| 第一章 ラルヴァ やや時は遡る。 「――全くあの人らしいわね」
武上やよいはかつて上司であった男から送られてきた書類を手にしながら、我知らず苦笑していた。 いわゆるキャリア組と呼ばれる警察のエリートの中でも、女性でありながら30代前半で課長にまで出世するのは異例の早さである。その理知的な瞳が今かすかに温かな光を宿した。
彼女の手元にある書類を他人が見れば、ゲームの企画書だと信じて疑わないだろう。 タイトル――『ラルヴァハンター』 その下に「妖霊を狩る者たちへ捧ぐ」と麗々しく付け加えられている。
最初のページにはゲームを始めるための用語解説がついていた。 「ラルヴァ(Larvae)の名称は古代ローマにおける死者の霊から来ている。レムレスが生前に善い行いをした霊であるのに対し、ラルヴァは悪行によって冥界へ行けないさまよえる霊である。後世、この二つは混同され、人間に憑りつき、生命力を吸い取る邪霊となり、その姿は人間とそっくりであるとされている……か」
やよいは首を振った。とてもこの書類が彼女が今扱っているヤマと関連があるとは思えない。 パラリ。それでも事務的に細く美しい指が新しいページをめくる。
そこに、妖異体《L》によって引き起こされる猟奇事件の多発を防ぐために、東京警察妖撃課が特務機関として、警察と分離して設立された経緯が記されていた。これがゲームでなければ、伝奇オカルト小説かアニメのオープニングに違いない。だが、やよいは眉をひそめた。
酷似している――。 微かな悪寒が走る。しかし、たいていの警察官がそうであるように、彼女もまた現実主義者だった。 コーヒーカップに手を伸ばし、冷めた苦いコーヒーを一口啜った。
その時、電話の着信ランプが点滅し、一呼吸置いて、内線の呼び出し音が鳴った。 「はい、武上……やっと待ち人来たるというわけね、いえ、こちらのことよ……課長室にお通しして」
やよいは立ち上がって腕組みをした。 ほどなくして、ノックの音。 「どうぞ」 ドアはイライラするほどゆっくりと開かれ、あと三分の一ほどのところで止った。
「やあ、やよいさん、お待たせ」 その隙間からひょっこりと男が顔を出した。 窓から差し込む西日が、どこをとっても一見平凡そうな男の姿を赤く染めて浮き上がらせた。
やよいがまだ新米の頃上司だった男は、数年ぶりの再会だというのにあまり変わっていなかった。メタルフレームの眼鏡の奥の優しい双眸も、ソフトな声音も、真新しい背広を着ていてもくたびれて見えてしまう猫背気味の姿も、やよいの記憶に残っていたそのままだった。彼は軽く左手を上げて、気さくに近づいてくる。
「相変わらず時間にはルーズなんですね、森本警部」 やよいは組んでいた腕をほどいて額にかかった髪を掻き上げた。 「ごめんごめん、きっと怒っていると思ったからさ、はい、お詫び……どっちにする?」
にゅっと目の前に二本の缶ジュースが差し出された。ミルクたっぷりの甘いコーヒーと健康そうなハーブティだ。 やよいはため息とも微笑ともとれる息を漏らすとハーブティを受け取った。
「私の好み、覚えていたの、森本さん?」 昔通りの呼び方に自然に変わっていた。目の前の男はお堅い警察機構の一員でありながら、その枠に囚われることが無かった。
「えっ、いやあ、たまたま当っちゃったかな」 森本ジョンは頭をかきながら、勧められる前にソファに身を沈めた。 「で……、読んでくれた?」
プルタブを開けて、おいしそうに缶コーヒーを飲んだ後、森本はようやく本題に入った。 「これでしょ」 やよいがさっきの書類を森本の前のテーブルに置いて、対峙する形でソファに掛けた。
「面白かったわよ。でも、いつから副業にゲームソフトのデザイナーを始めたのかしら」 つい皮肉がこもった口調になる。 「あららら、やっぱりそう見えた? いやあ、うっかり落とした時に困らないように、そういう仕立てにしてあるんだけどさあ」
なんとなく嬉しそうに森本が答えた。 「上のお偉いさんたちにも見せたら、びっくりしてたのなんのって、怒り出す人までいてねぇ」 「本気? 本気でこんなものを上に……」
やよいは耳を疑った。 「うん、少々時間はかかったけどね、やよいさん、そこに書かれているのは小説やゲームなんかじゃない真実だよ」 森本はゆっくりと頷くと、これまで見たことがない真剣な表情でやよいを見た。
「そう、すべて真実。やよいさんが今追っているヤマも、間違いなく《L》絡みの事件だし、東京警察妖撃課の発足も……ね」 少し下がった眼鏡のフレームを押し上げると、人の良さそうな森本の顔がそこに戻っていた。
三か月前から中野区を中心に変死事件が多発していた。 マスコミはこぞって二十世紀最後の切り裂きジャックとか、宇宙人の来襲説を唱えて騒ぎ立てた。それも無理からぬことで、外部損傷は見当たらないにもかかわらず臓器が綺麗に抜き取られていたり、昨日まで普通に生活していた筈の人間がミイラ化して発見されたりと実に異様なものだった。戒厳令並みの警戒体制が今も敷かれている。
やよいが中野署の課長に就任して以来もっとも頭の痛い事件である。 「森本さん、悪いけど正気とはとても思えないわ。そんな化け物……《L》とかいうのが、この現代に跳梁跋扈してるなんて」
「突然こんな荒唐無稽なことを信じろって言われたって困るよね、確かに。だから、このことは警察の中でも本部長クラスしか知らない。妖撃課についてもトップシークレットになっている」
森本は胸の前で両手を組み合わせた。 「じゃあ、どうして私に……」 「そりゃあ、やよいさんは古くからの馴染みだし、それにちょっと下心もあってね」
森本はポケットをまさぐって煙草を取り出し、咥えながら続けた。 「これから益々《L》事件は増えていくよ。普通の警察じゃとても手に負えない事件だ。たとえば、今のヤマにしたって、ただ一人捜査線上に上がっている女性のことだけど」
「ええ、斑猫聖華(ハンミョウ・セイカ)、二十三歳、職業生け花の家元、住所中野区内のマンション――。彼女について状況証拠はあるの、だけど、物証も動機もはっきりしていない。それに女性の仕業にしては、手口が大胆すぎる」
やよいは少し驚きながら頷いた。 「彼女が《L》でなければね」 「《L》、《L》って一体何なの? そのラルヴァとかは人間を襲う天敵のようなものだとでも言うの?」
「……奴等の目的はまだわからない。ただ、やよいさんの言った天敵というのにかなり近いものはあるんじゃないかな。これまで人間は全生物の頂点に位置することを少なからず自負してきた。だが、それは地球上の生態系にとって不自然過ぎる」
やよいは答えるべき言葉を失った。短時間の間に与えられた情報量をすぐには処理しきれないでいた。 その時、森本の携帯電話が電子メロディーを奏でた。
「はい。森本――」 森本は同じくポケットから携帯を取り出すと、耳を傾けた。 「……えっ、ああ……うんうん、わかった。やよいさん、どうやらその容疑者が動き出したらしいよ。僕は今から現場に向かう」
「私も」 「いや、それより確か中野署に法城とかいう刑事がいるよね。貸してくれないかな? まあ半永久的になるかもしれないけどさ」 ティッシュをくれというような気軽さで森本が聞いた。背広の内ポケットからよれよれの書類を取り出すと、やよいに差し出した。既に上への根回しは済んでいるということらしい。
「あの法城洸一郎を? それはかまわないけど……」 やよいはペンを取りながら、口を濁した。彼はやよいの部下の中でもお世辞にも優秀とは言えない、それどころか……。
「本当はやよいさんもうちに来てくれると嬉しいんだけどな。もし妖撃課に来てくれるなら、署長扱いで受け入れるんだけどなあ」 森本はそそくさと立ち上がりながら、少年じみた笑みを浮かべ、へたくそなウィンクをした。
「残念ね、三日前だったら、喜んで行ったのに」 「あ、やっぱり?」 やよいは肩を竦めると、電話の内線を呼び出した。 「法城巡査を課長室まで」
こうして、法城洸一郎の東京妖撃課への配属はあっさりと決まった。
「ヒキガエルの雄は交尾の時にどうやって雌を見分けるか知っているかい?」
それが森本と二人きりの車の中で最初にふられた話だった。 「見ればわかるんじゃないの?」 洸一郎は興味なさそうに答えた。 「それが違うんだな。ヒキガエルは目がいいわけじゃない。動くものすべてに反応するんだよ。だから、それが同じ雄だろうと、目の前にぶら下げられたコンニャクだろうと、とりあえず上に乗っかって捕まえちゃうんだよね。だから、繁殖期は彼らの集まった沼はもう大騒ぎ」
「雄に乗っかっちまう……気の毒だな」 洸一郎は心からヒキガエルの雄に同情した。 「だろ? けどね、人間の認識能力も実はそんな高いものじゃないんだよね、これが。人間の中に異質なものたちが混じっていても、人間はそれを同じ人間だと信じているから、見えないんだよね。彼らの真実の姿がさ。それを僕ら《L》と呼んでいる」
「《L》?」 「まだ彼らの行動原理が全部解明されたわけじゃないし、僕らもやっとその存在に一部のものが気づき始めたばかりだ。ただ、彼らの中には人間を捕食する、つまり、人間を食料としているものたちも存在するんだよね」
「オレらは三時のオヤツってわけか」 「そういうことになるね。けど、人間だって、ただ黙って食べられている訳にもいかないだろ。平たく言うと、気づいていない人たちに代わって、《L》を退治するために東京警察妖撃課が創設された」
「ふ〜ん」 リアシートで洸一郎は組んだ長い足の上に、頬杖をついて言った。 バックミラーごしに、絶対驚くだろうとワクワクしている子供のように、笑みを堪えながら様子を伺っていた森本は、拍子抜けした。
「うーん、もうちょとびっくりしてくれないとなあ。最近の若者は付き合いが悪いねぇ」 「あ、そりゃあすみません――まさか、ほ、本当ですか?」 洸一郎が目を丸くして見せた。そして、ニヤリとした。
「こんなもんでいいですか?」 「そいつは、演技力不足だね」 森本がウンザリした顔になった。 「やっぱり、ヘタ? 何分、学芸会ではその他大勢か、カカシみたいな王子様しかやったことないからなあ」
洸一郎は頭を掻いた。 「いやー、別にすぐに信じろって言われても困るし、かといって、そーゆーこともあっても面白いじゃんとか思ったりして」 「面白いかねぇ……」
森本も苦笑を禁じ得なかった。 「面白いでしょう、それは。これだけ科学の発達した時代にお化け退治が出来るなんてさ。自慢じゃないけど、生まれてこの方お化けも幽霊も見たことないですよ。うちのママのママ、つまりおばあちゃんが死んだ時も、あんなに可愛がってもらったのに、アンタはグッスリ寝てて蹴飛ばしても起きなかったって、ママによく嘆かれるくらいだから」
「ママね……法城君のお母さんて、もしかして美人?」 「もちろんですよ。だから、こんないい男が生まれるんじゃありませんか」 洸一郎が自信たっぷりに答えた。
「それはそれは一度お会いしたいもんだ」 「けど、なんでオレがその妖撃課とかにご指名があったんですか」 「それはいい質問だね。やっぱり、わからないかな?」
「自慢するのも何だけど、中野署ではいろいろ規律違反をヤラかすから、厄介者扱いでしたからね。いわゆる問題児ってやつですか」 洸一郎は指を櫛がわりにして、ウェーブのかかった髪をかきあげた。口元には笑みがこぼれている。
森本はゆっくりと満足そうに肯いた。 「君は運がいいんだよ」 少し間を置いて、森本が思わせぶりにポツリと言った。 「運?」
洸一郎が訝しそうに眉をひそめた。 「そう、この業界で一番大事な能力だ。聞くところによると、君は犯人の検挙率も高いし、何度かの銃撃戦でもかすり傷ひとつ負っていないそうじゃないか。今ここに君が生きているのは、君の運が抜群に良かったからだとは思わないか?」
森本は更に例証を挙げつつ、いかにも理路整然と無茶苦茶な論理を展開させた。 「確かに言われてみれば、そんな気も……」 だんだんしてくる洸一郎だった。彼は少し得意になった。これまでどんなに頑張って事件を解決しても、始末書の方が多いため、上司のやよいからロクに褒められたことがない。やっと自分を正当に評価してくれる人間が現れたと思うと、自然と口許も弛んでくる。
「でしょ? いやぁ、僕の目に狂いは無いからね、うんうん」 森本は妙に嬉しそうに言った。 「わかったぜ。そういうことなら、大船に乗ったつもりで、オレにすべて任せてほしいね」
ポンと洸一郎は胸をたたいた。 「そお、んじゃ、お願いしちゃおうかな」 この時、洸一郎は森本の術中にまんまと嵌められていた。
やがて、夕闇に沈み始めたアスファルトの先に、赤色回転燈の強烈なフラッシュが目に飛び込んできた。森本はゆっくりと車を横付けする。 そこは中野のすぐ隣、西新宿の外れに位置していた。
「森本隊長」 車を降りた二人に声がかかる。 「おう」 右手を軽く上げて答える森本。 つられて振り向いた洸一郎は、身体中の血液が逆流しそうなくらいの衝撃を覚えた。
「どうなってんの?」 「突入した警官五人の消息が途絶えた他は、今のところ、状況に進展はありません」 「ありゃま、また無謀なことをしたね」
森本がため息交じりに眼鏡を押し上げた。 「ええ」 森本の部下と思しき人物が洸一郎の方を向いた。 「こちらが、法城さん?」
不意に名前を呼ばれて、洸一郎の心臓の音が一オクターブ上がった。 「は、はい」 「あ、紹介がまだだったね。うちの隊の奥津城だ」 「よろしく、奥津城しのぶです」
奥津城の方から手を差し出した。洸一郎が慌てて手を伸ばすと、繊細で柔らかな感触が滑り込み、えも言われぬ気持ちになった。 奥津城しのぶは生まれてくる国と時代を間違えたのではないかと思えてくるような麗人だった。白いトレンチコートの下から青い詰め襟の軍服っぽい服が覗き、ヒールの高いロングブーツが更に奥津城を長身に見せていた。 黒いストレートの髪はうなじの辺りで束ねられ、背中にゆるやかな流れを作っている。色白のきめ細やかな肌は確かに東洋人のものだが、くっきりとした目鼻立ちはヨーロッパ中世の貴族を彷彿とさせる。腰に日本刀と思われる刀を吊しているのも、古風というか、現実離れしていた。まるで盲目の女剣士だなと、洸一郎は思った。凜々しさの中に秘められたストイックな色香。そして、何より、烏玉の睫毛の下の瞳はずっと伏せられたままだった。
「法城洸一郎です」 ニヤケそうになる顔を引き締めて、キリリと決めた。 奥津城が優しくほほえみ返した。 「し、しのぶさん!」
「どうかなさいましたか? ああ、もしかして、私の目のことでしたら、気になさらないでください」 奥津城が洸一郎の動揺を誤解して言った。 「いや、あの、そんなんじゃ……」
気にするなと言われると、却って気になりだした。洸一郎は言葉を飲み込んだ。 その横で、森本はポケットからハンカチを取り出すと、おもむろに眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「法城……まだ、言っていなかったな。実は奥津城の目は……目はな」 「オレ、そんな積もりは……何か深い事情があるんだったら、オレは聞きたくない……」
洸一郎が俯く。他人の傷に触れる積もりは全然無かったのだ。 「いや、今話しておいた方が今後の為にもいいだろう」 森本が気弱な笑みを浮かべた。
「あの……」 奥津城が口を挟もうとするのを森本が制した。 「本当はな――見えるんだ」 ケロリとして言う。 「はあっ?」
「いやー、だから、奥津城は普段は目を閉じているが、ちゃんと見えてるの」 森本が会心の笑みを満面にたたえた。《L》についてあまり驚いて貰えなかった意趣返しだったりする。
「誤解させて、済みません。隊長が持って回った説明をするから……」 奥津城の方が恐縮している。 「あー、やっぱりまだまだ若いね。コロッと騙されちゃって、僕の演技力の方が上だったでしょ?」
森本が無邪気に喜んだ。 「……って、おい」 洸一郎の両の拳がブルブルと震えている。 「真剣に怒ってますよ、彼」 奥津城が困ったように、森本に言った。
「困ったねえ、怒らせる積もりは全然……」 「あったろーが」 洸一郎が牙を剥いた。
「惚れたね、オレは」 奥津城の手を取ると洸一郎は一気に胸の前に引き寄せた。周囲に野次馬がいようがお構いなしである。
「おいおい、こんなところで愛の告白か?」 森本は奥津城の方をちらと見るとニヤニヤしている。 「そんなこと言われても困ります」 奥津城は洸一郎の手を振りほどいた。すっと一歩退くと、はにかむように頬を赤らめた。奥津城の態度を洸一郎は脈ありと見た。ここは押しの一手だ。
「そんなに恥ずかしがらなくたっていいじゃん。それともオレのこと嫌い?」 「好きとか嫌いとかそういう問題じゃ……」 両手を広げて迫る洸一郎、何とか逃れようとする奥津城。サイレンが鳴り赤い光が交錯する通りで、それはとても奇妙な光景だった。
「だったら、いいじゃないか」 「だから、私は……もう、隊長なんとかしてください」 奥津城は森本に助けを求めた。 森本は俯き加減に額を手で押さえながら、くすくすと笑っていたが、やがて堪えきれなくなったのか大声で笑い出した。
洸一郎が振り返ると、森本は眼鏡を外し涙すら流していた。おそらく腸がひっくり返っているのは間違いない。 「何だよ、せっかくのムードを壊してるね、アンタ」
思わずムッとする洸一郎。はっきり言って、森本は邪魔である。 「いやぁ、すまんすまん。あまりに見事に嵌まったもんだから」 ボサボサになった髪をかきながら森本が謝る。
「嵌まった?」 「法城、お前あっちのシュミはあるか?」 森本は親指を立てると逆に尋ねた。 「あるわけないでしょ。オレが愛するのは女だけ……」
そこまで言って洸一郎の言葉がはたと止った。金魚のように口をぱくぱくさせながら、森本と奥津城を交互に見る。 奥津城が申しわけなさそうに頷いた。
「こう見えても奥津城はな、男なんだよ」 洸一郎の中で何かが音をたてて崩れた。耳もとで森本の言葉が何度もリフレインしている。 (男、男、男、男……)
気分は―― (こんな美女が男だなんて、それはないぜ、ハニー……) である。 男に告白してしまった、自他共に認める女好きである洸一郎にとって、それは一生の不覚だった。
森本は洸一郎の目の前でひらひらと手を振ってみた。 反応はゼロ。 「あらら、こいつ飛んじゃったみたい」 「隊長どうするんですか? これじゃ使い物になりませんよ」
奥津城が小さなため息を漏らした。 「う〜ん……」 森本は右手を顎をさすりながら唸っていたが、何か思いついたのかポンと手を打った。
「そうだ奥津城、お前、モロッコに行ってこい」 「はぁ?」 「だからさ、その、何だ……アレ取っちゃってくるんだよ」 「アレって言われますと……」
奥津城が首を傾げた。 「もう、鈍いね奥津城も。性転換……女になっちゃいなさい」 万事解決といった感じで森本はうんうんと嬉しそうに頷いた。
困った男二人を前にして、奥津城は麗しいため息をひとつ吐いた。 そこへロープをくぐって、一人の青年が駆けてきた。トレンチコートにハンチングキャップ、刑事というよりは、どこぞの洒落者の私立探偵といった風体だ。
「よっ、眞志田、どうした?」 「どうしたじゃ無いッスよ。こんなところで、ほのぼのと和んでないでください」 眞志田と呼ばれた男は、森本に向かって文句を言った。
洸一郎はまだショックのあまり眼中に入って無かったが、彼、眞志田悠介も妖撃課の一員だった。 森本は頭をこつんと叩いた。いい音がした。 「あっ、忘れてた……」
その言葉を聞いた悠介は英国人のように両手を広げると肩を竦めてみせた。
その廃ビルは元は病院だったらしい。 「この廃病院は出ますよ」
救急搬入口から中に入った奥津城しのぶが、ポツリと言った。 「ヘッ、出るって?」 「心霊スポットとして有名な場所です」 「ゆ、ユーレー!? まさか、しのぶは霊能力があって、見えるとかいうことないだろうな?」
既に、呼び捨てになっている。 「はい、法城さんの横に」 「ひょぇぇぇっ!」 洸一郎はビビった。 「ジョークです」
あっさりと否定した。 「ここは病院として建てられたんですが、使われる前に、病院長が業務上横領で逮捕されてしまったので、新築のまま廃棄されて数年しかたってません」
「な〜んだ、しのぶも冗談を言えるのか」 洸一郎がニッと笑った。 「目撃者の証言ですと、《L》は誰かを追ってこの病院に入ったらしいです」
奥津城の声に洸一郎はハタと振り向いた。伏せられた瞳に見つめれてれいるような気がして、ゴクリと唾を飲み込む。 「そっか」 洸一郎の声が一オクターブ跳ね上がった。頭では男だと認識していても、奥津城の顔を正視すると、どうしても意識してしまう。まるで、目を閉じてキスを迫る女に見えてしまうから、実にタチが悪い。
「な、なあ……さっきの続きじゃないが、しのぶは《L》が見えるのか?」 動揺しているのを気取られまいと、洸一郎は続ける。 奥津城は口の端を微かに歪め、くすっと笑った。
「その様子では、頭から信じたわけじゃないようですね」 「否定はしないさ。けどオレは自分で確かめるまで肯定もしないね……おおっと」 後に続こうとした洸一郎は、段差も何もない場所でコケそうになった。
「大丈夫ですか」 「気にすんな。それより質問してるのはオレの方だぜ」 洸一郎はバツが悪かった。目を閉じている奥津城じゃなくて、自分がコケたことが妙に腹立たしい。
「そうでしたね」 奥津城が嬉しそうに言う。なんだか、洸一郎とのやり取りを楽しんでいるかのようだ。 「答えはノーです」 奥津城はあっさりと言った。
「あ、そうなんだ」 洸一郎は肩透かしされたような顔をした。てっきり、奥津城の瞳は特注だろうと予想していたのだ。たとえば、普段は閉じているが、いざというときには……などと、どこぞのアニメにでもでてきそうなキャラクターを思い浮かべた。幽霊で騙されたのも真に迫っていたからと言える。
「私には《L》は見えません。ただ、感じることはできます」 「感じる?」 「ええ。俗な言い方をすれば『気』とでもいいましょうか」 「それが、いつも目を閉じている理由なのか?」
洸一郎の言葉に奥津城が頷く。 視覚という五感のなかでもっとも騙されやすい感覚を使わないことで、そのものの真の姿を見極めているということか。
もちろん目を閉じたからといって一般人が一朝一夕にできる芸当ではない。天賦の才と日頃の鍛錬の賜物だろう。 手術室や診療室などと書かれた部屋を見回りながら、曲がり角に出た。
入る前に見てきた見取り図では、全体がTの字の形になっていて、北と南にそれぞれ階段が設えられている。五階建てでかなり広い。 洸一郎が立ち止る。
「どっちかな? 《L》は誰かを追ってたって言ってたよな」 「はい。次の被害者になる予定の相手かもしれませんね」 と、ふいに奥津城が端正な顏をしかめた。常人には感じとれないほどの微風にのって、針の先ほどの血臭が漂ってくる。
「どうした?」 「血の匂いがします」 そう言われ洸一郎はクンクンと鼻を鳴らした。もちろん洸一郎の鼻にはそんな匂いは届かない。 「風の流れからするとあちらからです」
首を傾げる洸一郎に、奥津城が指さした方向は北側の階段へ続く通路だった。
(おい、マジかよ) 廊下を突っ走る洸一郎は舌を巻いていた。全力疾走ではないが、かなりのスピードで飛ばしている洸一郎の後をぴったりと奥津城がついてくる。
薄目でも開けて走ってんじゃないか、などと思ってちらりと振り返って見たが、その目は完全に閉じられていた。 ふと、頭の中に昔見た時代劇のワンシーンが浮かぶ。座頭市という盲目のオッサンが刀を振り回すやつだ。あのオッサンも凄かったが、奥津城はそれを遥かに凌駕していた。
次の瞬間、洸一郎の瞳に黒い人影が飛び込んできた。 「ついにお出ましか」 急ブレーキをかけたせいで靴底がきしむ。洸一郎は素早く拳銃を引き抜き、安全装置を解除する。
「待ってください、どうやらまだ前座のようです」 奥津城は鞘に収まったままの刀で洸一郎を制した。 出端を挫かれた洸一郎は、不満たっぷりな視線を奥津城に向ける。
「どういうことだよ。《L》じゃないのか?」 眼前には廊下を塞ぐように立ちはだかる男が一人。死んだ魚にも似た濁った瞳でこっちを見ている。グレーのスラックスにワイシャツ姿、どこの会社にでもいるやる気のなさそうな若いサラリーマンといった感じだ。
今のところ仕掛けてくる様子はない。さながら、門番といったところか。 「気配が違います。おそらく彼女に条件付けされた人形――マリオネットでしょう」
奥津城の説明に洸一郎は眉をひそめた。条件付けだとかマリオネットだとか、洸一郎にはさっぱり意味がわからない。だが、そんなことはこの際どうでも良かった。
「おい、今、彼女とか言ったよな。まさかその《L》って女なのか」 「あれ知らなかったんですか? 確か法城さんのとこの管轄の事件ですよね」 奥津城は全く意外そうだった。
中野署で追っていた事件だから、洸一郎は知っていて当然と思っていたのだ。 「くそっ、あの牝狐、隠してやがったな」 毒づく洸一郎の脳裏に、武上やよいの嘲笑うような顔が浮かぶ。やよいは、このところ女が絡んだ事件から洸一郎を外していた。好みの女ならたとえ犯人であろうと口説く洸一郎だけに、当然と言えばとーぜんである。
拳を握りしめて悔しがる洸一郎。 「法城さん」 「ああ、わかってるさ」 洸一郎は我に返り、ニヤリと唇を歪めた。ドラマにでてくるようなダンディーな刑事を装い片手で銃を構える。
「さあ、とっととそこどきな。言っておくが、オレは気が短いぜ」 反対の手で髪をかきあげながら言い捨てた。 けれど男は脅し文句にも表情一つ変えない。というよりは、その顔から感情というものが欠落していた。
誰も動かない。キーンという耳鳴りさえ聞こえてきそうな沈黙が辺りを包み込む。 「無駄なようですね」 奥津城が、ポツリと呟いた。 決まった……と思ったセリフが、まるで観客のいない一人芝居さながらに虚しい。
クックックック…… 怪しげな笑いとともに俯いている洸一郎の肩が上下する。 次の瞬間、洸一郎はブチ切れていた。 「なめやがって」
怒りのために銃身がふらふらと揺れている。 「落ち着いてください。相手は操られてるだけの民間人ですよ」 「安心しろ、威嚇射撃だよ」
洸一郎がトリガーを引いた。 硝煙が立ち上り、銃声が耳をつんざく。 ドサッ、 男が前のめりに崩れた。タイルが貼られてない灰色の床に赤いシミが広がる。
白々とした沈黙が訪れた。 「命中しちゃいましたね」 奥津城は淡々としている。 「当たり前だろ、当てるつもりでスレスレで撃たなけりゃ、威嚇射撃にならないじゃん……ははは」
妙な笑みを浮かべながら、ほりほりと頭をかく洸一郎。 「確かにそうですが……」 「大丈夫、ほら正当防衛っていうのもあるしさ……」 「でも、この男、廊下に立ちはだかっていただけで、まだ何もしてませんよ」
奥津城の言葉がグサリと突き刺さる。洸一郎はホルスターへ拳銃を戻すと、 「そ、そうだったっけ」 免職という言葉が頭を駆け抜けた。さすがに着任早々免職は、ちょっとマズイと思い慌てて男に駆け寄る。生死を確認しようと男の手首を掴んだ。
と、そのとき、 「離れてください、法城さん!」 洸一郎は咄嗟に手を放した。倒れていたいた男が、いきなりむくっと起き上がる。 「てめぇ、死んだフリなんて汚いぞ!」
悪態をつく洸一郎の顔面に向かって男が右のパンチを放った。洸一郎は左腕でそれを流すと、男のボディへ右の一撃を打ち込む。 身体をくの字に曲げながら、男は後ろへよろめいた。
洸一郎がニヤリと笑う。 「甘い甘い……」 メトロノームさながらに人指し指を立てチッチッと振る。が、洸一郎の余裕はすぐさま焦りへと変わった。
ふらついていた男は、何ごともなかったように再び洸一郎へ牙を剥く。 シャキーン―― ベルトに差してあった二段式警棒を引き抜くと、洸一郎に向かって振り下ろしてきた。
「警棒か、突入した警官からかっぱらったもんだな」 洸一郎は何とかそれをかわす。相手は撃たれて左手を負傷しているのに、その動きは全く変わらない。
「ということは、まさか……」 嫌な予感はズバリ的中する。警棒をかわす洸一郎の目に黒光りする別のモノが飛び込んできた。 拳銃に気を取られ、バランスを崩す洸一郎。そのまま床へ尻もちをつく。そこへ、狙い澄ましたように男の警棒が打ち込まれる。
ジャギッ―― 洸一郎の眼前で鞘に入ったままの刀が、警棒を受け止めた。 「ふぅ……助かった」 「ここは私に任せて、先に行ってください。《L》に追われている方を早く保護しなあければ……」
不自然な体勢のため、奥津城の刀はじりじりと押されている。 「けどさ、オマエ……」 見上げた洸一郎は、ハッと息を飲んだ。そこに、明らかに今までと違う奥津城の顔を見た。女性的な美貌はそのままだが、そこから発している気魄は間違いなく剣士そのものである。
「――わかった。そいつ倒してとっとと追いかけてこいよ」 洸一郎は男の脇をすり抜けようとする。右へフェイントをかけつつ、さっと左へスライディングをかけた。
それと同時に、奥津城が男に向かって踏み込む。 「はい、必ず」 そう呟く奥津城の耳に、廊下を走る洸一郎の足音が遠ざかっていく。 やがて、遠くで階段へ続く扉が閉まる音がした。
奥津城は、ぐいっと警棒を押し戻しながら右の蹴りを放つ。優雅な舞を舞うようなしなやかさ。けれど、その一撃は軽々と男を後方へ弾き飛ばした。警棒が音を立てて床に転がる。
それでも男は起き上がってきた。痛覚を遮断されているのか、動きには全くと言っていいほどダメージが感じられない。 「やはり、死んでいただくしかないようですね」
奥津城はやれやれといった感じで刀を青眼に構える。それに呼応するように男が拳銃に手を伸ばした。 伏せられていた奥津城の瞳がゆっくりと開く。
その瞬間、男は凍りついたように固まった。感情が遮断されているはずなのに、その顔に浮かぶのは明らかに恐怖の色だ。 「フッ……分断はシナリオ通りという訳ですか、ご苦労なことです」
奥津城は苦笑し、ちらりと洸一郎の消えた闇を見やった。
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