| 第二章 ルシファード チッ。 両手で囲った空間に小さな火が灯る。
洸一郎は煙草を咥えたまま顏をライターに近づけた。 「人生に休養は必要さ」 階段の踊り場で、壁に背を凭せかけてクールに笑って見せる。我ながら言い分けめいていると思う。しかし、いくら囚われのお姫様を助けに行く王子様だって、長い旅の間には一休みすることもあったに違いない。
ふと見上げると、紫煙の向うのドアに四階の表示があった。 「ヒュー、アンラッキーナンバーじゃん」 思わず口笛を吹いた。仏教徒でなくとも、日本人ならあまり好きじゃない数字だ。しかし、洸一郎は生憎と無宗教だったし、《L》とかに追われているらしい奴にしたって、信心深いとは限らない。
洸一郎はおそらくは、下から一階一階をご丁寧に捜しているであろう敵を出し抜く為に、まず上に駆け上がった。本当は最上階まで行くつもりだったが、流石に息がきつくなったので、ここら辺で手をうつことにしたのだ。運が良ければ見つかるだろう。
階段室から、コンクリートが剥き出しの廊下に出た。右側には窓、左側には病室のドアがズラーッと並んでいる。実に殺風景だ。だが、赤っぽい黄昏の空が屈折した光を床に投げ掛け、放課後に学校に忍び込んだ子供のように、洸一郎は何だかワクワクした。すぐに夕闇に完全に包まれるだろう。
この階まではまだ追っ手も上がって来ていないようだ。洸一郎は足音を忍ばせたりはせずに、普通に歩いた。 「誰かいませんかぁ〜?」 ひとつひとつドアを開けてみて、中に声をかける。たいていはガランとしていて、隠れられるような場所は無かった。
結局、廊下の端まで辿り着いた。 「ん?」 キラリと何かが光った。よく見ると、ドアに長い髪の毛が一本挟まっている。長い髪だから女の物と考えるのは、奥津城の例を見てもわかるように早計というものだろう。しかし、かなりの確率でこの中に逃げ込んだ可能性は高い。
「しかしなあ、んーっ……」 珍しく洸一郎が躊躇いを見せた。いわゆる男のプライドというか、沽券の問題である。新築なのだから、使用された可能性はほぼ無いと見ていい。しかし、それでも男子たる者、女子トイレを覗くなどという所業があさましいことに変わりは無い。
「いや、これは公務であってだな、人命の救助が第一というか……」 ムニャムニャと口の中で言い訳しながら、洸一郎はドアノブを回した。 カチャッ。
(……オヤッ?) ふと違和感。音が重なったような気がした。 (シマッタ!) 洸一郎が慌てて振り向こうとした。 「動くな!」
張り詰めた声、だが、その音色は透き通るように高かった。ボーイソプラノの少年でなければ、九十八パーセント女だ。 (女? 《L》か、それとも……)
洸一郎の背中に、冷たい感触が突きつけられていた。 (銃を持っている) それはさっきのマリオネットとやらの例から見てもあり得ないことではない。
緊張する。 「ちょっと待ってくれ。オレは……」 身をよじって、後ろに視線を走らせ、事情を説明しようとする。すぐに撃ってこないところを見ると、追われている方だろう。
「動かないでって、言ってるでしょ、わかった? 全く頭悪いわね」 綺麗な声から想像できない過激さだ。 「こっちの質問にだけ、正直に答えればいいのよ。まあ、アンタみたいなマヌケ、アイツらの仲間とは思えないけど」
「ま、マヌケ……」 洸一郎はカッとなった。 「あのなあ、そっちこそ、やり口が汚ねーだろうが。女子トイレに髪をわざわざ挟んどいて、自分は恥じらいもなく、男子トイレに隠れてるなんてさ」
「煩いわね、アンタだって女子トイレ覗こうとしてたくせに」 「あ、あれは人道的見地からだな……」 「何が人道的見地なもんですか、スケベったらしい顔してさ」
鼻で笑われた。 「フッ、君さあ、性格悪いって、よく言われるタイプだね」 「ホントに口が減らないわね、一思いにズドンてやっちゃってもいいのよ」
背中に冷たい感触が更に押し込まれてきた。 ――?!! 「……いいぜ。君になら、オレのハートを撃ち抜かれても」 「えっ?」
一呼吸の隙をついて、洸一郎は鮮やかにターンすると、相手の手首を掴んだ。 「悪い冗談だね、彼女。ピストル持ってるなんて、ウソつい……」 格好良く決めたつもりの洸一郎が、ポカンとした顔をした。女、というよりは少女と呼んだ方がいいだろう。その少女の顔をマジマジと見つめて動かない。
「ちょっと放してよ、痛いじゃないの!」 モップの柄を握った少女が、呆然と突っ立っている洸一郎の手から逃れようと暴れていた。 「ほ……」
「ほ? 何よ、鯉みたいに口パクパクさせて、言いたいことがあるんだったら、はっきり言いなさいよ」 黒水晶の瞳はカレイドスコープのようにくるくると感情が変わる。不審そうにひそめられた眉も、睫毛も、絹糸の髪も、みんな光沢のあるベルベットで出来ている。白い肌も薄紅色の唇も、花びらのきめ細かさだ。一見可憐な花だが、触れると火傷する危険性があった。
「惚れたね、オレは……。お嬢さん、とりあえず、オレと清純異性交遊をしませんか?」 結構懲りない男だ。 バシーーーーン。 平手打ちが飛んできた。
「莫迦じゃないの、もう」 「口より手が早いタイプか。いいね、オレ、そーゆータイプも好み……悪者に追われている君の前に颯爽と現れた白馬の王子様、これはもう運命の出会いとしか言い様がないね」
「ハンッ、誰がトイレの前で運命的に出逢うのよ? クッサイわね」 「場所なんて、若い二人には関係ないね」 「ウッ!」 突然、少女が頭を抱え込んだ。苦しそうな息遣いが聞こえる。
「おい?」 「マズイわね、アンタに付き合って莫迦話なんかしてるんじゃなかった……見つかったわ」 この少女も奥津城のように、《L》を感じているというのだろうか。洸一郎はすぐに信じた――彼女はその時、確かに怯えていたから。
「ヨシ!」 洸一郎が手首を掴んだままの少女を引っ張って、駆け出した。 「な、何よ?」 「決まってるさ、とっとと逃げだすんだ」
チラリと振り返って、余裕のウィンク。 「ふうーん、一つだけ気が合ったわね」 初めて浮かべた少女の微笑を、洸一郎は残念ながら見ることが出来なかった。
結局、五階から降りてきた見えない敵に追われ追われて地下室に逃げ込む破目になる。 そして、逃げ道が完全に断たれてしまった。
バタンバタン。
風もないのに、ドアが揺れている。 「誰だ? オレの安眠の邪魔をするのは……オレは今凄くいい夢を見てるんだ」 洸一郎はまだ半分眠りの中で呟く。自分のものではない白い手が洸一郎の裸の胸に置かれ、長い髪が乱れて広がっている。
「あなたぁぁぁぁっ!」 ズンズンと女が突然乱入してきた。その声には聞き覚えがあった。 「ち、ちょっと待ってくれ! 誤解だ」 「五階も六階なくてよ。誰なの、その女は?」
メラメラと燃える怒りの炎をバッグに、女が洸一郎に迫る。これっていわゆる浮気現場に恋人が踏み込んだって図だなと瞬時に理解した。 こういう場合は男は何があっても、否定しなければならない。洸一郎は必死で言い訳を探した。
「莫迦だな、オレが浮気なんかする筈ないじゃないか。よく見てみろよ、こいつは男だぜ。オレの同僚でしのぶって……へっ?」 白い手を引き起こして見せようとしながら、一瞬自分の言葉に凍りついた。闇の中で手ではなくムニュッと柔らかい感触に触れてしまった。これっていわゆる女性のバストでは……。
「……洸さん、困ります」 奥津城しのぶが頬を染めて恥じらう。 「悔しいっっっ、女の私を捨ててニューハーフに走るなんてっ!!」 女が更に逆上する。
「け、けど、しのぶはオレに男だって……」 「はい、でも、洸さんの為に女性ホルモンを投薬しました。実は私もお会いした時から、あなたのことを……」
「し、しのぶ、そこまでしてオレのことを」 洸一郎はとりあえず奥津城の手を握りしめた。ちょっと複雑だけど、何となく幸福な気分である。 「……やっぱり……」
くぐもった不気味な声にはっと見上げると、女が二人の前に仁王立ちになっていた。 「職務中にこんなはしたない行為に及ぶなんて、言語道断! 赦しません!」
「おい、待ってくれ、やよい……へっ、やよい?」 遅ればせながら、ここに至って初めて洸一郎は声の主に気づいた。上司の武上やよいだ。 「やよいさん、本当はオレのことを愛してくれてたんですね。いやぁ、実はちょっとそんな気もしてたんだ。年上なんてオレは全然気にしないよ」
洸一郎は一気に飛躍した結論に達して、何故かニヤついてしまった。 「問答無用! 減俸じゃ済まないわよ、さあ、覚悟しなさい」 やよいは洸一郎の制服の胸ぐらをつかみ、腕を振り上げた。
ばし、ばし、ばしっ―― 頬に派手な音をたてて往復ビンタがとんだ。 「痛ててっ……けど、幸せ……」 洸一郎は打たれながらも、笑っていた。ああ、モテる男って辛い……。
「コラァ、早く起きろっ!」 すやすやと心地よい寝息をたてている洸一郎を咲耶はぶんぶん揺すった。地下室の壁際に追い詰められた二人。しかも、洸一郎は《L》に吹き飛ばされて意識不明、絶体絶命のピンチである。
しかし、しかしなのだ。こんな状況下で、何の良い夢を見ているのか半開きになった洸一郎の口許からは、涎が垂れている。 咲耶は焦っていた。すぐそこには《L》が迫っている。このまま洸一郎が目覚めなければ、仲よく奴の餌食だ。
そして、大好きな兄に託されたクリスタルも奴等の手に落ちてしまう。 「ええいっ、こうなったら――」 咲耶は洸一郎の胸ぐらをつかむと、連打で頬に平手打ちを喰らわせた。
さすがにこれで起きなかったら、もうあきらめるしかない。けれど、 「……ん? イテっ、イテテテテテテ。やめろ、バカ」 ばしっ、と洸一郎は咲耶の腕をつかんだ。
「やっと気がついたわね」 「ん、オマエはサクヤ? 確かオレは吹っとばされて……ということは、《L》は逃げたのか?」 洸一郎は寝ぼけ眼で訊いた。
「ハァ……。アンタなかなかお気楽な性格してるわね。ちょっとあっち見てごらん」 と言われ、ゆっくりと首を四十五度回転させる洸一郎。 「ハーイ、綺麗なオネーサン、今度お医者さんごっこでもいっしょに……」
バコッ! 咲耶の肘が洸一郎の頭にヒットした。 「アンタ、何考えてんの!?」 「もう、ジョークに決まってんだろ」 咲耶は立ち上がるとひたっと《L》を見据えた。
常人の目には妖艶なOLくらいにしか見えない彼女は、左手をポケットに入れたまま、婉然と佇んでいた。 「漫才は終わったようね。だったら、そろそろクリスタルを渡してもらえない?」
その姿そのままに色っぽい声で彼女は言った。 咲耶は不敵にふふーんと笑うと、 「残念だったわね。もうクリスタルは彼に埋め込んだわ」
「なんだとーっ!?」 慌てたのは洸一郎の方だった。まさか本当にあの赤い宝石を埋め込むとは。恐る恐る額に手を当てれば宝石特有の滑らかで硬い感触が……
「おい、サクヤ。てめぇ、どういうつもりだ」 だが咲耶はそんな洸一郎の文句も無視を決め込んでいる。 「あら、そうなの。だったら彼を殺してから、ゆっくりと取り出させていただくわ」
《L》はゆっくりと、こっちへ向かって歩き始めた。 「ちょっと待て、オレを殺すのなら……だったら、せめて一回やらしてくれ。そうじゃないと、死んでも死にきれないぜ」
洸一郎が何とか立ち上がり、両手を広げ抗議した。 「ごめんなさい。あなた私の好みじゃないのよ」 「ふっ、嘆かわしいね。オレのような色男の素晴らしさを理解できないなんてさ」
伏し目がちに俯くと洸一郎は肩をすくめた。 「じゃあ、とりあえずお近づきの印に名前だけでも……古い映画にもあるじゃないか、『君の名は?』ってね」
「フフッ、ちょっと面白い男ね。いいわ、自分を殺した相手の名前くらい知ってた方が、死んでも恨みようもあるでしょうから。〈斑猫聖華〉よ」 「セイカか、知的でセクシーな君にぴったりの名前だ」
「お褒めいただいてありがとう」 「ちなみに、漢字でどう書くのかな?」 「聖なる華で聖華、はなは華麗の方」 意外と愛想よく答えてくれる。
(お、脈ありか?) 「ちなみに、電話番号は?」 「ごめんなさい、会ったばかりの人には教えないことにしてるの」 「それはいけないな、運命の出会いを取り逃がしてしまうぜ」
クールな流し目を送る。 「ちょっと、法城。ラルヴァを口説いてどーすんのよ!? いつまでも莫迦なことやってないで、そいつ倒しちゃってよ」 咲耶はビシッと聖華を指し示した。
「何を言い出すかと思えば。たかが人間の分際で私を倒せると思って? だったら――」 聖華が腕を組み、その蠱惑的な姿に、異質な力が加わった。
「ちっ」 咲耶は洸一郎を庇うように一歩前へ踏み出すと、右手を突き出した。 バシッ、バシッと風を弾く音が聞こえる。 目に見えない障壁が咲耶の周囲に展開していた。
「少しは力を使えるようだけど、どれだけもつかしら?」 風が弾ける音が激しさを増した。 咲耶の身体が、ずずっと後方へ押される。額にはうっすらと汗がにじみ、しかめられた顔はいかにも辛そうだ。
「おいっ、大丈夫か!?」 洸一郎が不安げに声をかける。 けれど咲耶には振り返る余裕すらない。 「アタシの心配なんかいいから、早く"呪装"して」
「えっ、なんだって?」 洸一郎には咲耶の言っている意味がわからなかった。 「だから、もうっ。何でもいいから"ジュソウ"って叫ぶのよ!」
苛立ちを隠さず咲耶が怒鳴った。 「ちぇっ。何が何だかわからんけど、しょうがないな」 半分投げ遣りな態度の洸一郎。そんな、わけのわかんない言葉を叫んだぐらいで、どうにかなるようだったら世の中、苦労はしない。
「さっきから、何をごちゃごちゃと――」 フン、と聖華が気合いをこめた。更なる衝撃が咲耶の張った障壁に加わる。 まるで、放電してるかのように空中に青白い蛇がのたうつ。聖華の攻撃が障壁の許容量を越えようとしていた。
「はやく、もう限界……」 咲耶の言葉がフェードアウトするのと同時に洸一郎が叫んだ。
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