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 このページは、「介護とはなんなのか・・・」介護される側から介護を考えたいと思います。在宅介護とは、どうあるべきか色んな事柄を現状と対比させなから考えたいと思います。少しずつテーマごとに内容を更新していきます。2000年5月出版された「介護福祉のための訪問介護」へ書いた物を元にしています。
在宅介護の尊厳について
はじめに
高齢者や身体障害者は、その発生経過・経歴など個人の社会環境・家庭環境などによって、生活形態が多様化する社会状況の中で営まれている。人はなんらかの事由によって、障害を負う事になり、それをどのように受け入れて行くか、個人差や年代によっても違うものです。好んで、第三者の介護を受けることなど煩わしいとも言えるのです。
機能回復段階やその後の生活の方向を準備する時には、色んな専門職が、専門の働きかけを行います。しかし、真に本人の選択する結果になって行くかと言うと、そうとも言い切れないものです。障害を負ってから時間が経過していても周囲の人に気遣いながら、成り行きに引きづられている事も多いのです。これらの事柄に付いて、介護する側にその時々に応じて適切かつ柔軟な対応が求められます。
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どんな健康な人間でも、障害者になる事は誰にでも言えると思います。生まれたばかりの頃から障害を負って育ってきても、高齢化や二次障害によって障害が重度化していく事があります。従来から言われている事は「交通事故など、突然障害者になった人は、障害を受け入れるまで時間が必要・・・」と言う事があります。しかし、障害と長い年月を共有してきた人でも障害が軽く、日常生活動作(ATL)に深刻な状態になれば、精神的不安定は同じではないでしょうか。精神的に不安定な状態の時に周囲の者が、その人の職業的役割によってそれぞれ違う事を言う場合が多いのです。本人が、精神的に不安定な状態なのに、この様な事が起こった場合、より不安定になると思われます。毎日の生活の課程の中で、意欲的な生活を送る中で生活の内容は修正・発展される事があるでしょう。介護に携わる者は、これら本人にとって今なにが必要なのかを適切に判断する人間性や素質が問われるべきだと考えます。
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所得保障の確保。在宅生活をする上で欠かせない事は、『経済的保障の確保』です。ノーマライゼーションは、その国の同世代の国民と同じ水準を保障することは、世界の流れになっています。
現状の中で、どういう制度・方法があるのか、自立支援の意味からも、柔軟かつ適切な助言がされるべきです。
在宅生活を選択する上で大切なのは,生活環境を温存できると言う事であり、居住環境がどう保障されるかによっても経済的問題が変わってくる。
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介護保険に代表されるように社会保障が、商品化される社会状況の中、経済的貧困は生きる事そのものを左右する事は、従来から運動の柱にあったように思います。生活保護を受ける事を望まない人もいる事も事実でしょうが、手続き上の煩雑さ、担当窓口の個人的観表・圧力的言葉などは、利用者の利用条件を狭くしています。社会福祉制度が契約制度になる事が、多くなればなるほど権利意識が低いから、育っていないから、と言う事で介護を担当し生活全体に助言する者が、なにも働きかけないで、良いと言う正当化することが介護する者の「資質・人間性」を問われるべきかと思います。もちろん、状況判断に気を配る落ち着きに成らない事も要求されるでしょう・・・。
《生活保護に関して一言》生活保護を受けることが難しくなっていることを考えなければならない。介護保険の保険料と利用料が負担できない人が、生活保護を申請したら、財産を全部出して、土地や家を売り払えと言われたらお年寄りは、ここで迷ってしまう。長年築き上げたものを手放してまで、受けられないと言う話は,いくらでも聞く。このような人達の生活は,誰が責任を持ってくれると言うのだろうか。
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| @地域社会との結びつきや社会参加の経過と現状をできるだけ把握し維持発展出来る情報提供など助言を行える様にする。 |
高齢者や障害者が在宅生活が長くなると、地域との結びつきが少なくなる事があります。介護が充実して散歩などに出られたとしても、やはり閉鎖的になると思われます。よく聞くのは「高齢者だから、障害者だから、知らなくても良いとか、地域の中へ参加できなくても良い・・・」と言う人がいます。言われる方は、「仕方が無い・・・」とあきらめや、それ以上考えなくなってしまう事もあります。では、社会参加や政治的参加などが、年齢や障害で決まる事ではない事は、誰にでも理解できるのではないでしょうか。閉鎖的状況の中で、日常生活を営む人に対して情報提供などを行える様大小に関わらず情報収集を行いその情報を提供・助言できる様に強制にならない様に行う事が望ましいでしょう・・・。 |
2、思いやりがあり、不安の無い環境において、保護やリハビリテーションや社会的・精神的刺激を提供する適切な水準の在宅ケアーを利用できなければならない。24時間介護するのは当然な事であり、継続的日常介護と一時的介護の両方を逐次瞬時に対応できる事。
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在宅介護を選ぶ事の優位はなんなのかを考える時、長い間の「生活歴」がある。
在宅を選んだからと言って、生活歴を軽視していいはずは無いのです。
例えば,施設に行くと「コール」すれば介護人がそのつど来てくれます。
職員不足で即座に動かないにしても、それは数分の事です。
「在宅」だから数分で出来ないと言う事は,理由にはならないのです。
福祉の充実した国では、ベットから誤って転げ落ちて「介護人」をコールして
数分で行ける体制をとっています。そして生活歴を尊重し、在宅を選ぶのであれば、一日のスケジュールは、本人の自己決定で全て決めるべきだと思っています。「起床時間」「朝食時間」「排泄」
「外出時間」「入浴時間と回数」等生活のあらゆる事柄を利用者が選択し、介護職員は、これらに全て対応するのが人権保障としての介護ではないでしょうか。
★現在の高齢者に対する「介護保険」は、ランク付けやケアプランによって決められてしまいます。認定やケアプランは、介護内容を制限するものなのです。日本の一般の生活習慣では、入浴は「夕方から夜にかけて」と言うのが一般的です。生活様式が時代と共に変化している事はたしかですが、一日の汗や汚れを落とすのは夕方からの方が合理的だとも言えます。朝の10時頃や午後の2時3時では、中途半端です。その日一日が入浴のために動いてしまう様だ。と言う人もいます。何の利害関係もなく、利用者が介護内容を組み立てられるようにすべきです。
★自分の生活歴を尊重した生活を自己決定したからと言って現在的負担が重くなるのであれば人権保障でもなければ「介護の社会化」とは言えないて゜しょう。
★介護される者から考えると「介護職員」が毎日のように、目まぐるしく入れ替わる事は好ましく思いません。特に生活の全ての面で介護を必要とする者からすれば、最小限の体制の方が緻密に継続的な要求がなされるのではないでしょうか・・・。
毎時・毎日猫の目の様に変わるのは疲れます。介護する人との相性もありますが、多くなればそれだけ「受け入れ体制を多くする事になり」精神的ストレスにもなるでしょう。 3人から6人ぐらいで、24時間体制を取り「利用者が介護職員との契約」とするべきだと思います。福祉先進国の障害者は3人の介護職員と契約していると言う事です。この障害者が日本に旅行に来たと言う報道がありました。
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| 3、その人の趣味や能力の可能性を最大限に伸ばし、文化レクリェーションに参加できる様にする。加齢による障害によってそれまでやっていた事を、あきらめるのは生活の豊かさの推進にはならない。年を取っても介護する人や回りの考え方・働きかけによって可能になることもある。
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☆ 人には様々な趣味や娯楽があります。健康な時は、毎日の生活のストレスを解消し気分を和ませたり、明日への活力にもなったりします。
場合によっては、趣味が転じて「本業」になる事もあります。社会生活を営んでいた人が突然、障害者になりそれまでの生活が一変し、趣味や娯楽などは、基本的日常生活の影に追いやられてしまう場合が多いものです。リハビリテーションや周りの人の対応で取り戻せる事もあります。ある高齢者が障害を負うことになり、長いリハビリなど生活指導などもあり、在宅生活が出来るようになったけど、毎日同じ生活パタンを繰り返しているだけで、生活に潤いが無く豊かさに欠けるものでした。あることがきっかけで残された身体的条件のもとでも、介護職員のアドバイスで、パチンコやカラオケに行くようになったというケースもあります。寝かされているだけの生活が、当たり前なのかと思う前に、どうやったら出来るのか、周囲の価値観よって変わるのです。私の場合もパソコンを諦めていましたが、パソコンの操作そのものを介護されることによって、最近のパソコンの楽しみを得られていると思っています。好きな事をやれると言う事は、意欲的毎日を送れる事にもなり、目に見えないリハビリにもなっていると思います。
詳しくは,「PC懇談室」をご覧下さい。
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| 4、在宅介護の場合、第三者を受け入れるにいたるまでに、様々な経過をたどっている。表面的には、受け入れたくない場合も受け入れざる得ない場合もある。プライバシーは、絶対的に守らなければならない。
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だれでも自分の家に無防備に入って欲しくないところはあると思います。
しかし、家庭内介護だけで、生活できなくなり一部または全ての面で公的介護システムを使わなければならなくなった時、きめこまかな介護を受けるには、自己の全てを表面化しなければならない・・・。本人の精神的身体的状況・家族関係・地域社会との関係・金銭的な事まで介護者が、関わらなければ出来ない事も多くなる。
単純な介護なら、深く関わらなくても良いかもしれないが、それでも、個人の情報は得ることになる訳で、介護の度合いとは関係なくプライバシーは、守られるべきだと思う。 |
| 5、基本的に身の回りの事を他人に委ねることは、本意ではない。したがって、何事も要求できるまでに、時間と信頼関係をえられる関係は、相性・性格等に違いが生じる場合がある。こられの事を個人の尊重や主体性などを考慮し柔軟に対応すべきである。
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介護保険の謳い文句の中に「介護が選べる・・・」と言われて来た。介護される側が介護提供者を選べると言う事だが、対等な関係になった時に、そうなるかも知れないが,あらゆる介護資源が、貧しい状況では無理だと思う。介護提供者の判断で訪問介護者を提供しているのだから、介護される側の家庭環境や本人の性格や要求を最大限に保障されるよう訪問介護者を派遣すべきだと思う。
現在殆どのケースが対象者1人に対して多くの訪問介護者が、訪問している場合が多い。介護する側から見ると多くの事例をあつかいたいのだと思う。介護技術向上のためなら、技術の低いことを理由にして良いのかと思う。低レベルの介護は受けたくない、だから最初から優秀な介護職員を派遣されるべきなのである。介護される側としては人間関係の安定的な介護を望みたい。基本的に介護する者が複数になればなるほど連絡事項や引継ぎが多く、見落としも多く生活に支障が出てくる。
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| 6、在宅介護の場合、本人の直接的介護を行えば、良いのかといえばそうではなく、同居している人が、家の屋内外の事や、社会的行事などに、参加できているか、行われているかによって、介護する側は、適切な対応を求められる。
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障害の程度にもよるが、何らかの事情によって障害が重度化し、行動範囲が狭くなり本人と共に介護者も閉鎖的になりがちである。これらに対して公的な訪問介護に携わる者は、状況に応じて文化的行事・娯楽など情報収集に気を配る事が求められる。政治的参加も同じに考えられるべきだが、強制やプライバシーの侵害にならぬよう配慮すべきである。 |
| 7、衣食住に関しても、適切な助言が必要となるが、例えば、本人が望んだ物でなければ、あらゆることが、合理化されない。食事の内容で言えば、栄養学的に考えられていたとしても、本人が好まないものであれば『楽しい食事』にはならない。生活の質の豊かさをより可能にできる、在宅生活において重要視されるべき事柄である。 |
食事に関して言えば、私が在宅生活を始めた頃と現在とでは、多少の変化があった。始めの頃、昼食は「宅配弁当」だった。しかし、私の好みには合わないメニューが多かった。しかも、好みに合わない食事なのにお金は250円程度払う事になっていた。1回分の食費に250円かけるのであれば私の好みに合わせたいと思ったのは当然だった。ホームヘルパーに相談しながら自分の要求を入れた貰った結果、一日のメニューも一つ二つと変化してきたと思っている。これが自分の食文化であり、単なる栄養補給ではなく「食べる事の楽しさ」なのだと思っている。
咀嚼機能や飲み込む力が衰えた人のために、食材を細かく刻む食事があたえられる事は、施設などに多く感じられる。それは、一つの方法なのかも知れないが,栄養補給と言う事か゛重視されていると思う。細かくすればするほど、食材の味は変化するのである。物によっては,細かくしすぎて介護者が介護しにくい事もあるし、細かくしすぎた事によって
飲み込む時に喉にひかかって、蒸せるようなこともある。この自己の好みと同様に食材の扱い方も柔軟な対応が求められる。
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総合的な事。
介護される側と介護を行う専門家集団が同じ立場に立って考えや生き方を共有出来ないと言われる。共有出来ないのは、引け目や疎外感を共有出来ないからだと思う。障害を克服し権利や義務を主張していく過程において障害者の中に一時参加し、誇りを持って生きているモデルとして関わり、何があっても見捨てない強力な連帯感の支え以外に方法はない。それを得た後に地域で暮らしていく時に、自立・自己決定の生き方が出来るのである。ピアカウンセリングは障害者支援によって、他の者には出来ない要素である。
重度障害者の在宅介護は、生活のあらゆる場面の介護に渡ることが多い、精神的自立を尊重し、自己選択、自己決定を支援し、生活や介護方法、社会参加などよりよい方向性や介護方法を探りながら「共に支えあって生きる」と言う視点が必要だと思う。

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