2009.3.1
レタッチへの考え方
モノクロに興味をもってから、写真に対する考え方が大きく変わってきている。それは、撮影後の加工プロセスに対する考え方であり、現像、画像加工、印刷といったワークフローの過程の重視にある。
とくに、画像加工については、従来であれば、若干の補正というか、全体的なトーンの補正が中心であり、画像そのものに対して部分的な修正を行うことは、避けてきた。部分的な修正、強調までやると、撮影したものと異なり、写真というよりも、グラフィックや絵画に近づく、写真はあくまで、写したものであり、必要以上の加工をすることは、倫理的に良くないと意識していた。
フィルム、とくにポジでは、そこに写ったものとして物理的な事実があり、パソコンに読み込む場合でも、その事実の再現を基本に、その範囲内での加工をしていた。
これは、カラーフィルムが現実の視覚世界の色再現にあるとすれば、当然に帰結することで、カラーフィルムでかつポジフィルムの組み合わせで撮影していれば、そこに写真が写した原世界があるという意識による。
色再現性やポジの許容範囲からはずれる加工は、撮影された写真、原世界から、乖離することとなり、結果的に、後づけしたもの、修正したものとして、位置づけられてしまう。だから、半ば規範的に、部分的なトーンや露出の補、あるいは色自体の補正には、あまり前向きではなかった。
この点、最近のいくつかの写真投稿サイトの写真を見ていると、明らかに画像補正を経て出来上がったであろう写真が多くかつ人気があることを見ると、デジカメから写真入った人の感覚としては、写真が参照する現実という感覚があまりないのかもしれない。
写真が示すもの、としての現実、原世界という概念は、実際には視覚で認知されている世界の再現であるわけだが、そこに物理的なフィルムとして画像が存在するのか、物理的にはデジタルデータとして参照する画像がないのかは、フィルムとデジタルの大きな違いであり、画像加工に対する考え方の相違を生む。
最近の新幹線のホームでは、春と秋には、必ず「そうだ 京都に行こう」というポスターが貼られるが、あの写真を見ると、なんというか、本来はもっと侘びのある風景が、高コントラストなポップな空間として演出されており、年々その傾向が強まっている。現地を知っていところから見ると、観光ポスターとして写真が成り立っており、現地という視覚で認識される原世界への参照は、閉ざされている。
自分のなかで、こうした価値転換は、カラーではなく、モノクロで起こっている。つまり、モノクロの世界には、写真が参照とすべき原世界はないと感じ始めている。むしろ、参照から切り離されて、どのような画像になるかを純粋に楽しむことがおもしろいと思っている。おそらく、もともとフィルムの時代においても、カラーフィルム以前の世界では、再現される現実、原世界という概念よりも、純粋に表現手段として、写真を媒体としていたのだと思う。
参照する原世界がある方が自由なのか、ない方が自由なのかという問いかけは、どちらが円の中にあるかは別として、円の内側と外側で点の数が違うのかという答えと同じ結果になると思う。
2009.2.22
モノクロのワークフロー
写真の最終物をプリントとして考える場合、パソコンからプリンターの処理フローが大きなポイントとなる。Photoshopについて、Epsonのおまけを利用して、高いなと思いながら、CS4を購入したが、いろいろな加工をするツールとしては、手放せないものになっている。
とくにモノクロで写真を作っていく過程で、選択-マスク処理によって、部分的に露出やコントラストを調整する場合、CS4のマスク処理は便利だ。ソフトに何万も使うのは、バカらしいと思うかもしれないが、レンズ一つ買うかどうかという基準で考えれば、レンズ以上の価値があるのは確かだ。
で、今回は、現在の処理フローについて、書く。
まず、画像を見て、モノクロ化するわけであるが、現像ソフトは、Capture One 4を使っている。まぁ、カラーにするわけではないので、純正ソフトでも、Camera Rawでもいいわけだが、Capture Oneでの作業フローが使いやすい。
Olympus studioではパラメーターが保存できないし、Camera Raw-Bridgeでは、ヒストグラムが画像選択段階で見えない。
Capture Oneでの現像は、モノクロになってから、あまり凝らず、普通に諧調整える程度。ブレがなくと諧調が残っているRAWを選ぶのだが、Capture Oneでは、ハイライトやシャドウの調整機能をヒストグラムを見ながら調整できる。
通常は、Capture One単体で、一応、写真は出来上がるが、これだけだと、どうしても薄い絵になってしまうように思う。モノクロの場合、特に光りの厚さが魅力なので、1枚のRAWからHDRを疑似的に作っている。
具体的には、明るさを-2.5EVから+2.5EVまで3枚から5枚、同一のカットからTIFFで現像し、Photo Matrixを使い、HDRを作る。
本来は、露出だけが異なる複数のカットで、HDRを作るのが良いのだけど、撮影対象が静物でない限り、撮影対象が動いてしまうので、自然風景などには不向きだと思う。私は、疑似的であるが、同一カットから、明るさの異なるTIFFを現像し、そこからHDRを作っている。
HDRはPhotoshopでも作ることはできるが、細かいセッティングが可能なPhotoMatrixを使い、最終的なイメージを想定しながら、色の厚みを出すようにしている。
その際には、あくまで目的は光の厚みを出すこと、諧調豊かなデータを作ることであり、ここで絵を完成させることを目的としていない。
PhotoMatrixは1枚のRAWから疑似的にHDRを作成できるが、結構ノイズを拾ったりするので、Capture One経由でTIFFでやっている。
こうして、まず、光の厚みのある画像データを作る。この画像をPhotoShopで開くのが、次の処理フローとなる。
ここでまず、カラー画像のモノクロ化を行う。スマートフィルルタとして、モノクロ化するまでの行程をアクションに登録しておき、アクションから、モノクロ化を行う。
モノクロ化は、Power RetoucheのPhotoShopのPluginソフトとSiver Efex Proを使っている。
いづれも、同時にスマートフィルタとして、画像処理できるようにアクションに入れている。一旦、モノクロ化された画像について、スマートフィルタを開き、パラメーターの調整を行う。
Power RetoucheのPluginは安価であるが、なかなか便利で、フィルムシミュレーションやフィルタ操作、プリント操作、ゾーンシステム的な諧調調整などができ、これだけでかなりの調整ができる。
Silver Efexの方は、有名なプラグインであるが、加工の自由度は低いものの、フィルムの粒状性の調整や特定領域のコントラスト調整、周辺の覆い焼き・焼き込みなど一通りの調整ができる。こちらの方は、時間をかければ、PhotoShopでできるものなので、若干助長な感じもするが、いろいろと試してみて、気に入ったものがあれば、面白い効果があると思っている。
2つのフィルタを重ねて適用できるので、加工の自由度は、これ2つだけでも相当あるように思う。
こうしたプラグインで基本的なモノクロ画像を作った後、再度、Photoshopで画像処理を始める。
Photoshopでは、まず光の周り具合を見て、十分であれば何もしないが、光を強調したい場合は、クイックマスクで選択範囲を作り、選択部分についてトーンカーブなどで調整を行う。例えば、もっと太陽が強ければ、こんな感じで光りが回るはず、ということをこの操作で行う。
この作業を光の当たるところ、陰のところなどを想定し、範囲を選択しながら、部分的なトーンや明るさを調整していく。
まぁ、覆い焼きとか焼き込みとかといった作業に近いが、PhotoShop自体の覆い焼きツールなどはあまり使わない。なぜなら、次にファイルを開けた時に修正できないからである。
このクイックマスクを使う方法は、CS4では簡単にできるようになっているので、要領さえわかれば、使いやすい。
そして最後に画像全体のトーンを調整して、出来上がりとなる。調整レイヤーが2〜4レイヤーで仕上げている。
ここで一旦、保存する。画像サイズとしては、E-3のRAWが10MBぐらいなのに対し、TIFFが50MB程度、このレイヤーを残して保存したファイルがTIFFで300MBぐらいになる。
最終印刷する場合は、ここから、プリント作業に入る。まず、画像処理として シャープネスを調整し、印刷に入る。印刷は、まず用紙を選ぶ。といっても、単数で印刷することは稀であり、大概は一連の画像を続けて同一の紙に印刷している。
PCはMacPro、プリンターは、PX-5800、モニターはNEC 2690、カラーマッチングは、eyeOne Display2を使用している。プリンタプロファイルは、今のところ、プリンターメーカーなどが提供するものを使っている。
パソコン、プリンター、モニター、マッチングツールについて、私はどの組み合わせが良いのか十分な知見があるわけではないので、どれがいいかよくわからない。
プリンターについては、Epsonなのか、Canonなのか、Epsonなら、5800が良いのか、5600や6550が良いのか。
なので、この組み合わせの使用感を述べたい。
まず、デジカメでの写真は、フィルムと違って、PC、ソフト、モニター、プリンターといったカメラ以外の機器が写真を作るプロセスの快適性の主要なポイントとなる。
高いカメラやレンズだけにこだわるよりも、PCなどトータルで考えた方が良い。(機材が良いから良い写真が撮れるわけではないので、あくまで趣味として快適性ということで読んでほしい。別にデジカメでなくても、高性能な機器がなくても、良い写真は撮れる。写真はもっとも民主的なメディアであるはず。)
PCは、速度と色管理、静音性がポイントだと思うが、Mac Proは快適だ。私は、もともとWindowsユーザーであったが、Macは映像とか音楽とかで使うと、Winよりも使いやすい。前に書いたように、現像ソフト、HDRソフト、PhotoShop、ファインダー(Winのエクスプローラーに相当)、インターネットのブラウザを同時に立ち上げて処理していくのだが、spacesで画面を切り替えられるのも便利だ。色管理については、Winでは良くわからなかったが、Macだと結構簡単に色あわせができる。(Winでもできるのかどうか?)
快適性というのは、使っていて気持ちがいいかどうかだと思っているが、現像処理や時間も大きな要素を占める。オリンパススタジオは、相当重いソフトで、このソフトがサクサクと動くスペックのパソコンを探したら、Mac Proに当たった。ちなみに、HDRもそれなりに重たい処理なので、このあたりは好みもあるが、メモリが3Gという制約のある 32bitのWindowsでは、厳しいと思う。
モニターは、画面の大きさと色再現性、それと見ていて疲れないかどうか。adobe RGB 何%ということで色再現性はだいたいわかるが、目に優しいかどうかは、なかなかわからない。というか、これは使ってみないとわからない。NEC 2690にしても、デフォルトでは、私の目には厳しすぎるので、比較的、コントラストの低い設定にしている。デジカメ、PC、モニター、プリンターという機器のなかで、実はモニターが一番重要だと思っている。だって、私が見るのは、モニターであり、PCを見るわけではないからだ。インターフェイス、いつも見るもの、触るものをケチらないこと。
NEC 2690にしたのは、ネットでの評判によるが、これは博打に近い。実際、店頭で見たって、長時間使うわけでもなく、設定を変えるわけでもないので、ナナオかNECか、三菱かなんてわからないわけで。
一つ判断の基準があるとすれば、モニターの分野では、お買い得はないこと、ケチらないことだと思った。同じ26インチであっても、同じadobe RGB対応でも、いろいろな値段のモニターがあるが、安いものは安いなりの理由がどこかにあると考えれば良い。逆にスペック的に大したことがなく、価格が高い商品はそれなりに需要があるわけだ。ナナオのL997なんて、その分野ではこれしかないという感じなんだと思う。新製品かどうかとか、目先のスペックとかではなくて、自分が望むスペックで需要があるかどうかを見れば、良いのではないかと思う。
あと、ディスプレイは、やはりカラーマッチングツールでマッチングすることの意味は大きい。Macだとある程度、目視でマッチングできるが、ツールを使うと全然違う結果になる。私は、一番安物のeyeOne display2でマッチングしているが、それでも全然違うように思う。プリントの作業、モノクロでもカラーでもモニターで見えるものを印刷するわけであるから、見えるものが印刷できることがすべての基本となる。いくら、時間をかけて撮影して、画像処理しても、その絵が印刷できなければ無意味だ。
このためには、キャリブレーションしたモニターとプロファイル、そして忠実なプリンターが不可欠となる。(本来、お金をかけるべきは、キリブレーション・ツールだと思うが、まだ手がまわらない)
プリンターとして、PX-5800を使っているが、現段階では特に不満はない。ハガキサイズから、A2まで印刷でき、インク持ちも良いと思う。カラー、モノクロともコントロールしやすい感じがする。もっとも、この部分は進歩しつづけるだろうし、5600とか方が良いという話もある。
多分、プリンターの絶対的な性能云々よりも、カラーマッチングの方が影響が大きいのではないかと思う。まぁ、カラーで特別色を強調する場合や正確な色を出す必要がある場合は、プリンターの差があるのかもしれないが、私の撮る写真では、それほどシビアなものを要求することはない。
PX-5800は、忠実な色再現性というか、ハデすぎず、諧調のあるプリントができるように思う。これでプリンターとしてとくに不満があるわけはなく、むしろ、このへんで十分なのではないかと思う。新しい機器が発売されても、別に買いたいと思わない程度のプリンターであると思っている。
で、最後に用紙選びとなるわけであるが、この用紙によっても、最終できあがる画像は大きく異なる。私は、モノクロだと月光のグリーンとレッド、局紙ピクトラン、Epsonの絹目が普通使う用紙としては気に入っている。カラーは、Epsonのクリスピア、絹目。万能なのは、絹目で、無難に印刷するのであれば、この用紙が適している。まぁ、いろいろな紙があるので、試してみて、好みを探りたい。
最後に出来上がった印刷物を自然乾燥させて出来上がりとなる。
ここまでのフローで注意する点は、あまりやりすぎないことである。デジタルは何でもできるが、補正しすぎは良くない。ある程度のところで止まるのが良いと思う。
モノクロの場合は、こうした補正を積極的に使うことで、イメージを作り上げていく。この作業は楽しいもので、写真を撮るのと同じぐらい楽しいものである。
2009.2.9
光のフィールドノート 高梨豊写真展
時間があったので、東京国立近代美術館に。
高梨氏のこれまでの作品ということで、訪れたわけだが、私は彼の「地名論」という写真集を持っている。そして、その写真集に触発されて、京都の通り名をテーマに一連の写真を撮影したことがある。
この写真集は、地名の持つ強度から、東京を写したもので、均質化されていく都市のなかで、「地名」の強度が空間の均質性を歪め、均質性を悲連続的なものにしていることを映し留めているように感じた。
光の質、そこに違いがあることを、この写真集から学んだ。
で、高梨氏がその前後にどのような写真を撮っていたか、その後どのような写真を撮っているかか興味があった。変化というのは、時間を遡って、その前後にわかるものだからだ。
高梨氏の地名論を見ながら、権力に対する写真の力を感じた。この権力が何であるか。ここでいう権力として、私は等価性というルール、経済交換というルール、資本論でいうところの資本の増殖・欲望のルールを思い浮かべる。
もっとも、経済交換のルール自体を私は否定していない。交換が可能であることから、資源が適切に配分され、交換以前よりも豊かな生活を送ることができている。
しかしながら、経済交換という運動は、交換可能な様態にすべてを変換していく。
交換によって得るものと失うもの。
交換可能性というのは、質の量化、つまり対象の固有性を交換尺度に変換し、交換可能な指標に固有性を置き換える。結果として、固有なものは量的なものに変換され、やがて交換可能性のもとに均質化していく。
次の日の朝、テレビで謀図かずお氏の自宅の景観訴訟のワイドショーを見たが、この家か問題となるのは、この家自体が景観を乱しているというよりも、交換を否定し、周辺地区の交換価値を落とす可能性があることにある。あの家は、謀図氏が住むからこそ価値があるのであって、他の誰かが住める家ではない。
つまり、一般的な交換価値がない家であって、そういった固有性が露骨に現出することで、空間の連続性が崩れ、交換ルール、交換の権力自体に揺らぎが生じているから、一般に問題視される。
高梨氏の写真には、我々の意識では、均質で連続しているように見える空間が、未だに地名の磁力を受けて歪んでおり、均質性が意外に危弱な基盤のうえに成り立っていることを写真のなかで表出させた。もっとも、そのことで均質化が止まるわけではないし、交換ルールがなくなるわけではないのだが。
表面だけを写すはずの写真が、表層の歪みを見せることで、写真を見る人間は、交換が支配する世界とは別の世界を垣間見ることができる。垣間見ることが、共犯者として、その主体の意識を変容させる。見ること、知覚することを通じて主体は変容する。
高梨氏の写真展は、1950年年代? から始まる。この時代の写真を見ると、この時点で既に具体的な空間の亀裂を写真に写す意識がはっきりとわかる。最初の子供の写真のもつ違和感のようなもの。ただ、その撮影対象はあくまで個々であり、撮影の対象に横断的に覆いかぶさるようなものがまだ意識されていない。個々の対象のなかにある何か。
次の作品集は、その個々にある何かをもっと詳しく見る姿勢を感じる。粒子の荒い大きいプリントは、亀裂のある対象のなかに、より亀裂を見ようとしているように思う。
その次に、東京の古い民家を撮影するカラー写真になるのだが、ここで失われていくものを認識したのだろう。カラーで撮影された光のなかに、交換ルール以前の世界が映し出される。カラーを用いたのは、消失する世界を忠実の写真の中に保存するためだろう。
そして次に、1965年当時の当時の東京を撮影した写真があるが、これらの写真では、すでに都市が構造化され、映し出されている。もう変化は亀裂ではなく、パターンとして意識的に典型化されている。私たちが思い描く、1965年がそこにある。
高梨氏の凄いところは、時代と平行的に写すものを客観視していることだ。後から見れば、これらの写真がこの時代を写していることに気づくが、当時、その時点で未来から過去を特定するかのように、その時点の写真を撮ることは難しい。今を客観視して、撮ること。
次の写真は、1970年代に撮影されたものだが、その写真は精神を写している。神性のある場所をテーマとして撮影された写真は、交換され得ないもの、交換されない固有性、精神の表出を写真に写しだそうとしている。とくに、沖縄のお盆の写真は時間そのものを写していて、美しい。
均質性のなかに還元できないものがあるということを写真のなかに映し出すこと、表層のなかに精神を現すことは、相当難しい仕事であったと思う。
その写真の対となる東京のゴールデン街の写真は、空間の凝縮が質へと転換される様子を映し出している。構造化された空間が、固有に凝縮されるなかで、独自の空間を生み出している。
小宇宙にような空間が東京に点在している様は、神性と同時に還元できない何かがあることを示している。この空間を見ながら、すべて交換可能なもので埋め尽くされた空間が交換不能な空間を示す場所があることを示している。
ここから、東京にある古いものを写したシリーズと地名論が展開される。東京にある古いものを撮影したシリーズでは、物の磁場、地名論では地名の磁場を空間の歪みとして提示している。つまり、均質性が横断的に広がる世界にあって、精神性ではなく、磁場によって空間が歪み、均質性が非連続となる場所を、まるで自由がそこにあるかのように写真に写している。
自由について、新井千裕は、自由とは言葉だと書いている。その例えとして、彼は、金魚と金魚鉢の関係で、金魚にとって自由は金魚鉢の外にあるわけではなく、金魚の自由とは、金魚鉢なのではないかと書いている。(復活祭のレクイエム)
私が写真を撮影するときに意識するのは、世界の境界をとることであり、境界を感じることで自由に立つことができると思っている。
高梨氏の地名論は、まさに金魚鉢を見ている感じがして、この写真が好きだ。
で、その後、どこに向かうのだろう。
この次の写真はカラーになり、一つは、カラーで撮影された東京の風景、これは世界の境界が実はあちらこちらに存在していることを映し出しており、世界を裏側から見ているような感じがする。知覚というものは物理的な主体に制限されるものではない。
その対面で、大判のカラー写真が展示されるが、この囲みというテーマは、逆説的に壁の向こう側を写しだそうという試みだろう。見えるものを隠している壁が実は、壁の向こう側の世界なのだ。囲みが何かを隠しているのではなくて、囲みの外側が世界を隠している。
ビルを背景とした広告のなかで、白紙の広告を写している写真は、実は背景の壁、ビルを隠す前景となっているのだが、この白紙の広告版は、ビルを隠すのではなく、むしろビルが隠している世界を現出させ、認識する世界の向こう側を現している。認識している背景の向こうに、白紙、なにもない空間が広がっていることを。
写真展は、直近のシリーズを最後に終わっている。最後に展示されている世界は、モノクロで普通の平凡な風景が映し出されている。無為自然というか、ありのままというか。
まるで、金魚が金魚鉢に写る金魚を見ているように、そこに意識の超越や均質性を突き崩す表層はなく、どちらかというと、ありまま、見たままの世界がモノクロで映し出されている。
この写真の意味することは、私にはよくわからなった。見るもの、解釈から逃れることを意図したのかどうか。この写真を認識するには、私には、もう少し時間がかかる。



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