このページは、私が社会で生きていくための知恵と力・夢を追い求め、希望を持った人生を送ることのすばらしさを教えてくれた「母」の人生を追ってみる事によって、私を間接的に考えようと思うものです。

はじめに

1994年7月9日、いつものように朝早く目がさめてしまった・・。病院の廊下をスリッパの音がいつもの看護婦さん等の走る音とは違う音だと私は思った。数分後、姉の夫が私のベットのところにやってきて「今さっき、おばあちゃんが死んだ・・・」と教えてくれた。母親の死を告げられた瞬間です。3ヶ月前家で同じような朝をむかえたのです。この3年前から朝早く畑仕事には行かなくなっていましたが、具合が悪くなったその朝は「今までと違う・・・」と感じていました。それは子供の時から45年も寝起きを共にし、毎日苦楽を共にしてきた私だけが分かることだったのかもしれない。
 母親が具合が悪くなった朝、トイレに行く母親は足の運びがうまくいかず片足を引きずるような歩き方をして時間の経過と共に言語が不明瞭になってゆくのです。このような状況のなかでも母はいつものように私の排尿介護をするのです。兄が車で病院に連れて行く事になり家を出る直前まで私のことを気にかけているのです。3時間後病院からもどった兄が報告した状態は私の予想以上に進んでいたのです。「脳梗塞の疑いがある・・・」と医者に言われたようで昏睡状態に到っていたということだ。

「母が生きた77年」

  母が父と結婚したのは、昭和9年頃でした。この頃には進歩的と言われる「恋愛結婚」だったようです。家が近いと言う事なので、幼馴染の間柄と言うのもあったようです。違う言い方も聞いた事があります。最初2人が暮らし始めた家と言うのは、畳二畳分程で隙間風が入ってくる「バス停」のような家だったと言っていました。
母は、当時で言うと「地主」の家に生まれ結婚する時も、田畑を貰って来たそうです。父はと言えば、職人だったようですが、土地や家は,結婚してから購入した物だそうです。長男を産んでから私まで5人の子供を産んでいます。3番目の女の子は、生後2週間程で亡くなっています。昔の事なのでそれは普通だったのかもしれませんが、子供を産んでも母が育てるのではなく、祖母が育てたと言う事です。いつだったか、「長男だけは、性格が違う・・・。」と嘆いていた事があります。例えば、家族全員が食事をしていても長男は、一人で食事をしたり、遊んだりする事が多かったようです。
人は、育つ環境で変わると言う事でしょうか。3人目の子供を産んだ直後の昭和19年第二次世界大戦末期に父が、兵役に取られ母は毎日の生活に四苦八苦したようです。ところが、徴兵されたはずの父が、1ヶ月ぐらいで帰ってきたのです。本当なら母は、大喜びしたはずですが、当時の時代背景を聞けば、分かるように戦争に行かない者は、「非国民」なのです。父が兵役を免れたのは,健康状態の理由だったのです。近所からは、冷たい目で見られていた様で、終戦まで父は家から出なくなっていたようです。

私が誕生する1950年
 この頃は,殆どを自給自足で生活が出来たようですが、母は現金収入を得るために病弱な父に代わって近くの「縄縫い工場」へ行っていました。稲作が終わった冬場にいなわらで俵などを縛る縄を機械で縫う所です。田畑の仕事が出来ない冬場の仕事でした。
私が生まれる2ヶ月前の2月に雪道で足を滑らせて身重の母は尻餅をついてしまいます。家に帰った母は父に「転んで来たんだけど、出血したみたい・・・」とお腹を押さえながら訴えたそうです。父は「明日、医者に言って来い」と言いました。当時、家の近くには現在よりも診療所などもいくつか存在し、産婦人科も歩いて10分ぐらいの所にあったのです。行ってきた母は「何とも無いてさ・・・」とあっさり答えています。当時の医療レベルをこんなものかと推測するしかないのですが、障害者として生まれてくる一つの要因だったのかもしれないと母は言っていました。

第二次世界大戦前後の日本の一般家庭
 戦争末期、日本の一般家庭のほとんどで「食料難」物不足が起こっていた事は様々な情報によって学習している事です。軍事優先の社会ですから日常生活に欠く事の出来ない
「なべ・おかま」まで軍隊に没収され軍用製品になったそうです。母は、この頃の事をあまり言いませんが、「何も無かったけどうちみたいな田舎は,食べるものはなんとかあった・・・」と言っていました。実際に東京から疎開してきた家族が田んぼ道の脇に粗雑な
家で生活していたのを、私が物心つく頃に記憶しています。物を作って外国に売ると言う近代社会構造の変化する以前は,食べるものは、自給自足していたので、私の母と父も田畑へ毎日出ていました。私が5.6歳の頃家から少しばかり離れた所に「なし畑」があったのです。春から夏にかけて「袋かけ」に行くのに私をリヤカーの隅っこに乗せて行くのです。なしの木の下で私は,一人で泥んこ遊びをしたり、畑の脇の小川に足を入れてみたり色んな事をしていた覚えがあります。時々、父は私を自転車に縛り付けおやつを買いに行くのです。父は「正男のおやつ」と言い訳しながら自分が食べたいのを買ってくるのです。私は,この頃なし畑に寝転がって空を見た時の空の青さが1番心落ち着く時間だったような気がしています。

母の地域との交流
 1950年代から60年代にかけて母が田畑などの仕事の他に近所のお母さん達との付き合いや親戚付き合いは、現在社会の希薄な人間関係の社会ではなく様々な行事を通して行われていた様に思われます。情報を伝達する手段が少なかったからでしょう。
地域のお母さん達は色んな形で集まっていました。私は、8歳まで歩けなかったし、私の介護をするのは父だけだったので母は時々ある集まりに行くにも背負って出て行きました。私は4・5歳から記憶がありますが、この頃集まりの休憩時間などによく近所のお母さん達が言っていた言葉は「正男君は、いつになったら歩くんだ・・・」と言う事です。医療や保健福祉が遅れていたこの時代、頼れるのは宗教的な物だったと思われます。
ある宗教団体の行事に参加した雪が多かった頃の話です。行き帰りはバス停がある所までは、20分ぐらいバスに乗ります。バスを降りてから木の橋を2つ渡って信濃川を横断するのです。合計片道30分以上は歩くのです。ある年の2月3日「節分の行事」豆まきを楽しんだ帰り道でした。橋を渡ってもうすぐバス停が見えるところまで歩いていた頃バスが通り過ぎて行ったのです。次のバスが来るまで1時間以上あるので、何を思ったか母は次のバス停まで歩き出したのです。家に近くなれバス代が安くなるからでした。歩きはじめた道はバスの走る道路より土手を降りた原っぱの道です。人が歩いた後は少なく所によっては、長靴が埋まって抜けなくなる道なのです。母の体重と私の体重を合わせると何十キロだったのか想像するしかないけど、7歳ぐらいだったから20キロはあったでしょうか、原っぱの途中で天気が悪くなり吹雪いてきたのです。「正男重くなったなおまえは・・・この雪の中置いていこうか・・・いつなったら歩くんだ」と言うのです。こんな事があった翌年に「乳母車」を買ったのです。この頃に車椅子があったのかどうか分かりませんが少なくとも、母にはそのような情報は無かったのです。
現代社会よりも人と人とのつながりは,色んな形が行われ、様々な情報交換の場所でもあったようです。そして、娯楽の少なかった事もあったのか、男達の酒を飲み交わす機会も部落内でよく行われていたようです。父が雪が多い季節になるとよく飲んで帰ってきたのを覚えています。1960年1月下旬夜遅く父は帰って来ました。数時間後具合が悪くなった父が吐血し、洗面器2杯ぐらいだったでしょうか私には怖かった事しか覚えていないのです。母は、その日から病院に運ばれた父の看病を2週間以上続けました。2月12日大学病院へ運ばれた父が亡くなりました。享年50歳でした。

父亡き後
 
父が亡くなった後、前の年に生まれた「孫」の子守りをしながら私を育てる事は、大変だったという事を想像する事は、できると思います。しかし、母は私がこのまま教育を受けずにいる事は、将来的にも好ましくないと父に言っていたことは、私も覚えています。だから父が亡くなった年に私を施設へ預ける事にしたのです。父が亡くなってから孫の子守りをし、兄と姉も結婚しそれぞれの生活をするようになっていきます。

東京で生活していた姉が結婚する時、普通なら反対するような相手だったようですが、母は「本人が決めること・・・」と当時にしては、物分りのいい親だったと思います。父親が他人に使い困れていたお金を返してもらう際、お金の変わりに、ミシンを要求したそうです。このミシンは、姉の「嫁入り道具」の一つになったのです。

私は、施設を2年足らずで退所します。私を自転車の後ろに乗せ学校へ送ります。通学路は、砂利道でこぼこなのです。脇には、小川も流れています。ある日何かのはずみで自転車ごと転んだこともありました。毎日ではなかったけど、私が「学校へ行く・・・」という日は、ほとんど母が送っていたのです。放課後になると私は、仲間と遊ぶ場所がこの小川の周辺だったのです。仲間と川遊びをしていた私が川に落ちて大騒ぎになりました。現金収入をえるために仕事に行っていた母に連絡が行き慌て帰ってきます。頭にけがをしてずぶぬれになっている私を見て「頭けがしても中身まで悪くならんでくれ・・・」と言うのです。この頃の母に対する記憶は、厳しい事が多かったのです。もちろん私には、やさしさの裏返しであることも子供心に感じていたのです。なぜなら母が60歳の定年までいくつも仕事を変えました。それは、私に必要な物を買え与えることが大きな理由だったからです。

60歳定年になった後・・・。

60歳から年金が支給されるということで働くことをやめた母は、畑仕事と近所の人との付き合いが多くなります。もちろん、私といる時間も多くなっていました。私が遠出をすると言うと「またか・・・」と言いながら、詳しい予定を聞いて車の手配とか切符の手配などをどうするのか私に聞いたり、「何月何日・駅の何番ホームへ迎えに行けばいいんだなぁ」と私を送り出してホッとする事と帰ってくるまで不安な気持ちが交錯している事を私は母の弾むような言葉の端はしから感じていました。
 60歳を過ぎてある日、近所のお茶のみ友達と関西旅行に行く事になった母は、3泊4日私を一人にして置いていくことをだいぶ気にしていました。実際に4日分のご飯を炊いて行ったのです。ところが、私が記憶している限り、電子ジャーに保温されているご飯は、4日目ぐらいになると黄色くなってくるのです。それはともかく、私自身が身の回りのことは、できたからなのです。しかし、この母親の関西旅行には、思ってもいなかった事か゛起こります。旅館で毎晩のように用足しと水を飲みに起きる回数が異常に多かったと言うのです。近所の人とたちから言われたこともあり、帰宅後、病院で診察を受けました。診察の結果は、「糖尿病」が発覚するのてす。さらに問題なのは、1ヶ月ぐらいの入院が必要だと言うのです。1ヶ月間、私の介護は、どうなるのでしょうか・・・。


 東京ディズニーランド85年(70歳)

母の入退院}
 65歳ぐらいで糖尿病か゛発覚する事になるのですが治療方法も医師によって違うことが私が知ることになりました。状態にもよるようですか゛「食事療法」と「インスリン投与」の二つがあると言う事を私が関わってきた病院関係者から耳にしたのです。安易にインスリン投与をする事は、薬漬けにすることになるというのです。
 私は、病院を変えるように説得しました。母は家から近いところが良いと言うことで私の説得に応じたのです。始め行った病院でインスリンを使ったことで一生続ける事になったのです。近くの病院に変えたことで自転車で行くこともありました。そして、血糖値が変動するたびに「検査入院」をするようになったのです。糖尿病は内科的な病気なので血糖値が落ち着いていれば外出しても許されていました。始めの病院での1ヶ月間、私の介護はどうなったかと言うと兄夫婦が行うことになっていました。食事は朝と昼が一緒で1日2回兄嫁が私のところへ運んでくれて、夜はまた食事と昼食の時のお皿を交換していくのです。私がほとんど自分でできることが多かったからです。入浴は兄夫婦がしてくれた事も記憶していますが、1ヶ月のうち2回ぐらいだった気がしています。家の近くの病院に変えてからは、週1回母が病院を抜け出して入浴してくれていたのです。そんなある日の昼過ぎに帰宅した母が私に言った言葉今でも覚えています。「同じ服着て、着せ替え人形より悪いなぁお前は・・・生かさず殺さずじゃないか・・・」と言うことです。

masao85.jpg (155028 バイト)「並行入院」
 
母が70歳になった頃から検査入院が多くなり短くても2ヶ月ぐらいの入院になって年に3回以上になっていた。私自身も障害が重くなり自分でできていた身の回りのことができなくなって母が検査入院と言う事て2人で入院するようになっていました。市内に施設がなかった事と利用できるわけがないということもありま「クリックで拡大」    した。社会福祉施設が整っていないために病院に入院する事は、私だけではなかったのです。知り合いがそうしていると聞いた時、私は、人事のように聞いていた頃がありました。ある日外来の診察から帰った母は「また、検査入院だってさ、おまえどうする・・・」と言うのです。私は愉快ではありません。しかたなく病院のワーカーに電話して母が入院する病棟と同じ階にベットをあけてもらうように頼むのです。当時は社会的事情を考慮して柔軟な対応をしていたのです。

「病院のベット調整と始めての短期入所」
 母が脳梗塞と診断され、入院することになって、私の介護を数日に渡って保障する方法は緊急措置として病院しか方法はなかったのです。一時的に母と同室にしてもらせった事もありました。この頃母は意識こんだく状態が続き認知症も感じられました。私に取って一番悲しく辛かった時期かもしれません。父親が亡くなって40年間母と色んなことで苦労したことを思い出す日々でした。しかし、医療現場は、こんな心の傷など埋めるだけの余裕はなかったのです。ソーシャルワーカーから「1ヵ月程ベット調整するから施設を利用してくれ」と言われ、市役所の福祉課の担当者が導く形で近くの特養の短期入所で2週間、車で1時間ほどの障害者施設の短期入所2週間、生まれて初めて利用するものでした。
 一般社会が障害者に取って自由な社会とは言えませんが、地域社会で生活してきた私にとって、特に障害者施設は閉鎖的だと感じました。まるで子供扱いです。施設の庭や玄関前の道路さえ自分の判断で出る事が許されていなかった「車椅子で早く走っていたでしょう・・・」と監視されていたことになります。施設に取っては大事な預かり物でしかないのかと思いました。人影のいないところをどう走ろうと自分で判断するぐらいできると言いたかった。

「病院へ戻ってから・・・」
 成人になってから、私は初めて短期入所とは言え施設生活を1ヵ月程過ごしたことになります。3日坊主という言葉があるように、どうしても家が遠く感じたものです。拘束された気持ちから一刻も早く抜け出したかったのが、本心です。病院へ戻ってから、2ヵ月後に母は亡くなります。亡くなるまでの間に2回程危篤状態にいたり、親戚一同が呼び出された事があります。私と言葉を交わす状態には回復することはなかったのです。幼い頃から母が言っていたように「正男は一人で生きて行けよ」と言っていたと思います。最後に母と対面した時「人の体はこんなにも小さくなるものか」と思いながら、長い間ご苦労様でしたと見送りました。
 私が家に戻る事を関係者の方々に伝えていましたが、一人で24時間いられるのかという事は関係者にも確証がなかったと思います。私は「なんとかなる・・・やるしかない」と動くことによって道は開けると信じて今日まで生きたのだと思っています。このような楽観的な生き方も母からもらったものだと信じています。これからも大事にしたい事柄です。
                                                      「完」                                                       2008年4月
[文責、鈴木正男]