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 彩耳記
 
saiji-ki

10 夜の時間。夜の思考。  
 


こぼれゆく夜の時間
思いあたり、思いめぐらし、思いなおして
今夜ももう終りに近い
朝だ、と外で鳥がいう

──カール・クラウス

1986年9月19日(金)草月ホール 高橋悠治コンサート・シリーズ「夜の時間」チラシより

  答えのない問いが
夜のなかからこぼれ落ちてくる。
考えあぐね、思い巡らし、
カーテンの隙間からもれる光と鳥の声が
朝を告げる。
会社へ行けばやるべき仕事が待っている。
「なぜ」ではなく、「いかにして」を考えること。
それが昼の時間だろう。
光の絶えることのないこの時代において、
私生活を仕事のように巧み過ごす現代人は、
当面の問題を「いかにして」切り抜けるかに忙しく、
「なぜ」を考える余裕をもてないでいる。
「なぜ」をもたらす音楽や文学は衰退し、芸術は滅んだ。
わずかに生き残った「なぜ」の卵が、
未来のこどもたちの時代に再び孵ることはあるのか?
  「あらためて」知る──。
それはどういうことだろう?
知ることに至る道筋が、同じように見えても、
いつも違う、ということだろうか。
それとも、すでに経験ずみの知識の蓄積があって、
それを忘れていたけれども思い出した、ということなのか。
知るという行為の過程が大事なのか、
それとも知ったことの内容が問題なのか。
  音楽を聴くことは、つねに、新たなる謎との遭遇であると思う。
  ジャンケレヴィッチ最晩年の著作『還らぬ時と郷愁』。
音楽について書かれているわけではないが、
もしそこに「音楽」がなければ、
老倫理学者にとって、時間は、
はたしてこのように認識されたであろうか。
この本が指し示しているのは、
遥かなる彼方への希望であると同時に、
それと同じほどに深い彼方への絶望である。
そしてまた、現在と初めて遭遇する「喜び」であると同時に、
現在が与えるそれと同じほど大きな「非情さ」である。
  郷愁とは、かつて可能性として与えられていた未来を
現在として生きることのなかにある。
ならばそれは、時の逆行不可能性の向こう側に
現在を投げ返すことだ。
純粋な現在とはそもそも虚構である。
さまよいながら手にした指標は、
いままで進んできた道のりの反省とともにあり、
未来への想像力によってのみ
新たな方位を指し示す。
それは、変化そのものではないにせよ、変化を支えるもの。
歩くことではないが、自らがどこにいるのかを知ること。
創造でも破壊でもない。
とりあえずそれは、静止した舞踏、
とでも言うしかないようなもの……。
  光が当たっている側から物事をみるのはたやすい。
けれども、それは「いかにして」を考えることであり、
「なぜ」を考えることではない。
夜の時間。夜の思考。
ロマンや狂気を神秘的にとらえた「夜」ではなく、
明るい昼を支えるために費やされる
無数の欲望、苦痛、知恵、歓喜の思考。
ジャンケレヴィッチが記述しようと立ち向かっているのは、
私たちの思考を支える無の領域の存在であると思う。
暗闇で時間をかけて眼を凝らさなければ
読みとれないような織物の模様、
そのわずかな皺と綻び。
  それが何だったのかは、朝になれば分かるはず。
光を浴びて輝く時間──
いくつもの眼と精神に、
永遠の変化と再生をあたえ続ける、
二度とは巡らない朝。
それは、世界の可能性の表面そのものなのだ。
 


堀内宏公
Hiromasa Horiuchi

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