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シネシャモ


Awful Truth

2003年10月 第7回上映

第1回 Movies Begin / 第2回 忘れじの面影 / 第3回 ピアニストを撃て
第4回 荒武者キートン
/ 第5回 続・夕陽のガンマン  / 第6回 ヒズ・ガール・フライデー



村長のあいさつ

先月の「ヒズ・ガール・フライデー」に続き、スクリューボール・コメディ第2弾です。「ヒズ・ガール・フライデー」を上映する前は、スクリューボール・コメディという言葉を「騒々しいラブ・コメディ」ぐらいの意味で、あまり考えずに使用していましたが(というより、使用したこともなかったのですが)、勉強していくうちに、「ヒズ・ガール・フライデー」は典型的なスクリューボール・コメディではないことが分かりました。じゃあ、典型的なスクリューボール・コメディって何だ?この問いに答えることが、今回の上映の中心課題です。


スタッフとキャスト

監督: レオ・マッケリー Leo McCarey
原作: アーサー・リッチマン Arthur Richman
脚本: ビナ・デルマー Vina Delmar
撮影: ジョウゼフ・ウォーカー Joseph Walker
音楽: ベン・オークランド Ben Oakland
(アメリカ、1937年、90分、白黒、コロンビア社)

ルーシー・ウォリナー: アイリーン・ダン Irene Dunne
ジェリー・ウォリナー(ルーシーの夫): ケイリー・グラント Cary Grant
ダニエル・リーソン(石油成金): ラルフ・ベラミー Ralph Bellamy
リーソン夫人(ダニエルの母): エスター・デイル Esther Dale
アルマン・デュバル(ルーシーの音楽教師): アレックス・ダーシー Alex D'Arcy
パッツィ(ルーシーの叔母): セシル・カニンガム Cecil Cunningham
バーバラ・バンス(ジェリーの新恋人): モリー・ラモント Molly Lamont
ディキシー・ベラ・リー(別名トゥーツ・ビンズワンガー。バーの歌手): ジョイス・カンプトン Joyce Compton

レオ・マッケリーがアカデミー監督賞を獲得。作品賞、主演女優賞(アイリーン・ダン)、助演賞(ラルフ・ベラミー)、脚本賞(ビナ・デルマー)、編集賞(アル・クラーク)にノミネートされたが、受賞は監督賞のみ。


あらすじと見所

前回「ヒズ・ガール・フライデー」を上映したとき、スクリューボール・コメディを「不況時代の産物。逃避傾向が強く...」と説明している映画事典を紹介しましたが、「新婚道中記」は典型的なスクリューボール・コメディと言われるだけあって、完全にそれが当てはまります。この映画には社会的なメッセージがないし、現実社会と無縁です。主人公たちは、なにかの仕事に就いているという感じがしないし、お金の心配をすることもありません。不況にあえいでいる人々が、現実社会とまったく無縁のコメディ映画を見て、いやされるというのは想像できます。

話はとても単純です。お互い浮気をしていると思っている夫婦が離婚裁判を起こし、離婚が確定する日に仲直りするというものです。舞台はニューヨーク市のようです。

この映画の場合、離婚裁判が行われてから90日後に離婚が確定するという設定になっています。これはアメリカで一般的なことなのか、ニューヨーク州だけなのか、日本でもそうなのか、当時はそうだったけど今はそうではないのかなど、いろいろ調べてみたくなりますが、とりあえず今回は、そういう設定だということにしておきます。経験者がいらしたら教えてください。

最初のシーンは、スポーツクラブで夫ジェリー(ケイリー・グラント)が日焼けするところです。フロリダで休暇を過ごすと妻ルーシーに嘘をついたので、体を焼かなければならないのです。日焼けのための器具って昔からあったんだなと感心。いつからあったのか調べたいけど、これも今回はパス。

日焼けしたジェリーが仲間たちと一緒に家に帰ると妻ルーシーは留守です。「きっと叔母パッツィの家に行っているのだろう」とジェリーが話していると、叔母パッツィがやってきて、「うちには来てないわよ」と言います。

そこへアイリーン・ダン扮する妻ルーシーが、にこやかに帰ってきます。真っ白いフワフワのコートで、豪華だけど、ちょっと悪趣味な感じなので、きっとアメリカの観客は、ため息をついたり、ブーブー言ったり、笑ったりするのでしょう。そのコートでジェリーと抱擁すると、ジェリーの顔がコートの中にうずまりそうになります。

彼女は、陽気でハンサムな音楽の先生(彼女に歌を教えている)を連れていて、「車が壊れたので、モーテルで一泊した」と言います。このあと、みんな帰り、二人だけになった夫婦はケンカをします。

ジェリーはフロリダに休暇に行くと妻に嘘をついたのだけど、本当はどこに行ったのか最後まで分かりません。ある映画ガイドにはポーカーをしていたと書いてあります。もともと Arthur Richman という人が書いた舞台劇(1922)で、サイレント時代(1925)とトーキー初期(1929)に映画化されているから、それらのどれかでポーカーをしていたという設定になっていたのかもしれません。

でもケイリー・グラントのことだから浮気をしていた可能性も大です。しかも、仮にフロリダに本当に行ったとしても浮気をする可能性はあります。一方、妻ルーシーはあっけらかんとした女性だし、疑われている音楽の先生も隠し立てしそうにないタイプなので、観客はこの二人が不倫していると思わないだろうから、夫ジェリーだけが変に二人の仲を勘ぐっている感じです。

結局、彼らは離婚することにします。離婚裁判で一番の問題は二人の飼い犬、フォックステリアの「スミス氏」をどちらが引き取るかです。もともと二人はペットショップで出会い、二人ともスミス氏を飼いたかったので結婚したのです。

裁判所はスミス氏に飼い主を選ばせることにします。スミス氏を真ん中に置いて、両方からジェリーとルーシーが呼びかけます。ルーシーは、スミス氏お気に入りのゴム人形をコートの袖のところに隠し持っていたので、スミス氏はルーシーのほうに行きます。

スミス氏を演じるアスタ Asta という芸名の犬は、「影なき男 The Thin Man」(1934)で有名になり、1947年まで映画に出演しました。もちろん、10数年という長期間だから、数匹の犬が交代しています。「新婚道中記」では、ジェリーが弾くピアノに合わせて吠えたり、宝探しゲームで、ルーシーがボールか何かをソファーの下に隠す間、両手で目隠しする仕草をしたりします。活発で、賢くて、可愛い犬です。

ルーシーが借りたマンションの向かいの部屋には、ラルフ・ベラミー演じるリーソンが母親と一緒に住んでいます。オクラホマ出身の石油成金で、外見は紳士だけど、中身は田舎ッぺです。3年後の「ヒズ・ガール・フライデー」におけるラルフ・ベラミーは、明らかに「新婚道中記」での役に基づいています(両方ともコロンビア制作)。マザコンなのも、ケイリー・グラントの元妻を田舎に連れて返ろうとしているのも同じです。

大きなクラブで、ジェリーが専属歌手ディキシー・ベルと談笑しています。そこへ、ルーシーとリーソンが来ます。ジェリーは、「君たち、もうすぐ結婚するんだろ」と言いながら二人に加わります。これも「ヒズ・ガール・フライデー」のレストランのシーンに似ているし、「都会を離れて田舎暮らしするなんて君はなんて幸せ者だ」と元妻にあてこするのも同じです。

ディキシー・ベルが歌いだすので、3人とも会話をやめて、彼女の歌を真剣に聴き始めます。ところが、歌の途中で下から突風が吹いて彼女のスカートがめくれるという演出になっており、3人は気まずくなります。(この曲は、あとでルーシーによって効果的に使われます。)

そのあと、リーソンとルーシーは踊り始め、ジルバになると、踊りが上手そうにないリーソンが猛烈に踊りだし、相手をしているルーシーを困らせます。席に座ってそれを見ているジェリーは、元妻が困っている様子にご満悦です。

自分のマンションで、ルーシーは、ジェリーとヨリを戻したいと叔母パッツィに相談します。そこへ音楽教師が来たので、ルーシーは、自分たちがモーテルで何もなかったことをジェリーに納得させてほしいと頼みます。すると、ジェリーがスミス氏に会いに突然やって来たので、音楽教師は別室に隠れます。

音楽教師の帽子が棚の上に置いたままだったので、ルーシーはそれを隠そうとするのですが、彼女がソファーや鏡のうしろに隠すたびに、宝探しゲームをしていると思っているスミス氏が帽子をくわえてきます。

とうとうジェリーに見つかってしまうのですが、実はジェリーも同じ帽子をかぶってきていたので、自分の帽子と勘違いします。ところが、鏡の前で帽子をかぶってみるとガボガボなので、ルーシーが「かぶりすぎたんじゃない?」と言うと「1時間前に買ったばかりだ」とジェリーが答えます。すると、ルーシーは「散髪したんじゃない?」と言います。

と、そこへリーマンと母親が来たので、ジェリーは音楽教師と同じ部屋に隠れます。リーマンやルーシーらがあいさつしていると、音楽教師とジェリーが追いかけっこをしながら、別室から出てきて、そのまま玄関から出て行きます。リーマンはあきれて、「男にとって最良の友人は母親だということがわかった。君からは女性について多くを教わったよ」と言いながら、母親と部屋から出て行きます。いやはや、マザコンの極みですな。ともあれ、ここでリーマンと母親は映画から退場します。

ジェリーはバーバラという大富豪の娘と噂になっています。離婚が確定する日、ジェリーはバーバラの家のパーティに行きます。そこへ、ルーシーがジェリーの妹のフリをしてパーティに乗り込んできます。

そのパーティは上流社会の非常に堅苦しいパーティなんですが、ルーシーはディキシー・ベルのような育ちの悪い女性を演じ、最後にはディキシー・ベルが歌っていたのと同じ曲を歌って、(クラブのように下から風が吹く装置がないので)自分でスカートをヒラヒラさせます。ジェリーは、ルーシーに降参し、彼女の腕を引っ張って、出て行きます。

ジェリーはルーシーを車で送るのですが、車のラジオのボリュームがこわれて大音量を発するので、2台の白バイがやってきます。警官二人とジェリーが話し合っているうちにルーシーがブレーキをゆるめたので、車は勝手に動き出し、道路から落ちてしまいます。

そのあと、2台の白バイ各々の前に二人が乗っかっているカットになるのですが(ハンドルのところに座っている)、あまりに現実離れしていて、少々しらけます。観客の多い劇場で見ていれば、大爆笑かもしれませんが。

白バイに送ってもらったところは田舎のログハウスで、老人が一人住んでいます。ルーシーが「ダディ」と呼んでいるから、実家か別荘のようです。二人はドアでつながっている二つの部屋の各々で寝るのですが、カギが壊れているのでドアが勝手に開いてしまい、ちょうどお互いがベッドに横になっている様子がドア越しに見えてしまいます。このドアを利用したギャグがいくつかあって、最後に二人は仲直りします。


スクリューボール・コメディ再訪

"Grand Design: Hollywood as a Modern Business Enterprise, 1930-1939" という本の関連部分を、ざっと訳しました。ただ、「新婚道中記」は少し触れているだけです。

1934年、新たなコメディが大衆のお気入りとなった。スクリューボール・コメディである。コロンビアの「或る夜の出来事」と「特急二十世紀」、MGMの「影なき男」が予想以上にヒットした。1936年、コロンビアの「オペラハット」でピークに達し、1938年には流行おくれとなった。
「或る夜の出来事 It Happened One Night」(フランク・キャプラ Frank Capra)
「特急二十世紀 Twentieth Century」(ハワード・ホークス Howard Hawks)
「影なき男 The Thin Man」(W・S・バン・ダイク W.S. Van Dyke)
「オペラハット Mr. Deeds Goes to Town」(キャプラ)


スクリューボール・コメディのルーツは次のものである。
サイレント時代のスラップスティック・コメディ、
Dorothy Parker, Alexander Woolcott, Herman J. Mankiewicz の風刺作品、
1920年代のブロードウェー(特に、George S. Kaufman, Morrie Ryskind, Marc Connelly, Moss Hart といった劇作家のコメディ)

スクリューボール・コメディのスタイルは次の人たちによって完成されていった。
監督:Frank Capra, Leo McCarey, George Cukor, Gregory La Cava, Wesley Ruggles, George Stevens
脚本家:Ben Hecht & Charles MacArthur, Albert Hackett & Frances Goodrich, Robert Riskin, Dudley Nichols, Norman Krasna, George Seaton, Claude Binyon, Charles Brackett, Billy Wilder, Preston Sturges
スター:Cary Grant, Jean Arthur, Carole Lombard, Irene Dunne, Claudette Colbert, Katharine Hepburn

「或る夜の出来事」は、MGMとパラマウント各々からクラーク・ゲーブルとクローデット・コルベールを借りて作られた。1934年2月に公開され、口コミで評判が伝わり、その年最大のヒットのひとつとなった。アカデミー賞では主要5部門を独占した。

この映画はスクリューボール・コメディの始まりと言われているが、当時の情報源によると、以前から続いていた流行を引き継いだ映画と見られていたようだ。駆け落ちした金持ちの娘がタフな新聞記者と恋に落ちるというロバート・リスキンの脚本は、Samuel Hopkins が「コスモポリタン」で発表した短編 “Night Bus” に基づいていたし、バス横断物語としては4番目のものであるとバラエティ紙は書いている。「グランドホテル」(1932)の変形だと考える者もいた。「旅行中の宿泊」映画としては、「グランドホテル」の後続作品であるフォックスの「大西洋横断」(1931)、パラマウントの「上海特急」(1932)、コロンビアの「狂乱のアメリカ」(1932)と構造が似ている。したがって、「或る夜の出来事」は、突然出現したわけではなく、流行を追うというコロンビアの戦略から生まれたものである。
「グランドホテル Grand Hotel」(エドマンド・グールディン Edmund Goulding)
「大西洋横断 Transatlantic」(ウィリアム・K・ハワード William K. Howard)
「上海特急 Shanghai Express」(ジョウゼフ・フォン・スタンバーグ Josef von Sternberg)
「狂乱のアメリカ American Madness」(キャプラ)


キャプラがブレークしたコロンビアの「一日だけの淑女」(1933)も同じ戦略をとっている。この映画は、シンデレラ物語とセンチメンタル・コメディを合体させたものだった。フィルム・デイリー紙の年間ベストテンで4位となり、アカデミー賞の4部門にノミネートされた。この「一日だけの淑女」同様、「或る夜の出来事」は、脚本、演技、演出のコンビネーションが見事で、映画を格別なものにしている。
「一日だけの淑女 Lady for a Day」(キャプラ)

ハワード・ホークスがプロデューサーと監督を務めたコロンビアの「特急二十世紀」は、ベン・ヘクトとチャールズ・マッカーサーが、1932年にブロードウェーでヒットした自分たちの劇を脚色したものである。シカゴからニューヨークに行く途中の「特急二十世紀」号を舞台に、スベンガリ(催眠術を使って人を操る小説の主人公)のような演劇プロデューサーをジョン・バリモアが演じ、映画界に入るために彼から離れようとするお抱え女優をキャロル・ロンバードが演じている。この映画に関しても、批評家は流行を生んだ映画ではなく、風刺コメディの変形とみなした。ロンバードではなくバリモアが注目を集めた。「特急二十世紀」は大都市でヒットしたが、他ではそこそこだった。人気の点では「影なき男」のほうが上だった。

「影なき男」は、殺人ミステリーが中心だが、コミカルでロマンティックな筋を加えている。ウィリアム・パウエルとマーナ・ロイが主演している。ダシール・ハメットの原作が1933年に出版されるとすぐMGMは映画権を獲得したが、サディズムやマゾヒズムなどの映画にできないことが含まれていたので、フランシス・グッドリッチとアルバート・ハケット は、それらを一掃した。

MGMは、明らかにB級映画(プログラム・ピクチャー)として企画し、18日間の撮影日数で、予算も限られていた。「或る夜の出来事」同様、「影なき男」は、ドラマティックな物語をコミカルにしたものである。映画は、ハメットの原作の大筋を忠実に追っているが、ニックとノーラのチャールズ夫妻についての補助的な筋が挿入されている。当時、バラエティ紙は次のように書いている。

「ハケットとグッドリッチによる脚色が最も成功しているのは、ニックとノーラの陽気で、好感が持てる関係をうまくとらえていることである。互いを愛し、それを表現するやり方がとても楽しい。ウィリアム・パウエルとマーナ・ロイ以上に主人公に適した役者はいないだろうし、彼らは半分コミカルな役柄を見事に演じている。」

すぐにニックとノーラは国民のお気入りとなり、パウエルとロイをスターにした。

どの制作会社もスクリューボール・コメディを作ったが、コロンビア、パラマウント、MGMが特に力を入れた。コロンビアは、「或る夜の出来事」に続いて、「俺は善人だ」(1935)を作った。前者が「グランドホテル」の変形なら、後者は「犯罪王リコ」(1930)のパロディである。「俺は善人だ」は、ジョー・スワーリングとロバート・リスキン が脚本を書き、エドワード・G・ロビンソンが主演した。彼は悪役とヒーローの二役を演じた。映画には、「羊が狼をかむ」、「ダビデがゴリアテをやっつける」というテーマが含まれている。このテーマは、その後キャプラが「オペラハット」「スミス氏都へ行く」(1939)「群衆」(1941)の中で発展させる。
「俺は善人だ The Whole Town’s Talking」(ジョン・フォード)
「犯罪王リコ Little Caesar」(マービン・ルロイ Mervyn LeRoy)
「スミス氏都へ行く Mr. Smith Goes to Washington」(キャプラ)
「群衆 Meet John Doe」(キャプラ)


キャプラは、「或る夜の出来事」に続き、「その夜の真心」(1934)を作った。「一日だけの淑女」の男性版で、ロバート・リスキンの脚本は、マーク・ヘリンジャーによるデイモン・ラニアン風ストーリーに基づいており、不屈の馬ブロードウェー・ビルの希望に満ちた持ち主の苦難を描いている。「その夜の真心」は、「一日だけの淑女」同様、人々の琴線に触れた。当時のバラエティ紙によれば、ブロードウェー・ビルがレース優勝後、倒れて死んでしまうシーンで、観客は1.65ドルの中二階席で泣き叫んでいたそうだ。
「その夜の真心 Broadway Bill」(キャプラ)

「或る夜の出来事」がアカデミー賞主要部門を総ナメにしたあとも、コロンビアは流行を追い続けたが、無鉄砲な(“screwball,” “madcap,” “daffy”)人物をコメディに加える戦略に変えた。当然、コロンビアはクローデット・コルベールを使って再び一儲けしようと、彼女をパラマウントから再び借りて、「社長は奥様がお好き」(1935)を制作した。昔ながらのお涙頂戴メロドラマをコミカルにした作品である。当時のバラエティ紙は次のように評している。「2年前なら、同じ話が重苦しく、悲劇的に演出され、甘い結末まで涙々の連続だったが、「或る夜の出来事」と「影なき男」によって一変し、こうした昔ながらの話も撃破されてしまった。」
「社長は奥様がお好き She Married Her Boss」(グレゴリー・ラ・カーバー Gregory La Cava)

「社長は奥様がお好き」はそこそこのヒットだったが、コロンビアは、アイリーン・ダンを使って2本の映画を作ることに決定した。ダンは、それまでメロドラマやミュージカル専門だったが、コロンビアは彼女を「花嫁凱旋」(1936)と「新婚道中記」(1937)に主演させた。前者は女性版「オペラハット」で、後者は再婚コメディだ。後者はフィルム・デイリー紙の年間ベストテンに選出され、マッケリーはアカデミー監督賞をもらい、ダンとグラントは、最もウィットに富んだスクリューボール・カップルとして、「影なき男」シリーズのマーナ・ロイとウィリアム・パウエルの人気を一時上回った。
「花嫁凱旋 Theodora Goes Wild」(リチャード・ボレスラフスキー Richard Boleslawski)
「新婚道中記 Awful Truth」(レオ・マッケリー Leo McCarey)


キャサリン・ヘップバーンは、RKOとの契約が切れたあと、「素晴らしき休日」(1938)のリメークを作るようコロンビアを説得した。Philip Barry のヒット舞台を原作とする風俗喜劇で、1930年にパテ社がアン・ハーディング主演で最初に映画化した。原作がブロードウェーで上演されたとき、主演の代役を務めたヘップバーンは、この劇に特別の愛着を持ち、ケーリー・グラントと共演させてもらうようコロンビアを説得した。当時バラエティ紙は次のように評している。「ヘップバーン嬢は、歴史劇やワイルドなコメディ(たぶん「赤ちゃん教育」のこと)に出演したあと、現代劇である「素晴らしき休日」で彼女に最も適した役柄に戻った。彼女の演技は見ていて楽しいし、細やかな感情と思慮によって陰影をつけている。」
「素晴らしき休日 Holiday」(ジョージ・キューカー George Cukor)

コロンビアのコメディ作りが評判になったのは、キャプラの3作品がヒットしたことが大きい。「オペラハット」(1936)、「我が家の楽園」(1938)、「スミス氏都へ行く」(1939)である。それまでにキャプラの評判は高まっており、「オペラハット」の最初、映画題名の上にキャプラの名前が出るようにまでなっていた。ロバート・リスキンが最初の2作の脚本を書き、シドニー・バックマンが3番目の作品を書いている。コロンビアはパラマウントからゲーリー・クーパーを借りて「オペラハット」に主演させ、ジェイムズ・スチュアートをMGMから借りて他の2作に主演させた。ジーン・アーサーは、コロンビア専属のスターで、3作とも共演している。スクリューボール・コメディの一つの流れが、再婚コメディにおいて裕福なヒロインが無鉄砲な冒険をする話だとしたら、もう一つの流れは、取るに足らない人物が成功する「理想主義的な空想劇」である。
「我が家の楽園 You Can’t Take It With You」(キャプラ)

この3作品はフィルム・デイリー紙の年間ベストテンに選出され、数多くの賞を獲得し、キャプラは特別表彰された。「我が家の楽園」は、タイム誌から「1938年のコメディ映画ナンバーワン」と賞賛され、アカデミー賞の作品部門と監督部門で受賞した。だが、興行成績となると話は別だ。「オペラハット」はヒットしたが、その後の作品が続かなかった。キャプラの映画はコロンビアの評判を大いに高めたが、儲けは少なかった。

パラマウントは、洗練されたコメディを昔から作り続けており、スクリューボール・コメディの競争で優位に立てる位置にいた。まず、レオ・マッケリー監督で「人生は四十二から」(1935)を作った。チャールズ・ロートンがイギリス人従者ラグルズを演じた。彼はパリでポーカーに勝ったり、新しい主人にアメリカの辺境に連れて行かれたりする。マッケリーの演出、ロートンの素晴らしいコメディ演技、すぐれた助演者によって、この映画は大ヒットし、フィルム・デイリー紙の年間ベストテンに選出された。
「人生は四十二から Ruggles of Red Gap」(マッケリー)

クローデット・コルベールは、「或る夜の出来事」でスターになり、パラマウントに戻ってきた。パラマウントは、ゲーブルとコルベールのコンビの再来を願って、彼女をフレッド・マクマレーと組ませ、自社でトップクラスの監督・脚本家チーム、ウエズリー・ラグルズとクロード・ビニョンを起用して、三角関係を描く2本の映画を作った。「輝ける百合」と「花嫁の感情」(ともに1935)である。これらの映画で、コルベールは、甘やかされたお金持ちのボンボンではなく、平均的アメリカ男性を選ぶ。「或る夜の出来事」と異なり、コルベールは働く女性を演じている。前者では秘書を、後者では雑誌編集者を演じた。さらに、舞台は、南部の田舎道ではなく、都会である。金持ちが好む摩天楼、ナイトクラブ、高級ホテルだけでなく、あまり金持ちでない者が出入りする家庭的なアパート、玄関前の階段、安料理屋、公園のベンチ、市街バスが舞台となった。
「輝ける百合 The Gilded Lily」(ウエズリー・ラグルズ Wesley Ruggles)
「花嫁の感情 The Bride Comes Home」(ラグルズ)


ビニョンとラグルズは、「パリで逢った彼」(1937)で三角関係を四角関係に拡大した。この映画でコルベールは、お金をためてパリ旅行をするキャリアガールを演じている。彼女は、プレイボーイ、劇作家、幼馴染から言い寄られる。バラエティ紙は次のように評している。「この映画が何を描いていたかを観客が忘れてしまってから久しくなっても、パラマウントは、コメディ映画のあるべき姿を教える際に、この映画を上映するだろう。しかし、それは物語のためではない。演技のためでも、プロデュースのためでもない。それは、脚本家ビニョンと監督兼プロデューサーのラグルズが脚本と演技に加えた数多くの細かいタッチのためである。」
「パリで逢った彼 I Met Him in Paris」(ラグルズ)

パラマウントは、三角関係のパターンを使い果たしたのち、さらにコルベールを使うために、チャールズ・ブラケットとビリー・ワイルダーの脚本家コンビと契約し、フランスを舞台にスクリューボール・コメディを展開した。「青髭の8番目の妻」(1938)で、コルベールはゲイリー・クーパーと共演するが、完全な失敗作だった。「Midnight」(1939)ではジョン・バリモアと共演し、批評は良かったが、同年の名作群の中に埋没した(訳注:「風と共に去りぬ」や「オズの魔法使」の年)。
「青髭の8番目の妻 Bluebeard's Eighth Wife」(エルンスト・ルビッチ Ernst Lubitsch)
「Midnight」(ミッチェル・ライゼン Mitchell Leisen)


パラマウントは、コルベールのほかに、キャロル・ロンバードやジーン・アーサーの映画も作った。ロンバードは、「特急二十世紀」で才能を認められたあと、パラマントによっていろんな制作会社に貸し出されたため、低迷していた。ユニバーサルの「襤褸と宝石」(1936)でウィリアム・パウエルと共演し、やっと真価を発揮した。バラエティ紙は次のように書いている。「ロンバードは以前もスクリューボール・コメディに出ているが、これほど途方もなくおかしいことはなかった。最初から最後まで、正気に戻って落ち着くことがない。彼女のスクリューボールぶりを止められるのはロージンバッグだけだろう。彼女の家族全体が、老人を除いて、若い頃に頭から落ちたことがあるようだ。」
「襤褸(らんる)と宝石 My Man Godfrey」(ラ・カーバー)

パウエルはホームレスだったが、金持ちの品物集めゲームでロンバードに拾われ、彼女の家の執事になる。彼は、本当は貴族の子孫で、失恋のためにホームレスになったのだ。彼は、ロンバード一家をまともにしようと試みるが、ロンバードによって混乱してしまう。

ロンバードは、スターとしてパラマウントに戻り、立て続けに3本の映画でフレッド・マクマレーと共演する。「姫君海を渡る」(1936)、「スイング」(1937)、「真実の告白」(1937)である。どの映画もヒットしなかった。パラマウントが彼女とマクマレーをコンビとして定着させようとしたため、彼女はデイビッド・セルズニックと非専属契約を結んだ。
「姫君海を渡るThe Princess Comes Across」(ウィリアム・K・ハワード)
「スイング Swing High, Swing Low」(ミッチェル・ライゼン)
「真実の告白 True Confession」(ウエズリー・ラグルズ)


パラマウントは、ジーン・アーサーをコロンビアから借りて、非常にばかばかしいコメディ、「街は春風」(1937)を作った。プレストン・スタージェスの脚本はシンデレラ物語の変形で、映画は、昔のパイ投げと追っかけの頃を思い起こさせるものだった。アーサー演じる貧しい速記者が、5番街を走る二階建てバスに乗って出勤していると、毛皮のコートが空から降ってくる。実業界の大物が妻の浪費に怒ってマンションの窓から投げ捨てたのだ。毛皮はアーサーの頭に落ち、いくつかの偶然によって、アーサーはその大物の愛人だと誤解され、高級ホテルのスイートルームに宿泊し、大衆食堂で給仕をしているレイ・ミランド(実は、その大物の息子)と出会う。
「街は春風 Easy Living」(ミッチェル・ライゼン)

MGMは、ウィリアム・パウエル=マーナ・ロイのコンビやクラーク・ゲーブルを抱え、スクリューボール・コメディで一儲けできそうな位置にいた。「或る夜の出来事」で息を吹き返したゲーブルは、30年代の残り、人気スターのベストテンの常連になった。しかし、ゲーブルが常連だったのは、スクリューボール・コメディのためではなく(コメディは彼の得意ジャンルではない)、ロマンスや活劇での男性的な役柄に戻ったからだ。

MGMは、「影なき男」に続き、パウエル=ロイのコンビで「悪夢」 (1934) を作った。裁判がからむメロドラマで、「影なき男」のユーモアを期待していた観客からそっぽを向かれた。続いてMGMは、「或る夜の出来事」と「影なき男」を組み合わせるという至難の業に挑み、「結婚クーデター」(1936)という映画を作った。金持ちの娘と新聞記者の話で、数多くのスターが出演した。スペンサー・トレーシーが新聞編集者、ジーン・ハーローがその婚約者、ウィリアム・パウエルが新聞記者、マーナ・ロイが大金持ちである。さらにMGMは、パウエル=ロイのコンビで「結婚十字路」(1937)を作ったが、これはユニバーサルの「襤褸と宝石」のお寒いまねごとだった。
「悪夢 Evelyn Prentice」 (ウィリアム・K・ハワード)
「結婚クーデター Libeled Lady」(ジャック・コンウェー Jack Conway)
「結婚十字路 Double Wedding」(リチャード・ソープ Richard Thorpe)


MGMは、「影なき男」と同じような映画を作らないかぎり、このコンビで一儲けできないと判断した。そこで、MGMは「影なき男」をシリーズ化し、「夕陽特急」(1936)と「第三の影」(1939)を30年代に作った(訳注:40年代になっても続く)。2作目「夕陽特急」は1作目よりヒットしたが、3作目は前2作ほど面白くなかった。
「夕陽特急 After the Thin Man」(バン・ダイク)
「第三の影 Another Thin Man」(バン・ダイク)


1939年、MGMの「アンディ・ハーディー」シリーズ(ミッキー・ルーニー主演のミュージカル)によってスクリューボール・コメディが全滅の危機にあったとき、MGMは救いの手を差し伸べた。グレタ・ガルボをスクリューボール・コメディに主演させたのである。ガルボは外国にファンが多いため、ヨーロッパで戦争が始まったことで打撃を受けていた。MGMは、彼女の国内での集客力を増す新鮮な打開策をチャールズ・ブラケットやビリー・ワイルダーらに考えさせた。彼らは「ニノチカ」(1939)を作り上げた。モスクワから派遣された暗い共産主義者がパリのプレイボーイと恋に落ちる傑作である。宣伝文句は「ガルボが笑う!」で、彼女が最初にトーキーに出演したときの「ガルボがしゃべる!」と対になっている。だが、アカデミー賞で4つの部門にノミネートされたものの、興行成績は芳しくなかった。
「ニノチカ Ninotchika」(ルビッチ)

RKOも、同社最大のスター、キャサリン・ヘップバーンの評判を回復するために、スクリューボール・コメディに着目した。RKOは、1933年に彼女が「若草物語」と「勝利の朝」でハリウッドのトップスターになってから、彼女にふさわしい役柄を見つけるのに苦労していた。「乙女よ嘆くな」(1935)はヒットしたものの、その後の「Mary of Scotland」(1936)、「女性の反逆」(1936)、「偽装の女」(1937)などは芳しくなかった。ついに、RKOは、「ステージ・ドア」(1937)で彼女をジンジャー・ロジャーズと対立する役に起用し、成功した。演劇の寄宿舎に住む野心的な女優たちを描いた戯曲が原作で、そこそこヒットし、アカデミー賞の4部門にノミネートされた。
「若草物語 Little Women」(キューカー)
「勝利の朝 Morning Glory」(ローウェル・シャーマン Lowell Sherman)
「乙女よ嘆くな Alice Adams」(ジョージ・スティーブンズ)
「Mary of Scotland」(ジョン・フォード)
「女性の反逆 A Woman Rebels」(マーク・サンドリッチ Mark Sandrich)
「偽装の女 Quality Street」(ジョージ・スティーブンズ)
「ステージ・ドア Stage Door」(ラ・カーバー)


「ステージ・ドア」は、ヘップバーンの評判を回復させただけでなく、ジンジャー・ロジャーズがフレッド・アステアなしでも大丈夫だということを示した。アステアとの共演作以外の役柄を発展させようと、RKOは、「ステージ・ドア」で、機知に富み、希望に満ちた若い娘を彼女に演じさせた。彼女は、その後、「モーガン先生のロマンス」(1938)、「ママは独身」(1939)、「Fifth Avenue Girl」(1939)に主演し、コメディエンヌとしての才能を伸ばした。
「モーガン先生のロマンス Vivacious Lady」(ジョージ・スティーブンズ)
「ママは独身 Bachelor Mother」(ガーソン・ケニン Garson Kanin)
「Fifth Avenue Girl」(ラ・カーバー)


ヘップバーンは、「ステージ・ドア」のあと、「赤ちゃん教育」(1938)に主演した。この映画は、今日、この時代の最も陽気なコメディの一つとされているが、観客は洗練されたコメディに飽きつつあったし、ホークスがかなり予算をオーバーしたために、36万5000ドルの損失となった。
「赤ちゃん教育 Bringing Up Baby」(ホークス)

1938年のスクリューボール・コメディの衰退は、センチメンタル・コメディの台頭と一致する。センチメンタル・コメディは、テレビのホームコメディの元祖で、想像上のアメリカの典型的な家庭で起こる些細な出来事が中心である。お父さんは恐妻家、お母さんは上流社会志向で、娘がちゃんとした若者を選ぶかどうかでハッピーエンドが決まる。通常、親戚に短気な年配がいて(おじいさんか未婚の叔母)、家族に対して辛らつなコメントを述べる。コミカルなメイドも欠かせない。


レオ・マッケリー監督 
Leo McCarey (1898-1969)
  • 1929 The Sophomore, Red Hot Rhythm
  • 1930 Let’s Go Native (極楽島満員), Wild Company, Part Time Wife (ゴルフと女房)
  • 1931 Indiscreet (恋愛即興詩)
  • 1932 The Kid from Spain (カンターの闘牛士)
  • 1933 Duck Soup (我輩はカモである)
  • 1934 Six of a Kind (ヒョットコ六人組), Belle of the Nineties (罪じゃないわよ)
  • 1935 Ruggles of Red Gap (人生は四十二から)
  • 1936 The Milky Way (ロイドの牛乳屋)
  • 1937 The Awful Truth (新婚道中記), Make Way for Tomorrow (明日は来たらず)
  • 1939 Love Affair (邂逅)
  • 1942 Once Upon a Honeymoon
  • 1944 Going My Way (我が道を行く)
  • 1945 The Bells of St. Mary’s (聖メリイの鐘)
  • 1948 Good Sam (善人サム)
  • 1952 My Son John 
  • 1957 An Affair to Remember (めぐり逢い)
  • 1958 Rally Round the Flag, Boys
  • 1962 Satan Never Sleeps
    (以上、全作品)
Andrew SarrisThe American Cinema: Directors and Directions 1929-1968 から抄訳します。この本は、200名ほどの監督をランク付けしており、マッケリーは、殿堂入り監督(14名)に次ぐランク(20名)に入っています。

レオ・マッケリーは即興が得意だ。厳格な演出よりも、のんびりした脱線が目立つ。笑いと涙をうまく混ぜ合わせる。初期の頃は、ローレルとハーディ、マルクス兄弟、ハロルド・ロイド、エディ・カンター、メイ・ウエスト、ビクター・ムーアといった非常にエキセントリックなハリウッド・スターたちの映画を撮った。その後は、よりノーマルな、ケイリー・グラント、アイリーン・ダン、シャルル・ボワイエ、イングリッド・バーグマン、ビング・クロスビーらと仕事をした。かつてジャン・ルノワールは、ハリウッドの監督の中でレオ・マッケリーが一番人間を理解していると言った。マッケリー作品は、全体よりも個々の場面が印象的だ。「人生は四十二から」でチャールズ・ロートンがリンカーンの演説を朗読する場面、同じ映画でレイラ・ハイアムズがローランド・ヤングにドラムのたたき方を教える場面、「我が道を行く」でバリー・フィッツジェラルドが母親を抱擁する場面、「新婚道中記」で結婚生活をなつかしむ場面などである。こうしたすぐれた場面が寄せ集まって、個性らしきものが出ている。

マッケリーとキャプラは、ハムと卵みたいに、共に歩んでいる。彼らは20年代の同時期に映画界に入り、ギャグの訓練をつんでいる。トーキーへの移行期には目立たなかったが、30年代半ばにブレークする。40年代後期に衰退し始め、50年代初期に事実上消え去ってしまうが、50年代後期にカムバックする。両者ともアカデミー監督賞を2回受賞した。キャプラは「オペラハット」と「我が家の楽園」で、マッケリーは「新婚道中記」と「我が道を行く」で受賞した。


次は、Cinema: A Critical Dictionary という映画作家事典の「レオ・マッケリー」の項から抜粋です。この項の筆者は、先月の「ヒズ・ガール・フライデー」でも登場したロビン・ウッドです。

マッケリーの長所と短所は、ルノワールと比較すれば分かるかもしれない。両者とも役者中心である。役者に対する態度で監督をグループ分けすると、ルノワール、マッケリー、ホークスのグループと、ヒッチコック、スタンバーグ、アントニオーニのグループに大きく分かれる。ヒッチコックは、役者を家畜のように扱うべきだと言う。スタンバーグにとって、役者は人形だ。アントニオーニにとっては、美しい彫刻だ。ルノワール、マッケリー、ホークスにとって、役者は敏感な人間で、固有の才能と短所を持ち、固有の反応を示し、そこから映画が展開する。彼らが「人間主義」と言われる理由はここにある。アメリカ映画で最も楽しい場面のいくつかは、マッケリーが役者と創造的な共同作業を行ったことから生まれている。たとえば、「人生は四十二から」でレイラ・ハイアムズがローランド・ヤングにドラムのたたき方を教える場面や、「新婚道中記」でアイリーン・ダンとラルフ・ベラミーが「峠の我が家」を歌う場面である。後者は、ベラミーが音痴で、ダンがピアノ下手なことをマッケリーが知り、即興で撮影された。(以下、略。)


アイリーン・ダン Irene Dunne (1898-1990)

アイリーン・ダンは、名前を聞いたことはあるけど、今まで映画を見たことがなかったので、どういう顔かも知りませんでした。本国でも、同年代のコメディエンヌ、キャサリン・ヘップバーン、クローデッド・コルベール、キャロル・ロンバード、マーナ・ロイほど有名じゃないようです。一番の理由は、1950年代の初めから映画に出なくなったことでしょうが、コメディエンヌよりも演技派になりたかったことが災いしたのかもしれません。

コメディエンヌに徹している「新婚道中記」の彼女からは想像できませんが、上昇志向が強いようです。政治に関心があり、1950年代の終わりには、国連総会でアメリカ代表代理になったそうです。

彼女は、美人というより、愛嬌がある女性です。「ルーシー・ショー」のルシル・ボールの元祖みたいな感じだし、実際、ルシル・ボールは彼女が好きです。ケーリー・グラントも彼女の演技のタイミングをほめています。

一方、彼女が肌に合わない人もいます。ジェイムズ・エイジーは彼女を見ると肌がムズムズすると言っているし、ポーリン・ケイルは次のように述べています。「彼女はよく笑わせてくれるけど、のどをゴロゴロ鳴らす内気な笑い方をやりすぎる。それから、彼女が、上と下の歯並びを可愛らしく閉じて、真っ白な歯を見せながら笑うと、彼女を殴りたくなる人もいるだろう。」

彼女は年齢をごまかしていたようで、ケイリー・グラントと同じ1904年生まれだと言っていたようですが、実際には1898年生まれなので、「新婚道中記」が公開された1937年当時、グラントは33歳、彼女は39才ということになります。

ダンとグラントのコンビは、この映画で人気となり、その後、「ママのご帰還」 「愛のアルバム 」に共演しました。後者はコメディではなく、センチメンタルな話らしいのですが、けっこう評判が良いです。
「ママのご帰還 My Favorite Wife」(1940、ガーソン・ケニン Garson Kenin) (日本では劇場未公開。邦題はテレビ放映時の題名)
「愛のアルバム Penny Serenade」(1941、ジョージ・スティーブンズ)

その他の主な作品
 1931 「シマロン Cimarron」(ウエズリー・ラグルズ)
 1932 「裏街 Back Street」(ジョン・M・スタール)
 1932 「六百万交響楽 Symphony of Six Million」(グレゴリー・ラ・カーバー)
 1935 「ロバータ Roberta」
 1936 「ショウ・ボート Show Boat」
 1936 「花嫁凱旋 Theodora Goes Wild」
 1939 「邂逅 Love Affair」(レオ・マッケリー)
 1946 「アンナとシャム王 Anna and the King of Siam」(ジョン・クロムウェル)
 1948 「ママの想い出 I Remember Mama」(ジョージ・スティーブンズ)


ケイリー・グラント Cary Grant (1904-86)

主要作品
1932 「ブロンド・ヴィナス Blonde Venus」(スタンバーグ監督、デートリッヒ主演)
1933 「私は別よ She Done Him Wrong」(メイ・ウエスト主演)
1935 「男装 Sylvia Scarlett」(ジョージ・キューカー監督、キャサリン・ヘップバーン主演)
1937 「新婚道中記 Awful Truth」
1937 「天国漫歩 Topper」
1938 「赤ちゃん教育 Bringing Up Baby」
1938 「素晴しき休日 Holiday」(キューカー監督、ヘップバーン共演)
1939 「ガンガ・ディン Gunga Din」(ジョージ・スティーブンズ監督)
1939 「コンドル Only Angels Have Wings」(ホークス監督)
1940 「ママのご帰還 My Favorite Wife」(アイリーン・ダンと再共演)
1940 「ヒズ・ガール・フライデー His Girl Friday」
1940 「フィラデルフィア物語 The Philadelphia Story」(キューカー監督、ヘップバーン共演)
1941 「断崖 Suspicion」(ヒッチコック監督、ジョーン・フォンテーン共演)
1944 「None But the Lonely Heart」(クリフォード・オデッツ監督)
1944 「毒草と老嬢 Arsenic and Old Lace」(キャプラ監督)
1946 「汚名 Notorious」(ヒッチコック監督、イングリッド・バーグマン共演)
1947 「独身者と女学生 The Bachelor and the Bobby-Soxer」(マーナ・ロイ、シャーリー・テンプル共演)
1948 「ウチの亭主と夢の宿 Mr. Blandings Builds His Dream House」(マーナ・ロイ共演。日本劇場未公開)
1949 「僕は戦争花嫁 I Was a Male War Bride」(ホークス監督)
1952 「モンキー・ビジネス Monkey Business」(ホークス監督、ジンジャー・ロジャーズ共演)
1955 「泥棒成金 To Cutch a Thief」(ヒッチコック監督、グレース・ケリー共演)
1957 「めぐり逢い An Affair to Remember」(マッケリー監督、デボラ・カー共演)
1958 「無分別 Indiscreet」(スタンリー・ドーネン監督、バーグマン共演)
1959 「北北西に進路を取れ North by Northwest」(ヒッチコック監督)
1963 「シャレード Charade」(ドーネン監督、オードリー・ヘップバーン共演)


以下は主に Evenings With Cary Grant: Recollections in His Own Words and by Those Who Knew Him Best という本を参考にしています。

彼の出演作品は72本だけど、次の4本が気に入らないので、グラント自身は68本だと言っていたようです。
「悪魔と深海 The Devil and the Deep」 (1932)
「濁流 Born to Be Bad」 (1934)
「間奏曲 When You're in Love」 (1937) 
「うわさの名医 People Will Talk」 (1951。日本未公開) 


結婚暦
1934-36 バージニア・チェリル Virginia Cherrill (チャップリンの「街の灯」で盲目の女性を演じた)
1942-45 バーバラ・ハットン Barbara Hutton
1949-62 ベッツィ・ドレイク Betsy Drake
1965-68 ダイアン・キャノン Dyan Cannon (一人娘が生まれる)
1981-86 バーバラ・ハリス Barbara Harris (「ナッシュビル」や「ファミリー・プロット」の女優とは違うみたい)

彼の本名は Archibald Alexander Leach です。子供の頃からアーチー・リーチと呼ばれ、この本名がけっこう知られているし、彼も本名が好きなので、「ヒズ・ガール・フライデー」や「ガンガ・ディン」の彼のセリフの中に「アーチー・リーチ」という名前が出てきて、観客を笑わせます。たとえば、「ヒズ・ガール・フライデー」では、「そのことを俺に最後に言った奴はアーチー・リーチで、彼がのどをかっ切るちょうど1週間前だったぜ」というセリフがあります。

彼はイングランド南西部ブリストルの労働者階級の家に生まれます。あまり裕福な家ではありませんでした。彼が9歳のときに母親が突然いなくなります。彼が大人になってから分かるのですが、彼女は神経衰弱で療養所に入れられたのです。(彼が有名になったあと、母親から手紙が届き、母親が生きていることを知ります。その後、手紙や電話で連絡を取り合うようになります。)

14歳になると、あまり学校に行かなくなり、ミュージックホール(イギリスの寄席)に熱心に通うようになります。じきにドタバタ喜劇一座に入り、1920年、16歳のとき、アメリカを巡業し、一座がイギリスに帰ったあともアメリカに残ります。最初は、ボードビル(アメリカの寄席)に出演していましたが、そのうちブロードウェーのミュージカルに出演するようになりました。

1931年、27歳のとき、パラマウントと5年契約を結びましたが、メイ・ウエストの相手役を務めさせられたり、ゲーリー・クーパーが断った役の後釜にすえられたりして、彼としてはあまり面白くなかったようです。

1936年、パラマウントとの契約が切れると、当時としては珍しかったフリーランスの俳優になります。その後、コロンビアと契約を結びますが、他社の作品に出演可能という条件付でした。

「新婚道中記」は、彼の名声を高め、エレガントで優美だけど、ドジだというキャラクターを確立しました。この映画の監督レオ・マッケリーは即興の名人で、わけが分からない指示ばかりするので、グラントは会社に対して、「この映画から降ろしてくれたら、次の作品はタダで引き受ける」とまで言います。しかし、1週間ほど撮影するうちに、グラントもアイリーン・ダンもラルフ・ベラミーも、マッケリーが喜劇の天才だということが分かってきます。

グラントとキャサリン・ヘップバーンは細部にこだわる人たちで、「赤ちゃん教育」について、ヘップバーンは次のように述べています。「私たちは映画をできるかぎり良いものにしたかった。そのために苦労するのはかまわなかったし、二人とも朝早くからセットにいた。ハワード・ホークスはいつも遅刻していたので、二人で多くのことを練り上げた。どうすれば劇場で笑いが取れるか、あれこれ考えた。こっけいな場面はすべて二人で考えたことです。」

さて、来月は、その「赤ちゃん教育」を上映します。スクリューボール・コメディ特集(実はケイリー・グラント特集)は来月で終りにして、12月は「サムライ」を上映します。幸いなことに、「サムライ」上映を延期している間に、ジャン・ピエール・メルビルの本が出ました。

先月の「ヒズ・ガール・フライデー」をご覧になられた方から、原作の戯曲「フロント・ページ」が載っている本をいただきました。ありがとうございます。当初、「ヒズ・ガール・フライデー」の補足という形で、原作と映画との比較をしようと思っていましたが、ルイス・マイルストンの「犯罪都市」とビリー・ワイルダーの「フロント・ページ」と一緒に再上映して、そのときに比較しようと思いつきました。来年の中ごろを予定しています。

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村長 粟村彰義
 (アワムラ アキヨシ)