江戸時代の古文書・加藤数功(1959)のクマ捕獲表・その他の明治時代の記録
1.古文書にみられる江戸時代のクマ記録
○賀来飛霞「高千穂採薬記」
明治維新(1868年)の20年あまり前の弘化2年(1845)、豊前(現大分県)の医師・本草学者であった賀来飛霞(かくひか・1816〜1894・晩年には東京大学小石川植物園取調係を務めている)は、日向延岡藩(現宮崎県北部)の招きで当地を訪れ、その調査旅行の記録を残している。それが「高千穂採薬記」である。
この中で、2ヶ所にクマについての聞き書きが記録されている。(原文は文献21、他に文献12、20、24、25)
1)弘化2年(1845)3月16日付 古老からの聞き書き(延岡の専念寺にて)
「翁曰、少カリシトキ、度々高千穂ニテ熊胆ヲ買シニ、一度梅雨ノ候、臭気ヲ生ズルモノヲ得タリ。熟視スルニ猶真也。何ヲ以テ如此ト疑ヒ居シニ、又高千穂ニ遊シニ、偶々猟夫熊ト野猪トヲ獲タリ。之ヲ解クヲ観シニ、胆ヲ出シタルマヽニテ収メズ。傍人ノ見ルヲ憚ルモノニ似タリ。僕、愈疑ヒ如何スルト注意スル事良久シト雖トモ、尚収メズ。僕偽曰、速ニ猪ヲ解ケ、予甚ダ肉ヲ嗜ト。彼ナヲ顧ミズ。因テ路傍ニ臥シ、睡ルマネシテ居タリシニ、彼、猪ヲ解キ胆ヲ出シ、徐々ニ引テ延長ナラシメ、熊胆汁ヲ出シ、猪胆ノ中に瀉キ、其不足ヲ補フニ猪血ヲ口ニ含ミ、中ニ吸入レ、立ドコロニ一熊ヲ以テ二胆ヲ偽造ス。果シテ彼ガ姦ヲ得タリ。胆中ニ猪血ヲ雑ルモノ、必ズ夏月臭穢ヲナス。延岡以南海辺ノ山中ニテモ熊ヲ獲シ事アレドモ、海ノモノハ魚ヲ食スルヲ以テ、其胆腥フシテ不佳也。又曰、熊、寒ヲ畏レテ穴居スルトキ、穴口ニ(樫)ノ垣ヲ作リヲキ、別ニ明リ穴ト云アリ。其穴ノ口ニテ、威シニ鉄鉋(砲)ヲ放テバ、其響ニ畏レ、垣ヲツクリオキシ穴ノ方ニ出ント、頻リニ之ヲ内ニ引ケドモ、外ニ推スコトヲ知ラズ。此時鉄砲ニテ獲ベシ。又曰、熊甚ダ蜂蜜ヲ嗜ムヲ以テ、高千穂ニテハ十一月マデ蜜ヲ置クヲ得ズ。否ザレバ熊ノ為ニ悉ク食ワル。」
要旨
(熊の胆の偽造)延岡の古老の話では…若い頃、高千穂でしばしば「熊の胆」を買い求めたが、ある梅雨時に異臭を放つものがあるのに気づいた。だが見る限りは本物である。疑問に思いつつも、またの機会に高千穂に出向いた時のこと。たまたま出会った猟師がクマとイノシシを同時に獲り、その解体の様子を見ていたが、猟師の態度が怪しい。そばで寝たふりをすると、猟師はイノシシの胆嚢にクマの胆汁やイノシシの血を混ぜて、二つの「熊の胆」を偽造した。(海辺のクマ)延岡より南の海岸近くの山でもクマが獲れることがあるが、魚を食べているからか熊の胆が生臭い。(冬のクマ猟)冬にクマが穴ごもりしたとき入口に木枠で蓋をして、別に開けた明りとりの穴から鉄砲を撃ち込み、クマが驚いて外に出ようとして木枠で立ち往生したところを射殺する。(蜂蜜の被害)クマは蜂蜜を好むので、高千穂では十一月までは蜜を放置できない。さもないとクマに食われてしまう。(現代語訳:栗原)
注釈
この話の語り手である「翁」は、賀来飛霞が3月12日から逗留していた延岡の寺にいた古老で、3月13日付けの記述に
「寺ニ八十一歳ノ翁アリ。本、市中ノ人ニテ僧ニアラズ。耳少シ聾シト雖ドモ、精神尚盛ニシテ、動作モ矍鑠タリ。能ク少壮ノトキノ事ヲ記シ、余カ為ニ話(語)ル。」
と紹介してある。81歳とはいえ、まだ元気な古老だったようだ。上記はその「少(若)かりしとき」の話であるので、この時点(1845年)からおそらく数十年以上前の、1700年代末〜1800年代初めのことであろう。
「度々高千穂ニテ熊胆ヲ買シニ」の記述、偽造品まで出回っていた事などから、当時の高千穂地域(後述)でクマは比較的頻繁に獲られ、ある程度まとまった熊の胆の生産の量と流通があったであろうと考えられる。この時期に乱獲が生じた可能性もある。
「延岡以南海辺ノ山中ニテモ熊ヲ獲シ事アレドモ」がどの地域を指しているのか不明だが、例えば都農町の尾鈴山(1405m)などは比較的海岸線に近い。いずれにせよ延岡の北に位置する祖母傾山系の山奥だけでなく、比較的広い地域に少なからずクマが生息していた事を物語っている。
ここに紹介されている冬眠熊を獲る猟法は、本州各地の猟師に伝わる猟法と似ている。九州でも本州同様、クマは冬眠していたのがわかる。また、ハチミツに関する記述から、本州産のクマ同様、ハチミツを好んだのがわかる。
なお、上記のクマの話に続けて古老が語った「冬の山で遭難しそうになった男が、クマに助けられたが、その事を猟師に話したところ、猟師がクマを捕殺し、後に男は不慮の事故で死んだ。クマのタタリだと言われている」という伝説めいた話も記載されている。
2)弘化2年(1845)3月28日付 七ツ山村の村人からの聞き書き(七ツ山村にて)
「又熊ハ数十年以来ニ僅カ三疋ヲ獲タル事アリ。犬ハ熊ヨリ抱カレナガラ脱スル事速ニシテ、決シテ熊ヨリ傷ケラルヽモノニアラズ。高千穂モ広キ山故ニ、今ニテモ熊ヲ獲ル処モアリ。」
要旨
(諸塚のクマ)熊はここ数十年で三頭獲れただけ。猟犬は素早いのでクマに傷つけられることはない。高千穂も広いから、今でもクマを獲るところもある。(現代語訳:栗原)
注釈
賀来飛霞の時代、「高千穂」とは旧「高千穂郷」の18村を指し、現在の高千穂町、五ヶ瀬町、日之影町、諸塚村の広範囲に当たる。原文中の「七ツ山村」は現在の高千穂町の南隣に当たる諸塚村七ツ山のこと。
この山域は祖母傾山系とは五ヶ瀬川水系を挟んで別の山系で、九州山地へとつながっている。この山域ではクマが当時すでに資源枯渇の状態にあった事が伺われる。祖母山系に比べ地形の穏やかなこの一帯での乱獲がより進んでいた可能性がある。
ちなみにこの記述の前後には、同じ村人が語ったイノシシ猟と猟犬の話(上記で犬の話が出るのはこのため)と、「オオカミは近年見ない」という話が登場している。
○天保十五年(1844)熊塚建立
高千穂町上野の旧家・K氏家に伝わる同家祖先の日記に、上記「高千穂採薬記」の前年の1844年にクマの慰霊祭が僧を招いて行われたことが記されている。同氏邸の敷地内に、その熊塚と思われる祠が2つ確認されている。(文献23、31)
「天保十五年十月廿九日より卅日迄、村右衛門処熊津か(塚)石立くふよう(供養)相すみ候 尤、ろうそう(老僧)しめおんぎやう(御経)〆三人御出被下候 尤、老僧ハ廿九日はん(晩)より御出被下候」
2.加藤数功の「祖母、傾山系における熊の捕獲表」
下記2つの年表は加藤数功「祖母大崩山群に於ける熊の過去帳とかもしか」(文献6)から引用したもの。「目方」のkg表記は1貫=3.75kgとして換算(小数点以下四捨五入)するなど、表記は一部改変。
なお、この年表の元となった加藤の調査が開始されたのは、早くても昭和6年と推測される。そして、この調査続行中に捕獲されたクマは下表最下に記載されている昭和16年、笠松山シャクナン尾の例のみのようだ(この経緯は文献1に詳しい)。そしてこの表が掲載された書籍「祖母大崩山群」が発行される昭和34年までは、いわば「捕獲情報の空白期間」となる。栗原の私見だが、戦前〜戦後のいずれにおいても、本表が該当期間のすべての捕獲例を網羅しているとは考えにくい。
「祟り(たたり)」や慰霊のための「熊塚」・「熊墓」に関する記述が興味深い。
「祖母、傾山系における熊の捕獲表 其一 (大分県)」
| 年代 | 頭数 | オスメス別 | 目方・貫(kg) | 捕獲者 | 獲り方 | 捕獲場所 | 備考 |
| 明治前 | 1 | メス | 48(180) | 佐藤亀五郎 | 孕み仔とわかつて銃殺 | 宇目村落水 | 庄屋七代まで祟り断絶した |
| 明治6年2月 | 3 | オス・メス・仔 | 不明 | 上野戸一郎 | 穴入を銃殺 | 祖母山ニンマイ谷 | 一穴に三匹捕獲のレコードである |
| 明治25年 | 1 | 不明 | 不明 | 後藤和三郎 | 穴入を銃殺 | 傾山東面中切の岩場 | 捕えたのち家が栄えなかつた |
| 明治25年11月 | 1 | 不明 | 38(143) | 佐藤和四郎・佐藤達蔵 | 罠にかかり死亡 | 笠松山・宮崎県側 | 一週間お祝いをした。九折越六合目に祠を立てて祭る |
| 明治29年12月 | 1 | オス | 25(94) | 上野光五郎 | 追狩で獲る | 本谷山イボシ谷 | 銃殺。四発で殺す |
| 明治30年ごろ | 1 | 不明 | 30(113) | 古川菊太・工藤松太郎 外二名 | 追狩の途中に追出し十数発で殺す | 傾山センゲン谷 | 古川菊太発見手負いとなり翌日大勢で一斉射撃で殺す。九折越で河野社に祭る |
| 明治35年 | 1 | オス | 6(23) | 佐藤和四郎 | 傾山中、上帯迫岡の上手 | 緒方町上帯迫岡 | 極めて小型のもの |
| 明治37年11月 | 1 | 不明 | 30(113) | 工藤十兵衛 | 山柿の樹上に居たもの | 竹田市神原白水 | 嫗岳地区としてはじめてのもの。現在柿の下の岩を熊ノ岩として祭る |
| 明治39年1月 | 1 | オス | 24(90) | 上野光五郎 | 栂ノ木の穴入を銃殺 | 本谷山白岩谷 | 四発で弾丸がなくなり、取りに帰らせ穴の横で夜番をして翌朝二発で殺した |
| 明治39年 | 1 | オス | 8(30) | 高山金二郎 | コーハリノ木に登つていたのを銃殺 | 傾山北稜赤ハタ白山側 | |
| 大正2年1月 | 1 | 不明 | 8(30) | 高山松三郎・高山利三郎 | 罠にかかり巻かれていた | 傾山九折越・宮崎側 | 緒方町上帯迫岡に熊墓として祭る |
| 大正4年3月 | 2 | オス・メス仔 | 34/1(128/4) | 長戸安五郎・長戸今朝夫 | 岩穴入を親は三発で銃殺、仔は生捕 | 傾山センゲン谷 | 親は中村の熊墓に祭る。仔は一年養って牛と交換し見世物屋に売る |
| 大正13年12月 | 1 | オス | 30(113) | 佐保兼太郎・藤上新太郎 外一名 | 銃殺 | 傾山センゲン谷 | 緒方町田下の熊墓に祭る |
| 大正14年12月 | 1 | オス | 21(79) | 同上 | 銃殺 | 本谷山平岩谷 | 同上に合祀する |
| 大正末期 | 1 | 不明 | 20(75) | 高山松三郎・安藤静馬 | 銃殺 | 傾山カンカケ谷 | |
| 昭和7年1月 | 1 | メス | 35(131) | 工藤房太郎 | 銃殺、穴入りのもの | 傾山センゲン谷 | 上帯迫岡に祭つてあつた熊墓を研究のため掘出した。 |
| 合計 | 19 |
「祖母、傾山系における熊の捕獲表 其二 (宮崎県)」
| 年代 | 頭数 | オスメス別 | 目方・貫(kg) | 捕獲者 | 獲り方 | 捕獲場所 | 備考 |
| 享保年間(*1) | 2 | 不明 | 不明 | 佐藤岩助 | 銃殺 役人から強要されて撃った | 高千穂町河内 | 熊野鳴滝神社の境内に熊の像を彫刻した社あり(部落に病人が出来たので) |
| 100年前(*2) | 1 | 不明 | 不明 | 佐藤清作 先祖 | 藤カヅラの実を食つていたのを銃殺 | 高千穂町五ヶ所柳 | 屋敷神に熊の供養塔あり |
| 明治初年(*3) | 4 | オス・メス | 不明 | 松野新太郎 外 | 猪狩に行き銃殺 | 田原の山 | 調査中であるが田原に足や皮が残つている由。二夫婦とつてしまったから祟らぬという |
| 明治13年 | 3 | 不明 | 不明 | 佐藤春三 | 銃殺 | 傾山 新百姓山 | 明治七年日影町高橋に猪、熊、鹿と共に供養塚を建立している。当時七五才 |
| 明治14年 | 1 | 不明 | 不明 | 藤野四郎太 先祖(*4) | 銃殺 | 障子岳 | 障子岳山頂に熊社あり。手足を保存してある。 |
| 明治24年 | 2 | 不明 | 20(75) | 小野勘次 | 二回に亘り獲つた | 祝子川三里河原 | |
| 明治38年1月 | 1 | オス | 35(131) | 戸高正一 | 岩穴の中に居るのを二発でうつ | 本谷山中ノ谷 | 頭部をめつた撃ちした |
| 明治39年頃 | 1 | 不明 | 不明 | 立山正次郎・平田利兵衛 外5名 | 罠にかかつたのを七発で殺す | 大崩山ウドウチ谷 | |
| 明治40年12月 | 2 | オス・仔 | 18/5(68/19) | 戸高正一 | 銃殺四発 | 傾山カサマツ谷 | ミズキに登つていたのを銃殺 |
| 明治44年12月 | 2 | オス・仔 | 18/2(68/8) | 戸高正一 | 銃殺六発 | 傾山くわずる谷 | 大格闘を演じた捕物帳 |
| 大正3年 | 1 | オス | 58(218) | 甲斐民吉 大四郎 | 追狩の途中五発で銃殺 | 大明神越下 | 最大のレコードとなるもの |
| 大正6年 | 1 | オス | 13.3(50)(*5) | 伊藤弥市・山本勘助 | 岩穴入 | 八本木山ウドミ谷 | 岩穴で犬と格闘中のものを熊と知らずにうつた |
| 大正10年12月 | 1 | オス | 13(49) | 工藤林太 | 岩穴入銃殺 | 本谷山土岩上 | |
| 大正13年 | 1 | オス | 30(113) | 戸高九一郎 | 銃殺三発 | 傾山ソデ尾 | 巻狩で出て来たものをとる |
| 大正14年2月 | 1 | オス | 20(75) | 戸高九一郎 | 土穴に入つたものをとる | 同上付近 | 銃殺二発でとる |
| 大正14年12月 | 1 | オス | 40(150) | 工藤金四郎 | 銃殺 | 本谷山落水滝上 | 岩上に二匹居たのを一匹とる |
| 昭和3年 | 1 | オス | 24(90) | 佐藤芳男・吉田信孝 外一名 | 穴入 | 傾山タカハタ中尾 | |
| 昭和3年11月 | 1 | オス | 25(94) | 桜久保正八 外七名 | 樹上に居たのを銃殺 | 笠松山シャクナン尾 | |
| 昭和4年1月 | 1 | メス | 28(105) | 戸高九一郎 外三名 | 土穴入 | 傾山タカハタ山 | 生捕、一年飼育し売却 |
| 昭和7年2月 | 2 | オス・メス | 10/8(38/30) | 工藤基一 | 岩穴入 | 本谷山ヌシト岩 | 祟りがあつて捕獲者は間もなく死亡 |
| 昭和16年12月 | 1 | オス | 35(131) | 井川米一 外数名 | 追狩銃殺 | 笠松山シャクナン尾 | 岩戸村猟友会が巻狩でとる |
| 合計 | 31 |
(*)脚注…
(*1)享保年間は江戸時代中期の1716〜1735年。
(*2)本書の発行が1959年なので、1800年代半ばの頃だろう。
また、文献20(山口保明「宮崎の狩猟」2001)では下記の内容が補われている。
- (*3)…明治初年頃(1868〜1874)
- (*4)…藤野新三郎
- (*5)…オスで十三貫、仔熊は三貫(ただし、これは山口の誤読だろう。)
3.その他の明治年間の記録
上記の加藤数功「祖母大崩山群に於ける熊の過去帳とかもしか」に含まれていない明治年間の記録も見つかっている。
○明治12年(1879)クマ捕獲・慰霊祭
高千穂町五ヶ所の旧家・Y氏家の日記にクマに関する記述が見つかっている。
(明治12年12月10日付)原山、団十郎熊ヲ獲ル処、今日下ノ村(2人の個人名)外一名ニ売ル、金七拾円也
(同年同月13日付)団十郎熊猟シ山神祭アリテ行ク、源太郎モ同行ス
(文献31より抜粋)
すなわち「(五ヶ所)原山の猟師・団十郎がクマを仕留め、下野村(現・高千穂町下野)の3名に70円で売った。」そして後日、慰霊祭が行われたことが読み取れる。
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