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仏道を生きる

 釈尊がこの世にお生まれになったのは、この世の人々に仏さまの悟りと同じ悟りを開かせて、平和で安楽な生き方をさせるためでありました。

 その教えが仏教であり、仏教の根本が法華経です。この法華経を心から信じ、よりどころとして生活しなければ、幸福な人生などありえず、人は六道に流転し五濁の泥にまみれて生きているけれども、心の底に仏性をもっているので、これに気付き、開花されるために生まれてきたのだと日蓮聖人はいわれております。

 正しいことが行われず、悪いことをしても恥とも思わない世の中で生きていても、仏性があらわれ、悪いことは悪いとわかり、善いことは善いとわかる心は信仰で培われてきます。法華経では生きる指針として仏道を根幹としており、諸行無常、諸法無我、因縁果報を説いています。

諸 行 無 常

  すなわちこの世は絶えず変化し、人生も変化する過程に過ぎず人生は短く、人の存在ははかないという無常観です。朝がこない夜はなく、春の来ない冬はないように、良いことも悪いこともすべては移り変わります。それゆえ精進こそ不死への道であり怠りは地獄への道「励むものは死することなし」といわれています。人間は十界互具の身、日々努力し生活習慣を変えることで大きく変わることができます。日蓮聖人は自らの行いを正すことを棚上げしての念仏を否定されています。辛いこと、困難なことにくじけず蓮の花のように清らかで美しい生き方をお題目で本仏に誓い仏道を実践することが大切なのです。

諸 法 無 我

  多くの人の恩恵でわれわれは生きており、単独で生きるものはなく、命を与えられ生かされているので本来「我」というものはない。いつでも相手を受け入れ、感謝する心をもち本来存在しない「我」を主張することなく自然との調和に生き「おかげさま」という素直な心になり、今苦しくても必ず行いを仏道にあわせて生き、自分自身の行いを糺し大自然の法則に生きること」。すなわち私たちは何かの事物や現象を「自分」とか「自分のもの」とみなし我が物にしたいという欲望をもってはいけないということを教えています。 

因 果 応 報

  すなわち世の中のすべては原因があり縁があり、それ相応の結果があるので偶然はないのです。厳正な因縁果報をよく知って己の良心に従い恥しくない行動・習慣を身につけましょう。人は親をはじめ祖父母、先祖の人々の過去を受け継いでいます。自分の生命は自分のものではなく、自分には覚えのない過去を引き継いでいます。その因をプラスに導くものに縁があるのです。正直者が馬鹿を見ることはなく、必ず報いられると説いています。


 日蓮上人は

 「そもそも地獄と仏とはいづれのところに候ぞとたづね候えば、あるいは地の下と申す経もあり、あるいは西方などと申す経も候。しかれども委細にたづね候えば我等が五尺の身の内に候とみえ候・・・」

 と、 自分の幸、不幸の原因は自分の心が地獄となるか仏となるかにあるといわれています。法華経を信じない心が地獄であり、地獄の心になると災いを千里の外より集めることになるし、法華経を信じ、仏の心に従うと諸天善神が寿ぎ、その人を守護するといわれております。

 仏教を信仰するものの誇りと信念をもって社会浄化に使命感を持って実践しましょう。人間の一生は短いものです。人にとって重要なのは何をしたかではなく、どのように生きたかということです。日蓮大聖人の教えにしたがって法華経精神でわれわれ仏教徒は何をすべきかを誓願したいものです。

 善根を積めば善果が、悪業をなせば悪い報いが必ずくるので善根をつんでいれば成仏も間違いないという法華経の教えを信じ、理解し、日々の生活に生かすことを本仏さまに誓い祈る信仰が大切です。良い教を聞き、良い本を読み、お題目を唱えましょう。

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 毎日のおつとめ
 

 ご本尊・ご守護神・お位牌を祀るお仏壇の前に座った私たちは、まず「お灯明・ローソク」に火をともし、お線香に火を点じ、リンを打ち鳴らしてから合掌・礼拝し、おごそかに「勧請」します。「これから御法味を捧げます(読経・唱題します)から、どうぞお出でください」といった意味のご招待の言葉であり、「ご本尊さま、ご守護神さま、ご先祖さま、おつとめをいたしますから、どうぞお受けください」と言上されても結構です。

 「勧請」のつぎには、法華経の中でも重要とされています「方便品第二」「寿量品第十六(自我偈)」、時間があれば「自我偈」は一回に限らず三回繰り返して読誦するのがよいでしょう。

 人によっては「お経のフシがわからないから読経しない」と言われますが、読経は歌謡曲とは違うのですから、上手下手を競う必要はありません。お説教をお釈迦さまにかわって代読するのであり、要するに声に出して棒読みにすればよいのですから、字の読める人は、どなたでも読経し、お釈迦さまの代理をつとめるべきです。もちろん、大勢の人と一緒に読経する時には「そろえる」ために、伸ばす所、ちぢめて読む箇所がありますので、覚えるときにはそのフシも覚えこむことがあとあとのためには便利であるのはいうまでもありません。

 皆さまの多くは、「勧請文」と、終わりに述べる「祈願文・回向文」を省略されているようですが、他家を訪問するとき「こんにちは」と挨拶し、用件がすんでから「さようなら」と言って帰り、来客があれば「いらっしゃい」に始まって「お気をつけになってお帰りください」で終わるのと同じく、おつとめの場合にも「勧請」し、「読経・唱題」し、「祈願・回向」するようにしましょう。

 時間がなくて、おつとめできない人は、献灯・献香し、リンを打ってお題目を三回となえて拝礼するだけでもやむを得ません。時間のあるときは、お題目だけを二、三十分間となえるよりは、勧請・方便品・自我偈と形の整ったおつとめをした方がよいのです。

 最後の回向は、一番簡単には「ご本尊さま、ご守護神さま、どうぞお守りください。ご先祖さまがた、どうぞ成仏してください。南無妙法蓮華経」でもかまいません。

  
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理想の家庭


 仏教は家族のことをどのように考えていたのでしょうか。仏教は家族制度の伝統のうえにたって、社会倫理の基本的な考え方、すなわち平等と慈悲と報恩を実現しようとしています。
 「親を尊敬すること」「親に仕えること」は子のなすべき務めとしてインド仏教以来強調されていますが、仏教は世俗的な孝行よりもっと高い境地を目ざしています。

 日蓮聖人が「一切は親にしたがうべきであるが、仏になる道は、親にしたがわないことが、孝養の本である」と主張されていますように、仏教本来の出家が、世間的な孝行より優位にたつことで「孝養の本」であるというのです。

 原始仏教聖典に釈尊は「子どもたちが、人々のよりどころである。そして妻が、最高の友である」といわれています。夫にとって妻は最高の友であり、子どもがよりどころであるのですが、そうした幸福な家庭をいとなむための教えとして『六方礼経』があります。それには、夫が妻に「仕える」のに対し、妻は「夫を愛する」こと、夫婦とも「不邪婬戒を守る」こと、夫は妻を「尊敬する」こと「軽蔑しない」こと、妻に「権限を与える」こと、「物質的にも愛情を示す」ことが説かれ、妻には「家事をよく処理する」こと、「集めた財産を守る」こと、「なすべきすべての事がらについて、巧妙にしてかつ勤勉である」ことが説かれています。

 さらに夫婦の理想像は「夫婦とも信仰あり、親切であり、身を慎んで、法にかなって生活し、互いにいとしいことばを語るならば、福利はいやまさり、平安な幸せが生まれてくる」と説かれています。

 親子の関係については、子に対する親のつとめとして、「悪から遠ざけ」「善に入らしめ」「技能を習学せしめ」「似合いの妻を迎え」「適当な時期に相続させる」こと、また子の親に対しては「親に養われたから親を養う」「かれらのために為すべきことをしよう」「家を存続しよう」「祖霊に対し供物を捧げよう」というつとめを説いています。

 報恩が大切で、親に対する奉仕というのではなく、自らの自然な気持ちで自発的になされることが説かれていて、仏教の報恩思想から、先祖より受けた恩恵にも感謝の誠を捧げるのは当然とされています。 原始仏教経典にすでにこのような家族の倫理、夫婦の倫理が説かれているのですが、われわれ現代人の家族のあり方を考えるとき、教えられることばかりです。

 親子の関係は友人のような横の関係ではなく、家庭での幼児期からの躾が大切なことはいうまでもありませんが、親も子も個人主義や自由主義を自己流に理解して、利己主義や放縦主義に流され、自己本位で身勝手な生き方をしてはいけません。

 自分自身の倫理、道徳的心情または信念をもち、最も信頼できるはずの家族や親戚を大切にし、親は親、子は子であることを再認識すべきであると説いています。

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人 間 関 係


 人の一生は不思議なものです。人は生まれようとして生まれてきたのではなく、親のもとに生まれていたのです。そして、養育され成長しますが、与えられた生命を大切に生きるとしても、自分では予測できない死がまちかまえています。親の精子と卵子の結合で生命は誕生するのですが、数多い男女のなかからどうして二人は結婚し、子供の親となったかは不思議な縁としかいいようがありません。

 「袖ふりあうも他生の縁」といいますので偶然でなく、すべて前世からの因縁によるのかもしれませんが、まことに不思議な縁により結婚し、「子宝に恵まれ」て親となり、新しい生命を養い育てます。「子供を作る」などといっていますが、子供は親の意思どおりになるものではなく、「授かったもの」であり決して親が自由に支配できるものではありません。そして、親にも両親があり、その両親にも親がありますので、2人、4人、8人と親の縁が増え、そのいずれが欠けても自分は存在し得なかったということになります。その数は先祖を遡っていきますと限りなく増加し、鎌倉時代まで遡って先祖を探すということになりますと億の数の人との縁につながることになってしまいます。

 このように人は無数の縁によって生まれ、成長し、社会で生活して生きる存在で、縁によって生かされていますので、仏教では「縁生」といっています。「死」によって消滅するはかない存在ではありますが、生かされて生きていることを知り、有縁の人と相互に扶けあって生きる以外の生き方はありません。そして同時に、あらゆる人は一人として同じ生命をもつということのない個性的存在でありその意味で、一人で生まれ、一人で生き、一人で死ぬ存在でありますので、自分の一生は自分で責任をもつということになります。

 人は、はかり知れない無数の縁によって生命を与えられていますので、自分は「生きている」というより、「生かされている」という自覚のある生き方が大切なのです。

 『無量寿経』でこのことを「人は、世間愛欲の中にありて、独り生じ、独り死し、独り去り、独り来る。行いをおうて苦楽の地に至り趣く、身自らこれをうく、代る者あることなし」と述べていますが、無数の縁によって生命が与えられ、生かされている、唯我独尊としての自己であることを自覚して生きることが大切であると教えています。無数の縁と無量の恩恵をうけて生きて生かされている自覚があれば、先祖を想い先祖を語ることになるのです。  

  仏教は自分の心に安らぎを与え、相手に思いやりをもてるよう先祖供養を通じて「慈悲心」を教えてきました。希薄な親子関係の子供が、希薄な友人関係となるのは当然で友人を思いやる心は育ちません。やはり親は「やるべきことはやれ、わがままはゆるされない」としつけ、機会の平等な社会で生活するのだから「努力することをおしまない人になれ」とさとし、「絆」という人間関係に支えられて生きられる社会的動物であることを教育しなければなりません。誇りもなく、自己責任の意識をまるでもっていない利己的な親から反社会的な行為をする子供が育ったとしても、本人だけの責任ではありません。

 
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先祖のこと


 祖先崇拝は日本人の日常の中にあり、道徳的な規範の根元として永い間日本人の伝統的な生活信条となっていました。
 「先祖さん」をまつることは子孫のつとめであり、先祖をまつることで日々の生活の平安をさずけてもらうと信じているものが多いのですが、神でも仏でもない先祖さんというのはどのような霊なのでしょうか。

 このことについて柳田国男氏が「先祖の話」を書いています。それによりますと、先祖という言葉は二種類の意味で使われていて、「家の最初の人ただ一人が先祖であり、古い時代に活きて働いていた人のこと」で自分達の家を創立し家の基本をきずいた人であると思っている人と、「先祖は祭るべきもので、自分の家で祭るのでなければ、何処も他では祭る者の無い人の霊、即ち先祖は必ず各々の家々に伴うもの」と思われているものとであります。

 もう現在ではそんなことは云わなくなっていると思いますが、昔は早く立派になってくれという代わりに「精出して学問をして御先祖になりなされ」といって子孫をはげましていたといわれます。これは遠い昔の先祖ではなく、家を興隆させたり、分家して独立する能力をもつ子供に将来を託するということで、古い先祖ばかりが先祖ではなかったのです。

 家の根を太くたくましくするため長子家督相続をすることにより、長男は家代々の先祖を祭り、まつりごとや法事を盛大にすることがつとめであるとする家と、子供達に分割相続をさせてどの子も幸福にしてやりたいとの考え方は昔からありました。
 次男以下は分家させて新しい家をたてさせ先祖になればよいというのです。更に能力があり独立できるのなら長男が家を出て、次男以下が本家をつぐということになり「先祖さん」になることを期待したようです。

 人は死後祭ってもらいたいという念願、死後も敬愛されたいという願いがあります。そこで子孫は祭る先祖を限定したわけで、本家の先祖は祭らなくてもよく、祭られない先祖をどこかで祭ることはしてはならず、正統嫡流が、先祖伝来を祭る資格があり、分家にはその資格がなく、分家の最初の人を先祖とすればよかったのです。

 このように家というものも、人の一生と同じで天寿のようなものがあり、古い家系が消滅して、分家が勢力をもち、その分家もいつか消滅して、分家の分家が栄えて、それもいつの日か消滅するという歴史をくりかえしています。


 家を永続させたいということも古来よりの願いでありました。「積善の家には必ず余慶あり」といわれ、善行を積み重ねていく家には、必ず後の子孫まで慶びが伝わっていくという意味ですが、「人知れず徳を積んだ者には、天が幸福を報いとして与える」といわれています。陰徳というのはめだたぬよう、きわだたぬよう生きて徳をつむということで、これが家を永続させたのかも知れません。

 「家」の制度は鎌倉時代の武家社会で発生し、織豊時代から江戸初期にかけて発達し、広まったとされています。現在ある寺院の大半が、郷村制の成立とともに創立されていますことと関連しております。武家をはじめ、農民や町人による家の形成により、その祖霊を祭る寺が建立されていったのです。

  日本の仏教が、家の成立により、その先祖崇拝とともに発展し、先祖崇拝が「家」の成立と深いかかわりをもったことはいうまでもありません。先祖崇拝は古くから伝えられている「先祖の祭り」で、先祖、祖先、祖霊ともよんで「先立てるミタマ」を祭ります。父の父を「祖父」、その先代を「曽祖」、さらにその先代を「高祖」ともいい、さらに古い先祖を「太祖」ともいっていますが、家の直系の先代すべてを祭ることが伝承され、家長の責務でありました。

 一般に農耕民族は、死後の生活を信じ先祖を崇拝する習俗をもっています。農耕は種まき‐発芽‐開花‐結実‐枯死してもまた種から再生しますが、同様に人も誕生し‐成人‐結婚‐子供の出産‐老化‐死となるので永遠に回帰し再生すると信じられました。そして山、森、樹に祖霊がやどり正月や盆には先祖さんが帰ってくるとされています。

 しかし、この先祖とは別に、家の連合体である同族の共通の先祖を根本先祖と考え、神としてお祭りしたのです。その根本先祖というのは、家父長的「家」の制度が確立した鎌倉時代の武家社会の中で発生したといわれています。

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先祖供養


 どんな人間にも必ず先祖はいます。しかもさかのぼって数えると無数の先祖の人々がいて、その血がどんなに薄くなっても子孫の一人である自分に流れていることは否定できません。このように気付いた時、先祖に対する感謝の気持が自然に湧き、それがやがて、尊敬や崇拝の念に変わっていくのです。
 「おかげさま」という言葉によって示されている言葉の中に、今日の自分をあらしめてくれた「ご先祖さま」に対する崇拝感謝の気持がふくまれています。

 人間にとって最も悲しいことは、自分が死ぬことよりも、自分が愛し大切にしてきたものを失うことです。特に自分をこの世に生まれさせてくれた父や母を失うことは人生の最大の不幸です。葬式や追善供養が単に死者だけのものではなく、生き残った者の死者に対する感謝、尊敬の気持を表現するのが供養です。これと同じ感情が、すでに過去に死去された祖父・祖母とかその先代とかにおよぶ時、先祖全体に対する追慕・感謝・尊敬といったものを表現するのが先祖供養です。

 すべてのものの悟りを目指す仏教の考え方では、単に個人の悟りや、個人の成仏だけではなく慈悲が大切となります。そこから死者が輪廻転生の世界で苦しまないため、生き残ったものが善根功徳を積み、それを死者に回向することによって死者の冥福を達成することができるのです。

 人間としてこの身を生かさせて頂いたことに対し先祖に対する感謝を表現することを通して、生きていることの意味を問い、やがて自分が先祖になって子孫が幸福になってくれることを念じられるようなものとして永遠の生命を生きたいと誓うことが供養です。

 日本人は古来、先祖の霊によって守られていることによって幸福な生活を送ることができると考えていました。彼岸とか盆には先祖の霊が帰ってくると信じられており、迎えるために迎え火をもやし仏壇で充分おもてなしをして、再び送り火によってあの世に帰ってもらうという風習がありました。墓まいりも同様で墓へ行って供物・供花・読経・焼香などして供養するのです。死者の霊は一定の期間を経過してこの世の穢れが浄化されてホトケ≠ニなり子孫を守ってくれるのです。

 死後、枕経・通夜・葬式・初七日から四十九日・一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌と続き、五十回忌の法事を営み、縁者と共に読経することにより亡霊は浄化され、よい世界に転生すると信仰されていました。死者の追善・回向・冥福を願ったのです。

 しかし縁者といえども、感謝や尊敬の念のわかない死者に対しては追慕や追善の気持ちが起こるわけはありませんので「家」の習慣がなければ、そうした気持と無縁になってしまいます

 祖先崇拝は「家」にたいする帰属意識のない家庭には祖先に対する供養は心のこもったものにはなりません。自分の先祖を祭る習慣をもたなければ、自分が何時か祭られるようになったとき、子孫がおまつりをしてくれたり、冥福を祈り回向することを期待するのは無理なことです。

 家は親が子に対し、子が親に対して抱く無償の恩愛の情を育む場で、生存の基本であり、人生にとって最も大事なものであります。家族がおたがいの人格を認めあい、尊敬と愛情をもって生きることが大切ですが、そのためにはすぐれた精神性も必要なのです。

今の社会で再認識されなければならないのは、家族は新しい世代を生み育てる場であり、共同で消費生活をする場であり、意欲的に生きるための精神的な安定を得るいこいの場でもあります。何より子供たちにとっては人格を形成する場でもあり社会発展の基礎になるのが家庭であることに変わりはありません。その家庭に道徳的確信もなく、親子関係の倫理もなくなってきてしまっています。

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お盆の行事


 お盆の行事は、人間の美しい心、思いやり、いつくしみの心がこめられております。お盆には今はなき先祖さま、父母、妻子が生家にもどってくると古来考えられ、心をこめて御精霊さまをお迎えします。

 道に迷わないように迎え火をたき、墓には、盆灯籠をつけ、精霊さまが馬に乗ってお帰りになるというのでナスに割箸の足をつけ、とうもろこしの毛を尾にして馬を作り、野菜や果物を供え、喜びの対面が細くても長くなるようソーメンを供えしたり、ナスやウリ、洗米で作った百味飯食を無縁の精霊さまにお供えし、棚経をあげてもらい、亡き人に語りかけ、過ぎし一年を振り返る行事なのです。

 お盆は、七世紀頃から始まったようですが、何故こんなことをするのでしょうか。それは死者に対する恐れと、追慕の情からこんな風習が生まれたのです。葬式や法事は死霊の冥福、追善、回向であり、それを三十三回忌まで済ますと、この世の穢れが浄化され、「ホトケ」となって子孫を守ってくれるとされ、感謝、報恩のお祭りをするようになったのです。

 法華経は、正しい教えを実践することを通じて、正しい智慧を得て、それにより悟りの状態となり即身成仏すると説かれており、個人の悟りのみではなく、すべてのものの悟りを目標としています。

 この世を去った精霊も輪廻転生の世界で苦しまないために、生き残った者が功徳を積み、それを死者に回向することによって、迷いの世界にいた精霊は成仏することができるとされています。

 人間にとって最も大きな悲しみは、自分が死ぬことよりも、自分が愛したものを失うことです。肉親の死はとてもつらいことです。子や孫の死は、もっと悲しいことです。

 一人の人間としての、「生命の不思議」に対する感謝の表現が供養であり、今は亡き親しい方が死後の世界でただ一人で餓え渇き苦しまないようにと願うのが慈悲の心です。供養は生きているものにとって死者に敬愛・報恩の気持ちをつたえる唯一の方法です。

 先亡の供養は心から感謝の念をささげなければなりません。やがて自分も死する時がくるが「迷い」の世界に入らない努力を先祖に誓うのです。先祖をまつることは自分の足元を見つめ、自分の生活を守ることで、子孫の未来を開きます。年忌の供養も大切にしなければなりません。

  
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