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    法華宗真門流   立正山     妙 法 寺
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歴史と沿革
御 開 山
開   基
命   尊
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妙 法 寺 の 御 案 内
昭和四十七年建立の妙法寺本堂
  
   歴史と沿革
 
 
 佐治の町はずれ、神楽と遠阪への別れ道にほど近い小倉地内にある立正山妙法寺は、法華宗総本山本隆寺末。開基は足立権太兵衛基則、開山は智願院日上人で天文二十二年(一五五三)の創建である。開山は法華宗真門流の開祖日真上人の直弟子で、天文年間に丹波を巡り岩本の庵室で説法をしていたところ、岩本城主足立基則の帰依を得て足立氏の下屋敷に妙法寺を建立した。

 足立基則は足立堀殿の末流で小倉に居をかまえていたが、その下屋敷五反七畝十七歩を境内として妙法寺を建立、丹波天正の乱では明智光秀に属していた。天正十年(一五八二)六月二日の本能寺の変に参戦、舎弟宗直、子息宗忠とともに翌一月十八日亀山で自害。その法名は源勝院殿日法大居士といい、墓は妙法寺の歴代住職墓地にある。
 基則の妻女の実家は桑山家といわれ、基則は天正十年六月に桑山修理亮重勝の制札を下付させ、妙法寺を外護させている。
 
 
桑山修理亮重勝の制札 天正十年(1582
 
 桑山重勝はのちに豊臣秀長に仕えているが、和歌山城時代に法華寺に隣接する海龍王寺より、南都絵仏師大法眼命尊筆の涅槃像を入手し、妙法寺に寄進した。命尊は興福寺金堂の本尊吉祥天女台座に名が記され、厨子の「七宝山図」「梵天、帝釈天像」を画いた大仏師法眼である。命尊筆のものは昭和四年の「国華」に掲載された藤田家の涅槃像があったが所在不明。海外へ流出したものもあり、国内唯一の美術的価値ある逸品と評価されている。

 また建治二年(一二七六)日進授与の日蓮上人曼陀羅、延徳二年(一四九〇)日真大和尚曼陀羅、天正十一年(一五八三)の開山日画像など二度の大火からも救出した重宝もあるが、建物は享保十四年(一七二九)建立の山門以外は大正期以降で、庫裡は大正期建築をそのまま改修、妙見堂は能勢妙見の本殿を、本堂は夢殿をモデルにしたものであり、庫裡の十二枚の襖絵は小川鉄男画伯の青垣風景である。

  丹波新聞刊 「ふる里の寺」より
 
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御 本 尊



三宝尊像(中央奥) 元和7年(1621)本行寺日圭開眼
中央 内藤雅雲仏師の日蓮聖人像


 法華経は、未来の伝道者として上行菩薩等を上首とする無数の菩薩たちを地中の虚空から湧き出させ(湧出品)、それらの菩薩たちは、何億万年という思いも及ばぬ遠い昔(無始久遠)から、お釈迦さまが教化して弟子とした菩薩たちである(寿量品)と説いています。
 恒河のほとり、菩提樹の下で三千余年前に成仏したと思われていたお釈迦さまは、実は「無始・無終の寿命を持つ救済主」・「久遠の本仏」がこの世に出現した姿であったのです。「久遠の本仏」とは、過去にも始めがなく、未来にも終わりがない永久不変の存在であって、常に悩み苦しみもだえる人びとを教化し救済しているのであり、この「久遠の本仏」が、私たちの「ご本尊」なのです。

 本尊の形態は、本師であるシャバの上に、南無妙法蓮華経の宝塔がそそりたち、その塔の左右にインドに生まれたお釈迦さまと多宝仏とがならび、その横に久遠の本仏の脇士(仏をたすけ、人びとを導く大士)である上行ボサツ・無辺行ボサツ・浄行ボサツ・安立行ボサツという四菩薩がならび、そのしもにモンジュシリボサツやミロクボサツなどをはじめとするインドのお釈迦さまの脇士が四菩薩の従者としてならび、その他のボサツ、他の国のボサツは一般大衆が貴賓席をのぞむような場所につき、他の仏土諸仏は大地の上に陣どっているのである。 (本尊抄)

 この文章を一幅の紙上に図示したのが「大曼荼羅」です。日蓮上人は、文永十年(一二七三)五月八日に「本尊抄」を述作し、そののち十三日たった五月二十一日に、初めてこの大曼荼羅を図顕し、それ以来多くの弟子・信者たちに「ご本尊」として授与され、七百年後の現在でも「百数十幅」にも及ぶ「日蓮上人自筆の大曼荼羅本尊」が伝承されております。文字で書かれたこの「大曼荼羅」を、仏像をもって端的に表現したものが「一塔両尊四士」又は「三宝さま」と呼ばれるご本尊です。

 中央に南無妙法蓮華経と書かれた宝塔が立ち、その宝塔の左にお釈迦さま、右に多宝如来が共に合掌して座し(以上が三宝さま)、その下座に上行・無辺行・浄行・安立行の四菩薩が安置された形が「一塔(宝塔)両尊(釈迦・多宝)四士(四菩薩)像」による本尊の型であります。
 日蓮上人は「本尊抄」で正法時代(お釈迦さま亡きあとの千年間)・像法時代(正法につぐ千年間)の二千年間は、カショウ尊者・アナン尊者を脇士とするお釈迦さまの像や、モンジュシリボサツやフゲンボサツを脇士とするお釈迦さまの像を作ったり書いたりして本尊としたが、その時代には寿量品で説きあかされた久遠の本仏を本尊としたことは一度もないのである。末法時代(日蓮上人の時代)になって、はじめて久遠の本仏の像があらわされたといわれています。

 カショウ・アナンを脇士とし、あるいはモンジュ・フゲンを脇士とするお釈迦さまは、インドで活躍し、インドで亡くなったお釈迦さまである。日蓮上人の意味するお釈迦さまは、もちろんインドで活躍されたお釈迦さまではあるものの、そのお釈迦さまを仏たらしめた本身・久遠実成のお釈迦さまである。そのことをはっきりと区別するために日蓮上人は、カショウやモンジュではなく、地湧の四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)を脇士として表現されました。
 お釈迦さまとはいうものの他の宗派でお祀りするお釈迦さまではなく、私たちの奉ずる「ご本尊」とは、言葉で言えば「久遠の本仏」であり、形で表現するのには、「大曼荼羅」、「一塔両尊(三宝さま)」ということをご理解ください。

 妙法寺では鬼子母神さまもお祀りしています。 日蓮上人は法華経の行者を諸天善神は必ず守ると確信されています。その中でも陀羅尼品には特に菩薩の代表として、薬王・勇施の二菩薩(二聖)と諸尊天の代表毘沙門・持国の二天王(二天)と十羅刹女・鬼子母神がとかれているところから二聖・二天・鬼子母神・十羅刹女を守護神としてまつります。正月に配布しております妙法寺の門札はこれを表しています。
 日蓮上人の十羅刹女に対する帰敬は切実なものがあります。鬼子母神・十羅刹女は、法華経の行者・信者を守る。行者の信念を試すため障害を加えることがある。行者の身替わりとなり、迫害するものを罰する。行者が退転すればこれを許さず罰を加えると考えられていたようです。妙法寺でも御祈祷するときは、霊験あらたかな鬼子母神に祈り祈願するのです。

 
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御 開 山
 
     日脩上人筆の智願院
画像と像賛
 天正9年
(1581)
     

 妙法寺は、智願院日上人により開山されたお寺です。
 上人は、永正十三年(一五一六)にお生まれになりました。
九才の春、当時最も有名であり、学徳ともに優れていた本隆寺開祖、常不軽院日真大和尚の門に入り、剃髪度牒を受けて名を圭讃と改めました。しかしながら、お師匠さまの日真大和尚は、この時すでに八十二才であり、三年後の享禄元年四月に八十五才でおなくなりになったのです。開山さまは、十三才の時に教え親であるお師匠さまになくなられ途方にくれてしまいました。

 そこで同じ日真大和尚のお弟子で「仏像造不之論」を著し、北陸に舞鶴に、はたまた叡山等で学説、徳行の高かった本隆寺第六世証誠院日雄上人のお弟子にして頂いたのであります。御開山さまは、これから約二十年間昼となく夜となく師日雄上人に御給仕されることは勿論、数学を研鑽され、またご自身は質素な衣服と粗末な飲食で忍耐と辛抱をつづけられ、行学とも止暇断眠の修行をつづけられたのであります。やがてその御苦労と御修業がみのりまして、二祖の日鎮上人は御自分のお名の智願院というのを、御開祖さまの日上人にお譲りになって大いに大法弘通、広宣流布に更に精進するよう励まされたということです。

 名実ともに備わった御開山智願院さまは、いよいよ開祖日真大和尚の遺言といわれる「心を宗外の広宣流布に向けて勇猛精進せよ」を実行にうつすときがきたようです。天文十五年三十才のころ御師匠さまの発祥の地、山陰に向かって行脚布教の途に発足せられたのであります。村に人あれば法を説き、野に民あらば法華経を唱え、歩を止めては題目を高唱し法鼓を打って巡錫すること数年に及びました。


 やがてこのご開山さまの御修行の有様を耳にした足立権太兵衛基則という武士が、法門の話をきき、そのお人がらに感服して境内地を寄進し、寺を建てて上人の道場として大信者となったのです。上人はこの寺を妙法寺と名づけ、法華経本門の信行道場とされたのです。時に天文二十二年(一五五三)上人三十才のことでありました。

 さて、妙法寺を開創されました翌年、上杉謙信と武田信玄とが川中島で戦い、また織田信長が今川義元と桶狭間に戦うなど、世情騒然の有様であったのです。天文の初めには叡山の僧徒が京都二十一ヶ寺の本山を焼討にし、総本山本隆寺も堺に非難するなど大変な時でありました。京都に帰られた開山さまは、京都洛北の信者森吉太夫から京都在住の一寺を寄進されましたが、この寺が本久寺であります。森吉太夫は丹波周山の人というのみで、足立基則と関係があったのかもしれません。

 織田信長が足利将軍義昭を京都より追放し、室町幕府が滅亡した天正の初め、日上人は再び山陰地方に巡られ、黒井に蓮華寺を建立されました。更に摂津に行かれ、不惜身命の行化を続けられ、多田満仲の末流で能勢長左ェ門頼高が信者となります。この地に永享八年頃創建された智海坊という小庵があったのを再興して寺を建立、妙法蓮華経を能く持ち奉るということから持経寺と命名されました。そして六十歳の坂を越えられてから本久寺に止住されたと思われます。

 日上人は、本隆寺七祖日脩上人の法兄であり、この日脩上人の書かれたものが妙法寺に残されていますが、それによりますと日上人は二祖日鎮上人の号を頂き、数ヶ寺を開き、これを本隆寺に嘱させ言行能く合致したまことに遊方の大士である。天正十一年五月五日日上人の臨終に際し、枕側に座し、ともに誦経唱題し、永袂の情溢れて衣袖を湿す。とあります。智願院日上人の偉業をしのび、勇猛精進、法華経本門寿量の弘教に不惜身命の願行に励まねばなりません。

                 矢放日城「日上人さま」より

 
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     開山の智願院さま


本堂玄関の小島省斉筆大額 明治3年(1870)

 足立遠政は武蔵の国足立郡より承元三年(1209)丹波に転住し、氷上郡佐治荘を与えられ、それ以来足立氏は専ら佐治郷の経営にあたり、その曾孫遠谿祖雄が小倉村に高源寺を開創した。この高徳の師の法統は長くつづき、また足立一族は宗教心の向上啓発されるもの多く、よって他族に侵されず、他族を侵さず長くこの地の支配をした。

 足利中期より次第に勢力を得てきた新郷の赤井氏は附近の豪族を制圧し、殊に悪右衛門直正は黒井城主となり丹波半国と但馬の一部までもその勢力圏に入り、足立一族も遂にその幕下に加わるようになった。

 丹波志によると、「山垣城主足立彦助の代に明智光秀の征伐により一旦落延び、其の後彦助此所に立帰り山垣殿と云えり」とあり、又、「加茂郷上村足立氏、古えは赤井氏家臣の筋なり」 「牛河内村先祖山垣城主の長男四郎左ヱ門基依、山垣村没落後此所に住す」、などから見ると天正年間の足立一族の中には、一部赤井氏たちの家臣となっていた者もいるが、多くはなお佐治郷郷士として赤井氏または西波多野氏らに従属していたのではあるまいか。
 数年にわたり、幾度となく繰り返された光秀の大攻勢に抗した足立一族は、たとえ本拠山垣落城、諸寺焼亡、家屋焼失などの戦禍を受けても依然として祖先の墳墓の地に留まるものが多かった。

 丹波志によると、「当所郷士、足立氏左ヱ門太夫というもの、真言宗の仏音にて智願院を招き、三日三夜宗論問答し、遂に帰依して改宗す。其の上、足立氏の下屋敷を開山に寄付す。故に、建立一寺のものなり」とある。

 天文年間であるから天正以前で、光秀の丹波攻略戦以前にすでに妙法寺の建立されたことを証明している。各種の郷土史をひもといても、光秀らによる丹波天正の乱において足立権太兵ヱ基則についての記述は殆んど見られない。
 足立一族はこの動乱で、本家山垣殿はじめ、その一族一統の殆んどが或いは但馬に、また遠く因幡丹後へと亡命し、その他現地に留まったものはいずれも帰農したが、不思議にも基則一族だけは別であった。
 それは、その後天正十一年(1583)正月十八日に、権太兵ヱ基則は子息左近進宗忠並びに舎弟弥七郎宗立と、親子・兄弟三人が亀山で自害している事実によって明らかである。

 延々五ヵ年もつづいた光秀の丹波動乱は、天正七年八月赤井氏の居城黒井保月城が落城、同年十月福知山鬼ヶ城の落城で終っている。すると権太兵ヱは、それより四年後自害していることになる。
 赤井氏に代って、斉藤利三が黒井興禅寺を本陣として二万石の領主となり、また天正十年(1582)六月には光秀の謀反によって信長が自害し、その後秀吉の天下となるのであるが、足立権太兵ヱは足立の主流を離れ、その近親者と共に造反者となっている。

 足立権太兵ヱの足立家主流からの造反、いつの間にかできた光秀との主従関係によって、菩提寺妙法寺の安泰と従来からの領地の安堵を得たものの、本能寺の変により勝手知った丹波各地を転々とするうちに、「明智の残党狩り」にかかり、遂に天正十一年正月十八日亀山で三人揃って自害したのではなかろうか。
 権太兵ヱの孫、宗忠の三男にあたる孫兵ヱ尚秀は、当時紀州和歌山藩に仕えていた叔父の碓井重兵ヱ守長を頼って行き、その後町奉行となっている。
                                                        (足立勲記)
 
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