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映画史上の名作

初期フランス映画

ここはしばらく中止します。いつ再開するかはわかりません。しばらくはトリュフォー三昧です。(2005年9月16日)

Richard Abel の "The Cine Goes to Town: French Cinema 1896-1914" を少しずつ読んでいきます。
  1. 1900年ごろのフランス
  2. フランスの映画産業(1896-1914)
  3. 見世物映画 (1896-1904)
    • トリック映画と夢幻劇
    • 喜劇
    • 時事映画が歴史映画とリアリズム映画に分岐
  4. 物語映画への移行(1904-1907)
    • やっつけ仕事の原型
    • 追っかけ喜劇の作品と会社
    • ただ見るだけの快感と苦痛:エロ映画など
    • 劇映画とリアリズム映画
    • 普及と相違
    • 見世物映画(続き)
  5. 1巻もの(1907-1911)
    • 現代メロドラマ(軽い作品と暗い作品)
    • シリーズ物の喜劇
    • フィルム・ダール:歴史映画と文学の脚色
    • トリック映画と夢幻劇
  6. 長編映画の台頭(1911-1914)
    • 歴史劇の発達
    • ありのままの人生:流行と衰退
    • 犯罪は儲かる:探偵対犯罪者
    • 喜劇シリーズ絶好調



1. 1900年ごろのフランス

パリ万博、ドレフュス事件など、当時のフランスの政治・経済・社会について概説していますが、ここは必要があれば、あとで勉強することにします。


2. フランスの映画産業(1896-1914)

1896-1902: 映画技術の新奇さ。最初はリュミエール、次にメリエスが制作面と上映面で先導する。
1902-1907: パテが、信頼できるカメラと映写機を売り込むことで世界を支配する。
1907-1911: パテが独占体制によって地位を確実にしようとする。アメリカでは失敗し、フランスでもゴーモンやエクレールが台頭。
1911-1914: フランス映画産業は、制作会社、配給会社、劇場チェーンがゆるく結びついた「家内産業」的構造となる。
1914年の第一次大戦までに、パテはトップの座から転落する。


4大映画会社 (1896-1902)

ルイ・リュミエール
レオン・ゴーモン
ジョルジュ・メリエス
シャルル・パテ

リュミエールは、1895年12月28日、パリにあるグラン・カフェのサロン・ナンディアンで映画を上映。リュミエールはカメラマンたちに世界中を旅行させ、現地の風景を撮影させる。これは作品を作るためではなく、自社のカメラ兼映写機やフィルムの宣伝に利用するためだった。リュミエールは映画上映で儲けようという気はなく、1905年までに映画制作から完全に撤退。

ゴーモンも映画装置に興味を持った。ゴーモンの秘書アリス・ギイが宣伝用短編制作を任されたが、ゴーモンが作品自体の商業価値を認め、アリスにコメディやバレー映画を撮らせた。ゴーモンは技術面に興味を持ち続け、カラー映画やトーキー映画の開発に挑戦した。

リュミエールの最初の上映会を見たメリエスは、まず舞台での自分の魔術ショウを増強するために映画を使った。エジソン社やバイオスコープ社の映画を魔術ショウのプログラムに加え、自らカメラを設計し、自ら作品を作り始めた。1897年春にはガラス張りのスタジオを建設した。彼の作るトリック映画はアメリカでも大人気で、エジソン社などが真似するのを防ぐためと、アメリカでの配給を拡大するために、1903年3月にアメリカ支店を開設した。撮影所ではカメラを2台並べて撮影するようになり、そのうちの1台で撮影されたネガは直接アメリカに送られ、アメリカでポジが作られた。

シャルル・パテは1895年にエジソンのキネトスコープの偽物を販売しようと試み、その次にリュミエールのシネマトグラフに似た装置の販売を試みたが、うまくいかなかった。パテ独自のカメラと映写機を開発するのには数年かかったが、パテは作品の商業的価値に目をつけ、衣類や缶詰のように大量生産することに乗り出した。1900年、パテはフェルディナン・ゼッカを雇って、映画制作を任せた。1902年までには、撮影したネガの長さがメリエスを上回り、ファリアによるポスターが評判となったこともあって、人気のある縁日会場で中心的な呼び物となった。

映画はどんな場所で上映されていたか。
  • 主としてカフェコンセール(歌やショーを楽しむカフェ)、ミュージックホール、縁日のお祭り
  • マジック劇場 (メリエスのロベール・ウーダン劇場やグランドカフェ近くのカプシーヌ劇場)
  • 蝋人形館 (グレヴァン蝋人形館など)
  • デュファイエル・デパート
  • 1896年と97年にリュミエールが経営していた映画館 (グランカフェとサン=ドニ劇場)
  • カフェ・ド・ラ・ペ、ボンヌーベル通り、オペラ通りにある小映画館
1897年5月、パリで行われたバザーのために仮設された映画館が火事になり、121人死亡。犠牲者の多くは上流社会の女性だったために、上品な人々の映画に対する興味が薄れてしまったが、1897年と1898年、一時的に大衆の興味を引くことにもなった。

1900年のパリ万博は映画に対する人々の興味を復活させた。巨大スクリーン、トーキー映画、カラー映画、パノラマなどが出品された。10台の映写機を使用して360度のスクリーンに映写するという企画もあり、4回上映されたと伝えられてきたが、最近発見された資料によると、技術的に困難なため一度も上映されなかったようだ。この機を利用してパテとゴーモンはビジネスを拡大していく。

パテ社の支配 (1902-1907)

当初ゴーモンは技術に力を入れていたが、次第に映画制作に資本をつぎ込むようになった。まだ1903年にはニュース映画が多かった。音との同調を開発するのに熱心だったが、さほど成功しなかった。アリス・ギイは次第に物語映画に力を入れ始め、野外で撮影するという会社のスタイルを確立した。1905年までには、メリエスのガラス張りスタジオの10倍大きいガラス張りスタジオを建設するほどの安定した収入を得ていた。また、エティエンヌ・アルノーを脚本家として、ルイ・フィヤードを監督として、アンリ・メネシエとベンジャミン・カレをセット・デザイナーとその助手として雇った。アリス自身も「ラ・エスメラルダ」(1905)や「キリストの生涯」(1906)といった長めの映画を制作した。セットと衣装をデザインしたのはヴィクトリア・ジャッセだった。

1902年、パテ社はガラス張りスタジオを建設し、その2年後にも3つのガラス張りスタジオを建設した。1903年、現像したフィルムに型板を使って着色する方法を取り入れ、すぐにパテ社のトレードマークとなった。作品のほとんどは物語映画だった。1907年のカタログによると、パテ社の映画部門には1200名の従業員がいて、その多くは女性で、フィルムの接合や着色といった細かい作業に従事した(織物工場の女性従業員と同じような状態だった)。映画産業には組合がなかったので、安い賃金で雇用できたし、当時フランス全土で盛んだったストライキの心配もなかった。

映画以外の見世物から引き抜かれた監督の数が増え、ゼッカは彼らを指揮する役目が主となった。監督各々は特定のテーマやジャンルに特化していたようだ。たとえば、群衆シーン専門の舞台監督ルシアン・ノンゲはニュース映画や歴史物専門だったし、ガストン・ヴェルは夢幻劇とトリック映画、ゼッカ自身はリアリズム劇、リュミエールの下で映画を作っていたアトは追っかけ映画、役者だったアルベール・カペラニはセンチメンタル劇が専門だった。また、多くの脚本はロリーニ(ゼッカの義兄弟)とアンドレ・ウーゼ(元宣伝屋)が担当し、俳優の一団がミュージックホール、サーカス、舞台出身者によって形成された。これは監督を中心とした組による制作システムだった。数名の監督各々が自分の組(カメラマンやキャスト)で半ば独立した形で映画を作った(アメリカは協同作業システム)。パテ社は、このシステムによって、1905年夏までに週一本のペースで映画を制作できるようになり(一年後には週6本から7本となる)、フランスで最初に制作スタイルを規格化した映画会社となった。

パテが成功した主な原因は、安いコスト、世界的な配給網の確立、激増するアメリカのニッケルオデオン(5セント劇場)の利用、縁日のお祭りの独占だった。(以下、本では各々について述べていますが、ここでは省略。)

支配戦略 (1907-1911)

1907年までの4年間はパテ社がフランスの映画産業を支配するに至る期間だったが、次の4年間は小規模の「映像工場」が乱立し、数百の常設映画館が出現する期間である。

エドモン・ブノワ=レヴィ Edmond Benoit-Levy
弁護士でジャーナリスト。1905年から1908年まで、「大衆劇場」という長年の夢を実現するものとして映画を奨励し、20世紀が「映画の世紀」になることをパリジャンたちに納得させることに努めた。


1906年11月、パテ社は、ブノワ=レヴィの新会社と提携して、フランス中に常設館を作る事業を開始した。1907年夏までにパリの繁華街に50以上の映画館ができた。


3. 見世物映画 (1896-1904)


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