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ECM New Series

Album cover reproduced by courtesy of ECM Records, Munich
●ジャケット写真はECM Recordsの許諾のもと、掲載しております。(musicircus


Jean-Luc Godard
Histoire(s) du Cinéma

Jean-Luc Godard

ECM New Series 1706

toutes les histoires
une histoire seule
seul le cinéma
fatale beauté
la monnaie de l'absolu
une vague nouvelle
le contrôle de l'univers
les signes parmi nous

Recorded 1988-1997

ECM New Series 1706 (5-CD Set)

国内盤未発売
 
 
「神の道化師」あるいは「裸の声」

 ――ジャン=リュック・ゴダール『映画史』サウンドトラックを聴く

 
 
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   「その人間性は ほんとうに恐るべきものだ 正義のように宿命的で 愛のように破壊的 すべて生まれくるものと すべて死にゆくものとのあいだで 絶え間なくつづく公平な 闘争のように劇的である」

(『映画史』4aより、拙訳)


 
   この作品の主軸を構成し、聴覚的にも音楽と並んで重要な位置をしめるのは、過去の映画音声の引用をふくめ、なんといってもさまざまな「声」である。  
   2aでゴダールと長い対話をしているのは、まえにも触れた映画批評家、セルジュ・ダネーの声(92年に48歳で死去した)。デルピーのあどけない少女のような声はたびたび登場し、2aではボードレールの『旅』を朗誦しているし、2bの後半でブロッホの『ウェルギリウスの死』を知的に朗読するのは、女優サビーヌ・アゼマ。『こんにちは、マリア』でデビューしいまや国際的なスターになったジュリエット・ビノシュも、3aでエミリー・ブロンテの詩『自問』を朗誦している。  
   「声」たちの饗宴は、さながら詩や散文のリーディング集といった趣きだ。2aの終わりでは、ジャン=マリー・ストローブ/ダニエル・ユイレの映画『雲から抵抗へ』の音声から、イタリアの作家チェーザレ・パヴェーゼの劇詩が古典的に朗誦されているのが引用される。老優アラン・キュニーは4aで、あの『気狂いピエロ』でジャン=ポール・ベルモンドがヴェラスケスについての一節を読んでいたエリ・フォールの『美術史』から、「レンブラント」の章(ゴダールにより映画論として「翻訳」されている)を、じつに劇的な、きわめて印象深いしかたで朗読している。前記したマリア・カザレスをはじめ、ほかにもミエヴィルやジュヌヴィエーヴ・パスキエ、ジャン=ピエール・ゴス、ベランジェーヌ・アロー、そしてデイヴィッド・ウォリロー 注 7] の名が「声」としてクレジットされている。それに加え、前記のマルローやヒッチコック以外に、ジャン・ルノワール、フェルナン・ブローデル、ジャン=ポール・サルトルらの声も聴くことができる。そして、無数の映画の断片からあふれ出る、女優たち、男優たちの声。

 

注 7

 残念ながらウォリローの声は筆者には判別できないのだが(4bで『手で考える』を読むつやのある低音だろうか?)、この俳優は作家サミュエル・ベケットの晩年の友人であり、ベケットは『モノローグ一片』という戯曲をかれのために書いてもいる。ウォリローの声の登場にはおそらくベケットへのオマージュが含まれているのではないか。ゴダールはこの作家にたびたび言及しており、かつて演劇『しあわせな日々』の舞台を映画化したいと洩らしていたこともある。たとえば『右側に気をつけろ』は、「よりベケットに近い映画になるはずだった」という。この映画にはじっさい、道化のような太っちょの男(ジャック・ヴィルレ)が海辺の部屋のなかで、テープに録音した自分の声を聴く場面があり、その設定自体がベケット的であるばかりか、テープの声が語るモノローグと、「住むべき星をまちがえたんじゃないか」という台詞は、ベケットそのものからの引用である(『短編と反古草紙』『勝負の終わり』など。前掲『ゴダール全評論・全発言V』)。また『映画史』の1aと1bでは、白地に青の文字で "L'IMAGE" と映し出されるのだが、これは88年にエディシオン・ド・ミニュイから出版された、ベケットの極小の散文作品『イマージュ』の表紙なのだ(執筆は50年)。1bでは、その最終頁の文章も映される。ベケットの即物性と抒情性、イメージの断片性と強度、そして道化、孤独などに、ゴダールが結びつきをもつことは、なんら不思議ではないだろう。  
 
 それから「声」として特筆すべきは、4bで聴くことのできる、ふたりの詩人の肉声による自作の朗誦だろう。ドイツのユダヤ系詩人パウル・ツェランと、アメリカの詩人エズラ・パウンド。ツェランは絶滅収容所をめぐる「死のフーガ」の一節。パウンドは「キャントーズ」第一篇からの一節である。どちらも「途方もない朗誦法によるもの」(ゴダール)で、力強いリズムと抑揚をもった、驚くべきものだ。
 
   そしてなにより、ゴダール自身の声による語りや朗読もまた、単調なようでいて、じつは微妙な発声法の変化や息遣いを駆使した、驚くべき達成を示している。ごく初期の、たとえば『はなればなれに』でナレーションをする34歳のゴダールといまでも不思議なことにほとんど変わらぬ、ひしゃげたような声音は、きわめて独特である。ことに中盤から終盤に至り、どんどん凄味が増してくるようだ。「父たちや母たちが喉を切られ 幼い少女や少年が売られている」と3aで「虐殺」を静かに告発する震えた声には、鬼気迫るものがある。4bの冒頭、「人間…、人間…」と、亡霊めいたこだまをともなう悲痛な声で呻くゴダールは、まるで打ち震える、剥き出しの、原初的な、零度の「神経の秤」(アルトー)と化したかのようである。そして深い沈黙のなかで、「エミリー・ディキンソン もっともはかない瞬間こそ 華々しい過去を所有する」と低くつぶやくとき、その声はまさに、そうした詩句を体現しているかのようだ。かれ自身の声をふくめ、こういった、詩劇のような、古典的ともいえる声の現前には、ゴダールに伏流する、「演劇」への関心 注 8] が、顕在化しているとも思える。ただしこれは、稀薄な大気のなかで微細に打ち震えるような、孤独な、「零度の演劇」とでもいうほかないものであるが。

 

注 8

 前述したブレヒト、アルトー、ベケットのほか、ラシーヌやモリエール、ジロドゥー、クローデルなどなど、演劇への関心をゴダールはしばしば口にする。演劇自体を扱ったものではないが、当時の前衛劇の手法を取り込んだ『中国女』(67年)や『ワン・プラス・ワン』(69年)、またシェークスピアをめぐりつつ、たぶんに現代演劇的な様相を見せる『ゴダールのリア王』(87年、主演はアメリカのオペラ演出家ピーター・セラーズ)などが思い出される。最近でも『フォーエヴァー・モーツァルト』(95〜96年)で、内戦下のサラエヴォへ行き演劇を上演しようとする、若者グループを描いている(サラエヴォでベケットの『ゴドーを待ちながら』を上演したスーザン・ソンタグをフィリップ・ソレルスが皮肉り、「むしろマリヴォーを上演すべきだった」と言ったのに想を得ている)。また興味深いことに、シナリオや講演で、アンヌ=テレサ・ドゥ・ケースマイケルのローザスやピナ・バウシュなど、コンテンポラリー・ダンスにも言及している。『右側に気をつけろ』のなかでは、「俳優は姿を消すことで現われる」という、ヴァレール・ノヴァリナのことばが引かれている。ノヴァリナは42年スイス生まれのフランスの詩人・劇作家。言語の極限に挑むような、独創的な演劇で知られる。『生命のドラマ』という劇には2,587人もの人物が登場し、パトリック・ドゥ・ヴォス氏によれば、『動物たちへの演説』では1,111種の架空の鳥の名が羅列されるらしい(「PT」第9号)。それから『エデン、エデン、エデン』などの、これも過激な作品で知られる作家・演出家のピエール・ギヨタが、2000年のカンヌ開会式で上映された短篇『21世紀の起源』に、声で出演しているという。『映画史』でも、ゴダール自身がひたすらタイプをうちつづけるベケット的なシークェンスをはじめ、デルピーやアゼマの朗誦シーンや、キュニーとビノシュの登場シーンなど、(ほかの作品でも見られる傾向だが)近代的な「室内劇」というより、もっと古典的で同時にコンテンポラリーな、言語的な強度に充ちた「詩劇」への志向が現われているといっていいだろう。

 
 
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福田光一
Kouichi Fukuda

 

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