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ECM New Series

Album cover reproduced by courtesy of ECM Records, Munich
●ジャケット写真はECM Recordsの許諾のもと、掲載しております。(musicircus


Jean-Luc Godard
Histoire(s) du Cinéma

Jean-Luc Godard

ECM New Series 1706

toutes les histoires
une histoire seule
seul le cinéma
fatale beauté
la monnaie de l'absolu
une vague nouvelle
le contrôle de l'univers
les signes parmi nous

Recorded 1988-1997

ECM New Series 1706 (5-CD Set)

国内盤未発売
 
 
「神の道化師」あるいは「裸の声」

 ――ジャン=リュック・ゴダール『映画史』サウンドトラックを聴く

 
 
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   「映像と音 あたかも道中ふと知り合い 以後もう別れられなくなってしまう 人々のような」

(『映画史』1a、ロベール・ブレッソン『シネマトグラフ覚書』〈松浦寿輝訳〉より)


 
   ゴダールの、ことに近年の作品において、音声は映像という「旅の伴侶」からたとえ切り離されても、みごとに独立した固有な表現の形式をそなえているといってよい。  
   即物的な乾いたテクスチュア(肌目、風合い)と、まるで吃るような切迫したリズムによって特徴づけられた斬新な音響設計は、強烈で同時に繊細、明晰でかつ曖昧な、異質な響きの混合だ。加えてあの、ベートーヴェンやバッハの名曲を引用しながら、平然と切り刻んでしまう、大胆不敵なコラージュ(はりあわせ)の手法。近年では、そんな手法がサンプリングやリミックスなどの先駆として、先鋭的な若い世代のミュージシャンから評価され注目されたりもしているようである。  
   そこでは、音声はかならずしも映像とは同期(シンクロ)せずに、映像に先行したり、おなじところを反復したり、とつぜん中断したり、しばしば語りのスムースな流れや文脈から逸脱しながら、きわめて自律的な、つまりはおよそ勝手な世界をかたちづくっているのである。音響のミキシングを映像の編集と同時に、試行錯誤しつつ進めることが大好きだと語るゴダールは、82年の『パッション』のころから、その作業をしばしば彫刻とか建築のしごとにたとえている。おそらく、平面的でなく立体的・空間的に、多角的な方向からアプローチしていく、ということなのだろう。  
   たとえば、人物のダイアローグ(対話)に、オフ(画面外)の声で意想外なモノローグ(独白)やナレーションが重なってきて、輻輳した、多重な声の流れの束になる。そして唐突に鳴りわたったかと思うと、いきなりぶつりと途切れてしまう、音楽(多くはフレーズの断片のみの引用)や声。そうした多重性と不連続性、吃音性や断片性に加えて、さまざまな事物の具体的な音をはじめ、剥き出しのマチエール(物質性、素材)が露出した音のプリミティヴな響き。さらにはそれらのめくるめく速度と、残酷な、恐るべき強度。そうかとおもえば、ふと急速に弛緩して脱臼するような、いわゆる「長廻し」の場面などにおける、呪縛的な反復の果てしない遅延。快活さとメランコリーの入り混じった、悲劇的かつコミカルなリズム。それから、不意に胸を衝かれる、透明な抒情性。  
   その独特な形式や手法は、近年の達成をみるよりずっとまえに、すでに初期の段階からその萌芽をみることができる。たとえば62年の『女と男のいる舗道』(音楽ミシェル・ルグラン)での同時録音は、すでに事物の具体音や情景音にすぐれた効果を示していたし、61年のミュージカル・コメディ『女は女である』でも、たしかミシェル・ルグランの曲はすでにブツ切りにされていたはずだ。そもそも、あのナイーヴな活力にあふれた59年の処女長篇『勝手にしやがれ』(音楽マルシャル・ソラル、モーツァルトほか)の、気まぐれな子どもみたいに唐突に飛躍する、つんのめるような「早口」のテンポに漲る新鮮なポエジーと、才気煥発で辛辣な批評性、粗削りなリズム、軽やかな運動感覚、そして饒舌な引用癖。ゴダール自身はそれを「無意識的だった」としてほとんど顧みないが、むろんそれらは言うまでもなく、65年の傑作『気狂いピエロ』(音楽アントワーヌ・デュアメル)で夢想的なロマンティシズムの色彩を加え、技法としてより意識化され洗練されて、初期のひとつの極点に達するものだ。  
   たしかにそこでは、その後も反復される美学的要素のほとんどが、奇蹟的に素晴らしいフォルムをかたちづくっている。あえてここで扱う音声にかぎっていえば、その唐突な中断と再開や、オフの声での、断片的で飛躍に富み音楽的な反復のリズムをそなえた、対話形式の語り。音楽はパセティックな情感の高まりをみせ、ときにクラシックやポップスの断片が挿入されて異化され、さらに軽やかな歌が逸脱のなめらかな曲線を描く。この『映画史』にも登場するエリ・フォールの絵画論にはじまり、セリーヌやフォークナー、ランボーなど、偏愛する書物からの引用も現在とそのまま地続きである。この映画についてはもはや多くが語られているのでこれ以上は述べないが、ゴダール自身も「優しくて残酷、現実的で超現実的、恐ろしくて滑稽、夜のようで昼のよう、普通で異常…」と、この映画のなかですでにみずからを定義してしまったように、その後のゴダール映画がいささかアイロニカルな晦渋さと、内容の思想的な複雑さを加え、いまでは荒涼と冷え寂びたような憂いをも帯びて、たしかにずいぶんと色あいを変え様変わりしてはいるとはいえ、じつはそれらの特徴は根本的なところで変わらぬものであることは明らかだ。  
   その特徴ある音声のありようは、もちろん、方法的かつ闘争的な探究のなかで、特にブレヒト演劇の異化 注 3] という概念の影響を強く受けながら、工夫され磨かれてきた技法であることにはちがいないし、ラディカルに破壊しながら作るようなドラマツルギー(作劇術)とその形式とを切り離しては考えられないのだが、しかしそこにはまぎれもなく、初期から一貫して「ゴダールらしい」としかいいようのない聴覚的嗜好/志向があるともみえる。『ワン・プラス・ワン』(68年)でのローリング・ストーンズ(「悪魔を憐れむ歌」)も、『カルメンという名の女』(83年)のベートーヴェン弦楽四重奏も、『右側に気をつけろ』(85〜87年)のリタ・ミツコも、裸にされ剥き出しになったような音のマチエールが、逡巡し何度も中断しながら、浮遊するがまま、録音や練習のプロセスとして反復されて、ひたすら提示されてゆくのみなのだ。

 

注 3

 アリストテレス以来のカタルシス演劇論への批判として、ドイツの劇作家、ベルトルト・ブレヒトが唱えた手法。現実を批判的に対象化し、見慣れた事物を、初めて見たように異様に感じさせ、その本質を覚らせる効果をもたらす。生物学の用語では、生体内の複雑な化合物(同化物質)を、より単純な物質に分解する反応のことらしい。「一般に異化の反応過程はエネルギー放出反応であり、その代表例が呼吸である」と辞書にある。「異化」とは、すなわち現実を呼吸する方法でもあるのだ。そういえばゴダールはいつか、「映画を撮ることは、呼吸することと同じだ」と言っていなかったろうか?  
 
 そんな多少ならず特異で、じつに魅力的でもある、"訛り"や"傷"のようなもの。それらは生と切り離せないものだ。けれども、ことに初期作品におけるそれらの特徴は、あくまでも『映画史』のゴダールにとってはいまだ開花以前の萌芽にすぎない、といわねばならない。たとえば剥き出しの音のマチエールは、たんに聴覚的嗜好/志向と片づけてしまえるものだろうか? そこにはもっと大きな力と意志が働く契機があるのではないか。重要なのはむしろ、まずはそれを音の「文体」として考えることだろう。そしてそれが、技法的にも進化(深化)を遂げ、いまやいっそう自由で融通無碍な、稀薄な大気にみちた未踏の圏域へと到りながら、ゴダールの芸術における表現の根幹をなしてゆくのである。


 
 
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福田光一
Kouichi Fukuda

 

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