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    鎌倉の絵師 命 尊

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仏 涅 槃 図 の 解 説日 蓮 展 で の 解 説 仏教と女性展での解説 詳 細 画 像


仏涅槃図





 大仏師法眼命尊(みょうぞん)は、大夫法眼快智の孫にあたる南都絵師である。この命尊について従来知られている史料は二点である。一つは、興福寺の吉祥天像台座裏墨書である。

  「興福寺金堂御本尊吉祥天女 御衣木加持并開眼供養導師 招提寺第十代長老慶円 絵所大仏師法眼命尊 木所大仏師 寛慶 奉行僧招提寺知事慶朝 暦応三年庚辰五月晦日 供養畢 同六月一日 自招提寺奉入興福寺」

 本像は暦応三年(1240)に律僧によって造像され、興福寺に奉納されたもので、厨子に納められており、後壁には「七宝山図」、扉には「梵天・帝釈天像」が描かれている。おそらくこれらも命尊の手になるものではないかと思われる。

 もう一つはかつて『国華』四六八号に掲載された図で、藤田家に元亨三年(1323)に法橋命尊が描いた涅槃図があったが、現在は所在不明である。ところが、これとは別にもう一点、命尊筆の涅槃図が現存していることを知った。所蔵者は妙法寺という法華宗寺院である。裏面上巻に次のような墨書がある。

  「正中二年乙巳三月廿三日開眼導師西大寺泉律師 絵師命尊
   南京法華寺比丘尼玄本本尊也」

下部に「南都海龍王寺常住也」とあって、さらに別筆で、

  「文禄三年甲午仲春中旬四日自正中當二百六十六年丹州氷上郡左治庄
   妙法寺常住也」

とある。これによれば、本図は旧藤田本が描かれた翌々年の正中二年(1325)に、旧藤田本が法華寺の尼僧、行施の本尊として描かれたのと同じように、法華寺の玄本という尼僧の本尊として描かれたものである。釈迦の枕もとに尼僧が描かれているが、これは玄本自身の姿であろう。


 妙法寺自体は、天文二十二年(1553)に、当地の地頭、足立基則の創建になるが、明智方についた同人が天正十一年(1583)に自害したため、その後は、妻女の実家である桑山重晴によって外護された。重晴は大和郡山城主であった豊臣秀長に仕えている間に法華寺に隣接する海龍王寺よりこの図を入手し、文禄三年(1594)までに妙法寺に寄進したのであろうか。伝来の詮索はさておき、本図も律僧によって開眼供養がなされている点に注目しなくてはならない。

 西大寺に伝わる文殊五尊は叡尊の十三回忌を期して造像されたものであるが、本尊胎内納入品の大般若経巻五七三の奥書に、「永仁三年三月十日 書冩了 少比丘尼玄本」とある。同じく巻五四七には「永仁六年三月廿四日 書冩了 少比丘尼行施」と行施の名も見出される。
 永仁三年(1295)は涅槃図が描かれるおよそ二十年前である。叡尊を慕う尼僧達が自らの臨終に備えるためにともに涅槃図の制作を発願したのであろう。寸法も描表装を含めて、縦117.2cm、横76.7cmと小さい。

 命尊は妙法寺本の墨書では「絵師命尊」と記されているだけであるが、その前年には法橋位であった。したがって、静恵書状に見える「大夫法眼」は命尊ではあり得ない。

 妙法寺本涅槃図は、正中二年(1325)の制作になるものであるが、金泥を盛り上げる手法、色彩の鮮烈さ、あくの強い人物表現などは、年記がなければ南北朝から室町時代にかけての作品として扱われかねない特色を示している。その点は、吉祥天厨子後壁の「七宝山図」における、鼻を巻きつけた宝瓶から宝珠をまき散らす白象の、笑みを浮かべた生々しい表情に通じるところがある。
 一方、扉に描かれた梵天と帝釈天の方は毅然とした姿勢と、端然とした表情に描かれており、いくぶん雰囲気を異にしている。


            文化庁文化財調査官 宮島新一    



 立教開宗七百五十年記念 大日蓮展




東京国立博物館 平成館

 平成15年(2003)春、東京国立博物館と奈良国立博物館の特別展に、妙法寺蔵の仏涅槃図・命尊筆を出品、一般公開させて頂きました。
 その際の図録に掲載されました作品解説と涅槃図画像をご紹介いたします。

  

  法華経の美術  仏涅槃図 命尊筆  一幅   兵庫・妙法寺(青垣)  

 絹本着色 縦109.2 横80.4 鎌倉時代 正中2年(1325)

 釈迦の入滅を描く仏涅槃図は、諸宗派において陰暦2月15日の涅槃会の本尊とされる。日蓮も『祈祷鈔』で涅槃の光景を述べ、残された者が『法華経』弘経の誓いを新たにすべきことを説いている。

 裏書によると本図は、もと奈良・法華寺の比丘尼玄本の本尊として発願され、南都絵仏師命尊が描いて西大寺律僧がこれを開眼し、のちに隣接する海龍王寺の所有となっている。すなわち本図は、南都の真言律宗における釈迦信仰の伝統のなかで伝世したことが知られる。

 一方妙法寺は、天文22年(1553)に地頭の足立基則によって創建された。基則没後は桑山重晴が同寺を外護するが、重晴は天正13年(1585)まで、大和郡山城主であった豊臣秀長に仕えている。このことから本図は、重晴が南都で入手し、裏書に記される文禄3年(1594)までに妙法寺に寄進したものと推測されている。

 作者の命尊は、興福寺一乗院の松南院座の絵仏師。本図のほかには暦応3年(1340)の興福寺金堂の吉祥天像厨子の画事などが知られる。いずれも明快な作風と細密な描写をみせ、14世紀の典型的な南都絵仏師の作風を示している。

(東京国立博物館 学芸部美術課)



奈良国立博物館 春季特別展

 
女性と仏教 いのりとほほえみ
     

  鎌倉仏教と女性   仏涅槃図    一幅  兵庫 妙法寺  

 絹本著色 縦123.6 横89.6(描表装とも) 鎌倉時代 正中2年(1325)

 背面の貼紙に次のような、製作時期・開眼導師・絵師・願主を記す整った内容の墨書がある「正中二年乙巳三月廿三日開眼導師西大寺泉律師絵師命尊南京法華寺比丘尼玄本本尊也」。

 法華寺の玄本という尼僧は、永仁元年(1293)発願で、叡尊十三回忌の正安4年(1302)に完成した西大寺の「文殊五尊像」の中尊納入品のうち「大般若経」巻五百七十三の奥書に、「永仁三年三月十日 書写了 少比丘尼玄本」と名を記す人である。

 絵師命尊は、暦応3年(1340)に完成した興福寺の木造吉祥天像の台座裏墨書銘に、彩色担当者として「絵所大仏師法眼命尊」と記されるのと同一人とみなされ、鎌倉時代初期に活躍した尊智の直系と考えられる南都絵仏師である。本図の背面貼紙には他に、海龍王寺常住の銘と、文禄3年(1594)の妙法寺常住の銘もあり、伝来が辿られる。

 本図と関連の深い作品に藤田家旧蔵の「仏涅槃図」があり、その背面貼紙には、法華寺常住、元享3年(1323)作、願主は比丘尼行施、絵師は法橋命尊の旨が記されている。行施もまた、「文殊五尊像」納入「大般若経」巻五百四十七を永仁6年に書写しており、同じ環境にいた尼僧二人がそれぞれ涅槃図を、同じ絵師を用いて製作したわけである。

 両本の図様は基本的に共通し、おおむね涅槃図の一般的な形式にもならっているが、寝台の向かって右下隅部に配された、尼僧と認められる二人物が特徴となっており、願意に関わる要素かもしれない。なお行施本には、その方が法量が大きいこともあってか、上記の二尼僧の周辺に女性の姿が多く描かれているのが注意される。

(奈良国立博物館 学芸課)

      

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