転勤族の妻物語
キティは転勤族の妻である。
いわゆる箱入りネコだったので、親が用意してくれたお見合いにすんなり乗って結婚した。
見合いの時に、転勤はあるが関東近辺だからという言葉を信じたのが大きな間違いだった。
 当時ダニエルは群馬県の高崎市に赴任していたので、キティはピアノを担いで3DKのピンクのマンションに移り住んだ。群馬の人は人情が熱く、気さくでいい人達ばかりだった。
 結婚3年目、ミースケも生まれて家も新築して幸せの絶頂期の時に、恐怖の内示が出た。
「長崎・・・・」。えーっ!!!なななな長崎??転勤って関東近辺じゃなかった?
長崎って関東だった?なんで家も建てて、子どもも生まれたばかりなのに、引越さなけりゃいけないのよ〜。・・・あんまりだ。
家なんて半年しか住んでないよ、それも産前・産後の3ヶ月ずつ。やっと荷物も片付いたのに!
だからと言って単身で行ってもらうわけにも行かず、長崎へと引っ越す事なった。
キティファミリーは転勤で群馬〜長崎〜宮城〜千葉へと渡り歩いている。転勤ってことは
キティにとって、すべて振りだしに戻って0からのスタートになるってこと。
ひどく情にあつくて、その土地と人と深くつながりを持つキティには、転勤で新しい土地に行くのはものすごくエネルギーがいるんだ・・。生徒との別れも身を引き裂かれるほどつらい。
でも新しいところへ行けばまた素敵な出会いや経験が出来ると思って、毎回歯を食いしばって泣きながらダニエルについていっている。
・・・・文にすると大げさだなあ(正直な気持ちなんだけど)
 H2年9月下旬に生後3ヶ月のミースケを連れて長崎入りした。。長崎の家は城山台といって稲佐山の隣の山の上にあった。路面電車があるだけでも驚いているのに、山の天辺に住むのかと思うと、別世界に来たような気分だった。赤ん坊がいると、なかなか荷物も片付かない。
日中荷ほどきに明け暮れて、夜ふと外に出て見ると夜景がキラキラ光っていた。
思えば遠くに来たもんだ・・・ほんと私って天蓋孤独なんじゃないの?寂しくなって泣いたのを覚えている。
 荷物も片付いた頃、ベビー用品を借りようと思ってタウンページを調べた。そのなかに「ざぼんちゃん」という可愛い名前のレンタルショップがあって、その店はレンタルの他に赤ちゃん教室もやっていて、おまけに託児サービスもあった。
これだ〜!!いつまでも家に閉じこもっていられないよね。早速ベビーカーのレンタルの電話
とともに、赤ちゃん教室の申し込みもした。別に赤ちゃん教室でミースケを英才教育する気なんてまるでなく、単なる親子の気晴らしのつもり。先生はやさしいし、同じ年頃の赤ちゃんのお母さんと一緒にいるだけで、安心できた。
 親子で家に閉じこもっているなんて、イヤだもんね。
天気のいい日はミースケを抱っこして街に繰り出し、あちこち食べ歩いた。その土地に慣れるには、まず食からだよ、というのが私の考えなのだ。
後は育児雑誌もくまなくチェックし、長崎に来たばかりの人がお友達募集をしていたから、連絡して会ってみた。親も子も同じ年だし、転勤族ってことですぐに仲良くなった。
やったー友達1人できたっ。
 その彼女が近くの公民館でやっている、育児サークルを紹介してくれた。キティの友達の輪
は、ここから広まった。育児サークルは、いろんな職業のお母さんがいて話を聞いているだけで勉強になった。そこから枝分かれした育児サークルの仲間が長崎初の育児情報誌を作ろうよ!と言い、有志で手作り育児情報誌を作り始めた。雑誌名は
「ちゃんぽん倶楽部」。長崎はちゃんぽん・皿うどんが有名だからね。地元にちなんだ名前でセンスいいと思わない?
内容といえば、幼稚園見て歩き・かかりつけの病院・お出かけスポットなどなど・・・。キティは何を担当したかと言うと、食べ歩きの腕をかわれて、「親子でお食事(親子で安心して食べられるお店特集)」コーナーを受け持った。これならキティにもできる。記事を書くのも楽しかったし、取材と称して大エバリで食べ歩きに磨きをかけた。
 なんでも新しい事を始めるのって大変な事だ。今ではどこの本屋さんにも置いてあるみたいだけど第1号は手刷りで作ったし、お店・病院を回って情報誌を置いてくれる所を探した。交代でメンバーの家に集まって、原稿を切り張りして。でもそんな作業がとても楽しかったし、ミースケもいつも友達と遊べて喜んでいた。そうそう、ちゃんぽん倶楽部も軌道に乗ってきた頃、地元のテレビ局から、ちゃんぽん倶楽部の特集を組む為の出演依頼があった。キティは編集長と出演したんだ。緊張したけどいい思い出になったなあ。テレビに出れるなんて、この先事件でも起こさない限りありえないもんね。遠くの親戚より近くの他人・・・・まさにその通り。こうして長崎も2年目くらいから、たくさん友達が出来て楽しくなってきた。

 人生ってあるきっかけで180度コロッと変わる事がある。長崎に来たのはこのためだったのかな?と今でも思っている。きっかけになった人はJ先生。J先生は調律の人がキティに紹介してくれたピアノの先生だ。赤ん坊がいるのでしばらくピアノはお預けだと思っていたが、折角紹介してくれるのなら気分転換に習ってみることにした。ミースケは例の「ざぼんちゃん」の時間預かりを利用することにした。子どもを預けてせっせと習いに来るキティをめずらしく思ったのか、
半年くらいたって先生が 「そんなにピアノが好きなら指導グレード受けてみない?」とおっしゃった。は?「しどうぐれーど?」ああ腕試しみたいなもんか、自分がどの程度の腕前かわかるし受けてみようかなあ・・・。なんでも誘われたり、勧められたりすると断わらない性格なのでやってみることにした。だけど、考えが甘かったよね。今まで弾く事しかしていなかったから、音楽全般の事って無知も同然だった。とにかく勉強しなくっちゃ! 思いもよらぬママさん受験生の誕生になってしまった。ミースケはまだ1才だったから、朝夕2時間昼寝をする。この時がピアノの練習タイム。寝たー!と同時にピアノに向かって無我夢中で練習した。楽典・聴音・初見唱などは朝早起きしてすることにした。早起きはつらいから馬の鼻先に人参じゃないけど、ケーキとかお菓子をエサに頑張って起きた。(その頃キティは産後全然やせなくって太っていたの。だから日中は甘いもの我慢してた。朝なら大丈夫だろうというわけ)そんなこんなで2年間かけて2つのグレードを取った。うれしかった〜、しかし30になって赤ん坊かかえて我ながらよくやったよ。

 しかしキティはさらに偉くって、実はもう1つお勉強?していたのだ。それは運転免許取得の。
あまりにピアノにはまって、免許書き換えを忘れて1年過ぎていた。ということは失効で取り直さなければならない。なんでここまでドジなのか・・・1つのことに夢中になったら他が見えない。
悲しいかな若者に混じって、早朝運転免許試験場にせっせと通った。筆記試験は楽勝だと思ったら大間違いだった。長崎には路面電車が走っているので、その関連の問題が多い。(キティの実家は路面電車なかった)道路標識も普段無視して走っていたから、記憶が曖昧。音楽用語覚えるのだって大変な時なのに、苦労が倍になった。仮免もまさかの2度の落第。基本を忘れていたらしく、細かいチェックですぐ落とされた。こんな思いするなら、もう運転できなくってもいいや。自分から事故をおこす心配もなくなるし。なかばヤケになった3回目にやっと受かった。あとの路上はもう楽勝、あ〜やれやれ。晴れて、免許証を再び手に入れた時、友達がお祝いにワインを送ってくれた。自分のドジのせいだけど、苦しみながら免許を取り直したキティを暖かく見守ってくれていたんだなあ。今となっては楽しくいい想い出になっている。

ピアノの勉強したり運転免許をとったり、ミースケを抱えながらできたのは、ありがたや「ざぼんちゃん」のおかげだ。ざぼんちゃんは今も健在なんだろうか・・・・
ふと思いついてネットで検索してみたらあったわ〜。ざぼんちゃん(←かわいいHPだから見てね!)料金は10年前とほとんど変わっていない、良心的だなあ・・・。キティは当初30分400円の時間制を利用してピアノのレッスンに行ってた。ところが月2回だと会員制(月25時間)の方がお得だとわかり、会員制になった。それだとピアノのレッスンの日は、早めに預けて家で練習してから行けるし、月末になって時間が余ったら街に出てのんびり買い物もできる。これかまたストレス解消、リフレッシュして子どもに接する事が出来てとてもよかった。自分が具合の悪い時もざぼんちゃんに預かってもらって、休む事も出来た。実家は遠くともざぼんちゃんのおかげで育児ノイローゼと無縁だった。今はこういう託児所たくさんあると思う。キティのように実家が離れている人は、お勧めの方法だと思う。ミースケはと言うと、預けた瞬間はピーピー泣くけど親の姿が見えなくなるとケロッとしていたらしい。お迎えに行くと、ニコニコお友達と遊んでいた。ざぼんちゃんを卒園?しても園の前を通ると、「ちょっと行って先生にあいさつしてこようかな〜」などと言っていた。あの子にはどんな思い出があるのだろうか・・・・。

 ざぼんちゃんはミースケが3才9ヶ月までお世話になって、4月からは「えのき学園」という保育園に通った。えのき学園は海に面した小高い丘の上にあった。この園ののうわさを聞いて見学に行った時、うわ〜こんなに海の近くにあるんだ!と感激した。自宅から園に行くまでの間は、緑多い山道をひたすら走る。子どもの頃にこんな自然を身近に触れさせられるのは、この先何処へ行くかわからない転勤族の子どもには、貴重な経験をさせられると思った。海の潮風を浴びながら、園庭を元気一杯走りまわるミースケの姿が頭に浮かんで即座に入園を決意した。
と、ここまで書くとミースケのためだけにこの保育園を選んだよき母という感じだけど、ちゃっかりキティにとっても都合のよい園だった。まず保育園なのに園バスがあった。(おまけに家の前まで来てくれた。)ミースケの帰りが4時過ぎくらいなので、たっぷりと自分のことに没頭できた。

 J先生から指導グレードをとったら、教える事も勉強になるから生徒をとるよう勧められていたので、ミースケが入園したらピアノを教えたいなと思っていた。しかし先生は簡単に勧めてくれるけど、はてどうやったら生徒って集まるの? 家は借家だし看板だせないし、まして半径50m四方に2軒もピアノ教室あるわ。考えているうちに大型スーパーに、広告を載せてくれる掲示板があったのを思い出した。キティの家を中心にして、東と西(南と北だったかもしれない)に離れていて遠いけどまあいいや。とりあえず出してみた。しばらくして、どちらからも1件ずつ問い合わせがあった。1人は60を越えたご婦人なので、こちらから出張で伺った。もう1人は親子でバスを2つ乗り継いで来てくれた。そのうちにキティのピアノフリークぶりを見守ってくれていた友人たちが習いに来てくれて、だんだんお教室らしくにぎやかになっていた。ピアノを教えるにあったってのキティの夢は、小さい頃習っていたけどやめてしまった大人の人達に、もう1度ピアノを弾いてもらうことだった。ピアノってちょっと練習方法を変えれば、すごく楽しく弾けるんだよ、すてきな曲もたくさんあるんだよと言う事を伝えたかった。タイミングよくいい教材に出会って勉強できたので、子どもの指導も楽しくできた。そんなわけでキティの所は親子で習いに来てくれる生徒さんが大半だった。お祭り好きなものだから、4ヶ月に1度くらいみんなで集まっては、ピアノをひいて1品持ちよりパーティーをした。長崎に来て3年過ぎた頃は、ピアノを中心に毎日が楽しく過ぎて行った。

 OL時代以来の仕事で、自分で収入を得るのもうれしかった。入ったお金の大半は勉強会の参加費と楽譜代で消えて行ったが、残ったお金を趣味に使う気分にはなれなかった。
ピアノを教えるようになって、初めて気付いたけれど、ピアノの先生ってほんとにたくさんいるんだ。そりゃそうだよね。毎年音大生がたくさん卒業して、何割かわからないけど町のピアノの先生になるんだから。キティの近所も多かった。そんな中でキティのところへ習いに来てくれる生徒さんがいるというのは、不思議な気持ちと感謝の気持ちで一杯だった。だから頂いた月謝って、なんかとっても重みがあったんだ。大切に使いたいと思った。
 少しずつ貯まるお小遣帳(キティちゃんのだよ)をながめながら、「そうだ〜!ピアノが欲しい、グランドピアノ」ふと思った。だってこんなにピアノが好きなんだもん、やっぱりグランドで弾きたいよ。音もタッチもぜんぜん違うよね」そう思いはじまったら止まらない。それからは鬼のような貯金が始まった。お月謝だけでは気の遠くなるような年月がかかりそうなので、ダニエルには悪いけど生活費も節約して積もり貯金をした。結果2年くらいかかって、念願のグランドピアノが我が家に来た。ピアノは音が3段階で減音できるものを選んだ。住宅事情が定まらない転勤族にはありがたい。
 今でも思っている。このピアノは長崎のみんなのおかげで今こうしてここにあるんだって。
ピアノを弾いていると、時々長崎のことをしみじみと思い出したりする。

 転勤族といっても、キティのところは何年サイクルというものがない。ダニエルは群馬に9年いた。長崎も結局はまる9年いたことになる。だいたい最初の3年は「まだ、大丈夫だろう」とノンビリ過ごしている。4・5年あたりから毎年異動の時期には、落ち着かなくなる。
キティは毎年夏に発表会をしたんだ。夏に内示が出るのでその前に発表会をして、大丈夫だったらまた1年間頑張ろう、内示がでたらそれが最後の発表会になってケジメがつけられる。
だから毎年発表会が終わると、キティも生徒さんも何だか落ち着かなかった。合格発表(この場合当たらない方がいい)を待つ気分と似ていた。
ミースケもなんとか、えのき学園だけは卒園させてから転勤したいと思っていたが、小学3年までいてキティは学校の役員までしたというオマケがついた。
 長崎最後の発表会は、今思うと本能で最後だと感じていたのかな?やりたい事がたくさんあった。フルートにヴァイオリン・歌・和太鼓・ギター・バレエ・そして友達のピアノ仲間にゲスト出演してもらってお祭りのような発表会になった。当然4時間にもわたる長時間で(時間とお金の配
分苦手)最後にキティが張り切ってかわいいドレスをきてソロを弾く頃は、お客さんはまばらだった。そんなお祭り発表会が終わって、翌週か翌々週かにとうとう内示がでた。
 行き先は仙台だった。群馬から来る時とちがって長年いたし、ある程度覚悟はしていたので、落ち着いて受け入れられた。それに「仙台」っていうのが、運命のような感じで驚きだった。
キティはアメリカの作曲家ギロックが大好きで、日本ギロック協会に入っている。協会は各地に支部があって、その中で友の会活動をしている。長崎に協会の会長がみえた時に、キティは冗談まじりで「今度はどこに転勤かなあ〜」って言ったんだ。会長が「そうやなあ・・・東北はまだギロックの輪が広まっていないから、仙台に行ってくれへん?」と言われた。そしてまもなく仙台に内示がでたもんだから、もうびっくり!こりゃあギロック仙台でひろめるぞ〜と固く決心した。
 ただ1つ気が重いのは、生徒さんに転勤のことを伝えることだった。
                                           
 転勤の事を伝えるその週は、えらく気が重かった。月曜の生徒さんから1人ずつ。子ども達の反応はなんてことなかったが、お母さんたちは「ああ・・とうとうきてしまったか」という感じだった。 キティのところへは8家族が習いに来てくれていたけど、毎週親子で会うもんだからほとんど家族同然のように接していた。仲良くなりすぎても別れがあるとつらいもんだ。
だけどすごくキザな言い方のような気がしていやだけど、離れていてもお互いピアノを弾いている時は心が通じていて、見えない糸でつながっているよね・・・そう思うようにした。
引越の1が月前までレッスンして、最後はにぎやかにうちで「お別れパーティー」をした。

 長崎最後の1ヶ月はすごかったなあ・・・・。連日送別会の嵐。ひたすら食べまくっていた感じだ。夕方まで出歩いて、夜に荷造りをする日がつづいた。だれも知り合いのいない土地へポツンと来たのに最後の頃は、50人を越す友達ができたわけだ。
キティはよく長崎は第2の故郷だと言っているけど、独身時代を過ごした実家よりも愛着があるから、本当の故郷だと思っている。

さあ、仙台に行ってまた0からスタートするぞ!今度はどのくらい頑張れるか?また自分の力を試すのに調度いい機会かもしれない。そう思って仙台へ引越して行った。
                                               
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