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ECM New Series

Album cover reproduced by courtesy of ECM Records, Munich
●ジャケット写真はECM Recordsの許諾のもと、掲載しております。(musicircus


Jean-Luc Godard
Histoire(s) du Cinéma

Jean-Luc Godard

ECM New Series 1706

toutes les histoires
une histoire seule
seul le cinéma
fatale beauté
la monnaie de l'absolu
une vague nouvelle
le contrôle de l'univers
les signes parmi nous

Recorded 1988-1997

ECM New Series 1706 (5-CD Set)

国内盤未発売
 
 
「神の道化師」あるいは「裸の声」

 ――ジャン=リュック・ゴダール『映画史』サウンドトラックを聴く

 
 
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   「ぼくの映画には理解すべきことなどなにもない。耳を傾けさえすれば、そして受け入れさえすればいいんだ」

(87年のインタヴュー、『ゴダール全評論・全発言V』より)


 
   もはや、「歴史」や「物語」は、口実にすぎないのかもしれない。聴いているうちにだんだん気がつくことだが、そうした内容の読解や分析の層だけでなく、もっとべつの、より痛切で深い聴取の層が、そこには重ねられているのである。人間や事物の存在の、謎のようなものに触知しうるかもしれぬ、なまなましい、孤独な響きの層。モンタージュされるイメージの断片と同様に、異様な強度をもつ音と声の現前。ポエジー。  
   そして、それらが織りなす多様な響きのただなかで、わたしたちはただ呆然と耳を打たれるがまま、見えない映画、いわば盲目の映画を、深く知覚することへと誘なわれてゆくのである。これはたしかに人を一瞬途方に暮れさせもする、未知の体験だろう。見えない映画だって? そう。これはたんに音響体験であるだけでなく、視覚体験を伴うときとはまた異なる、苛烈な、と同時に驚異と、快楽と、胸を打つ痛切さに満ちた、ありうべきもうひとつの、映画体験といってもいいのではないだろうか。映像=イメージの欠如した、音声だけの映画注 9]。言い換えれば幻視の、すなわちヴィジョンの映画。

 

注 9

 「すべきなのは、よりロマネスクななにかをさがし求めながらしかも幾何学的な次元をもちこむということ、その次元を歴史的観点から感じとらせるということです。私は自分の映画が、目の見えない人たちによって聴かれうるもの、耳の聞こえない人たちによって見られうるものにしようとしているのです」(94年、アンドレ・S・ラバルトとの対談より、『ゴダール全評論・全発言V』)。当然のことながらこの「聴く映画」は、音声のみで聴き手の想像力に働きかけるとはいえ、そこに説明的要素を含まざるをえないラジオドラマとは、似て非なる詩学をもつものだろう。また『JLG/自画像』(93〜94年)には、ジュヌヴィエーヴ・パスキエ演ずる「盲目の」映画編集者の、「想像力」をめぐる挿話(ディドロの『盲人書簡』に基づく)がある。  
 
 そこから、おそらくはより精神的で、深く身体に潜りこむような、新しい孤独な思考と感覚の層が、しだいになまなましく露頭してくるかのようなのだ。しかも驚くべきことに、それによって、トーキー以後映像に音声という伴侶をえた「映画」が、ゴダールというひとりの芸術家によって見出しえた、もうひとつの「美」のすがたが、闇のなかから聴取され、感受されて、鈍い銀色の曙光にかがやく、天空のほのかな明るみのように、ゆっくりと立ちあらわれてくるのである。無限のざわめきに満ちた、壮麗な沈黙といってもよいようなものが。
 
   そう、声においても、音楽や事物の発する音においても、ここには驚くべきマチエールの露呈と、内的な、と同時に外部のともいえる、大いなる力の噴出がある。音楽においては前にもすこし触れたように、断片的なフレーズのみが切り取られることで、完結した曲からは逆に想像もつかない、またそれとはたぶんに異なる感触の、なまなましい切断面からしたたるような、新鮮な美しさが現われてくる。これはおそらくことばにおいても同様で、フレーズの断片であることにより、その切り口や細部が際立ち、異様なほどみずみずしい、ポエティックな強度が生まれているのである。  
   そしてここが肝心なところなのだが、剥き出しにされた裸の音や声はまた、作曲家や演奏家や俳優や作家といった、それを発する人物の一般性や特殊性を脱ぎ捨てて、むしろ「無名」の、単独な身体ないしは精神としかいえぬものを、生成しているのではないだろうか。それはやや飛躍していえば、存在論的な次元における、普遍性のまざまざとした発露であり、ゴダールの作品を考えるうえで、またのみならず芸術表現というものを考えるうえでも、たいへん重要なことだ。  
   「ゴダールは樹木を撮るのと同じように、アラン・ドロンを撮っている」と、かつて『軽蔑』や『パッション』に出演した俳優、ミシェル・ピコリが述べている。無限の細部にみちた単独なものたちの、多様な深みのなかからしか生まれえない、この「裸の普遍性のみずみずしい発露」、たぶんそれをこそゴダールは「神」と呼び、またその力を「愛」と呼ぶのだろう。オリヴェイラのいう「深みのある曖昧さと結びついた明晰さ」も、おそらくはこのへんのことに触れているのだ。そこには、「神に酔える唯物論者」といってもよいような、スピノザ的な倫理(エチカ)のすがたがあり、そして同時に世俗的には、「絶対的な」民主主義の、あくなき追求がある。その「ジャコメッティ論」のなかでジュネのいう「孤独」も、たんなる社会的な結びつきの受動性や有用性を離れたところでの、人間や事物の存在における、美しくかけがえのない、「単独な普遍性」のなまなましい発露に根ざしたものではなかったろうか。さらにいうなら、そんな孤独の認識からこそ、はじめて民主主義という愚かしくも偽善的な概念の、マイナーでアナーキーな変容と実践が可能になるのではあるまいか。「労働とは変容させること(メタモルフォーズ)」だというゴダールのことばにも、この裸の普遍性を希求する強い意志と力とが、漲っていると思えてならない。  
 


2004年6月

福田光一
Kouichi Fukuda

 

追記:

 先頃カンヌ映画祭2004で、ゴダールの新作が上映された。その名も "Notre Musique" (「われらの音楽」)である。「異文化の衝突と和解の可能性を探った映画」(朝日新聞5月27日夕刊)で、インターネットの記事によれば、やはりというべきか、ダンテの『神曲』をふまえた三部構成になっているらしい。内戦後のボスニアが舞台で、ユダヤ人ジャーナリストとパレスチナ人作家の対話シーンなどもあるという。ゴダールがけっしてアクチュエルな社会的現実への関心を失っていないことは、やはり旧ユーゴの内戦を扱った『フォーエヴァー・モーツァルト』や、レジスタンスという「歴史」とともに、ホームレスや移民労働者たちが描かれていた前作『愛の世紀』にも示されていたが、今回のカンヌでも記者会見の場で、会場周辺でデモを繰り広げる映画・演劇人組合の労働者に発言の場を作ったのだそうである。「まず労組代表が20分にわたってアピールを読み上げた」(同)。その後、さらに多国籍の出演者がそれぞれの多様な母語で語ったという。もしかすると、21世紀のゴダールは、モラリスト的な「歴史家」の身振りや「外交的手段」を戦略的に用いつつ、さらに新たなしかたで混迷する現実へと関わり、エチカとアンガジュマンの未知なる「音楽」を奏でようとしているのかもしれない。

 
 
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