「マスコミ市民」に005。4(435号)掲載

 

 

「人権擁護法案」―なにが問題か

                               前衆議院議員

                                 植田 むねのり

 

1.唐突な再提出への動き

 

 2002年3月に法案が提出された当時、個人情報保護法案、さらには自民党の一部が検討を始めていた「青少年健全育成化法案」とともに「メディア規制三法」とマスコミによって喧伝されたことで、人権擁護法案は広く知られることになった。結局、翌年の衆議院解散に伴い廃案となったのだが、今国会でほとんど同じ内容で成立をめざす動きが活発化している。

 前回の法案との違いは、(1)メディア規制と呼ばれる条項を凍結する措置をとる、(2)見直し条項を付け加える、という2点とされている。そこで、メディア規制条項を凍結ではなく削除すべきだという意見も出てくるわけだが、実はこの2項目は、前回の法案提出後、かなり早い段階で与党サイドから修正項目として非公式に示された内容となんら変わりがないのだ。(1)の点は、当初から反発が大きかったことによる妥協案であることは言うまでもない。(2)は、当時野党や運動団体が、新たに設置するとされる人権委員会を法務省の外局ではなく、内閣府に設けることを主張していたことに対応したものであった。

が、これを野党側が呑むことはなかった。なぜなら当然、(1)は凍結ではなく削除すべきだし、(2)のように見直し条項を設けたところで、一度法務省が抱えてしまえば、所管を替えるなど実際にはほとんど可能性がないことは明白だったからである。

にもかかわらず、今回の経緯で不可解なのは、内容の詰めがなされないまま、今国会で成立をめざすという獲得目標だけが、与党と民主党との間で事実上合意されてしまったことだ。摩訶不思議と言うほかない。

もちろん、私も人権侵害の被害救済を行う「国内人権機関」創設が喫緊の課題であることは認識しているつもりである。1996年に制定された人権擁護施策推進法によって設置された人権擁護推進審議会が、少なくとも新たな機関の創設をすでに答申していること(その答申が国際潮流を踏まえていないという重大な問題を抱えてはいるのだが)、国際的にも、政府から独立した機関の設置が潮流となっており、いわば日本における「人権水準」が問われていることは言うまでもないからだ。しかしその機関が法務省の外局である限り独立性が保障されることはあり得ないし、かかる「国家機関」によって、人権擁護の名のもとに、市民生活におけるさまざまな自由が侵害されることは到底許されるものではない。

 むろん法案を、そのまま受け入れることはできない。

 

 

2.メディア規制について

 

 マスコミが総じてメディア規制により言論の自由が著しく侵害されると反発しているのは、特別救済と呼ばれる措置の対象に、「報道による人権侵害」が含まれているからである。特別救済とは、立ち入り検査などの特別調査、調停・仲裁、勧告・公表、訴訟援助などの措置をとるものであるが、報道機関等が対象となるのは、犯罪被害者、犯罪をおかした少年、被害者及び加害者の家族、親族に対する「その者の私生活に関する事実をみだりに報道し、その者の名誉や生活の平穏を著しく害する」報道、またそれらが取材を拒否しているのにも関わらず過剰な行為を行った場合とされている。また報道機関に対しては特別調査は行わず任意調査にとどめるとしている。これらの規定から法務省は、メディア規制を意図するものではないし、例えば政治家や官僚のスキャンダル報道は対象とはならないと説明している。

 法務省が言うとおり、報道機関等については犯罪報道の一部に限定していることは事実であるし、例えば「東電OL殺人事件」報道のように、被害者のプライバシーがさらけ出されることで、遺族が深い傷を負わされることになった事例も記憶に新しい。報道による人権侵害がまったく起こりえないとは断定できないし、そんなことあり得ないと無謬性を誇るマスコミ関係者もおそらく居ないだろう。しかし問題はそのことにあるのではない。そもそもこのような人権侵害に法務省傘下の機関が裁きを下すことの妥当性が問われるのである。

 メディア規制の問題点は、

(1)政府案のメディア規制が限定的でありかつ当面は凍結されたとしても、いつ凍結が解除されるかは政府のさじ加減次第だし、一度条項を設けてしまえば、拡大解釈が可能となりかつ法改正で適用範囲を広げることもできる、

(2)本来、報道による人権侵害については、報道機関の自主的努力に委ねるべきで、政府の機関が介入するのは、明らかに言論、出版の自由を侵害するものだ、

 という、おおまかには二点に集約されるだろう。

(1)   については、削除ではなく凍結にこだわる法務省のかたくなな姿勢をみても、「こ

の条項を突破口にするのではないか」と警戒するのはむしろ当然であろう。(2)も、政府案が法務省の外局とするだけでなく、現在の法務省人権擁護局、すなわち人権「行政」の一部をそっくり委員会に移行させようという構想である以上、その機関が報道による人権侵害を対象とすれば、政府の人権行政によってメディア規制がなされることになる。言論、出版の自由を侵害する蓋然性は高い。

 ただ私は、今後、メディア規制削除を求める声が強まれば、政府・与党は修正に応じる可能性は十分あると予測している。というのは、次に述べるように法務省が意図するその主眼はメディア規制にあるわけではないからだ。法務省外局を野党側が呑めば、メディア規制削除で妥協することは、実は法務省にとって痛くも痒くもないことなのである。

3.人権の「支配」こそ阻止すべき

 

 関心を持つ人々の間ではよく承知されていることだが、法案にはメディア規制はもちろん、民間で起こる人権侵害には厳格な対応が整備されているのに比べて、公権力による人権侵害の被害救済の実効性が疑わしいという問題がある。

 人権委員会が法務省の外局となればどうなるか。前回廃案の一因ともなった「名古屋刑務所事件」はまさに、法務省という公権力による人権侵害そのものであったが、このような法務行政の中で起こる人権侵害を法務省の外局たる委員会がその調査、救済にあたるというのでは、手前味噌の内部調査の域を超えず実効ある救済が期待できないことは火を見るよりも明らかである。

また、法案では人権委員会は地方事務所を設置することになっているが、なんと地方法務局に事務委任するというのである。国を被告に訴訟を起こせば、被告側で登場するのは法務局の職員たちである。ある人が公権力(国)から人権侵害を受けたとして相談に赴く先も、仮に同じ件で裁判に訴えた場合被告席に座るのも、どちらも法務局の職員なのだ。人権委員会とはジキルとハイドの如きものと言うべきかもしれない。

 このように、公権力による人権侵害に対して関心が払われていないというよりも、人権委員会の設置は、公権力による人権侵害を隠蔽する意味を持っているととらえるべきなのだ。

 このことにこそ、人権擁護法案の本質を見定めるべきなのである。

 行政が新たな機関を創設するなど行政改革の流れのもとでは、並大抵のことではない。そのなかで国際的な要請、国内の人権問題への関心の高まりを逆手にとって自らの省益を広げる手段とする法務省の姿勢を見過ごしてはならない。周知のとおり、国際基準として人口に膾炙しているパリ原則(「国内人権機関の地位に関する原則」)では、国内人権機関について、政府からの独立性、その人的構成の多元性を保障することを明確に述べている。しかし、法案はこの基準には程遠く、単に政府機関を一つ増やすものにしかなっていないのである。

それどころか人権擁護の美名の下に市民生活を抑圧し、その一方で公権力による人権侵害は内部処理でお茶を濁すためにこそ人権委員会はその真価を発揮するといっても決して過言ではないのである。

 気がかりなのは、関心がメディア規制に集中している状況を呈していることである。むろん、メディア規制が看過できるわけではないが、だからといってそれが法案から削除されたからといって「よりまし」にはなりえないことも忘れてはならない。むしろメディア規制問題は、本来の意図から目をそらさせるための役割を果たしている側面があることに注意を喚起しておきたい。