末、その部分の折衝は6対4で相手の有利に終わった。 もし私が潔い人間だったら「参りました」と投げていただろう。しかし私は看板に傷がつくのが惜しくて、もう少し粘ってみようと思った。10対0でも9対1でもなく、6対4なのだから。 すると相手が少しずつ緩んだ手を打ち始めた。私がじりじりと追い上げる展開となった。最後はどっちが勝っているか、わからないところまできた。 そして終局。互いに確保した陣地を数えていく。私はすこしハラハラしていたが、相手は自身ありげに冷静だった。 私が41、相手が40。わずかに1目、私がいい。 相手はちょっと残念そうにもう一度数えなおしたが、数え間違えはなかった。 「あそこで私のほうがよくなりましたよね」と先輩はよくわかっていらっしゃった(先輩ですが、キャンパスで一緒だったわけではなく近年この碁会で出会ったから、両方とも丁寧語でしゃべります)。 「ええ、私が投げなきゃいけないくらいでした」 勝ってからなら素直にいえるのに……。この性格、直したほうがいいのだろうけどもう遅い。 やがて仕事相手との待ち合わせの時間となり、彼らをその場に残して一足先に失礼した。 出口にさっきのセピア色30代おねえちゃんとは違う女性がいた。 「ありがとうございました」と上品にいわれ、声の主をよく見て驚いた。年は60前後だろうが、辺りのセピア色をばら色に輝かせるほど別嬪なのである。 それで合点がいった、先輩たちはこの60上品ばら色女主人に惹かれて、こんな場末の碁会所を選んだのだ。もしかしたらいつもせっせと案内状をくれるあの先輩が、若い頃、通い詰めていたのかもしれない。 [2007年8月1日] 71 姉の死「きょうママンが死んだ」という『異邦人』の書き出しを時どき思い浮かべることがあった。何の変哲もない短い文章に「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」と変わらない魅力を感じていた。しかし私の母はとうに死んでしまっていたから、私がそういう書き出しをすることはありえない、と思っていた。……せんじつ姉が死んだ。遠いミュンヘンの病院で、64歳だった。 姉は26歳のとき、ドイツの片田舎に住む日本人画家Tと結婚して日本を離れた。 Tは優しい人で、かつ画家としても成功して豊かになったが、姉はTの後援者だった初老の女性とのいわば"嫁姑関係"がうまくいかず、10数年後、Tと別れることとなった。 姉はそのままドイツに残り、ミュンヘンにマンションをかまえて、陶製の美術品などの修復師となった。たとえば陶人形の指先の欠けてしまったものを、写真でもあればそれを基に、もし何もなければ自分でオリジナル・デザインを推測して復元する仕事である。 姉はときどき日本に帰ってきて私に自慢することがあった。 「イギリスにまで行って、ドイツにはない修復の技術を学んできたの」 「ドイツの指折りの骨董屋から注文が来るようになったわ」 一方で姉は来るたびに修復師とは別の奇妙な一面を見せた。 最初はホメオパティという西洋流漢方薬。これに夢中になり始めた。漢方薬だから何か病気にかかってその治療をしているはずだが、そのことはほとんど話さず、ホメオパティの素晴らしさばかりを言いつのった。 しかし数年後には「ホメオパティはすばらしい治療法だけど、あたしにはうまく適用できないんだって」といって、今度は「フーチ」というものに凝り始めた。 フーチとは振り子占いである。 糸の先に鉄製の重りをつけ、それをたとえばコップの水にかざして回転させる。いい水と悪い水では回転の軌道が違うのだそうだ。いい水を飲めば体によいから健康になるというわけだ。 これまたその素晴らしさを口を極めてたたえるのだが、私はそういうものにまったく興味を感じないので、姉の情熱は周囲に及び、叔母や古くからの友人をかきくどいて、フーチを買わせたりした。 これと前後して姉は、人間のあらゆる病気を診断し治療する機械とか、「飲尿健康法」とか、「水は生きている」とか、トンデモ健康法・トンデモ科学のたぐいに惹かれていった。 ときどきドイツから電話がかかり「てっちゃん、……を買ってくれる」などとその種の本を買わされることになった。 (本当におしっこなんて飲むのかね?)と内心仰天していたが、止めることはしなかった。同居しているなら、いや日本に住んでいたら止めたかもしれないが、遠いミュンヘンで一人暮らす姉にそんな差し出がましいことをしても効果はあるまい。 しかし、なぜ、こんなものに惹かれるのか? 「やっぱり離婚して、ドイツに女一人で暮らす心細さのせいだろう」 などと弟と話したりした。 そして10数年前、姉はとうとう本命に出会うのである。 それは「Bの会」といった。宗教と称してはいないが、もうだいぶ前に亡くなった"開祖"のBは重い病でも治せるという、キリストにも似た超能力を持った人物とたたえられ、いわゆる新興宗教とそう変わらないように見えた。 教えの基本はこうである。 ――人間には無限の自然治癒力が備わっている。だから病気になるはずはないのだが、その人の意識のありよう、暮らしのありよう、さらに前世の因縁が自然治癒力を損ない、病気をもたらす。それを克服するために、修行をして正しい意識をもち、正しい暮らしをして自然治癒力を回復しよう―― 前世の因縁は別として、正しい意識、正しい暮らしなら悪いことではない。 しかしこの周辺に、Bの高弟たち(彼らは存命して活動の中心にいる)の説く様々なオカルト的な解釈が飛び交っている。 たとえば旅行に行く予定があるとする。その日、大雨で中止となっても嘆くことはない。「これは旅行へ行くと何かよくないことがおきるので、Bさんが雨を降らせて止めてくれたのだ」という具合である。 姉はどんどんこの教えに引きこまれていき、Bさんの教えや信者たちの治癒体験などを日本語に訳す仕事をやり始めた。ときどき長いファイルを添付したメールをよこし、「てっちゃん、これで日本語としておかしくない?」などと問い合わせてきた。 やがてこの教えを日本でも広げるために年に一度は日本にやってくるようになった。たぶん「Bの会」の日本担当という役回りになっていたのだろう。 その度に教えの魅力を語り、自分や会員の奇跡体験を語ったが、私は毛ほども信じる気になれず、かといって反駁することもほとんどせず、さりげなく聞き流していた。姉の信仰の自由には敬意を払いたい、そういう気分だった。 3月ほど前、姉は日本にやってきていた。1月ほど、元気よくあちこち飛び回り布教活動を行い、旧友などにも会っていた。 そしてミュンヘンに戻って1月半ほどたったころ姉から一本の電話があった。 「これから入院しますから、よろしく」 詳しい説明は何もなく、それで電話は切られた、何のことやらよくわからない。 さらに姉の友人Mさんから連絡があった。 「お姉さんは、日本から戻られてから2度目の入院なのです。1度目は日本から戻って1週間ほどたって入院したのですが、それから2週間後にご自分の意思で退院されて今回は再入院です」 病気はガンでかなり重いという。おどろいた、日本ではそんな様子は微塵もなかったし、ガンの話題が出たこともない。 私はすぐに航空チケット(7/4〜9)を取って見舞いに行くことをMさんに伝えると、日ならずしてMさんから電話があった。 「お姉さんは、いま治療の真っ最中だから来てくれるな、といっています」 「本心ですか? 遠慮しているのですか」 「本心だと思います。ちゃんとわたしの気持ちを弟に伝えてよ、とわたしが怒られましたから」 そこでチケットをキャンセルした。 10日ほどたってまたMさんから電話があった。 「お姉さん、あれから強引に退院してきちゃったのですが、一昨日、訪ねたらソファに伏せていて、とても具合が悪そうなので、救急車を呼んで入院しました」 今度は姉がなんと言おうとミュンヘンに見舞いに行くことにしてチケットを取った(7/12〜18)。 私が日本を発つ日の早朝、Mさんから電話があった。 「お姉さん、昨夜、亡くなりました」 ミュンヘンの病院で、姉の亡骸と対面した日の夜、一人、姉のマンションに泊まった。3LDKくらいのスペースには、すでに遺品となってしまった姉のあれこれが、ぎっしりと詰まっていた。 そのなかに大量の「Bの会」関係の資料があった。 少しでも姉の内心を知りたくて、日本語のものを選んで片端から読んでいくと、会報に投稿した姉の原稿があった(A4×5ページ)。 それを読んで愕然とした。 姉は20年ほど前からひどい健康状態にあったのだ。胃がきりきりと痛むことが常態だったという。毎晩のように吐き、血を吐いたことさえあったという。それが長いこと続いた。 姉が胃を病み始めたのはちょうど"嫁姑問題"に悩み離婚した頃のようだ。 姉はこの痛みから逃れようと、ホメオパティにすがり、フーチにひかれ、飲尿健康法にも関心を持ち、とうとう「Bの会」に出会った。 「Bの会」は現代医療を否定してはいないが、医療に頼ることは"自然治癒力"を弱めると教え、そればかりか病気を意識することが、病気にとらわれ、病気を重くすることになる、とさえいっている。 それで姉はガンがとことん悪くなるまで、2人の弟にも周囲にも伝えず、痛みに耐え切れずついに入院しても、すぐに退院してしまったのだ。 しかし姉はこの十数年「Bの会」の教えを深く深く信じ、修行もし、普及活動にエネルギーを注いでいたのに、こんな病気になってしまった……。 最期の瞬間、姉は「Bの会」の教えに疑問を持たなかっただろうか? 「お姉さんは最期はとても苦しまれたのですが、そのときのことを知りたいですか」 ミュンヘン滞在の3日目にMさんがためらうように私にいった。Mさんは「Bの会」のメンバーではない。 「もちろんです」 本当は姉の最期に立ち会うべきは、Mさんや友人たちではなく私と弟だったのだ。どんなにきつい話でも聞かなくてはなるまい。 「2回目に退院されてからは、3人の友人でかわるがわるお宅を訪ねていたのですが、あの日、どうしても見ていられないくらいひどかったので、救急車を呼んだのです。それまで入院を拒否されていたお姉さんも、苦痛がひどくなって、救急車の到着を待ちわびるようになりました。病院についてからも苦痛のあまり、受付の人に向かって"早くして、早くして"といっていました」 「……」 「周りの人もみなこちらを見るくらい大きな声でした。それだけ痛みがひどかったのだと思います。でも意識ははっきりとしていて、きちんとドイツ語で話していました」 「……」 「早くしてという言葉の合間に、Bさん、助けて、といわれていました」 「姉は、まだBさんを信じていたのですね」 「ええ、そうだと思います」 私はホンの少し救われた気がした。私には「Bの会」と出会わなければ姉はもっと長生きしたと思えるが、姉にとって「Bの会」にささげた10数年が無駄になってはやりきれないだろう。 「Bの会」は人は生まれ変わると説いている。それならばこの次は姉がもう少し安らかな運命を持った人に生まれ変わるよう願っている。 …… (この欄を備忘録にさせてもらいました) [2007年9月1日] 72 再会乞い♪秋よこい 早くこい暑さに負けた てっちゃんが エアコン嫌いと 愚痴はいて おんもに出たいと 待っている と歌いながら、天の神様に、雨乞いならぬ秋乞いをしていたお陰で、日本列島に秋が来た。私のお陰です、パチパチパチパチ……。 しかし子供の頃は(夏は暑くて大変だ)などと思ったことはぜんぜんなかったな。 冬に寒がって家に篭っていたりすれば母親に、 「子どもは風の子でしょ、表で遊んできなさい」 などといわれたけど、夏に暑がって家に篭り、 「子どもは火の子でしょ、表で……」 なんていわれた覚えはまったくない。 暑い夏、子どもとセミはいつも戸外を飛び回っているものだった。ああ、エアコンがなかったことも大きいのか?? われながら愛らしかった? と思うのは、近所でセミが鳴くと必ず補虫網を持って飛び出していったことだ。あの方向に成長すれば、もう少し皆様から愛される人生を送っていたのだろうが、そうはならなかった……。 火の子といえば、そういう名前のバーが新宿にあったな。 編集者になって2年目くらいに付き合っていた著者が連れて行ってくれたバーの女性が一年後に独立して出したお店。 カウンター数席、ボックスが二つの小さな店だが、日本を代表するような文化人が何人も来ていた。そのママさんは有名人が好きなんだけど(たぶん)、そういう態度をはしたなく見せるような人ではなくて、有名人もカウンターに一人で放っておかれたりする。 ぼくが見た驚くべき光景は、カウンターに座っていた超有名人(世界的)が、あまり放っておかれるので寂しくなったのでしょう、店の公衆電話使って 「××ですが、……さんいらっしゃいませんか」 などと店中にフルネームをアピールしていたことだ。いやな感じはせず、むしろ微笑ましかった。 私が28歳くらいで超有名人は40歳くらいだったかな。 その店にEちゃんという可愛らしい女の子がいて、客の誰にも(おれにほれているに違いない)と勘違いさせるような、見事なホステス振り(古いか?)を見せていた。 どんどん詳しいことを思い出してきたけれど、私が連れて行った会社の同僚で独身のM君がEちゃんに惚れて本気で口説いていたっけ。 でも結局ご同業のC書房の編集者に出し抜かれてしまい、それが原因かどうかははっきりしないけれど、M君はすぐに会社を辞めてしまった。 さらに「でも」が続くのだけれど、でもEちゃんの結婚はそう幸せではなかったらしく、Eちゃんが「あなたのほうから熱心に口説いてきたんじゃないの、それなのに他の女に走って(後半やや推測混じり)」と愚痴っていたという噂を数年後に聞いたものだった。 ああ、懐かしのEちゃん、今頃どこで何をしているやら……? 今度は"秋乞い"じゃなくて、"Eちゃんとの再会乞い"でもするかな。 [2007年10月2日] 73 過熱の後の消耗2年間やっていた雑誌の連載を単行本にするため、この3ヶ月ほど加筆に四苦八苦していた。何しろ資料を山ほど使うテーマだし、連載時は原稿枚数が少なかったので、加筆は大幅で資料まみれとなった。中でもショックだったのは、自転車で10分かかる図書館で半日かけてとった「新聞縮刷版」のコピーを入れた袋が1つ、どこを探しても見つからなかったことだ。 コピーの袋はまとめて決まった場所においてあり、他の袋はちゃんとあるのに、「6章**」とタイトルをつけたはずのそれだけがない。 関連図書の書棚の中やその後ろ、別のテーマの資料袋の中など、思い当たるかぎりを探し回ったが、「6章**」はヨウとして行方知れず……私独りきりの部屋で「バカヤロウ」とか「フザケルナ」と誰とも知れぬ相手に八つ当たりしてしまった。 わが仕事部屋では時どき"神隠し"のごとく、モノがなくなる。屋根裏に誰かが住んでいて、私の留守のときに降りてきて好き勝手をやっているのかもしれないなどと妄想も湧くが、とにかく泣く泣くとり直してきた。 最終原稿を編集部に送ったのは先週の半ば、今まだぜんぜん疲れが抜けず、本を長い時間読むと頭痛がする。 もう15年前になるが(つまりいまの山村編集長と同年くらい)、ノンフィクションの書下ろしをやっていてあと一息で脱稿というとき、自分がすっかり消耗して息が上がっている状態になったことがある。 そのとき私のどこを切っても(早く終わんないかな!)というため息が飛び出してきたに違いない。 それはわが家からいくつも電車・新幹線などを乗り継いで4時間ほどかかる、ある地方の町を舞台にしたものだが、毎月、1週はその近くのターミナル駅前のビジネスホテルに陣取ってあちこち取材に回り、次の1週は取材テープを起こし、次の2週間をかけて次回の取材の準備というのが1年近く続き、それを基に7〜8ヶ月で原稿を書いたのだから、消耗したのは無理もなかったかもしれない。 でもそれまでは書下ろしをしていても、疲れを感じたことなんてないから、(あ〜あ、おれも年か)と慨嘆したものである。 それから15年、とうとう3ヶ月の加筆でも消耗したと感じるようになった。あ〜あ。 不思議なことに、いや当たり前なのか……原稿に疲れても、他のことまでいやになるということではない。加筆の合間にYahooの(ゲーム)で囲碁をやることがあるが、これも原稿書きに少しは共通する神経を極限まで消耗するものなのに、ちっとも嫌気がささず、「勝ち」が続けばいくらでもやりたくなる(負けると「仕事サボって遊んじゃった」と自己嫌悪に陥り、すぐにやめてしまいます、勝てば脳内麻薬が出るので続けます)。もちろんこの仕事場日記を書くのも抵抗感はない。 この期間、ほとんど仕事場の掃除や整理をしなかったから、これからとりかかろうと思う。部屋をすっかりきれいにしたら、汚れと一緒に疲れもどこかへ消えてなくなるような気がする。願わくは・・ [2007年11月2日] 74 行員のころ昔話の巻。恥ずかしながら、大学を卒業後、一年間、銀行員をやっていた。 入行してすぐに札勘(さつかん=お札の勘定)やソロバンの研修を受けた。 ある程度以上の枚数の札勘は、タテに一回、ヨコに一回数える。 タテとは札を左手の中にきちんと重ねて根元をしっかり押さえ、右手の親指で一枚ずつめくるように数えるやり方、ヨコとは札を両手で扇形に開いてから左手でしっかり持ち、右手の親指で四枚ずつ数えるやり方である。 ヨコで数えたほうが早いが、それだとニセ札などが混じっていても見分けにくい。タテに数えれば0・?秒でも紙幣の表面を見るので、とっさに気がつくという(一度もニセ札の体験はありません)。 これ以外に現金を勘定する機械もあった。 札束をその機械にはさむと、あっという間に数えてくれるが、精度がやや低くたまに間違える。疑わしいときは人間がもう一度、調べ直すことになる。 硬貨を勘定&包装してくれる機械は優れものだった。小型精米機に似た漏斗(じょうご)のようなところに硬貨を放り込むと、たちまち50枚ずつ包装紙に包まれて出てくるのだ。 新人行員は3〜4ヶ月ごとに課を異動して色んな仕事を経験させられるが、出納課という現金出し入れの部署に配属されたとき、私は毎日、札束にうずもれていた。 課長・主任・女子4人・男子2人という"今は昔"の大所帯(この30数年で人減らしが進んでこんな人数はいなくなりました)だったが、この陣容で最大20億円/日くらいの札を数えたことがある。 札束は1千万円の束が10個ずつ、つまり1億円がちょうど納まるジュラルミンのケースに入れられて壁際に積み上げられる。たぶん1箱15キロぐらいあるから、かんたんに持ち歩きはできない。 札束に埋もれた当初は(ああ、札束だ、カネだ、銭だ)と落ち着かなかったが、たちまち慣れてしまい、札束も書類の束も変わらないように感じられてくる。 なんとスガスガシイことに、給料日にもらう数枚の万札はありがたいのに、札束は重いし面倒なだけだと思っていた。 出納課にいると世間のカネの流れがリアルに分かる。たとえばボーナス時期、わが出納課から取引先の企業の経理へどんどんカネが出ていくが、1週間もたつと今度はそれが百貨店などの集金を通してどーっと出納課に戻ってくる。なんだか大きな手品を舞台裏から観ている気分になった。 この課ではよく郵便局や百貨店などに集金に行かされたが、私はこれが苦手だった。 事故防止のために単独ではなく女子行員と2人1組で、おまけに運転手つきだった。女子行員はたいていが3〜4歳年下だから気楽だったが、運転手は40〜60歳のベテランぞろいで、新入行員としては乗せてもらうのが気詰まりだった。中年が運転席で、18歳と22歳のこっちが偉そうに後部座席なのである。こっちは事務行員であっちは庶務行員、身分制でもあった、大げさか? あるとき集金に行った郵便局で受領書を作ろうとして判子を忘れたことに気づいた。判子がなければ集金が終わらないが、父親ほどの年齢の運転手に「判子を忘れたから銀行に戻ってください」とはとてもいえない。 「どないしはったの?」(大阪の支店だった) という女子行員の声を背に、私は数百メートルの距離を全力で走って銀行に戻り、引き出しから判子を出し、また全力で走って郵便局にまでいってようやく仕事を終えた。汗びっしょりだった。(この話、以前、書いたような気もしますが、ソンナノ、カンケエネエ) 一番、仕事をした気になったのはなんと言っても大晦日。世間は休みなのだから、オフィスにいるだけでも(おれは、いま、仕事しているな)という気になるし、かなり大口の集金があって、その勘定にテンテコマイとなる。集金には現金だけでなく小切手や手形も混じっていて、この処理に関する私の失敗談は数限りないのだが、これは省略……。 やっと仕事を終え、ぼろきれのようにくたびれて独身寮に着くと、すでに帰寮した同僚たちが殺風景なサロンでテレビを見ていた。そこに割り込んでブラウン管に目をやると、紅白歌合戦ももう後半にさしかかり、島倉千代子が切なげな声を張り上げていた。 ♪ひさし〜ぶ〜りに 手を引いて〜 親子で〜歩け〜る〜 うれしいさ〜に 私はやけになって彼女に声援を送った。 「千代っちゃん、最高!」 ……あ、もしかしたら都はるみだったかもしれない? [2007年12月2日] 75 続・行員のころ行員の頃A22歳で銀行員になってからの毎日は、目を見張ることばかりだった。 何しろ就職するときの最大の心配ごとは、 (90分の講義でも眠くなるのに、午前中180分、午後は3時に少し休んだとしても、延べ200分以上も続く仕事に耐えられるのか) という幼稚な私だったのだ。 眠気など心配することはなかった。講義と違って退屈なものは何一つなかった。 私が配属された支店は私にとってテーマ・パーク<銀行員の仕事館>のように次々と面白いものを見せてくれた。 そこは大阪地区の母店で、たぶん2〜3百人の行員がいたが、そのうち8割は女子だった。同じ建物の上のほうの階に「事務センター」というのがあって、そこにはほとんど女子ばかり200名ほどもいた。うっかりエレベーターに乗り込むと、周り中けっこうイケテる女子だらけで、居心地いいやらわるいやら、息を呑むという幸せな体験もした。 まだ日本中に全共闘運動の余韻が残っており、支店の幹部や上司、先輩たちは、 (なんだか"造反有理"を口にしそうな面倒な奴らがやってくる) と新入行員を色メガネでみていたに違いない。 私が最初に配属された出納課の課長はとても優しかったし、O主任は腫れ物を触るような感じだった。Oさんはたぶん30代半ばで、その仕事は恵まれたものでなかったが、カラ元気を出して出納課主任を大過なく勤めようとしていた。 当時の銀行というのは、1円でも出入金の誤差があれば、支店全体が残業をしてでも原因究明をしたから、現ナマが出入りする出納課の責任は重大だった。 店頭の女子行員(テラーという)や営業担当が持ってくるほぼすべての現ナマがOさんの目と手を通る。とくに指先にひっかかりやすい一円玉を、神経質に何度も数えなおしていたOさんの姿が今でも目に焼きついている。 「エバト君ね」めずらしくOさんが私に打ち解けた口調でいったことがある。 「わしは2週間に1度は指圧にいってるんよ。この仕事はそれだけ神経使うねん」 まだ指圧の何たるかを知らなかった私も、さもありなんと思っていた。 入行数ヵ月後、もうそのころは私は為替課に移っていたのであるが、Oさんが晴れて営業に異動した。その代わりに為替課主任だったUさん(たぶん40代半ば)が出納課の主任に任命された。 そしたらなんとUさんは辞令が出た翌日から銀行を休んでしまった。Uさんにとってそれほど屈辱的なことだったのだ。 3日目にその支店のお局さんだったTさんが、Uさんの自宅まで迎えに行っ手、ようやく出勤するようになった。 お局さんは50前後だったか、よく見れば目もパッチリ鼻筋も通っていて、かつてはいい女だったかもしれないと感じさせはした。支店の誰それと不倫関係にあった、いやいまもそうかもしれない、という噂も笑い飛ばすことができなかったが、それよりもTさんが私は驚かせたのはどこにいても、そのけたたましい香水の匂いで所在を知らせてくれることだった。 一方、Oさんは大きな鞄を抱えて営業回りに行くようになり、胸を張って支店の中を闊歩するようになった。もちろんUさんがOさんを恨んだりすることはない。人事は支店長と二人の次長&人事課長あたりで決めていると二人とも知っている。 もしかしたらUさんは為替課の課長を恨んでいたかもしれない。当該課長はこうした異動に何らかの意見を言う権限は持っていたはずだ。 為替課の課長は名前を忘れたからXさんにしておく。 Xさんは一日中ほとんどまったく働かない人だった。いつも自分の席に座っていて、部下を見張るために大きくなったようなギョロ目で、部下の仕事ぶりを眺め回していた。38年前はそれが課長の役割ということで済んでいたのだ。 こういうオジサンや、仕事をなかなか覚えない私のような不出来な若手男子を支えていたのが勤勉で有能で愛らしい女子たち。 男どものやった計算間違いや事務処理のミスなどをあっという間に発見して、さりげなく片付けてしまう女子は、きっと実際の見目形より5割がた素敵に見えていただろう。そして当時、女子行員のほとんどは結婚相手を探しに職場に来ていたから、男子にはとても愛想がよかった。 イケテて、有能で、愛想がよくて…… 私は普通預金のOちゃんにも為替課のIちゃんにも当座預金のKちゃんにも……にもそぞろ心奪われて、ますます仕事のほうがおろそかになっていったのでありました。あのまま銀行にいたらXさんのようなお馬鹿なオジサンになっていたに違いない。 [2008年1月1日] 76 続々・行員のころ私は学生時代、全共闘運動のごく片隅にいただけだが、就職することにかなり後ろめたさを感じていた。何しろ日頃「日本帝国主義粉砕」「独占資本を許すな」みたいなことをいっていたのだ。そっち側にするりと入りこむなんて青い正義感には抵抗があった。 それでも学校に残って運動をし続けるほどの強い意志もなく、他の展望もなく、大半のノンポリ学生が就職活動を開始すると私もそわそわするようになった(まあ多くの全共闘シンパは大体こんな感じだったのですがね、スイマセン)。 全共闘運動は3年生の始めに起こり、4年生いっぱいまで続いていたから、私は自分がどんな仕事をしたいのか、胸のうちをほとんど確かめることなく、"トコロテン式"に入りやすい銀行員となった。 銀行に入って初めて、自分がしたい仕事について考えた。それは銀行員ではなかった。だからといってすぐに辞めるという選択はできず、うつうつとした日々が続いた。 当然、仕事に身が入らず、かんたんな事務がなかなか覚えられなかった。 <エアシューター>という屋内搬送システムがある。建物にプラスチックの管が張り巡らされ、たとえば1階東の出納課から2階北の得意先課に伝票を送ることができる。 配管は色んな部署の間に張り巡らされていたが、私はその宛先をなかなか覚えられず、たびたび主任などに聞いていた。 ある日さすがに「覚えが悪くてすみません」と謝ると、主任は「覚える気がないんだろう」と私の内心を見抜いていた。 同期生は大卒男子5人、高卒男子2人、高卒女子20人前後……。これが当時の銀行の人事方針である。 銀行に就職するような人はみな真面目で仕事熱心だから、私の意欲のなさは周囲からははっきりしていたのだろう。「あなたは心ここにあらずで仕事をしている」と目元の涼しい同期の、つまり4歳若い女子にいわれたこともある。 支店の隣に三越があった。昼休み、私はよく一人でその屋上に行き、ジュークボックスにコインを投げ入れては歌謡曲を聴いていた。青江三奈の「池袋の夜」が定番だった。 ♪あなたに逢えぬ 悲しさに 涙もかれて しまうほど 泣いて悩んで 死にたくなるわ…… 住まいは西宮市にある独身寮。四畳半の部屋にはラジオがあって、それでもよく歌謡曲を聴いた。いまも深く記憶に刻み込まれているのは、アン真理子の「悲しみは駆け足でやってくる」と藤圭子の「夢は夜ひらく」。 ♪明日という字は 明るい日と書くのね あなたとわたしの 明日は明るい日ね それでもときどき 悲しい日もあるけど…… ♪赤く咲くのは けしの花 白く咲くのは 百合の花 どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜開く アン真理子にこういわれると(おれの明日は明るかねえな)と切なくなったし、最初に、藤圭子が怨念に満ちた声で「どう咲きゃいいのさ この私」と吐き出すのを聴いたとき全身が総毛だった。 やがて私が心ここにあらずから卒業する日が来た。2年目の春、総務部から、 「今度の4月28日に過激派が大企業を襲うという情報が入っている。当行もターゲットになるかもしれないから、新人行員は防衛隊に加わってくれ」 といわれたのである。 そのときふらふらしていた気持ちがはっきり定まった。 (去年だったら、あっち側にいたかもしれないのに、そのわずか1年後こっち側に回って防衛するなんて、無節操はできない) 連休中に家に戻って「おれ、銀行を辞めたいんだ」というと、案に相違して親はひと言も反対しなかった。 連休明け、外国為替課の部長(当時の配属先)に「辞表」を出した。 (やくざの世界では一宿一飯の恩義でさえ人をも殺させるほど重たいものなのに、私は当行に三六五宿ほどの恩義をうけながら……)という恐るべき中身だったが、当時の私はもちろんまったく変だとは思っていなかった(一宿一飯の恩義で人を殺すというのは「沓掛時次郎*遊侠一匹」=加藤泰監督、中村錦之助主演=が頭にあったと思われます)。 部長席で辞表を渡し、さっさと席に戻った私のところにあわてて部長が飛んできた。 「君ね、当行には定型の辞表があるんだ、それに沿ったものを書いてくれなきゃ……」 |
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