『新・街道をゆく』その3
〜黒島への道(前編)


 未開の地、黒島。
 八重山には何度も訪れた。石垣島をはじめとして、西表島、与那国島、竹富島、小浜島、そして波照間島と多くの島に渡った。思い出はたくさんある。しかし、黒島への渡航はいまだ果たせずにいた。
 僕は特にここ八重山の全島を踏破しようという野望はない。だからというせいもあるが、何度となく八重山を訪れているうちに、その義務感にも似た開拓意欲はいつしか失われていた。きっかけを持たぬまま、なんとなく島影だけを望むだけの年月が過ぎていった。
 もちろん、黒島の価値ある存在は以前から知っていた。だが、八重山の個性的な島々を歩いているうちに、妙な先入観が入交ってしまったのか、島に渡らずとも自ずと黒島の集落風景や海岸、風にそよぐ木々が浮かんでしまい、それは当たらずとも遠からずであることに勝手な確信を抱くに至ってしまった。だったら、特に訪れる必要はないかなと、つい思っていたのである。

 S氏の積極的な薦めもあって、黒島への渡航がその日の朝食中に決定した。
「せっかく(八重山まで)来たのだから、行ってみよう」
 S氏も黒島には行ったことがないと言っていた。天候も幾分か回復の兆しを見せているようである。これなら申し分ない。
 以前から未開の地を訪れるにあたっては、なぜかS氏とはよく意気投合する。こと、旅に関しては嗜好がよく似ているのである。これといって行くあてはない。悩んだわりにはすんなりと決まった。
 ただ、黒島についての二人の見解はそれほど期待に満ちていない。のどかな牧牛のいる島、といった程度のものである。

 朝9時を過ぎた石垣港は、それまでの出船ラッシュの喧騒もおさまり、同時に立ち込めるディーゼルオイルの不快な空気も一掃されたためか、風が気持ちよく静かで落ちついている。
 乗船券を買い、これから乗る船を確かめると、まだ出航まで時間があったため、しばらく港を歩いてみた。いつもそうだが、港でありながら海の色が美しい。本土でのいわゆる海臭さもなく清潔な爽快感がある。様々な離島行きの時刻表があったので立ち止まる。
「あ、やっぱりね」
 西表島北部の主要港、船浦行きの便が全て欠航とあった。先日の外国船沈没は、この方面のさらに沖で起こったため、しばらくこの航路は閉じられることであろう。ちなみに、この船浦行きの航路は普段はともかく、悪天候下では史上最悪の船旅を経験できる。詳細は言えないが、8年前、「地獄船」、と僕はそれを命名した。

 出航間近になり、僕とS氏はサザンクロス3号に乗船する。前方のデッキから乗り込み、乗客もまばらな客室内をそのまま通り抜け、後方のデッキに出た。座席も充分にある。先客が一人、若い男性の旅人がいた。天候が悪くなければ、エンジンの騒音は無視するとして、思いきり海を渡る風を浴びることを楽しむ。これもまた極上の時間である。出航に際して、船が180度反転する。エンジンがうねり出す。
 港が遠く離れていくのを見つつ、僕はいつものように一言を発し、厳かに歌い出す。エンジンの出力が一気に上昇した。

「ヤマト、発進!!」

  さらば地球よ 旅立つ船は
  宇宙戦艦ヤーマートー

 快調な航行だ。港を出たが、思った以上に海が穏やかだった。空を見上げると、ところどころ薄くなった雲の切れ目から青空が覗いている。ときおり、そこから陽光が差し込むと、あたりの海がにわかに鮮やかさを増すのがわかった。
 僕は一番後方のベンチから左舷に広がる波きらめく海を見ている。S氏は右舷の手すりとポールに立ったまま寄り掛かり、間近に迫った竹富島の島影を眺めている。
 竹富島の横を通り抜けると、じきに左前方に黒島の姿が見えてくる。約30分の短い船旅である。西表島の大原港よりはるかに近い。

 黒島は、方言名「サフシマ」。語源は不明だが、サンゴの島が転じたとも言われている。石垣島から南東に19キロ。八重山諸島のちょうど真ん中に位置する島である。周囲12.6キロ、島の最高標高は14メートル。この島もまた限りなく平坦な島である。 主要産業は酪農。肉牛の生産が盛んらしい。聞くところでは、牛の数が人口の9倍だという。集落は北部の港近くに保利(ほり)、東部に東筋(あがりすじ)、西部に宮里(みやざと)の3村ある。

 もう島が目の前に見えてきた。薄日に照らされた森の緑が鮮やかに映えている。全くもって最後まで順調な航海、のはずだったが。
 港への護岸の堤防まであと少しのところで、船が何度か軽く跳ねた。そのことは驚くに値しないのだが、その後のことである。着水と同時に撥ね上げられた海水の飛沫が、うまい具合に風に乗って僕のほうへと向かって飛んできた。
「あっ」
 その瞬間、時の流れが妙に遅くなるのを感じた。かなりの数である。水滴一つ一つの形までもが鮮明に捉えられた。今ならその数をかぞえられる。かぞえてみようか。いや、それよりこれからどういうことが起こるのかを考えたほうがいい。これだけの数だ。さぞかし被害を被ることであろう。でも、きれいな海の水だ。汚れるわけじゃない。別に構わないか。とは言っても、どちらかと言えば濡れないに越したことはない。よし、一か八かだ、全部よけきってやろう、この時間の流れならそれは可能だ。
 と思った瞬間、時間が元の流れに戻った。
「バシャーッ」
 僕は一人でその飛沫の8割がたを受け止めた。いくらきれいな海とはいえ、水は塩辛かった。服よズボンよ、早く乾いておくれ。

 船が港に着岸した。僕にとっても、S氏にとっても初めての地、黒島にとうとう記念すべき第一歩を記したのである。
 薄日が差し込むなか、気温も上昇してきた。幸先がいい。
 さあ、黒島を探検だ。さっそく、S氏とともにレンタサイクル屋を目指した。

 (後編、もしくは中編に続く)
  八重山旅行の締めくくりは黒島だった。
  飛沫を浴びて身を清めた筆者、それに全く気づかなかったS氏は
  初めての地、黒島で何を見るのか。乞う、ご期待。




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