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多田雅範 Masanori Tada
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2008. 10. 12. |
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| クラシックのコンサートに通いはじめて4ヶ月。 都内8つの区の図書館に合計43枚のCD貸し出し枠を保持する、瞽女唄(ごぜうた)からフランドル楽派、ジャック・ニッチェの世界まで、聴きまくる一方から忘れてゆくわたくし。 何が変化したって、クラシックのCDを聴けなくなってきたこと。 ミスチルをぜんぜん聴かなくなったこと。 理由はなんだろ。 「どう?」と彼女にきかれて、「Jポップおもしろくなくなった。音楽を認識する(時間の)スパンが長くなったからかな。楽譜が透けて見えちゃうようなつまらなさを感じて。」と言ってみたけど。 |
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| ECMニューシリーズの古楽や現代音楽のナルちゃんチックな臭みが鼻についてきたという変化もある。 そんなに離人症する絶望に世界は満ちているのか。 |
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| このところまたジャズを聴いている。 アイラーと菊地雅章ばかり聴いている。 生きている演奏とはどのようなものか、と、ばくぜんと考える。 |
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| クラシックにも生きている演奏をしているひとがたくさんいる。 フォームと身体のあわいに。 |
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| ここで書いているコンサート評は、絶対的な自信を持って書きつけている。 根拠のない自信というのはたぬきに由来する。 でも、一方で、まったく聴取の前提となる教養がないから、ほんとなら聴き取れた宝物を見つけそこねているのではないかという怖れもある。 その怖れを放置できるほど老成していない。 その意味では、ひきつった顔をしてハナをたらしている中学生がぎゅっと手を握ってビビってコンサートと向き合っているようなものだ。 したがって、わたしのようではない聴衆はいっぱいいるので、演奏家のみなさんは気になさらないでください。 |
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| 斉藤かぐみさんが代表となって仏ル・モンド・ディプロマティーク紙を翻訳した『力の論理を超えて』で、エドワード・W・サイードが書いた「バレンボイムとワーグナーをめぐる論争に寄せて」(2001年11月号)を読む。 服喪を超える、という概念が提示されている。 その上でサイードは「人は生き、先に進んでいかなければならず、過去の中に立ちすくんだままではいけないのである。」と書く。 服喪を超える、とは、内田樹が村上春樹を論ずる文脈とも通ずる気がする。 作田啓一が『生の欲動』で付記した一節で、幼女殺害の被害者の母の手記を読む。 「A君へ――母であるがゆえに、娘がされたことと同じことをしてやりたいという、どうしようもない怒りと悔しさと憎しみがあります。その一方で、これも母であるゆえに
(中略) 真っ先に、思い切り抱きしめて、共に泣きたい。言葉はなくとも、一緒に苦しみたい。」 |
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おやじカンタービレ vol. 7 ▼ Niseko-Rossy Pi-Pikoe @musicircus |
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<031> 「ラスト数秒の魂を浄化するようなドビュッシー・トーンの存在に痺れる」 コンサート・オペラ 歌劇『ペレアスとメリザンド』 芸術監督、指揮:若杉弘 東京フィルハーモニー交響楽団 2008年6月28日(土) 新国立劇場 中劇場 <032> <033> <034> <035> |