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ECM New Series

Album cover reproduced by courtesy of ECM Records, Munich
●ジャケット写真はECM Recordsの許諾のもと、掲載しております。(musicircus


Jean-Luc Godard
Histoire(s) du Cinéma

Jean-Luc Godard

ECM New Series 1706

toutes les histoires
une histoire seule
seul le cinéma
fatale beauté
la monnaie de l'absolu
une vague nouvelle
le contrôle de l'univers
les signes parmi nous

Recorded 1988-1997

ECM New Series 1706 (5-CD Set)

国内盤未発売
 
 
「神の道化師」あるいは「裸の声」

 ――ジャン=リュック・ゴダール『映画史』サウンドトラックを聴く

 
 
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   「ぼくは自分はすごくいい耳をしているとは思わないんだが、でも自分がつかうべき音を聴き分けることはできる」

(93年のインタヴューより、『ゴダール全評論・全発言V』)


 
   そろそろこの鬱蒼たる音声の森、壮麗な記号たち 注 6] の領土に、ダンテの『神曲(神聖喜劇)』の主人公みたいに踏み迷いながら、すこしずつ分け入ってみるべき時だろう。この森は、冥府への旅の入り口なのだ。入り組んだ道なき道を進むのはかならずしも容易ではない。断片化したパッセージが自在にコラージュされた音楽は、同時に幾重にも重なりあい、かつてないほどに増殖し、さながら異次元のパズルのような様相を呈している。のみならず、そこにつぎつぎと亡霊のようにあらわれては消える、人間の声の多彩なマチエール。圧倒的なことばのヴォリューム。さらには物質の多様なざわめき。

 

注 6

 『映画史』4b「ついでながら私が 概して映画で好きなのはそれだ 壮麗な記号たちの飽和 説明不在の 光を浴びている」(拙訳)。95〜96年製作の『フォーエヴァー・モーツァルト』の台詞からだが、元は93年「リベラシオン」紙でゴダールと対談したポルトガルの映画作家、マノエル・デ・オリヴェイラの発言。このときゴダールは当時の新作『ゴダールの決別』の批評を求め、オリヴェイラは直接的な批判を避けながらも、「多くのものに効果を発揮させ」「挑発して」いるこの映画より、「効果をねらわない」『新ドイツ零年』(90〜91年)の方が好きだと述べる。「私があの映画で好きなのは、記号の、深みのある曖昧さと結びついた明晰さです」。そのすぐあとに、引用のくだりが語られている(前掲『ゴダール全評論・全発言V』)。この発言は少なからずゴダールに影響を与え、直後のインタヴューでも自身の新作について、「効果を利かせすぎている」「たしかにこれは失敗作なんだが…」などと述べており、二度にわたりこのことばを自作に引用していることを見ても、その後の作風の、より「深みのある曖昧さと結びついた明晰さ」へと向かうかのような微妙な変化にも、おそらく、その残響があると思われる。96年のインタヴューでは、こう言っている。「あの会話のなかでは、あの言葉にはある批評的裁定が込められていた。あれは情状酌量の言葉なんだ(笑)」(同書)。  
 
 「すべての歴史」と題された1aの冒頭は、映画作家ロベール・ブレッソンの『シネマトグラフ覚書』から引かれた警句、すなわち「何も変えてはならない すべてが違ったものとなるように」という、ゴダール自身によるしわがれたつぶやきで幕を開ける。この謎めいた逆説から、「すべて」がはじまるのである。
 
   すぐに、きっぱりとしたヴィオラの旋律の、簡潔な数小節(ヒンデミット)。そして宣言というよりはこれからの行程へのみずからの心覚えみたいに、「物事のあらゆる面を見せようとしないこと 未定義の余白を残しておくこと」と、ふたたびブレッソンからの警句がつぶやかれる。それにつづいて、不穏にひずんだ唸りとともに、ヴィデオ編集機の凶暴な回転音が聴こえ、早送りや巻き戻しやスローモーションによって異様に撓み、怪物と化したかのような映画フィルム/ヴィデオテープの「声」たちが、獣めいた、奇妙な咆哮を開始する。そのなかで、かすかな溜息とともにタイプライターに紙がセットされ、文字の鍵盤が打たれる音と、それを高速で印字してゆくらしい、プリンターのリズミカルな機械音がはじまる。畳みかけるような、タッタカタッ、タッタカタッ、という、強迫的なリズムの鳴り響くなか、「ゲームの規則」「叫びとささやき」「散り行く花」と、ゴダール本人がタイプを打ちながら、ゆっくりと反芻するように、つぎつぎと映画の題を読みあげていく。そこにやがて、「映画の歴史…ありうるかもしれない複数の歴史のすべて あるだろうありうるかもしれない かつてあった かつてあった…」という、かれ自身のオフの声。  
   この間も、フィルムの怪物はときおり咆哮し、リズミカルな機械音の背後には、しだいに重厚なオーケストラの音楽(オネゲル)がずんずんと高鳴ってきているのだが、ふいに中断され、一転して、清冽で伸びやかな弦楽四重奏(ベートーヴェン)に変わる。すると凛々とした叙情的な旋律のなかに、アラン・レネの『去年マリエンバートで』(61年、脚本アラン・ロブ=グリエ)から、謎めいた男の声がとつぜん現われ、「あなたは変わらない 放心した瞳も微笑も 唐突な笑いも さしのべる腕の広がりも…」と、甘く静かに語りはじめるのだ。一瞬、わけもなくべつの映画の喧噪と楽しげな音楽(ヴィンセント・ミネリのミュージカル『バンド・ワゴン』53年)が弾けるように交錯し、またすぐに消えて、「その香水も同じ 覚えていますか?…私は歩みより あなたを見つめた…」と、こんどは人々のざわめきのなかで、男は執拗に語りつづけており、だが気がつくと、さっきとは別人の男の低い声に変わっていて、やがてくぐもった女の声(デルフィーヌ・セイリグ)が、「お願い お声をひそめて…」と弱々しく、かすかに訴える。裂け目のような一瞬の静寂ののち、音楽とともにかれらの最後の会話が、短く反復されてから、ふと消えてしまう。するとふたたび、無機的なプリンターの騒音と、タイプの音。「物質と記憶」「千夜一夜物語」「贋金つかい」…と、こんどは書物の題が、ゴダールによって途切れとぎれに、つぶやかれてゆく。  
   それに混じって、オフの語りは、「ハリウッド」の主題に入る。まずは1920年代に活躍したアメリカの映画プロデューサー、アーヴィング・サルバーグの挿話。そこから「夢の工場」(旧ソ連の作家、イリヤ・エレンブルグの小説の題)としての、「ハリウッドの権力」をめぐる断章へと、進んでゆく。再開し断続する、重いオーケストラの爬行(オネゲル)に混じって、力強いピアノ(バルトーク)の、つんのめり跳びはねるような、東欧的なリズム。それにメロウなジャズの女性ヴォーカル(アニタ・オデイ)が一瞬重なり、古いMGM映画の音声から、男たちの弾んだやりとりや、男女の早口でテンポのいい洒落た会話が、語りの声と絡み合う。「恐るべき子供たち」「谷間の百合」「悪の華」「ペスト」「収容所群島」…。音楽は、勇壮なリストの交響詩、そして峻厳でパセティックな響きからゆったりと流麗な旋律に急変化するシューベルトの交響曲「未完成」へと、あっという間に移り変わっていく。ルノワールの『大いなる幻影』(37年)からエーリッヒ・フォン・シュトロハイムの台詞の断片。「夢の工場…」とリフレインする、仰々しくエコーがかかった、ゴダールの声。「そんな工場を コミュニズムはしきりに 夢見ていた…」。そしてサルバーグは、「地上で もっとも美しい女性のひとりと 結婚した…」。  
   大富豪にして映画プロデューサー、「ハワード・ヒューズ」の名が不意に告げられると、ストラヴィンスキーの「春の祭典」が、おもむろにその強烈なリズムを刻みはじめる。機関銃やプロペラ機の音などが入ったさまざまな古い映画の音声につづいて、そこに交錯するのは、なぜか詩人・歌手レナード・コーエンの、ピアノ弾き語りによるスローなバラード。「かれはRKOの新人女優たちを リムジンのドライヴに いつも土曜日には 連れ出したものだ 時速たった2マイルで 彼女たちの乳房を弾ませて 傷めてしまわないように」というヒューズの挿話に重ねて、"I came so far for beauty" という、メロウな歌声。これはいささか文脈的に安易な、ややナイーヴすぎるとも思える挿入のしかただが、たぶん、ちょっとしたユーモアと受け取っておいてもよいだろう(もちろんこのナイーヴさがゴダールの魅力のひとつなのだ)。とはいえそれにしても、「ぼくは美を求めてずいぶん遠くまで来てしまった。そして背後に多くのものを残してきた…」とは、痛切に心に沁みる歌である。  
   ふたたび複数の映画からの音声(女の痛ましい叫び声や、英語による軽妙でユーモラスな男女のやりとり、ドライヤーの映画『奇跡』〈55年〉からの「ジョハンナ!」という老人の悲哀に満ちた叫び)と、リタ・ヘイワースの、セクシーでジャジーな歌声(『ギルダ』46年から)が同時に流れ、タイプとプリンターの騒音。「人間の条件」「ドン・キホーテ」「虐げられし人々」…。オフで「たとえば けっして作りあげられることのなかった すべての映画の歴史を語る」。ここでゴダールの語りに混じって、若い女優ジュリー・デルピー(85年『ゴダールの探偵』でデビュー、87年『ゴダールのリア王』にも出演)の澄んだ声が現われ、ジャン・ジュネの美しいエッセー、『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』から、ジャコメッティの芸術を「高等な浮浪者たちの芸術」と定義する最後のくだりを読む。  
 

 「『私は独りだ』と物は言っているかにみえる、『したがって、あなたにはどうすることもできないある必然に捕らわれている。私は私がそうであるところのものでしかないのだから、私は破壊されえない。私がそうであるところのものである、留保なしにそうであるがゆえに、私の孤独はあなたの孤独を知るのである』」

(鵜飼哲訳、現代企画室)


 
   すぐにメランコリックなピアノ曲が聴こえてきて、デルピーの声がつづけてリルケの、『若い詩人たちへの手紙』から、「私たちの生のすべての竜は たぶん王女で 私たちが美と勇気を持つことを待っているのだ…」(高安国世訳)という一節を朗読する。「そう 夜のとばりがおりて 別の世界が目を醒ます…」。重ねて、ロシア語やイタリア語らしい、いくつかの映画音声が聴こえ、間髪を入れず、テノールでプッチーニのアリア、ドラムの速い連打、爆弾の恐ろしい破裂音、飛び去る飛行機、苦しげな呻き声。『オルフェの遺言』(60年)で背中から槍で貫かれるコクトーの台詞、「おお、なんとおぞましい…!」(この一連は3aでも反復される)。そして、マーラーの歌曲(「さすらう若人の歌」のなかの「君が嫁ぐ日」という歌らしい)から、清らかな鈴の音とともに、悠然とした大河のようなアルトの独唱が流れ込んでくる。そこに重なって、「わたしは生ける過ち わたしはジャン…」と叫ぶ男の声、深いエコー。  
   やがて、例のごときタイプとプリンターの騒音のなか、「女房学校」「危険な関係」「戯れに恋はすまじ」…というゴダールのつぶやきに混じって、かれの最初の妻だった女優、アンナ・カリーナの淋しげな歌声が「男も女も、君らはどう扱われたのか…やつれ果てた君に 心が痛む」と、背景の音に混じって聴こえてくる。つづいてかの女の台詞も、「物事は進んでいく。ときおり大地が揺れる。悲しみはどれも同じ顔。深い、深い、深い悲しみ…」と、ほんのかすかに聴こえる。『はなればなれに』(64年)の硬質な詩情あふれる地下鉄のシーンである。うっかり聴き逃してしまいそうなかすかな時間だ。「空の青さを信じたいでしょう。その気持を私も知っているの…」とつぶやくアンナの声に、ゴダールが「さらば愛しき女よ」と答える。するとまた、アンナの淋しい歌声、「そのことを告白しよう 私の耳を信じぬようにと…」。ゴダール、「悲しみよこんにちは」。アンナの歌声はつづき、「私も君たちと同類だ 私も君たちに似ているのだ…」と終わる。そしてゴダールは、しばしの沈黙ののち、「感情教育」と、溜息混じりにつぶやく。書物の題を何気なく並べるふりをして、このくだりはひそかに、一瞬の、センチメンタルな私小説になっている。フィルムのくぐもった音声になった、かつての最愛の妻の声との、刹那の邂逅とすれちがい。そのさりげなさと位相のズレが余計に悲しみを引きたて、失われた愛の時間が感じられるが、そこにはまた、映画と化した過去の結晶がある。これも、ゴダールの個人的な「歴史」であり「映画史」なのだ。  
   しかしそこはゴダール、感傷は例によってすぐさま冷酷に断ち切られる。「すべての尻の物語」というオフの語りはなにごともなかったように、ジュネーヴで「女房学校」(モリエール)の舞台を上演する俳優ルイ・ジューヴェと、映画作家マックス・オフュルスの挿話へと展開し、「かれはマドレーヌ・オズレーの尻を追いかけ 同じころドイツ軍も フランス軍を背後から襲う」と、「根底」としての女の「尻」から一気に第二次大戦へと、進んでいってしまうのである。


 
 
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福田光一
Kouichi Fukuda

 

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