2009
2009.2.9
光のフィールドノート 高梨豊写真展
時間があったので、東京国立近代美術館に。
高梨氏のこれまでの作品ということで、訪れたわけだが、私は彼の「地名論」という写真集を持っている。そして、その写真集に触発されて、京都の通り名をテーマに一連の写真を撮影したことがある。
この写真集は、地名の持つ強度から、東京を写したもので、均質化されていく都市のなかで、「地名」の強度が空間の均質性を歪め、均質性を悲連続的なものにしていることを映し留めているように感じた。
光の質、そこに違いがあることを、この写真集から学んだ。
で、高梨氏がその前後にどのような写真を撮っていたか、その後どのような写真を撮っているかか興味があった。変化というのは、時間を遡って、その前後にわかるものだからだ。
高梨氏の地名論を見ながら、権力に対する写真の力を感じた。この権力が何であるか。ここでいう権力として、私は等価性というルール、経済交換というルール、資本論でいうところの資本の増殖・欲望のルールを思い浮かべる。
もっとも、経済交換のルール自体を私は否定していない。交換が可能であることから、資源が適切に配分され、交換以前よりも豊かな生活を送ることができている。
しかしながら、経済交換という運動は、交換可能な様態にすべてを変換していく。
交換によって得るものと失うもの。
交換可能性というのは、質の量化、つまり対象の固有性を交換尺度に変換し、交換可能な指標に固有性を置き換える。結果として、固有なものは量的なものに変換され、やがて交換可能性のもとに均質化していく。
次の日の朝、テレビで謀図かずお氏の自宅の景観訴訟のワイドショーを見たが、この家か問題となるのは、この家自体が景観を乱しているというよりも、交換を否定し、周辺地区の交換価値を落とす可能性があることにある。あの家は、謀図氏が住むからこそ価値があるのであって、他の誰かが住める家ではない。
つまり、一般的な交換価値がない家であって、そういった固有性が露骨に現出することで、空間の連続性が崩れ、交換ルール、交換の権力自体に揺らぎが生じているから、一般に問題視される。
高梨氏の写真には、我々の意識では、均質で連続しているように見える空間が、未だに地名の磁力を受けて歪んでおり、均質性が意外に危弱な基盤のうえに成り立っていることを写真のなかで表出させた。もっとも、そのことで均質化が止まるわけではないし、交換ルールがなくなるわけではないのだが。
表面だけを写すはずの写真が、表層の歪みを見せることで、写真を見る人間は、交換が支配する世界とは別の世界を垣間見ることができる。垣間見ることが、共犯者として、その主体の意識を変容させる。見ること、知覚することを通じて主体は変容する。
高梨氏の写真展は、1950年年代? から始まる。この時代の写真を見ると、この時点で既に具体的な空間の亀裂を写真に写す意識がはっきりとわかる。最初の子供の写真のもつ違和感のようなもの。ただ、その撮影対象はあくまで個々であり、撮影の対象に横断的に覆いかぶさるようなものがまだ意識されていない。個々の対象のなかにある何か。
次の作品集は、その個々にある何かをもっと詳しく見る姿勢を感じる。粒子の荒い大きいプリントは、亀裂のある対象のなかに、より亀裂を見ようとしているように思う。
その次に、東京の古い民家を撮影するカラー写真になるのだが、ここで失われていくものを認識したのだろう。カラーで撮影された光のなかに、交換ルール以前の世界が映し出される。カラーを用いたのは、消失する世界を忠実の写真の中に保存するためだろう。
そして次に、1965年当時の当時の東京を撮影した写真があるが、これらの写真では、すでに都市が構造化され、映し出されている。もう変化は亀裂ではなく、パターンとして意識的に典型化されている。私たちが思い描く、1965年がそこにある。
高梨氏の凄いところは、時代と平行的に写すものを客観視していることだ。後から見れば、これらの写真がこの時代を写していることに気づくが、当時、その時点で未来から過去を特定するかのように、その時点の写真を撮ることは難しい。今を客観視して、撮ること。
次の写真は、1970年代に撮影されたものだが、その写真は精神を写している。神性のある場所をテーマとして撮影された写真は、交換され得ないもの、交換されない固有性、精神の表出を写真に写しだそうとしている。とくに、沖縄のお盆の写真は時間そのものを写していて、美しい。
均質性のなかに還元できないものがあるということを写真のなかに映し出すこと、表層のなかに精神を現すことは、相当難しい仕事であったと思う。
その写真の対となる東京のゴールデン街の写真は、空間の凝縮が質へと転換される様子を映し出している。構造化された空間が、固有に凝縮されるなかで、独自の空間を生み出している。
小宇宙にような空間が東京に点在している様は、神性と同時に還元できない何かがあることを示している。この空間を見ながら、すべて交換可能なもので埋め尽くされた空間が交換不能な空間を示す場所があることを示している。
ここから、東京にある古いものを写したシリーズと地名論が展開される。東京にある古いものを撮影したシリーズでは、物の磁場、地名論では地名の磁場を空間の歪みとして提示している。つまり、均質性が横断的に広がる世界にあって、精神性ではなく、磁場によって空間が歪み、均質性が非連続となる場所を、まるで自由がそこにあるかのように写真に写している。
自由について、新井千裕は、自由とは言葉だと書いている。その例えとして、彼は、金魚と金魚鉢の関係で、金魚にとって自由は金魚鉢の外にあるわけではなく、金魚の自由とは、金魚鉢なのではないかと書いている。(復活祭のレクイエム)
私が写真を撮影するときに意識するのは、世界の境界をとることであり、境界を感じることで自由に立つことができると思っている。
高梨氏の地名論は、まさに金魚鉢を見ている感じがして、この写真が好きだ。
で、その後、どこに向かうのだろう。
この次の写真はカラーになり、一つは、カラーで撮影された東京の風景、これは世界の境界が実はあちらこちらに存在していることを映し出しており、世界を裏側から見ているような感じがする。知覚というものは物理的な主体に制限されるものではない。
その対面で、大判のカラー写真が展示されるが、この囲みというテーマは、逆説的に壁の向こう側を写しだそうという試みだろう。見えるものを隠している壁が実は、壁の向こう側の世界なのだ。囲みが何かを隠しているのではなくて、囲みの外側が世界を隠している。
ビルを背景とした広告のなかで、白紙の広告を写している写真は、実は背景の壁、ビルを隠す前景となっているのだが、この白紙の広告版は、ビルを隠すのではなく、むしろビルが隠している世界を現出させ、認識する世界の向こう側を現している。認識している背景の向こうに、白紙、なにもない空間が広がっていることを。
写真展は、直近のシリーズを最後に終わっている。最後に展示されている世界は、モノクロで普通の平凡な風景が映し出されている。無為自然というか、ありのままというか。
まるで、金魚が金魚鉢に写る金魚を見ているように、そこに意識の超越や均質性を突き崩す表層はなく、どちらかというと、ありまま、見たままの世界がモノクロで映し出されている。
この写真の意味することは、私にはよくわからなった。見るもの、解釈から逃れることを意図したのかどうか。この写真を認識するには、私には、もう少し時間がかかる。
2009.1.27 モノクロ用紙
モノクロの印刷ということで、いろいろな印刷用紙を試しているのだが、これがなかなか面白い。今までレンズによる違いには、興味をもっていたけれど、印刷物までを写真フローとして考えた場合は、用紙による差異は、予想以上に表現の差異につながる。
最終的にモノクロでの表現を考えていると、モノの見方が少し変わってくる。まぁ、まだ数週間の意識であり、戸惑いも含めてであるが、カラーでは興味がなかった対象を見ようとする意識が出てくる。
カラーでは写真にならないだろうと思っていた対象を写真の対象とする時、視覚的には新たな経験を感じている。
モノクロとして撮影するというか、色のない世界を想像しながら、撮影するというのは、デジタルカメラが失ったものを呼び戻すようた。
フィルム時代に写真を始めた人であればわかると思うが、写真を始めた時に最初に感じるのは、ファインダー越しに目で見た映像と撮影した結果の像が違うことだ。とくに風景の場合は、顕著に差があるよに思う。
デジカメになっても、この差がすぐに埋まるわけではないが、フィルムが撮影してから、現像が出来上がるまでに相当の時間を要するのに対し、デジカメは撮ったその場で画像が確認できる。
この違いがあるのかどうか。この結果、デジカメは何を得て、何を失ったか。
撮った画像の確認は、便利だが、撮影前と撮影後の意識と現実との乖離が少ない。少ないのだけど、その結果、あまり経験がなくても見たものが撮影できる、撮影できているかどうか確認できるメリットがある一方、少なくいことが撮影時の想像力を小さくしているように思う。
撮影したと思うものが撮影できているか。この不安が見たものと現像されたものとの差異を小さくするように、撮影の技術を向上させる。つまり、見たものと出来上がる画像との間に出来上がるであろう想像された画像を作り上げる。
見たものと結果の画像を比較するのではなく、このイメージする画像と結果の画像との乖離を写真をデジカメ以前は楽しんでいたのではないか。絵画が現実=見えるものと想像=見えないものとによって描かれるのに対し、現実と想像、そして物体によって構成さけるのが写真だと感じている。
そこでの現実は見えるものであり、物質がフィルムに写る結果としての像であり、想像は、現実と物質の媒介となるものである。
私は以前から、絵画と写真とを比べ、どちらが表現手段として、自由なのかを考えているが、現代美術の行き詰まり感を見ると、現実=見えるとものと想像=見えないものという枠組みで絵画を構成することは難しくなってきているのではないかと思ったりする。
むしろ、多様な物体、現像されて現出する像と現実=見えるものとの間に、見えるものがあるのではないかと思う。フィルム時代の写真は、その間を時間として残すことで新しいものを見る機会があったのだ。
モノクロでのデジカメという分野は、カラーがモノクロに転換され、プリントまでの過程を撮影の一環ととらえることで、フィルム時代の感覚を蘇らせる。
そうそう用紙の話であった。
写真を印刷すること、印刷を最終物として写真を撮ること。これは、ポジやスキャンした画像を最終物としていたフィルム時代とも、RAWで調整し、画面に表示するデジカメスタイルとも違いある意味、ネガの時代に近いのかもしれない。
このワークフローでは、撮影対象と成果物である印刷との間に、撮影者、カメラ、レンズ、PC、RAW現像ソフト、画像ソフト、カラーマッチングツール、ディスプレイ、プリンター、印刷用紙が存在する。
これらを全体のフローとして、撮影が完了するわけであから、ある意味、銀塩の方がはるかに要素が少なく、手間をかけずに画像ができあがる。
もっとも、プリントするとなると、第三者の介在やレンズの収差など重複する要素が介在し、撮影者の意図が反映したプリントを突き詰めていくのは、よほどお得意さまでない限りは難しいと思う。要素の数は少なく、少なくともポジまでは、事実として存在する。ただ、プリントを最終物とすると、そこに第三者が関与し、別の問題が発生する。
よくデジタルだと、プリントまでコントロールできるということを聞くが、プリントをコントロールする意識とプリントを工程の一つという考え方は、本質的に異なるのではないかと思う。
この第三者が誰なのかということが、今回のテーマ。
プリントを最終物として感じると、アンセル・アダムスのいう「ネガは楽譜、プリントは演奏」という言葉がよくわかる。実際にデタタルのワークフローでも、同じ撮影結果に対し、最後のプリント工程で、できあがる画像は大きく変わる。
それは邪道だよ、撮影したものを忠実に再現するのがプリントという考え方は、ポジで撮影した時にはあったが、それはポジ自体にむしろ演奏的な味付けがされていたからだろう。しかし、この考え方は、ポジ特有のことであり、写真の本質にかかる問題を含んでいる。
結論を言えば、私は、ワークフローを一人の人間が担当すべきとは思っていない。「楽譜と演奏」のように、自分で作曲して演奏することもあれば、人に演奏してもらうこと、あるいは人の作品を自分が演奏することもある。印刷を工程として考える際に、この工程を撮影と同程度の工程として捉えることで、印刷の位置づけ、そして写真というものへの概念が大きく変化する。
印刷と撮影とは、同等の関係である。
そう考えることで、オリジリィティという制約から、もう少し緩やかな個性と権利を考えることができる。


前のページ へ