サイレンス(沈黙)の諸相

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1 清里現代美術館──ケージ展示室
2 自然(フト)聴いた《ローツァルト・ミックス》
3 ジョン・ケージ展《ROLYWHOLYOVER  A CIRCUS
 
     
 
1 清里現代美術館──ケージ展示室  


 
   先日、紅葉の数歩手前の信州を旅してきました。清里現代美術館()。ここは何度でも訪れたくなる場所です。八ヶ岳の麓、白樺林と緑の草原に囲まれて、見上げると吸い込まれそうな青空のなかに無数の蜻とんぼが群れをなして飛んでいます。どこかで焚き火をしているのでしょうか、枯れ木がパチパチと音を立てています。美術館の脇には菅木志雄のインスタレーションがあり、空間に心地よいリズムと緊張感を与えています。午後すこし遅い時間、あまねく広がる陽光が、周囲に長い影を落としています。穏やかな活気に満ちた静寂。  
   館内で、一時間のジョン・ケージ追悼ヴィデオを観ました。リチャード・コステラネッツ、ジョン・ロックウェル、カルヴィン・トムキンズ、マース・カニングハム、ロバート・ラウシェンバーグ……、さまざまな顔がケージについて語っています。  
   晩年の、チェスを使った映像作品の製作風景では、カメラの機能を質問してそれをチャンス・オペレーションズに従わせようとするケージと、それに対して機材の使用効果を説明したがる技術者との会話が面白い。  
 
「もしコントラストをつけたいのなら、目盛りを1、2程度だけ変えるんじゃ全然足りませんよ」

「いや、いいんだ、わたしは何も狙わない」

「どんなふうに写っているかファインダーから覗いてみますか」

「いや、見ない、作曲をする前に作品を聴くことができないのと同じようにね」

 
   チェス盤の上方から撮影されたフィルムは、編集の段階で、どの部分をどれだけの長さ使用するか、偶然によって決定されます。  
 
「この部分のフィルムは真っ暗ですけど、いいんですか」

「もちろん、かまわないよ」

 
   盤全体が数秒写ったかと思うと、次に続くのはぼやけた駒の大アップ。突然画面は真っ暗になって、駒を動かす音だけが聞こえています。ジョン・ケージ vs ティニー・デュシャンの対戦。  
   ケージは言います。  
 
「禅にこういう言葉があります。もしあるものを2分見ていてつまらないと思ったら4分見ていなさい、それでもつまらなかったら8分、16分、32分……やがてそれはとても面白いものに見えてくる(笑)」

 
   マルセル・デュシャンがテレビ番組に出演している珍しい映像も。そこで語っている言葉。  
 
「最近のひとびとは、自分の気に入るものしか受けつけようとしません。これは残念なことです。かれらにとって大事なのは、快、不快、そして無関心です」

 
   武満 徹の言葉を思い出します。  
 
「クセナキスは自然のさまざまな音の構造を自分の音楽に持ち込もうとしている。本当にロマンティックな音楽なんだ。それはノイズのように聞こえるかもしれないけれども、それを美しいと感じたほうが幸せなんだ」

 
   そして、最晩年のケージが学生たちを前に話をする場面。  
 
「好きなものばかり追いかけるのではなく、嫌いなものを減らすことが幸福への近道なのです(笑)」

「現在の世界は、けっして見通しが明るいものとは言えません。わたしたちはさまざまな問題に直面しています。なかでも、わたしが今もっとも不安に感じているのは、わたしたちの生活から沈黙と静寂が失われている、ということです」

 
   スーザン・ソンタグが著書『反解釈』で、通俗的な娯楽とキャンプ趣味との相違を鮮やかに述べたのは30年以上昔のことでした。やがて自由、解放、救済の形式と価値が転換したポスト・モダン時代が到来します(J=F.リオタールの指摘によります)。  
   それは、啓蒙による価値の継承という手続きが崩れ去ったことを意味していました。娯楽に権威を与え、それを文化として選択し消費するようになったとき、デュシャンやケージの声は変革への力を喪失した呟きや囁きとなります。かれらの芸術の本質は理解されないまま、残るのはただ、「20世紀を代表する芸術家デュシャン、ケージ」といったような、作品の権威、そして美的対象としての名目のみです。  
   これからの時代は、ひとりひとりが価値を手探りで作り出すことが求められていくのではないでしょうか。誰が評価するから、推薦するから、といった手続きで導かれる出来合いの「体験」ではなく、試行錯誤や紆余曲折を経て「わざわざ手に入れた体験」だけが、自分自身が進むための手がかりとなるように思います。  
   求める輝きが、自らのなかでかけがえのないものであればあるほど、周囲の闇はその深さを一層増して行くことになります。連帯から孤独ヘ。祭りから瞑想へ。ソンタグが言ったように、芸術は「宗教」に代わるものとして、静かに潜行しているのかもしれません。

 
 
『反解釈』スーザン・ソンタグ
AGAINST INTERPRETATION / Susan Sontag (1964)
高橋康也・出淵博・由良君美・海老根宏・河村錠一郎・喜志哲雄 訳
1971 竹内書店新社/1996 筑摩書房(ちくま学芸文庫)


<解釈>という、芸術に挑みかかる知性の営みがプラトンの昔から世界を貧しく凍てつかせてしまった。芸術の<意味>をでなく、<ありよう>を開示しようとするソンタグの眼差しはブレヒト、アルトーから《キャンプ》まで貫いて、ついには非芸術の<沈黙>に向う。
1971年初版の帯コピー)


「内容」や「解釈」を偏重するこれまでの批評に対し、「形式」を感受する官能美学の復権を唱えた
60年代のマニフェスト。──「批評の機能は、作品がいかにしてそのものであるかを、いや作品がまさにそのものであることを、明らかにすることであって、作品が何を意味しているかを示すことではない。解釈の代わりに、われわれは芸術の官能美学を必要としている」

 
 


堀内宏公
Hiromasa Horiuchi

 

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