九州におけるクマの激減とクマのタタリ

日本クマネットワーク機関紙「Bears Japan」2003, May, Vol4, No.1, p2-6より

栗原智昭/MUZINA Press


 本誌前号に掲載された投稿(Bears Japan, Vol.3, No.3, P43−44)の中で藤平氏が提起した疑問「クマがいなくなるとどうなるのか?九州ではクマが絶滅したらしいが、九州の森林生態系はダメになったのか?」がキッカケとなり、本誌編集部から投稿依頼が来た。この疑問に答えて欲しい、ということだった。

 気持ちは解るが、それがどれほど困難であるかは、本誌読者のみなさんならば容易に察していただけるだろう。まして生物学者としてではなく、一写真家として九州産クマ問題の謎を追っている筆者には、何とも荷の重い話だ。

 さらに「九州では…」の部分については、また別の問題がある。

 「九州産ツキノワグマは絶滅した」というのは実は誤解で、四国の個体群と同程度の「絶滅危惧」の状態であろう…というのが筆者の現時点での見解であるが、その話はとりあえず置いておこう。ここでは「九州産クマ個体群が激減した前後で、変化があったのか?」という命題に置き換えれば良いことだ。ただ、その激減が生じた時期なのだが、これがどうも相当に古い話のようなのだ。そうなると、前後の比較はきわめて難しい。

 本稿では、地元に残る古文書などを参考にして九州のクマが危機的状況を迎えた時期と要因について、そしてそれに関連する可能性のあるクマ文化について考察することにした。ご期待に沿う内容でないことは、何卒ご勘弁いただきたい。

 

明治〜昭和初期の状況

 九州のクマ個体群の盛衰を考える上で数少ない手がかりの一つが、九州産クマ問題の祖・加藤数功(大分県の登山家)による戦前の調査だ(文献1)。報告が正式に発表されたのは昭和30年代に入ってのことだが、その調査が行われたのは昭和6年から16年ごろにかけてだったようだ。

 加藤はその中で、大分・宮崎県境の祖母・傾・大崩山系(以下、祖母山系)でのクマ猟の実態を調査し、享保年間(1716-1735)から昭和16年(1941)までに37件50頭の捕獲情報があったことを紹介している。

 加藤の記録にない捕獲例が、高千穂町内に残る文書から見つかっている(天保15年と明治12年・文献2)ことから証明されるように、加藤がすべての捕獲事例を網羅できていた訳ではない。これは交通や通信の手段が限られていた当時の時代背景などを考えれば当然のことだろう。

 とはいえ、加藤が集めた情報から年代の古い江戸時代の事例(3件4頭)を除くと、明治初年(1868)頃〜昭和16(1941)年の約74年間にわずか34件46頭である。仮に情報の収拾率が50%だったとしても、総数はやっと92頭。このクマ捕獲数は当時すでに九州産のクマ個体数がお世辞にも多くはなかったことを示しているだろう。

 

江戸時代の状況

 では、もっと前にまで遡って見よう。前述の通り、加藤も江戸時代の記録を3件4頭あげているし、他の文書にも記録が見つかっている。ただ、あまりに断片的な情報がほとんどで、全体像がつかみにくい。

 そんな中で特筆すべき文献記録が一つある。幕末の弘化2年(1845)春、薬草調査のために高千穂地方を訪れた豊前国宇佐(現大分県北部)の医師・本草学者、賀来飛霞(かくひか・1816〜1894)が残した「高千穂採薬記」(文献3)だ。その中でクマについての記述が2ヶ所にあり、大変興味深い内容を持っている。貴重な記録でもあるので、原文を引用しよう。

 まず最初の箇所は、賀来が旅の初めに延岡城下(現延岡市)の寺に滞在中、そこで出会った「翁(古老)」の話を書き留めた中にある。

 『翁曰、少カリシトキ、度々高千穂ニテ熊胆ヲ買シニ、一度梅雨ノ候、臭気ヲ生ズルモノヲ得タリ。熟視スルニ猶真也。何ヲ以テ如此ト疑ヒ居シニ、又高千穂ニ遊シニ、偶々猟夫熊ト野猪トヲ獲タリ。之ヲ解クヲ観シニ、胆ヲ出シタルマヽニテ収メズ。傍人ノ見ルヲ憚ルモノニ似タリ。僕、愈疑ヒ如何スルト注意スル事良久シト雖トモ、尚収メズ。僕偽曰、速ニ猪ヲ解ケ、予甚ダ肉ヲ嗜ト。彼ナヲ顧ミズ。因テ路傍ニ臥シ、睡ルマネシテ居タリシニ、彼、猪ヲ解キ胆ヲ出シ、徐々ニ引テ延長ナラシメ、熊胆汁ヲ出シ、猪胆ノ中に瀉キ、其不足ヲ補フニ猪血ヲ口ニ含ミ、中ニ吸入レ、立ドコロニ一熊ヲ以テ二胆ヲ偽造ス。果シテ彼ガ姦ヲ得タリ。胆中ニ猪血ヲ雑ルモノ、必ズ夏月臭穢ヲナス。』

(要旨…古老がまだ若い頃、高千穂でしばしば熊の胆を買い求めたが、梅雨時に異臭を放つものがあった。だが、外見は本物である。その後高千穂を訪れた際、たまたま猟師がクマとイノシシを同時に獲り、その解体の様子を見ていた。だが猟師の態度が怪しい。そばで寝たふりをしていると、猟師は器用にイノシシの胆嚢にクマの胆汁やイノシシの血を混ぜて、二つの「熊胆」を偽造した。)

 以下、海岸近くの山に住むクマのこと、越冬時のクマ猟法、クマと蜂蜜、そしてクマに助けられた男が恩を仇(アダ)で返してタタリで死んだ昔話と続く。

 

 語り手である古老は、賀来の記述によると年齢81才。熊胆偽造の話はその古老が「少(=若)カリシトキ」の出来事なので、この時点(1845年)から大きく遡って1780〜1810年頃のことだろう。

 「度々高千穂ニテ熊胆ヲ買シニ」の表現、偽造品まで出回っていた事、その偽造品を作る猟師の手慣れた様子(クマとイノシシを一度に獲ったのも、偶然ではなかろう)などから、当時の高千穂地方では比較的頻繁にクマが獲られ、ある程度まとまった量の熊胆(一部に偽造品を含む)の生産・流通があったであろうことが推察できる。猟師による熊胆偽造は、クマが徐々に捕れにくくなってきていたことの表れとも受け止められるが、少なくともこの頃はまだクマが多数生息していたと思われる。

 

 さて次の記述は、賀来が七ツ山村(現・諸塚村七ツ山地区)を訪れた際、村人から聞き取った猟の話の中に出てくる。イノシシ猟、カモシカ猟、猟犬の話に続いて短く語られたクマの話は次のようなものである。

 『又熊ハ数十年以来ニ僅カ三疋ヲ獲タル事アリ。犬ハ熊ヨリ抱カレナガラ脱スル事速ニシテ、決シテ熊ヨリ傷ケラルヽモノニアラズ。高千穂モ広キ山故ニ、今ニテモ熊ヲ獲ル処モアリ。』

(熊はここ数十年で三頭獲れただけ。猟犬は素早いのでクマに傷つけられることはない。高千穂も広いから、今でもクマを獲るところもある。)

 そして「オオカミは近年見かけない」と続いている。

 注意して欲しいが、この時代「高千穂」とは旧「高千穂郷」、現在の高千穂町、五ヶ瀬町、日之影町、諸塚村に当たる広い範囲の山間部(東西・南北共に40km余り)を指している。そしてこの諸塚七ツ山は旧高千穂郷の南部に位置し、宮崎・熊本県境の九州中央山地へと続く山域である。前出の祖母山系とは五ヶ瀬川水系を挟んで隔たる。

 この猟師の話から1845年当時、諸塚の山域ではクマがすでに希少な状態であった事が伺われる。そして「高千穂モ広キ山故ニ、今ニテモ…」の表現から察するに、旧高千穂郷全域でクマ捕獲量が減少し、積極的クマ猟が成立する山域はすでに限られていた(おそらく、七ツ山からは遠く離れた祖母山系の一部)と思われる。

 以上の「高千穂採薬記」の記述から、この頃の九州のクマが置かれていた状況がおぼろげながら見えて来る。少なくとも1800年頃までは、九州でも熊胆目当てのクマ猟が比較的盛んに行われていた。だが、その後個体数は減少し、幕末の1800年代半ばには各地で希少〜絶滅状態にまで追い詰められた…。

 

クマ塚とクマのタタリ

 さて、この地ではクマについての古い記録や伝承は、しばしば「クマ塚」や「クマのタタリ」と絡みながら伝わっている。この辺りの猟師たちの間には「熊を獲ると七代祟る」などという言い伝えがあり、加藤もそのクマ捕獲情報37件のうち4件でタタリの逸話(疫病、家系断絶、猟師の変死)を記している(文献1)。クマ塚(または「クマ墓」)は、クマを仕留めた猟師たちがクマのタタリを受けないよう、クマ慰霊のために建立した祠(ほこら)などの総称で、九州、それも祖母山系だけに見られる文化だと聞いている。しばらく、この件について考えてみよう。

 クマ塚は今も祖母山系では大分・宮崎両県側に複数現存している。また、その建立にあたって慰霊祭が執り行われた記録も残されている。下記は、高千穂町内の旧家に残る文書(先祖の日記)に記された、天保15年(1844)のクマ供養の様子である(文献2)。

 『十月廿九(29)日より卅(30)日迄、村右衛門処熊津か(塚)石立くふよう(供養)相すみ候 尤、ろうそう(老僧)しめおんぎやう(御経)〆三人御出被下候 尤、老僧ハ廿九日はん(晩)より御出被下候』

 クマ捕殺の経緯などは不詳だが、村右衛門の名がおそらく猟師だろう。3人の僧を招き一晩かけてお経を上げてもらったようで、何やら大仰な慰霊祭だ。

 別の古文書や猟師たちの狩猟伝統についての記録によると、高千穂地方にもクマのための鎮魂儀礼の様式が伝わっていたらしい(文献4)。ただ、これは主にクマの解体時や搬出時の猟師たち自らが行う作法であって、上記のような派手な慰霊祭とはあまり関係がなさそうだ。

 この地にはクマ以外のイノシシやシカなどを累計1000頭仕留めた猟師が、その慰霊のための塚(千匹塚)を建立する風習がある(文献1、4)。そして、イノシシやシカならば1000頭毎でよい慰霊祭や塚が、クマでは(1頭獲っただけで7代たたるので)1頭毎に必要…それが「クマ塚」や派手な慰霊祭らしい。

 クマ塚の構造も石祠のほか、加工の形跡が全くない石柱、文字の刻まれた石碑などがあり、建立地も捕殺現場、猟場に近い山頂、解体現場、死骸の埋葬場所、猟師の住む集落など様々だ。クマ塚に伝統的規範があったとは考えにくい。

 この地の「クマのタタリ」伝承とこれに伴いつつも明確な規範を持たないクマ塚建立の風習は、いつごろ、どのようにして生まれたのだろうか。

 

タタリ・クマ塚の起源を探る

 クマのタタリについては、前述の「高千穂採薬記」(1845年・文献3)の「翁」の話の中にも昔話として登場することはすでにご紹介した。上述の天保15年のクマ塚建立・慰霊祭はその前年(1844年)である。また加藤は同時期と考えられる他のクマ捕殺・クマ塚の記録を1件挙げている(1959年発行の文献1に「百年前」とある)。クマのタタリ伝承とクマ塚の風習は、遅くとも幕末期の1800年代半ばには定着していたのだろう。

 さらに古いとされるクマ塚とタタリの伝承がある。江戸時代中期の享保年間(1716-1735)、人里近くにクマが出没し、役人は猟師に射殺を命じた。クマが身籠もっていることを知った猟師はこれを嫌がったが、役人の命令とあって止むなく射殺。ところが、その後村に病が流行り、これをクマのタタリと恐れて供養のためのクマ塚が建立された…そんな言い伝えと共に、その塚は今に伝わる(高千穂町河内地区・文献1、5)。

 あまりに古い話で真偽を疑いたくなるが、実はこのクマ塚は地元の氏神社の境内に祭られ、猟師の子孫が代々これを守り伝え、今日でも毎年慰霊祭が行われているという。伝承に多少の脚色が加えられているとしても不思議ではないが、経緯の大筋や年代は概ね信用できそうである。参考までに、年表によると享保18年(1733)「諸国に疫病流行」とある(文献6)。

 この享保の事例は、年代情報のあるクマ塚・タタリ伝承としては、筆者の知る限りもっとも古いものだ。そして不思議なことに、クマ塚やタタリ伝承はこの後100年以上の空白を経て、上記の通り幕末期の1800年代半ばになって再び複数現れ、昭和にまで至る。前に紹介した「高千穂採薬記」の記述が正しければ、この空白期間の年代には熊胆目当てのクマ猟が盛んに行われていたはずである。にも関わらず、この時代のクマ塚・タタリ伝承が伝えられていないのは何故だろう?

 加えて、タタリの内容やクマ塚建立の経緯を詳しく見ると、(その伝承が正しいと仮定して)この享保の事例とその後の数々の事例とは一線を画す。

 享保の捕殺は、役人の強要による「駆除」であり、殺されたのは身籠もったメスグマ。猟師にとっては望まぬ殺生だった(猟師はそのクマが無害であることに気づいていたのかもしれない)。これだけで(タタリ伝承などなくとも)供養のひとつもしてやりたくなる話ではないか。さらにタタリ(疫病)を受けたのは、この一件に直接関係のない村人たちだった。クマ塚が地域の氏神社境内に祭られたのも、代々大切に守り伝えられてきたのも、タタリが地域全体の問題に発展したからであろう。

 これに対し、その後のクマ塚は「タタリ予防策」であり、タタリも個人的だ。猟師たちが日常の狩の最中にクマを仕留め、タタリを受けないようにクマ塚を立て慰霊祭を行っている。個人的な祭祀のため、このようなクマ塚の中には時代と共に忘れ去られていったものもある(たとえば、前述の天保15年のクマ塚は所在不詳)。タタリを受けたとされる事例では「熊を獲ると七代祟る」の伝承通り、いずれも当事者(猟師)かその家系にまつわるものである(文献1)。

 ここでひとつの仮説が成り立つ。

 「享保の時代(1700年代初期)にはまだ『クマのタタリ』伝承やクマ塚の風習はなく、たまたま発生した不幸なクマ射殺事件と、直後に流行した疫病が結びついて『クマのタタリ』という概念が生まれ、最初のクマ塚が建立された。当初、これはあくまで単独の事例にまつわるものとして伝えられていたが、幕末期1800年代初め〜半ばごろ、何らかの事情で『クマのタタリ』とクマ塚の風習はより一般化されるようになった。」

享保年間に建立されたと伝えられるクマ塚(高千穂町河内)2001年11月撮影

 

加工の形跡のない石柱を立てただけの「クマ塚」(高千穂町岩戸)。高さ約1m。仕留めたクマをここで解体したと伝わるが詳細不明。地元でもあまり知られていない。

 

クマ乱獲とクマのタタリ

 1989年に出された環境庁の委託による調査の報告書(文献7)では、九州の生活文化・狩猟文化を検証し、またクマと並んで繁殖力が制限されているニホンザルが不自然な限定的分布をしいていることを挙げ、狩猟獣の乱獲を抑制する文化が東北などの多雪地帯ほど発達していなかったのではないか、と推察している。これは、今日この山域をフィールドとして活動している筆者にとっても、実に納得のいく指摘だ。

 そして同報告書は、九州のクマが危機的な状況に追い込まれた時期を、その乱獲を戒める文化としての「クマ塚風習が出現した時代、おそらくは明治以前のこと」と推論している。

 これまでみてきたように「高千穂採薬記」の記述から推察されるクマ激減の時期(1700年代末〜1800年代前半ごろ)と、記録・伝承から推察される「クマのタタリ」とクマ塚が一般化していく時期(1800年代初め〜半ばごろ)は、上記の仮説に見事に符合するようだ。さらにクマ減少の要因として熊胆を目的とした乱獲が浮かんできた。

 あまりのクマ乱獲を見かねた誰かが、享保の事例を持ち出して「熊を獲ると祟る。むやみに獲るな。獲ったら祭れ。」と言い出したのだろうか?それは、狩り組のリーダー達だったのか、それとも神官や僧だったのか…?

 以上は、あまりにも限られた情報を元に、古文書解読の専門家でも民俗学者でもない筆者が「推察」に「推察」を積み重ねた「お話」にすぎない。まして、九州におけるクマのタタリの伝承やクマ塚の風習を、直ちにクマ乱獲抑制の文化と位置づけて良いのかどうかは、まだあまりにも論拠に乏しい。ただ、謎に包まれた九州産クマ問題を考える上で、ひとつのヒントにはなろうかと思うが、いかがだろうか。

 


引用文献

  1. 「祖母大崩山群に於ける熊の過去帳とかもしか」加藤数功、1959(「祖母大崩山群」1959、しんつくし山岳会、P94-108)
  2. 「高千穂町史・郷土史編」2002、高千穂町
  3. 「高千穂採薬記」賀来飛霞、1845(澤武人「高千穂採薬記の周辺」と共に「みやざき21世紀文庫19」1997、鉱脈社)
  4. 「宮崎の狩猟」山口保明、2001、鉱脈社
  5. 「高千穂村々探訪」甲斐畩常、1992(自費出版)
  6. 「高千穂町史・年表」1972、高千穂町
  7. 「昭和63年度九州地方のツキノワグマ緊急調査報告書」野生動物保護管理事務所、1989


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