このページは2007年9月10月の2回「デイサービスうすい」での学習会における内容です。

あきらめない人生を語る

 

 

【障害者問題を4つに分ける】

《一》 私達が日常生活を送る社会において「障害者」とはどういう事なのか…。
・政治経済・社会科学・民主主義の歴史と進歩

《二》 人が生まれてから社会に出るまでの大切な事とは・・・。
・地域社会の変化

《三》 民主主義の原点は当事者が問題意識を持って活動できることである。
・毎日洪水のように流される情報や物事に対して疑問を持つ事から始まる。

《四》 1994年公的介護中心に始まった「在宅ひとり暮らしの闘いから考える事」今言える事。
・全介護の障害者が始めた事の意義と関係者の戸惑いと共感的支援。
・後押ししてくれたのは妻である。法律や制度の欠点を補うことが、人間関係を深める原点になっている。

1[障害とは] [特定の人に価値基準を社会全体が作っていること]

 障害とは偶発的にせよ自然現象ではありません。社会のあり方だと思います。昔から言われているのは、生まれてきた違いによって他の国民と差別されるのは男女の違いや肌の色の違い生活様式の違いなどによって差別を受けるのは人類の進歩に繋がらないというのが、国連憲章や世界人権宣言などによって世界の国々の目標になっています。国民の代表である国会において国民の「命と生活を守る」ための法律を作る事にあります。どのような境遇に生まれても等しく全ての権利が保障される法律や制度があるならば障害はなくせるのではないでしょうか。

最新情報

「障害を理由とした差別の禁止や権利擁護への一層の取り組みが必要」と答えた障害者は79.3%07年障害者白書による。内閣府調査 アンケートの対象者は障害が軽度の者。

次のコピー雪だるま.gif (8422 バイト) 障害を負うことになった事として思いあたるのは、誕生の2ヶ月前に母は仕事の帰りの雪道で転びます。この頃は、今よりも降雪量も多く、私も子供の頃、雪が降るのが楽しみでした。雪だるま作りやかまくら作りをしたり、雪がいっぱい降り積もった畑の上を歩きまわって「迷路」を作った事もありました。異常を感じ、翌日医者に診てもらったそうですが「何ともない」と言う程度の医療レベルなのです。
戦後の混乱期で食料事情も悪かったでしょう。母子保健制度等の権利としての「社会保障・福祉制度」は戦後の「日本国憲法」をもとに確立されたものです。世情として平和憲法とは矛盾する動きも見られます。この年アメリカの年頭教書は第二次大戦後の「新アジア戦略」を打ち出し、朝鮮戦争の勃発もこの年です。日本では自衛隊の前身「警察予備隊」が組織されました。今の日本の様々な矛盾を生む始めのような年です。


【ワンポイント01】 子供を生み育てることに良い環境か・・・・。
1)医学の進歩と医療制度の問題は別。子供の発達と子供を生み育てる社会環境、労働条件が整っているか・・・。「障害者問題は国民の命がどれだけ大切にされているかを問う試金石である。」
2)戦争と障害者問題は相容れない事がいくつもある。戦争は直接障害者を生む。戦争に参加する事は軍事優先の国家予算や考え方が強制される。
3)妊婦が家計を支えるため働かなければならなかった背景がある。

2【地域の中で受け入れられて育つ事】人が生まれてから社会に出るまでの大切な事とは・・・。・地域社会の変化

生後6か月頃、周囲から「首が安定しない、おかしい」と言われ始めますが、4歳のとき「新潟大学付属病院」で「脳性麻痺」と診断されます。この時既に足でおもちゃなどをいじっていました。母親は何処へ行くにも背負っていて、社会から隔離するようなことは、ありませんでした。自分の社交性は、ここからきていると思います。 父親に「字を教えて」と言っていたのもこのころです。 
 7歳のとき、体重増に堪えかねて『乳母車』を買いますが、あることがきっかけで自分で押すようになり、友達のところへ一人で遊びに行くようになります。このときから1年後に自分の足で歩くようになります。歩くようになるきっかけは、一人でどこかへ行ける事の楽しさを乳母車を押しながらでも感じ始めていた私は、母親が畑仕事から帰ってきて、疲れているのに「遊びに行きたい・・・」と泣いている私に母が「一人で行ってこい・・・」と乳母車にしがみ付かせたのです。

10歳になる2月に父親が亡くなり、それから半年後に新潟の養護施設「はまぐみ学園」に行く事になります。当時、母親は「勉強したい・・・」と言う私の気持ちも分かっていたと思うし、ある人に「文字も読めない、書けない様では、大人になった時困るでしょう・・・」と言われ施設を教えてくれた人がいたのです。父親は、「家みたいな貧乏人の子供が行けるわけがない・・・」と思い込んでいた様です。私としては、人並に勉強したかったのです。 しかし、2年足らずの入園でした。理由は機能回復訓練に見切りをつけられたことと、入園希望者が多かったからです。当時出来たばかりの「県立養護学校」へ面接もしましたが、「身辺介護が必要で、寮生活の困難なものはだめ・・・」と言われたのです。 重度障害児は「学ぶ権利」さえ無く、猶予とか免除が当たり前でした。

家へ戻ってからは近所の小学校へ通います。校長や先生方の理解と援助があったからです。私は母親の自転車で通いました。事情で週に3日くらいで、冬は全く行けませんですから高学年になると授業がわからなく楽しくなくなります。学校生活は、小5の2学期に学校が火災にあい、私の特注の机が焼けてしまったこともあり、プレハブで狭くなったから、いかない事になりました。今、考えると「勉強しなくてすむ」と喜んでいました。 3年遅れの小学校でしたが近所の子達は赤ん坊のときから一緒でしたから、私が21歳位までは休日や夕方は仲間の輪の中にいたのです。→[地域の中で育つ、相互に認知されているか]
 15歳頃から文通相手が多くなります。一時は10人もいました。近所の同年齢の遊び仲間が、少しずついなくなっていたのです。だから、雑誌の投書で文通する事になったのです。今の私を形成するキッカケとなった看護婦もいました。この人は、障害者団体のボランティアをしていた人で、私の様な重度障害者が生き生きと活動する事を見ていたのです。一方、母親は父の残した借金と治療費等が残っていて経済的に苦労していました。本当は受けられる『母子年金』も当時の民生委員の言葉を真に受け、5年間申請が遅れました。このため未支給分があったため、障害福祉年金が支給される20歳まで『母子年金』が支給されていました。広報の問題と日本の福祉の根本問題の「申請制度」に欠点を感じます。

 

 最新情報

滋賀県のびわこ学園小児医療センターの調査によると「人工呼吸器・栄養チューブ」を必要とする児童が7300人いると推定される。このような常に医療行為が必要な子供達を「超重度障害児」という。設備の整った施設はなく、8割近くが在宅で暮らしている。在宅で介護している人の95%が母親という実態調査もあります。 

 

【ワンポイント02
1)障害者が地域の中に自然に受け入れられている事は大切な事だと思いますが、親や家族のおおらかな考え方がカギになります。過保護でもいけないし、守るべき所は守らなければならない難しさがあります。安全が保障されている地域かという問題もあるでしょう。

2)昔は、情報が入りにくかった事や閉鎖的考え方が定着していたり、思い違いもあったようです。庶民の声が政治や行政に反映されない時代が長く続いた歴史的な背景もあるでしょう。
31970年代「福祉元年」と言われた頃があり、国もそういう方向になった頃がありました。ところが、自民党の国会議員が「老人に金を使うのは、枯れ木に水をやるようなものだ・・・」と言ったり、重度障害児に教育は必要ない・・・。経済社会にとって無駄だと言った事がありました。しかし、障害児の親や養護学校の先生方の実践などの積み重ねで「障害の重い人ほど、それに似合った医療と教育は必要だ。」と言う声を多くの障害者団体が動いて1979年「養護学校義務制」へ国を動かしたのです。

3》自己決定・自分らしい生活スタイルを実現するために行動した事は民主主義の原点

 成人を迎えた頃の私は、色んな面で揺れ動いていた頃かもしれません。今、考えるとあれが初恋だったのかと言う事も出来ますが、やっていた事と言えば、手紙のやり取りで毎日がどうのこうの、何がしたいと言う事でもなかった様に思います。私としては、早く仕事を見つけて自立したら、プロポーズできる条件が出来ると思っていました。ところが、相手は施設にいた事もあって、切実さが無かった様に思うのです。私は、実質的に母子家庭だった事もあって、将来に不安も感じたり、母親を安心させたい気持ちもあったかもしれません。

施設にいる彼女は、言い過ぎかもしれないけど、安心できる生活環境だと思います。私はと言えば、社会の荒波をそれなりに感じているわけで、彼女とのギャップは大きかった様に思います。今だからこんな事言えるのですが・・・。彼女は、東京の新しい施設で「彼氏ができた・・・」と言う手紙をよこした時の私の気持ちは、一言では表せない物でした。手紙を読みながら体の震えるのを感じた事・・・家を飛び出して「死にたい・・・」と思った事は、今でも覚えています。今となれば、どうでも良い事ですが、何十年もたっている今でも彼女に出会うのは、平常心にはなれません。もっとも彼女の方は、こんな私をしらないでしょうが・・・。とは言っても40年近く経っているわけで「あわい思い出」にしか過ぎません。
近所の遊び相手も就職などでいなくなり孤独でした。 しかし、いつも何かを求めているのです。こんなある日文通していた看護婦と逢うことになります。彼女は逢った後の手紙に私のことを「暗い!」というのです。彼女は、その頃結成された障害者の「集まり」に参加していたのです。軽度の障害者や父母の会は昔からありましたが、重度の障害者が中心になって自主的・民主的な「集まり」を持って活動しようというのは革新的でした。私は「会」へ参加したり、全国障害者問題研究会・全国大会へ出て初めて自分の視野の狭さを知りました。色々社会問題がある訳ですが、障害者問題はほとんどの学問に課題があってその立場の人が研究活動に参加しています。 私は「いくら障害が重くても生き方はあり、発達は保証されなければならない・・・」ということばが一番学んだことです。

障害者の集まりに参加する時、色んな心の格闘がありました。例えば、家族とは離れて自分だけが集まりに出るなどと言う事はこの時まで殆ど無かった事なのです。この頃の私は、歩く事はどうにかなっていましたが、手は細かい事は出来なかったのです。初めて参加した時も家から会場まで母親が連れて行き、帰りに迎えに来る形でした。昼食の時に母親が職場を抜け、顔を出していた様な記憶があります。大学生などのボランティアと話しが出来、久しぶりに会った仲間を通じて仲良くなったボランティアにバスセンターまで送ってもらうまでに、数が月かかり、身辺介助を何でも言えるようになるまでに一年近く掛かったでしょうか・・・。

   よく聞く話しですが、集まりに出る時トイレの心配をする人がいて、前の日から水分をとらない様にしている障害者がいると聞いた事があります。私の記憶がどうだったのか・・・はっきりしない部分もありますが、家に帰るまで、我慢していたような気がします。ある日集まりに参加していた学生と「レタリングデザインの通信教育をしている・・・」と言う話しが盛り上がって、初めて家まで送ってもらった事があり、家の手前まで来て我慢できなくなって頼んだ事がきっかけで、だいたいの事は頼めるようになったと思っています。その時、彼は「我慢するなんておかしいよ・・」と声をかけてくれた事で、気持ちが許せるようになったのです。

信州へ一人旅・・・未知なる交流。 1976年〜1986年頃まで
TR00255A.gif (1360 バイト) 25歳頃全国大会で知り合った長野県の信州大学の障害者問題研究会という学生サークルに行くようになり、充実感のような物を感じました。これから社会に出ようとする若い人達に「何かを伝える」事は自分の発達にもなります。25歳から35歳まで年4−5回は「障害者から見た日本の政治・経済・社会体制について・平和と民主主義」等を自分の生い立ちを教材に講演していました。
初めて行った頃「養護学校義務化」の実現に向けて、全障研などの運動が実現しようとしていた頃でした。しかしながら、これに反対する団体もあったのです。いわゆる、急進主義と言われるものです。障害者も普通学校へ入れろ・・・とか言う人達がいたのです。私が全障研全国大会で大坂に行った時、大会を妨害するために大勢の障害者などが、道路に座りこんでいるのは、異様にしか写りませんでした。松本のサークルへ初めて行った時、このグループと思われる障害者とぶつかった事があります。ある言語障害の重い障害者がいて、学生が話している内容が分かる人がいたら、訳して下さい・・・と言ったのに対して「訳すのは差別だ・・・」と言うような事を言って、声を荒げたのです。私は、それに対して「色んな人が大勢いる中で彼の言っている事が理解できない人もいるだろう・・・理解されなくても良いと言うのは逆に差別になるのではないか・・・彼の言葉が分かる人がいるのだから訳してほしい」と発言したのを覚えています。現在の社会的状況が違うので同じに考える事は難しいと思いますが、「豊かな教育権保障・個性を育てる教育の場を保障する事は、当たり前だと思いますが・・・。

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 私が自立した生活をしたいと思ったのは15歳から18歳のころです。好きな人がいたこともありますが、家の中で良き理解者は母だけでした。この私だけの家を作れたのも母が60歳まで勤めに出ていたからです。法的に自立したのは21歳です。母は必要以外のことには手や口を出さないのが主義なのです。同じ屋根の下で暮らせばどちらも感情的に成り、甘えが出ます。一定の距離を置くことは精神的にも大事なことです。普通は、一定の年齢が来たら自分の生計を管理するのは、当前のことですが、障害者の中には自分の年金の額も知らない人もいます管理出来る能力はあるのにすべて親が管理している人もいるようです。  

【ワンポイント03】 身内の者より第三者の方が客観的に見てくれる事も多い

(1)  人が成長していく過程で自分らしく生きる力をもてるようになるのは生まれてきた地域社会と大人()の対応次第だと思います。障害者を受け入れている社会環境は自然な形で受け入れていたからです。少なくても自分の生まれた部落内や近隣地域の人は自分の存在を知らなかった人はいなかったと思います。

(2)  自分が障害者だと気づくのは大人になろうとした頃です。自分にできる事をやっていけば職業をもてるものだと思い込んでいた頃がありました。地域から社会へ出ようとした時に初めて自分は他の人と違う事を痛感するのです。

※重度障害者の仲間たちが中心になり「共同作業所」を作った経過は省略します。

 41994年公的介護中心に始まった「在宅ひとり暮らしの闘いから考える事」今言える事。
[
全介護の障害者が公的介護を中心に一人暮らしをするケースはなかったと言われる]

    母が倒れたのは、1994年4月のある朝の事でした。私は「これまでと違う」と感じた事と、この1・2年時々母が介護の限界を言うようになっていたので、私も選択肢の少ない中から選ばなくてはならないと覚悟していました。私の本心は住み慣れた家で地域社会を生かした暮らしをすることですが、周囲の雰囲気は『施設入所』と言うのを強く感じていました。私が、一人暮らしをする事に多くの者が疑心暗鬼になっていた事と姉達が介護を続けていく事は、色んな意味で困難だと思ったのです。

  身内の者は自分たちの生活が崩壊するので言うのは理解できますが、社会福祉事務所の一部の幹部は『圧力』とも『責任放棄』とも取れる言動がありました。「あんたに、何かあったらマスコミにたたかれるのは、行政だ!」と言うのが象徴的な言葉です。私たち住民の要求を実現するのが真の行政責任だと思います。確かに、寝たきりの私が一人で・・・と言う事に関しては、私にもヘルパーさんたちの中にも不安はありました。しかし、5年間大きなトラブルはなかったし、精神的に落ち着ける場所は、「家」しか無いし、出来ない事もあるけど自分の気持ちのもって行き方で可能性のある環境を作れると思っています。

トラブルが全く無かった訳でもありません。少なくとも家にいる時に、救急車を呼ぶような事は一度もありませんでした。ホームヘルパーが対応出来ない「座薬」をボランティアに頼むことはありました。救急車を呼んだのは在宅直後、時々使っていたショートスイ先の老人ホームでの事でした。夜8:30を過ぎて、具合が悪くなり、食べた物を戻してしまったのです。私は、人を呼ぶ時声を出す事が約束事になっていたのです。常時、利用している「ホーム」だと昼夜関係なく声を出せば、誰かが来てくれます。ところが、この問題のホームは、決まった時間にしか来てくれなかったのです。だから、3時間ぐらい顔の周りは汚物でいっぱいになり気持ち悪かったのを覚えています。その後、ここには行かない事にしています。

そこで、これまで一番私の意思を尊重し支えてきた病院のケースワーカーと市の保健婦などに相談しました。私は生まれてからの殆どを生きてきた『地域社会で積み重ねたものを生かした在宅生活』を選ぶことにしたのです。言うまでもなく福祉の現実は、どこで生活したとしても問題はあるでしょう。この事を理解した上で、今出来ることと可能なことは、何なのかを検討しカンファレンスを繰り返してきました。母が亡くなってから1年間は、病院で生活し関係者の対応を待ちました。

【ワンポイント04】 [普通の生活スタイルとして変だと思う事も大切な事]
1)在宅生活を始めてからしばらくの間、毎日の排泄をベットのそばにポーダブルトイレを置いて行っていました。しかし、この同じベットの上で食事もすれば一日の殆どをこの場所でおこなっている事に違和感を感じたのです。普通はトイレで食事する事は殆どないでしょう。そして何よりもこの家は病院ではなく自分の家です。この事を「おかしいよ・・・」と言って排泄の時、トイレに移動する介護を始めたのは妻でした。その後ヘルパーさんと訪問看護師さんも同じようなにするようになりました。加えて言うならば、現在の在宅介護のあり方は病院の介護の形が基本になっているからだという人もいます。

 

《おまけ》

20061111日感動と不安の入り混じる中「人生をあきらめない〜幸せになろうよ」という結論に至り結婚しました。私はごく普通に人とのつながりの集大成としか考えていません。
結婚というのは、人と人との結びつきの到達点であり人生の節目において社会的に法的に公認された関係をいうのではないかと思います。私の場合は、夫婦同然の生活をするようになって10年ぐらい経過しているのです。

 

【参考までに】1977年、全障研「生活の分科会」では重度の障害者が「結婚できるのか・・・。」と言われていた事が翌年の大会では、「出来るんだ・・・」と言う事に話し合いがなされており、生活していく上での実践と運動の方向が提起されたと記憶しています。

 

【ワンポイント05
結婚に至るまで、私達はどのように人間関係を高めて結婚までたどり着いたのか考えてみると自分にとっては切実な動機がありました。

➀ 当時ヘルパーさんが対応できない土日の介護をしてくれる。

➁ 時が経つにつれ特養のショートステイが満床で利用出来なくなった。

➂ 買い物や集会など出かける事。

➃ パソコンでホームページを作成する。