| プロローグ 二人は追い詰められていた。 若い男と女。
しかも、女の方はまだ少女と呼んだ方が相応しい年齢だ。世界が自分を中心に回っていると勘違いしているとしても、赦されてしまいそうな美貌の娘が、今、彼と背中合わせにいる。
闇の中でお互いの呼吸の音と体温だけが寄り添っていた。 ほんの一時間前までは見知らぬ他人同士。 まるで映画のシチュエーションのようにドラマチックだ。
二人が最後に逃げ込んだのは、地下室だった。ガランとした広いスペースに、配管から滴り落ちる水音が空虚に響く。身を隠す場所も中央のコンクリートの冷たい支柱の陰しか残されていなかった。
若い男――法城洸一郎は、この劇的な展開に完全に酔いしれていた。 緑のアスパラガスのように何処までも伸びそうな背丈と、少年がそのまま大人になったような快活な瞳が、整った顔立ちを生き生きとさせている。彼もまた世界中の女は自分のためにいると信じて疑わないタイプだ。
「おい」 洸一郎は、トレードマークのゆるやかにウェーブのかかった髪をサッと掻き上げて、流し目気味に女を振り返った。 「まだ、オマエの名前を聞いていなかったな」
ガキの頃見た刑事ドラマに似たようなセリフがあったと思いながら、少しニヤつく。本人はニヒルに笑っているつもりだ。 べしっ――。 いきなり少女に蹴りを入れられ、思わず呻き声を挙げた。高いヒールのかかとが思いっ切り膨ら脛を直撃したのだ。
「な、何しゃがるんだ?」 「アンタこそ、失礼じゃない。アタシを気安くおい、オマエで呼ばないでくれない。いい、アタシには、咲耶っていうとっても素敵な名前があるんだからね」
啖呵を切った。もう五年先なら妖艶なお姉さんで通る顔とはまるでアンバランスな気っ風のよさだ。 「へぇ〜、サクヤか。オレは法城洸一郎、社会の平和と正義を守るお巡りさん、当年とって二十四歳だ」
「なんだ、お巡りなの、ただのスケコマシかと思ったら」 咲耶と名乗った少女は、小憎たらしいほど落ち着いている。本当に窮地に立たされているのかと疑いたくなるくらいだ。
「で、なんで《L》に追われてるんだ?」 洸一郎は《L》という言葉を強く発音した。 「……フッ、まんざら事情を知らない訳でもないみたいね。けど、アタシは助けてくれなんて一言も言っってないのに、勝手にくっついて来たんでしょ。だから、説明する義理はないわ。大体、アンタが首を突っ込まなきゃ、もっと簡単に逃げられてたんだから」
咲耶はツンとして、横を向いた。 「あのなあ、いいか、オレは刑事だ。一般市民を守る使命があるんだ。困っている人を放っておけるもんか」 「あらそう、アタシはちっとも困ってないけど」
二人は顔を付き合わせた。 咲耶の好戦的とも言える瞳は揺るがない。ちょっと尖らせた唇は幾分幼さを覗かせていた。 ふっと洸一郎は目を細めた。とても優しい、静かな眼差し。
「……強がるなよ、お嬢ちゃん、たとえ二階級特進したってオレは君を守って死ねるなら本望だ」 「フ、フ〜ンだ、よくそんな歯の浮くような科白を吐けるわね」
咲耶はほんのりと薔薇色に上気した顔を背向けた。だが、次の瞬間、彼女の瞳には、イタズラを思いついた小悪魔のような怪しい光があった。 「……そうね、この際、アンタでもいいかな。法城って言ったわね、ちょっと顔を貸して、ううん、もっと近くよ」
「こ、こうか?」 くるりと振り向いた咲耶はにこやかに頷いた。豹変というのはこのことを言うのだろう。ルージュをひいたように濡れた唇がキスを誘っている。
まあ、若い女の子の気分なんてころころと変わるものだ。洸一郎はそれとなく期待した。 「そう、目を閉じて……いいって言うまで絶対動いちゃダメよ」
「お、おう」 スケベな期待は益々高まる。実に素直に目を閉じた。数秒後に唇に触れるであろう柔らかな感触を期待しつつ。 沈黙が辺りを支配する。自分の心臓の鼓動だけがヤケにはっきり響く。
じらされているように、その瞬間は幾分長かった。 そして、訪れる。 いきなり、硬質で冷たい感触が額に押し当てられた。まるで氷、さもなければ炎――。決して、キスの甘い夢ではなかった。
「いっ、痛ぇっ!」 たまらずに身体をのけ反らせ、よろめく。その硬いモノが触れた刹那、脳が鷲づかみされ、こじ開けられた気がした。鮮烈な痛みが消えない。
「もおっ、根性ないんだから……失敗しちゃったじゃない」 咲耶が舌打ちした。 「今、何しようとしたんだ!?」 額を押さえながら、問い詰める洸一郎。
「えへ、ちょっと、アンタの額に宝石を埋め込んでみようかなぁ……なんてね」 後ずさる咲耶。さずかにヤバいと感じたらしい。 「宝石を埋め込むだあ?」
確かに彼女の右手には、透き通った赤い石が握られていた。宝石とか言っているがかなりの大きさだ。おそらくはオモチャかなんかだろう。 「オマエさ、頭大丈夫か? いや、待てよ、まさかそれを盗んで追われてるんじゃないだろーな? ちょっと、それ寄こせ」
「いやよ、これは……」 どぉぉぉん、どぉぉぉぉん。 轟音が響き渡った。 はっとする二人。 逃げ込んだ時に確かに施錠した筈の重い扉が揺さぶられている。
そして、不意に静かになる。 「いよいよ、敵さんのお出まし……って訳ね」 不意に、咲耶の身体がふらりと揺れ、前にのめりそうになった。
「サクヤ?」 思わず腕を差し伸べた。咲耶がその腕の中に倒れ込んできた。 心なしか青ざめた顔の咲耶が、唇を噛みしめながら、咲耶の瞳は鋭く扉を見据えていた。
「ダメ……押さえきれない」 小さな悲鳴を漏らす。 同時に、重い扉の中心にぽっかりと人の頭ほどの穴が開いた。その周囲はまるで溶鉱炉に投げ込まれたように溶けている。
そして、その穴から、にゅっと腕が突き出され、こちら側からロックを外した。 「ば、莫迦な……」 一瞬呆然とする洸一郎。 不意に、ついさっき職場の異動で上司になったばかりの男の言葉が脳裏に甦った。
『君は運がいいからね、期待しているよ』 簡単に扉は開かれ、初めて追っ手が二人の前に姿を現した。 「じょ、冗談だろ……アレが《L》じゃないだろーな?」
洸一郎は狐につままれたような顔で、侵入者を見つめていた。 いい女なのだ。頼むからヤラせてくれとお願いしたくなるような女が立っていた。 ブランド物のスーツが、出るべき所はちゃんと出ているスレンダーな身体を隠しているにが残念なくらいだ。ボブの髪がさらりと流れ、メイクも完璧で、大人の色香を漂わせた美人である。
モロ好みのタイプだったりする。最も、洸一郎のストライクゾーンはかなり幅広いのも事実だ。 「莫迦ね、扉を素手で焼ききるようなヤツが人間な訳ないじゃないの。よく見なさいよ、アイツは化け物よ」
咲耶が一歩も退かず女を睨み付けている。 「それもそうだな……」 が、いくら目を皿のようにして眺めても、極上のいい女にしか洸一郎には見えない。
ということは、自分も普通の能力しか持たない人間だからだろうと、洸一郎はアッサリと納得した。 そう《L》は見えないのだ。 洸一郎は拳銃をホルスターから引き抜くと威嚇射撃のつもりで発砲した。
女は避けようともしない。 鈍い音がした。 弾丸は女の胸に吸い込まれるように軌道を変え、命中した。 女の歩みは止らない。うっすらと笑みが貼りついている。
「う、うわっ!」 続けて二発目。今度は確かに心臓を狙った。硝煙をまき散らしながら弾丸が宙を走り、女を直撃した。 (コイツ、本当に化け物だぜ。平然としてやがる)
怖い物知らずの洸一郎が震えていた。 (なあに武者震いさ) そう思うことにした。でなければ、かなりヤバイ状況だ。 「おい、オレが囮になる……その間に」
洸一郎は女から視線を反らさずに言う。 「無理だってば、アンタは逃げてよ」 咲耶は首を振った。さっきまでとは違う、切羽つまった表情。
「なめるなっ!」 洸一郎は再び構えた。 (この子を守ってみせる、オレは警官だ!) 女は無言で白い腕を突き出した。 ばしぃぃぃぃ〜ん!
見えない衝撃がぶつかってくる。 まるで巨大な鞭にでも叩きのめされたかのように、洸一郎の身体は後方へ弾き飛ばされていた。壁に激突すると、そのままどさりと床に落ちた。
「法城っ!」 咲耶の叫びが遠くで聞こえる。 洸一郎は動けない。呼吸もままならない。 (ちぇっ、何が君は運がいいだ。隊長はホラ吹きだな。万事休すじゃないか)
間近に迫った死の予感。 だが、不思議と意識だけは研ぎ澄まされたように鮮明だった。 (マジで二階級特進かよ。笑い話にもならないぜ……ああ、どうせ死ぬんだったら、最後にホントにキスしときゃ良かったな……)
その時、女が迫ってくるのが、ブレて見えた。初めて、人ならざるもの――妖異体《L》を垣間見た瞬間だった。 だが、それもすりガラス越しの風景。恐怖は感じなかった。
すべてが白一色になる。 そして、まばゆいばかりの赤光。 少女の白い手と宝石のイメージが重なる。 灼熱する赤い光が、洸一郎を襲った。
それは死への恐怖さえも凌駕して、洸一郎の心と脳髄を貫いた。 まるで魂そのものに焼きごてを押されたみたいだな、と洸一郎は苦笑したような気がする。
死者への烙印――。 そこで意識が途切れた。 ――ブラックアウト。
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