彩耳記 saiji-ki |
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| 答えのない問いが 夜のなかからこぼれ落ちてくる。 考えあぐね、思い巡らし、 カーテンの隙間からもれる光と鳥の声が 朝を告げる。 会社へ行けばやるべき仕事が待っている。 「なぜ」ではなく、「いかにして」を考えること。 それが昼の時間だろう。 光の絶えることのないこの時代において、 私生活を仕事のように巧み過ごす現代人は、 当面の問題を「いかにして」切り抜けるかに忙しく、 「なぜ」を考える余裕をもてないでいる。 「なぜ」をもたらす音楽や文学は衰退し、芸術は滅んだ。 わずかに生き残った「なぜ」の卵が、 未来のこどもたちの時代に再び孵ることはあるのか? |
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| 「あらためて」知る──。 それはどういうことだろう? 知ることに至る道筋が、同じように見えても、 いつも違う、ということだろうか。 それとも、すでに経験ずみの知識の蓄積があって、 それを忘れていたけれども思い出した、ということなのか。 知るという行為の過程が大事なのか、 それとも知ったことの内容が問題なのか。 |
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| 音楽を聴くことは、つねに、新たなる謎との遭遇であると思う。 |
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| ジャンケレヴィッチ最晩年の著作『還らぬ時と郷愁』。 音楽について書かれているわけではないが、 もしそこに「音楽」がなければ、 老倫理学者にとって、時間は、 はたしてこのように認識されたであろうか。 この本が指し示しているのは、 遥かなる彼方への希望であると同時に、 それと同じほどに深い彼方への絶望である。 そしてまた、現在と初めて遭遇する「喜び」であると同時に、 現在が与えるそれと同じほど大きな「非情さ」である。 |
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| 郷愁とは、かつて可能性として与えられていた未来を 現在として生きることのなかにある。 ならばそれは、時の逆行不可能性の向こう側に 現在を投げ返すことだ。 純粋な現在とはそもそも虚構である。 さまよいながら手にした指標は、 いままで進んできた道のりの反省とともにあり、 未来への想像力によってのみ 新たな方位を指し示す。 それは、変化そのものではないにせよ、変化を支えるもの。 歩くことではないが、自らがどこにいるのかを知ること。 創造でも破壊でもない。 とりあえずそれは、静止した舞踏、 とでも言うしかないようなもの……。 |
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| 光が当たっている側から物事をみるのはたやすい。 けれども、それは「いかにして」を考えることであり、 「なぜ」を考えることではない。 夜の時間。夜の思考。 ロマンや狂気を神秘的にとらえた「夜」ではなく、 明るい昼を支えるために費やされる 無数の欲望、苦痛、知恵、歓喜の思考。 ジャンケレヴィッチが記述しようと立ち向かっているのは、 私たちの思考を支える無の領域の存在であると思う。 暗闇で時間をかけて眼を凝らさなければ 読みとれないような織物の模様、 そのわずかな皺と綻び。 |
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| それが何だったのかは、朝になれば分かるはず。 光を浴びて輝く時間── いくつもの眼と精神に、 永遠の変化と再生をあたえ続ける、 二度とは巡らない朝。 それは、世界の可能性の表面そのものなのだ。 |
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