【誹諧武玉川とは】
☆「誹諧武玉川」とは? (簡単な説明)
江戸時代中頃の、川柳と同じような句集ですが、五七五の句と七七の句があります。
川柳の兄貴分にあたるものですが、川柳ほどわざとらしさや毒がなく、脱力系・癒し系の良さがあります。
☆「誹諧武玉川」とは? (少し詳しい説明)
江戸座誹諧の高点附句集で、慶紀逸が点者(選者)となり指導した俳諧連句の中で秀れた付句を集めたもの。付句は本来前句と合わせて味わうものだが、あえて前句を省略し付句だけ集めた句集で、五七五の長句と七七の短句がある。寛延三年(1750)の初篇から安永五年(1776)の十八篇まで刊行され、宝暦十一年(1761)の十五篇まで慶紀逸が編者であるが、宝暦十二年(1762)に慶紀逸が没し、十年ほど間があいた後の十六篇以降は二世紀逸四時楼英窓が編者である。
俳諧と川柳の間を繋ぐものとしての文学史上の意義があるといわれる。
☆なぜ武玉川か
私が最初に「武玉川」に出会ったのは、朝日新聞の「折々のうた」に出ていた次の句でした。
鶴の死ぬのを 亀か見てゐる
鶴は千年、亀は万年ですから、長命の鶴も亀には「若死にで気の毒だなあ」などと言われてしまうわけです。この妙な発想と七七の表現は長く心に残っていました。
最近になって、おみくじソフトを作るために古川柳を調べているうちにはまってしまい、武玉川を最初から通しで読んでみようとしたのですが、ほとんどの句が意味不明であっと言う間に挫折しました。それでもめげずに、勉強しては何度もチャレンジしています。
武玉川に限らず江戸川柳系のものは、全く意味不明にみえる句でも、一言のヒントさえあればすぐ意味が分かるものも多いようです。そこで、武玉川の解釈のヒントを一句ずつ表示するソフトを作ろうと思い立ちました。俳諧武玉川第四篇までほぼ通読したので、とりあえずそこまでの成果をMacOSX10.4用フリーウェア「武玉川」としてアップロードします。→ デラシネソフト
自分は国文学の専門でもないし日本史の専門でもないので、その解釈はきわめていい加減で、本当ならとても公開できるようなしろものではありません。しかし、一人でも多くの人が「武玉川」を知るきっかけになればと思い、あえて恥を承知で公開させていただくことにします。(正直、「Macユーザー」と「武玉川に興味あり」のかけあわせ条件で検索かけて残る人は、下手をすると日本でも数人くらいしかいないかもしれませんが。)
そして、このホームページはMacユーザー以外の方にも「武玉川」を知るきっかけになればと開設しました。また、フリーウェア「武玉川」では文が短かすぎて十分説明できなかったことや、アップロード後に解釈の誤りに気づいたことも多くありますので、フリーウェア「武玉川」の内容的なバグのサポートページでもあります。
で、自分流に解釈を試みていく中でなんとなくわかったことは、
・武玉川や古川柳で詠まれる世界は本物の江戸の社会に近いが、そのものではない。むしろある種の仮想現実世界なので、その世界の定石・常識・ルールを熟知することが重要。(信濃者は大食だとか、嫁は百人一首が得意だとか、若旦那が勘当されればまず銚子に身を寄せるとか)
・その意味でも、類句があれば解釈の最大の鍵になる。
・句の全ての単語が解釈に結びついていない場合は、何か足りないか全く間違っている。
・武玉川の句にはちゃんとした前句があった筈なので、それを見ない限り意味が確定しない場合があり得る。それでも、一句立ちの概念を考えるとその句だけでも何らかの解釈ができなければいけない筈である。
・真に正しい解釈は一つであろうが、現時点において複数解があってもやむを得ないし、絶対に解釈できない句もあると思われる。なぜなら、同時代の点者が正しい解釈でその句を評価したとは限らないし、今は完全に失われた情報が前提になっている句もありえるからである。(柄井川柳が現場へ行って初めて納得いったなどという難句もあるという。そんな句を現代人が解釈出来なくても当然である。)
・バレ句にひっかからないようにする。というか、バレは基本の一つである。
江戸中期の句の意味がわからない時に、ずっと後の例えば江戸末期の「守貞謾稿」を見て、ああそういうことかと納得いく場合があります。このように百年もあとの資料が通用すること自体現代では考えられないことで、やはり江戸時代の庶民生活の変化の速度は今よりもずっと遅かったのでしょう。
☆「武玉川と柳多留の成立」 (これはよほどひまな方だけ読んでください)
武玉川とは何か、川柳とどう違うのかを理解するため、自分の勉強も兼ねて無謀にも俳諧・前句附・武玉川・柳多留の成立について解説を試みたいと思う。(私は国文学や日本史の専門家ではなく、単なる武玉川ファンなので、多少の間違いは大目に見てやってください。なお、ここでは連句=俳諧=俳諧の連歌=滑稽の連歌とみなして説明します。)
そもそも万葉集のころからかけあい歌として句に句を付けることはあった。それが平安時代に「短連歌」となるが、これは五七五の長句に七七の短句を付けて一つの和歌にする二句構成である。平安末期には、付けられた短句にまた長句を付けまた短句を付けと続く「鎖連歌」となり、鎌倉時代五十韻・百韻の「長連歌」が普通になり、一定の規則、すなわち室町初期の応安新式等の式目が整備されていった。連歌は鎌倉時代から南北朝期にかけて大衆化・俗化し、室町時代には連歌の余技として座興に言い捨てられる滑稽な後の俳諧と同じものもすでに出現している。(南北朝期に二条良基らが編纂した連歌集「菟玖波集」には俳諧も含まれていた。)室町後期、宗祇らが准勅撰連歌集「新撰菟玖波集」を編纂し、ここでは滑稽な俳諧的要素を取り去った純正連歌を大成させた。その排除された俗な部分は「竹馬狂吟集」や山崎宗鑑の「犬筑波集」としてまとめられ、純正連歌師の余技であった俳諧の連歌=俳諧が一つのジャンルを形成することとなる。
「俳諧」は五七五の長句と七七の短句を交互に詠んで行くもので、多くは数人の一座でおこなう。前の句すなわち前句に単語や意味や雰囲気で関連を持たせて(言葉の連想、意味の展開、余情の映発)次の句すなわち付句を詠む。それだけでなく様々な約束事があり、それを守らねばならない。連歌と俳諧は交互に長句と短句を付け合うという点では同じであるが、和歌や連歌に使われない言葉、すなわち俗語・漢語・当世語などを詠み込んだ連歌が俳諧である。江戸時代に入って俳諧はすでに確固たる存在となり、専業俳諧師も出現した。1650年前後の約40年間、松永貞徳を中心とする貞門俳諧が京都を中心に盛んになる。この流派は温和上品な作風で手法も高度化した。しかし、連歌や連歌式目への回帰傾向があったため次第に飽きられていく。これに対抗するように大坂を中心に西山宗因らの談林俳諧という自由奔放な作風の流派が1670年代に台頭し、啓蒙的な貞門俳諧を井原西鶴のような新興町人階層に引き継いだ。
さて、俳諧のほかに、宗匠の出す前句に付句を付ける「前句附」が行われた。もとは連歌の稽古であったが、俳諧の稽古としては1660年頃から行われ、元禄に確立・大衆化した。元禄期の前句附は、俳諧の宗匠が点者として前句を出題し、会所を通して付句を公募し、投稿者は投句料を添えて付句を投稿、点者の選句は会所本という小冊子として出版され、高点句に賞品を与えるものであった。前句はしだいに単純化し、付句は奇をてらうようになり、あるいは賭博化して禁止されたりもしたが、天明頃まで流行した。宝暦(1751〜)のころ前句附の点者が輩出し、その中に柄井川柳がいた。柄井川柳の頃は、点料十二〜十六文を添えて川柳万句合取次という看板を掲げた取次所に付句を投句し、八月から十二月まで毎月五日、十五日、二十五日を締め切りとして応募句から勝句を川柳評万句合勝句刷という摺物にして発表した。入選の景品は木綿一反とか膳一枚とか相応の銭であったが、投句が十日間の応募期間で二万句以上になることもあった。入選率は約3%であったという。このような中で、「前句附」の前句は、もとは当然長句も短句もあったが、俳諧の稽古という性格が薄くなってくると短句のみ、かつ単純な繰り返しの七七となっていく。(例:にぎやかな事にぎやかな事)また、付ける五七五も前句にあまり束縛されない自由なものになっていく。そして本来重要だった筈の付き方よりも、付句そのものを現在の俳句のように独立句として楽しむ傾向が大きくなっていった。
ここで話を俳諧に戻す。俳諧はもともと滑稽諧謔のものであったが、貞門・談林に続いて、元禄ころ芭蕉が閑寂風雅の蕉風俳諧を確立した。しかし、その弟子宝井其角らの流れである江戸座俳諧は、蕉風に反して滑稽諧謔に立ち戻り、また、旧来の俳諧から発して次第に前句附様式を中心とし、さらに句を連句の中の一句と見るよりもその一句だけを独立して鑑賞する「一句立ち」に至った。(この傾向は、松永貞徳以降初心者の稽古のために行われた点取俳諧、すなわち点者に付句に採点をしてもらって点の多さを楽しむ誹諧が大衆化して盛んになったことも関係している。)ここに、面白い句を集め、しかも前句を省略して句集にする時代が到来し、寛延三年(1750)、「誹諧武玉川」初篇が出版される。しかし、武玉川はあくまで俳諧(連句)の付句集であるので、五七五の長句と七七の短句がある。当然どの句にもしかるべき前句があった筈だが今は失われている。そして、武玉川の流れは残念ながら今日には継承されなかった。
武玉川初篇にやや遅れて宝暦七年(1757)、柄井川柳が先述した「前句附」の点者となり人気を博した。そして「前句附」の入選句を発表する冊子である「川柳評万句合」の、宝暦七年〜十三年の分から前句抜きでも意味の分かりやすい句を抜粋し、明和二年(1765)「誹風柳多留」初篇が出版された。これは課題の七七前句に応募された投句を柄井川柳が採点した「前句附」の付句のえり抜きである。したがって全て五七五の長句で、「もつともな事もつともな事」などといった単純な前句が示されている場合が多い。武玉川のような江戸座俳諧と前句附の結婚であるからこそめでたい柳樽(柳多留)と名付けられたのである。柄井川柳は33年間で300万句を選考したという。また、慶紀逸没後、武玉川系の俳諧人が川柳点の投句へ参加したことは十分考えられる。そして、この流れが後に独詠の川柳風狂句さらにいわゆる「川柳」になっていく。
(余談であるが、「川柳」という単語は明治の新川柳運動以降のものである。また、「俳句」は俳諧連句の発端の長句、すなわち発句が独立したものであり、そのため季語や切れを含む規則がある。俳諧の文学性を否定した正岡子規以降俳句と呼ばれるようなった。)
武玉川と柳多留には重複や類似句が少なからず見られる。武玉川は少なくとも十一篇までは川柳評万句合や柳多留より先行しているので武玉川の方がオリジナルと考えられるが、間をおいた武玉川十六篇以降では柳多留が先行したものが多いという。
【参考文献】 (年は初版)
岩波文庫 誹諧武玉川(一) 山澤英雄校訂 岩波書店 1984
岩波文庫 誹諧武玉川(二) 山澤英雄校訂 岩波書店 1984
岩波文庫 誹諧武玉川(三) 山澤英雄校訂 岩波書店 1985
岩波文庫 誹諧武玉川(四) 山澤英雄校訂 岩波書店 1985
誹諧武玉川初篇輪講 梅本秋農屋・森東魚・蛭子省二 三樹書房 1999
誹諧武玉川二篇輪講 梅本秋農屋・森東魚・蛭子省二 三樹書房 1999
誹諧武玉川三篇輪講 梅本秋農屋・森東魚・蛭子省二 三樹書房 1999
誹諧武玉川四・五篇輪講 梅本秋農屋・森東魚・蛭子省二 三樹書房 2002
朝日選書 『武玉川』を楽しむ 神田忙人 朝日新聞社 1987
現代教養文庫 誹風柳多留初篇〜十篇 社会思想社 1985〜1988
誹風柳多留二一篇輪講 川柳雑俳研究会 1998
誹風柳多留二五篇輪講 川柳雑俳研究会 1995
誹風柳多留二七篇輪講 川柳雑俳研究会 1998
五十音順誹風柳多留全集・索引篇 岡田甫校訂 三省堂 1984
国語大辞典 小学館 1981
江戸語の辞典 前田勇編 講談社学術文庫 1979
川柳辞彙 大曲駒村 川柳辞彙刊行会 1941
川柳大辞典 粕谷宏紀編 東京堂出版 1995
江戸川柳辞典 浜田義一郎編 東京堂出版 1968
江戸文学俗信辞典 石川一郎編 東京堂出版 1989
江戸文学地名辞典 浜田義一郎 東京堂出版1997
岩波文庫 近世風俗志(守貞謾稿)(一)〜(五) 岩波書店 1996〜2002
謡曲三百五十番集 日本名著全集刊行会 1928
江戸名所図会を読む 川田壽 東京堂出版 1990
続江戸名所図会を読む 川田壽 東京堂出版 1995
江戸切絵図を読む 祖田浩一 東京堂出版 1999
嘉永・慶応江戸切絵図 人文社 1995
江戸バレ句戀の色直し 渡辺信一郎 集英社新書 集英社 2000
川柳年中行事 西原柳雨編 春陽堂 1988
川柳風俗志 西原柳雨編 春陽堂 1977
川柳吉原志 西原柳雨編 春陽堂 1977
川柳江戸歌舞伎 西原柳雨編 春陽堂 1980
川柳江戸名物 西原柳雨編 春陽堂 1926
川柳江戸名物図絵 花咲一男編 近世風俗研究会 1974
川柳江戸砂子(上・下) 今井夘木 春陽堂 1976
雑俳語辞典 鈴木勝忠編 東京堂出版 1968
江戸商売図絵 三谷一馬 中公文庫 1995
江戸吉原図聚 三谷一馬 中公文庫 1992
江戸川柳で読む百人一首 阿部達二 角川選書 2001
江戸川柳で愉しむ中国の故事 若林力 大修館書店 2005
江戸の医療風俗事典 鈴木 昶 東京堂出版 2000
新版 連句への招待 乾裕幸・白石悌三 和泉書院 1989
俳諧大辞典 明治書院 1957
有斐閣ブックス 日本古典文学史の基礎知識 有斐閣 1975
あと、上記以外にも多くの書籍やホームページを参考にさせていただきましたが、中でもざっくばらんばらん 犬と川柳のページというホームページの武玉川を歩むのコーナーは大変参考になりました。最後になりましたが、このホームページを公開しておられる方にこの場を借りてお礼申し上げます。