阿南惟幾(あなみ これちか)
ポツダム宣言を受諾した鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣
公開日:2002/02/23
最終更新日:2006/09/03


「太平洋戦争」(当時の日本での呼称は「大東亜戦争」)開戦時の首相、東条英機の名は日本人なら誰でも知っている。(外国でも有名)
しかし、終戦時の首相、鈴木貫太郎の名を知る者は意外に少ない(と思う)。東条の後、内閣は小磯国昭に替っていたが、やがて小磯内
閣も陸軍との対立から立ち行かなくなってしまった。重臣会議(首相経験者らで構成)はよくよく協議した結果、後継首班にはかつて侍従
長を七年間務め、天皇の信任がことのほか厚い、枢密員議長・鈴木貫太郎海軍大将しかいないという結論を出した。が、当の鈴木は「私
は高齢(当時78歳)で耳も遠いのでそのような大役は引き受けられない」と言って固辞した。だが、天皇は「まげて頼む」と言った。(「耳が
遠くてもかまわないからやってくれよ」と気さくな頼み方をしたという説もある)天皇の命令は絶対である。鈴木は組閣の決意をする他なか
った。外務大臣には東郷茂徳、海軍大臣には米内光政が内定していたが、問題は陸軍大臣のポストである。ここに誰を据えるかでこの内
閣の命運が左右されると言っても過言でなかった。鈴木は侍従長時代、侍従武官として共に天皇に仕えた阿南惟幾大将の存在を思い出
し、自ら陸軍省に赴き、「阿南惟幾大将を入閣させて欲しい」と要請した。陸軍首脳は「あくまで戦争目的を完遂すること」を条件に承諾し
た。かくして1945(昭和20)年4月7日(戦艦「大和」が九州坊津沖で沈没した日)鈴木内閣は発足した。鈴木首相は就任の国民向けラジ
オ放送で「国民よ我が屍を越えて行け」と勇ましい演説をした。誰もが「戦意鼓舞」だと思った。だが鈴木の本心は別のものであった。「私
はこの戦争を終わらせる。そうすれば売国奴として殺される。(実際、終戦当日、私邸を襲撃されて間一髪で脱出している)けれども国民
は自分の死体を踏み越えて平和な時代を切り開いて欲しい」というものであったが、一般国民は知るはずもない。鈴木首相らは早期和平
の意図を持ちながら、下手な持ち出し方をして陸軍がかつての二・二六事件のようなクーデターを起こすのを恐れていたし、それよりも連
合国側が要求する「無条件降伏」などした日には天皇がどんな立場に立たされるかが分からなかったから、連日連夜の空襲で焼け野原
が増え続けてもほとんど何も出来なかった。そうこうするうち、7月26日「ポツダム宣言」なるものが舞い降りて来た。(宣言受諾以外の選
択は)「迅速かつ完全な壊滅あるのみとす」と恐ろしい言葉で結ばれていた。東郷外相はソ連を仲介とした和平工作に一縷の望みを賭け
ていたから「しばらく様子を見る、何も意思表示しない」ということで政府部内をまとめた。しかし、新聞が勝手に「政府は黙殺」と書き立て、
鈴木首相もそうコメントしたというニュアンスの報道をした。これを同盟通信社が「ignore」(無視する)と外国に流し、AP通信とロイター通
信が「reject」(拒絶する)と訳し直して報道した。当然、米国側は「日本は迅速かつ完全な壊滅を望んでいる」と解釈し、8月6日広島に9
日に長崎に原子爆弾を投下した。9日にはソ連が満州国国境を越え侵攻を開始していた。この日ようやく鈴木首相が「ポツダム宣言を受
けよう」と提案し最高戦争指導会議が開催された。東郷外相と米内海相が「皇室の安泰」だけを条件に受諾に賛成したが、阿南陸相、梅
津参謀総長、豊田軍令部総長は「皇室の安泰」の他、「武装解除は自発的に行う」「戦犯は日本側で処罰する」「日本本土占領は認めな
い」の三条件を付けよ。と強く主張した。東郷外相は「そんな条件は米国側が認めるはずがない」と強く反対した。最高戦争指導会議の
後、閣議が開かれたが結論が出なかったので、午後11時55分から御前会議が行われた。東郷外相は重ねて「皇室の安泰」のみを条件
に受諾。と主張し米内海相も同意した。阿南、梅津、豊田の三人はあくまでも三条件の付加を主張し「本土決戦の準備は出来ている」と訴
えた。ついに鈴木首相は天皇に「御聖断を仰いだ」。天皇は「私は外務大臣の意見に同意する」と述べ、続けて率直に軍部に対する不信
を述べ「このような状態で戦争を継続すれば、日本人はみんな死んでしまわなければならなくなる」と戦争継続の不可能を説いた。こうし
て「ポツダム宣言受諾」は決定した。時に8月10日午前2時30分であった。この日、日本政府はスウェーデン政府とスイス政府を通してポ
ツダム宣言受諾を通告した。しかし「天皇の立場がどうなるのか回答が欲しい」と言う意味の文言を付け加えていたからまだ正式受諾で
はなかった。12日、米国のバーンズ国務長官から回答が寄せられた。「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は...連合
軍最高司令官の制限の下に置かるるものとす」であった。「制限の下に置かるる」の英語の原文は「subject to」(従属する)だったから、
阿南陸相を筆頭とする受諾反対派は「これでは国体は護持されない」と息巻いた。特に軍令部次長・大西瀧治郎中将(神風特攻隊の生
みの親)は「二千万人程死ねば日本は負けません」と主張し必死に「本土決戦」を説いてまわった。政府と軍部の意見は再び混乱状態に
陥った。14日、再び御前会議が開催されたが天皇の「聖断」は10日のものと変わりがなかった。さらに「私の身はどうなってもかまわな
い」とまで言い、その上(終戦を国民に知らせるために)「マイクの前に立つ」と言ったので前代未聞の「玉音放送」が行われることになっ
た。「玉音放送」(「終戦の詔勅」)は迫水久常書記官長(この人物は二・二六事件の際、時の首相で義父でもある岡田啓介を救出すると
いう離れ業を演じている。ちなみに書記官長とは今でいう内閣官房長官)が草案を書き、高名な学者、安岡正篤先生(このお方は現在の
元号「平成」の考案者として、また、晩年に細木数子先生と結婚したことで知られる)が加筆し、内閣に提出された。ほぼ全閣僚が「これで
よい」との意見だったが、異議をとなえた者がいた。阿南陸軍大臣である。「ここの部分は難解である」「この表現は穏当でない」とやりだし
たのだ。米内海相は「もはやどうでもよろしいではないか」と言わんばかりに難色を示したが鈴木首相がとりなし、阿南陸相の意見が採り
いれられた。訂正になった箇所は玉音放送で最も印象的な「堪へ難キヲ堪へ忍び難きを忍び」の前の一文節「時運のおもむくところ」と
「戦局必ずしも好転せず」の二箇所であったと言われる(*)。こうして出来上がった終戦詔書は全閣僚が副署し完成した。時に8月14日午
後11時であった。阿南陸相は鈴木首相の部屋を訪れ「総理をお助けするつもりが、足を引っ張ってしまい申し訳ありませんでした」と「徹
底抗戦」を主張し続けたことを詫びた。鈴木首相は「私の方こそ貴方に助けて頂いた」と応じた。それはそうであろう、阿南陸相が「辞表」を
提出した瞬間、鈴木内閣は崩壊し和平への努力が水泡に帰してしまう。閣議、最高戦争指導会議、御前会議の最中、阿南陸相が懐に手
を突っ込むようなそぶりを見せるたび、「和平派」の閣僚は「まさか!?」と思わされたと言われる。(阿南が辞職しなかったことを根拠に、
彼は最初から「本土決戦」などやる気はなく、陸軍の暴発を防ぐため「腹芸」をしたとする説が有力視されている)阿南陸相は鈴木首相に
葉巻を一箱贈り、決然と去った。陸相官邸に戻った彼は「一死以て大罪を謝し奉る」との遺書を残し、8月15日朝、敗戦の責任を一身に背
負って割腹自殺を遂げた。誠にもののふ(武士)に相応しい、あっぱれな最期であった。(享年58歳)                        
                                                                         文中一部敬称略

(*)全体では削除個所23ヶ所101字、加筆18ヶ所58字、新規追加が4ヶ所18字、さらに天皇自らが5ヶ所訂正をなされた。(匿名希望様か
らのご指摘)
ちなみに…
阿南大将の五男、野間惟道氏(故人)は講談社第5代社長。六男、阿南惟茂氏は元駐中国大使である。

主要参考文献
「太平洋戦争がよくわかる本」太平洋戦争研究会
「一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾」角田房子
「日本の歴史 第25巻 太平洋戦争」中央公論社編
日本のいちばん長い日」大宅壮一編





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