| 岐阜県本巣市上真桑 物部神社 |
| 真桑人形浄瑠璃上演外題(平成14年3月21日) |
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| 三番叟 |
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| 傾城阿波の鳴門巡礼歌の段(中学校文楽同好会) |
| ○約300年の伝統 真桑文楽は、本巣郡真正町上真桑の本郷地区に古くから伝わる郷土芸能で、歌舞伎における地芝居のように浄瑠璃に合わせて演ずる操人形芝居で、年に一度氏神物部神社(前には八幡神社、由緒ある物部神社と合祀したので社名を改めた)の祭礼に奉納上演されてきた。 ○「井水の制」と義農源七郎 古来この地は激しい水争いが絶えず、全国でも有数であった。この争論解決に尽力し「井水の制」を確立し解決したのが上真桑村の福田源七郎(元禄5年没)であった。真桑文楽はこの源七郎の功績に報いるため元禄年間に「義農源七郎」という外題の人形芝居を上演したのがその起こりであると伝えられている。 台本や人形の実体は明らかでないが、明治初年に至るまで用水の恩恵に浴した二郡十六村が毎年村の石高に応じて経費を負担して上演を続けてきた。 ○通称「真桑文楽」 この真桑人形浄瑠璃を通称「真桑文楽」と呼び、一応人形芝居の系統としては、滋賀県東浅井郡富田、長野県下伊那郡上郷村黒田につながるもので、ひろく文楽の系譜に入れられている。 しかし、ここの人形芝居に使用する”かしら”は、後述するように大阪文楽成立の寛政年間以前と思われる、古風な”かしら”が残っていることから、その発祥はかなり古いと推定される。 |
| ○源流は美濃の傀儡子(くぐつし) 人形芝居の源流は平安後期の学者、大江匡房(1041〜1111)の著「傀儡子記」に、小さな人形を胸に吊った箱などの上で巧みに操る傀儡子の集団がこの地にあったと伝えられている。また永田衡吉氏著「日本の人形芝居」にも、この地区は古く美濃傀儡族の集落の一つで、大寺院の寺域内に傀儡子系統の人形遣いが住んでいたとある。 ○大阪文楽の影響 その後、寛政から文化年間のころ、大阪の人形遣、大文吾と、その子久米八、金吾の親子3人が、大阪の不景気と病気療養のため来村し、法英寺(今は廃寺同様)に15年間滞在して、土地の人に人形の遣い方を教え、帰阪後に金吾は、大和屋桐竹門蔵となったと古老は伝えている。 中山道筋に近く、東西の往来があり、そうした芸能文化の伝承をうけたことは自然であったと思われる。 ○独特の三人遣い このように古くから伝えられた真桑の人形芝居は、始めはいわゆる「突込遣い」といって一人遣いであったが、18世紀の中頃(宝暦〜天明期)に、人形一体だけを三人遣いの形で演ずるようになり、他の文楽とは全く違った独特のものである。 義太夫の語(謡)りはなく、主遣いが謡いながら演ずるもので、囃子として笛と鼓と拍子木だけの素朴なものである。 昭和59年人形芝居の変遷を知る上で貴重であり、文化的価値も高く地方的特色があるとして国の重要無形民俗文化財に指定された。 |