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 彩耳記
 
saiji-ki

16 『武満徹全集』完結  
 

2002年秋から刊行が開始された小学館の『武満徹全集』(全5巻)が、2004年5月ついに完結した。

 CD58枚に加えて各巻300〜400頁のハードカヴァーの書籍が附属するという壮麗な外観を呈しており、谷川俊太郎、大岡信、吉増剛造、小池昌代、バリー・ギフォードの書き下ろしによる詩、武満徹をめぐる多くの人々のエッセイ、インタヴュー、詳細な年譜や資料などがひしめくように横溢している。

 曲目解説は、作曲者本人によるプログラム・ノートのほか、当時の国内外の紙資料からの引用がちりばめられ、さながら、“タケミツ・ミュージアム”の奥深い資料室のなかに迷い込んだかのような目眩を覚えずにはいられない。

 

武満の音楽において、何が特別なものであったのか。

 複雑に入り組んだ繊細な陰影を持続して行なわれる、ドビュッシーやメシアンにまなんだハーモニーの色彩の変化という手法。それを東洋的な時間・空間認識の作法と照応させながら、独自に仮構した数的秩序と結びつけてリアライズする、職人的かつ独創的な技術の厳格と余裕。その達成から立ち顕れる響きの美意識の発露。

 

こうした具体的細部に注目する仕事は勿論残されているが、しかし、それだけが、かれの音楽を解き明かす鍵ではないはずだ。

 

かつて遠山一行が書いた武満徹論では、武満の音楽を日本の戦後民主主義とアメリカ的価値観との関連から考察していた。これは作曲家論としてよりも、むしろ武満の音楽に耳をすます聴衆の側を照らすテキストとして読むことで光を放つのではないかと思われる。武満の音楽はジャスパー・ジョーンズやマルセル・デュシャンのアートと同じように、(戦後の日本人にとって)精神の自由と知的なしなやかさを表現するための充実した素材でありえた。そこにおいてこそ、武満徹の音楽は、精神の安らぎや愉しみのための代替物に留まるものではなく、酷薄な現実世界の向こう側に拡がる希望へと向かう難行路を歩む、具体的なステップとして意識されはじめる。

 

さて、では、21世紀を迎えた日本において、武満徹の音楽の聴衆は、個として拡散したまま、何に向かって自らを対置しようとしているのか? そこが見えづらいとなれば、かれの音楽は、新たな役割と位相をもとめて不安定なかたちで彷徨っているのかもしれない。

 

何もかもが分析され、理由づけられ、分類される現在の情報化社会のなかで、その趨勢にしばし抗って、名付けえぬものに満たされた無明の時間と向き合う体験は、失われてゆく内面を守るために、これからますます必要になってくる。

 

個々の精神が国家や世界から独立するという希望のために、いま、武満徹の音楽は響き始めているのではないだろうか。

 


堀内宏公
Hiromasa Horiuchi

 
11 composers of contemporary music - 武満徹/安芸光男

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