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ECM New Series

Album cover reproduced by courtesy of ECM Records, Munich
●ジャケット写真はECM Recordsの許諾のもと、掲載しております。(musicircus


Jean-Luc Godard
Histoire(s) du Cinéma

Jean-Luc Godard

ECM New Series 1706

toutes les histoires
une histoire seule
seul le cinéma
fatale beauté
la monnaie de l'absolu
une vague nouvelle
le contrôle de l'univers
les signes parmi nous

Recorded 1988-1997

ECM New Series 1706 (5-CD Set)

国内盤未発売
 
 
「神の道化師」あるいは「裸の声」

 ――ジャン=リュック・ゴダール『映画史』サウンドトラックを聴く

 
 
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   さて、ここまでで1aのおよそ半分である。作品の劈頭である1aは各篇のなかでももっとも長く、約51分ある(ちなみに1b=42分、2a=27分、2b=28分、3a=26分、3b=27分、4a=27分、4b=37分)。これでもかなり省略した記述だが、この錯綜した音声の空間は、容易には解きほぐせない。じっさいはもっと多くの音や声がたがいに重なり合いながら、切れ目なく連続しているのである。これにオーヴァーラップや、目も眩むフラッシュ・モンタージュを駆使した映像がつくと、もっとたいへんだ。字幕でもたくさんのことばが示され、映画以外の図像の引用も無数にあるのだ。けれどもそうした視覚の刺戟を排除して、サウンドトラックだけに集中して繰りかえし注意深く耳を澄ますことで、はじめて聴こえてくる音のかすかな細部もあることに気づく。それは、このサウンドトラックを聴くことのよろこびといっていいだろう。  
   1aの後半、ゴダールの語りは、演劇から映画への移行という話題から、しだいにナチスドイツ、そして「戦争」と「ニュース映画」をめぐる随想へと、進んでゆく。音楽の断片には、アルヴォ・ペルトやサン=サーンス、ビゼー、ふたたびヒンデミット(「ヴィオラとピアノのためのソナタ」)、バッハ(「マタイ受難曲」)、それからマレーネ・ディートリッヒの「リリー・マルレーン」やフィリップ・ロワレットの歌(「ある受刑者の遺言」)をはじめ、『新ドイツ零年』でも聴こえていたドイツのパンク・ロックなど、いくつもの歌も加わってくる。軍歌や軍靴の響き、犬の吠える声、群衆の声、ヒトラーの演説やスペイン内戦時のアンドレ・マルローの演説なども聴こえる。最後の部分には、ふたたびオネゲルの交響曲(冒頭は3番で、ここは5番らしい)が鳴り、ヴィトゲンシュタインのことばが引用され、絶滅収容所のガス室について淡々と語る女の声が入る。  
   1b「ただ一つの歴史」でも、1aと事態はほぼ同様である。ショスタコーヴィチにはじまり、多くの音楽の断片が、タイプの音や映画の音声(『軽蔑』の映画撮影のシーンやジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』も)とともに、ゴダールの語りと混じりあう。クラシックのほか、やはりレナード・コーエンや、ジャニス・ジョプリンやオーティス・レディングの歌声、オーネット・コールマンやジョン・コルトレーンのサックスなどもある。ふたたびデルピーの涼しげな声も聴こえ、終わりのほうでハイデガーの「何のための詩人たちか」を朗誦する女優マリア・カザレスの、老いて罅割れた声が強烈な印象を残すのだが、ゴダールの抑制されたモノトーンの語りを主軸に、パセティックな音楽やフィルムの音声、女優たちの声がさまざまな色彩を加えていく、この基本的な構造は以降も変わらない。  
   しかし、冒頭の圧倒的な過剰さと不協和はやがて息をひそめ、しだいにすこしずつ、耳に優しくなるようだ。ことに高音のピアノが散発する無調な曲(ジャチント・シェルシ?)と、ガラスを擦るようなノイズではじまりながらも、やがて小鳥の声や水音、少女のようなデルピーの声や、友人の批評家と対話するゴダールのくつろいだ声、初期のウェーベルンであるらしい清澄な弦楽四重奏や、バッハのピアノ平均律ハ長調、それにディノ・サルーシの伸びやかなバンドネオンなどが明るく穏やかな印象をあたえ、終結部ではメレディス・モンクの「ヴォルケイノ・ソングス」から軽やかに弾む息の歌が聴かれる、2a「映画だけが」以降、後半になるにしたがって、どちらかといえば単純な構成と、音楽の叙情的な旋律が支配的になってゆく。  
   たとえば2b「命がけの美」の冒頭では、パコ・イバニェスのスペイン語の歌「フリアにおくる言葉」が、ギターの爪弾きにのせて切々と歌われる。なんども現われるヒンデミットの、「ヴィオラとピアノのためのソナタ」の心打たれる印象的な、美しい旋律や、つづくベートーヴェンの7番のアダージョ。『新ドイツ零年』から老優エディ・コンスタンティーヌの朗誦。『カルメンという名の女』で使われた、トム・ウェイツのバラード「ルビーズ・アームズ」。1bや3bでも引用される、ヘルマン・ブロッホの『ウェルギリウスの死』から、「美とは、戯れそのもの」というくだりの長い朗読。終わりに流れるのは、レオ・フェレのドラマティックなシャンソン「ヴァリエテの条件法」である。  
   「ひとつの民族が虐殺されている」と衝撃的に告発するゴダールの静かな震え声で幕を開ける、3a「絶対の貨幣」。背後にはバッハのオルガンや、シューマンのピアノ曲「子供の情景」。雷鳴や雨音といった、アトモスフィアの震え。やがてジョルジュ・バタイユを参照しつつ、マネの絵に近代絵画の誕生とともに「思考する形式」としての「シネマトグラフ」のはじまりをみると語るゴダール。アメリカ映画への唯一のレジスタンスだとして、いきなりイタリア映画、ことにネオ・レアリスモへのオマージュとなるこの篇の終わりでは、コッチャンテというイタリア人歌手が感動的に「偉大なるイタリア映画よ」と歌いあげる、「われらのイタリア語」が一曲まるごと流されてしまう。  
   ヌーヴェルヴァーグが主題となる、3b「新たな波」は、ショスタコーヴィチの曲(映画「ハムレット」組曲)と旧約聖書をめぐる『ゴダールの決別』からの対話ではじまり、カルロ・ジェズアルドのマニエリスム音楽と、ゴダールの『アルファヴィル』(65年)の音声(ポール・ミスラキ音楽)が、序盤の基調をつくる。それにふたたび、あの懐かしいアンナ・カリーナの明朗な歌声。アクセントのように入るのは、2aなどでも聴こえるクラスター的なピアノの響きだ(シェルシ?)。『右側に気をつけろ』でブロッホを独白する俳優フランソワ・ペリエのかすれた声(1bでも)。『ゴダールのリア王』(87年)の繊細な音声は、4bをはじめ何度か引用される。ゴダールと若いカップルが寸劇を演じる終盤には、鐘とアコーディオンの、パリらしい香りのする調べが響き、ジャック・タチの映画『のんき大将』の楽しいテーマ曲も一瞬聴こえてくる。  
   さらに4a「宇宙のコントロール」に至ると、2aと3bでもすこし使われていた、グルジアの現代作曲家ギヤ・カンチェーリの「私は去る、見ることもないままに」という劇的な弦楽曲が、テーマのようにほぼ全篇を通して流れることになる。冒頭のヴァレリーの詩。『手で考える』からの文明批評と、エリ・フォールの美術論の引用。「映画芸術」の形式と内容について語るアルフレッド・ヒッチコックの声。「はじめにイメージありき」という聖パウロのことば。「芸術の幼年期」としての映画のフォルムについて、ゴダールは考察する。「つまりそれは空虚におびえる探偵に追跡される ノーブラのブロンド女性だ…そのすべてがまさに映画だ」。終盤では、1aにも登場した『去年マリエンバートで』からの男女の謎めいた対話(ロブ=グリエ)も聴こえる。  
   そして4b「徴は至る所に」の、深い吐息のようなケティル・ビヨルンスタのピアノと、デイヴィッド・ダーリングのチェロの響き。4aの終わりでも聴かれる、低いドラムのつぶやきも、かれらのアルバム "The Sea" から。言説における人称のゆらぎを語るミシェル・フーコーの引用や、『ゴダールの決別』からジェラール・ドパルデュー演じる「神」の声が語る、宇宙の「幽霊物質」について。「死」のテーマ。フローベール、ドストエフスキー、ガーシュイン、モーツァルト、セザンヌ、フェルメール、アントニオーニ、ヴィゴの名が連祷される。中盤ではペルトの悲痛な祈りのような曲が断続しながら延々と流れ、イタリアのカンツォーネ歌手ミーナの「コンチェルト」という歌の一部が聴こえたりもするが、特にビヨルンスタらの静かで叙情的な響きが、強い印象を残す(こののち、2001年の『愛の世紀』では、かれの曲がシンプルにテーマとして用いられることになる)。歴史を女性に擬人化したシャルル・ペギーの『クリオ』。「国家」のイメージは「愛の至高な価値」の対極であると語るゴダール。イメージの「幸福」と「力」と「無」についての考察。終結部の、夢と目覚めについての簡潔なボルヘスの寓話。おそらくこの第4部が音響的にももっとも完成度が高く、清らかで、美しい。サウンドトラック中の白眉といってよい。  
   このほかにも、さまざまな箇所に、バーナード・ハーマン(ヒッチコックの映画音楽)、キース・ジャレット、ハインツ・ホリガー、その他もはや判別不能な、クラシック・現代音楽・ジャズ・ロック・ポップス・シャンソン・民謡などの無数の断片が、引用されている。また、あの『東風』で流されたのと同じシャンソンの曲がここでふたたび使われているのに驚かされるとも、つけ加えておこう。  
   このように、第2部からあとは構成がシンプルになり、沈黙や空白、すきまが増えて、しだいに瞑想的になってゆくようである。あたかもダンテのたましいの旅のように、「映画」という主人公は、その導き手ウェルギリウスにあたる「音楽」という冥界の道連れとともに、地獄から煉獄そして天国へと経巡ってゆくかのようなのだ。  
 

 「デュラス …なによりもまず音楽よ。
  ゴダール 同感だ。音楽はあの世にある。それに対し、文学と映画はこの世にあるわけだ」

(マルグリット・デュラスとのテレヴィ対談より、『ゴダール全評論・全発言V』)


 
 
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福田光一
Kouichi Fukuda

 

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