「茨城県相馬郡利根町の部落」(聞き取り)

「部落の過去と現在」
ー北相馬郡利根町Y部落の歴史ー

 はじめに
 皆さんのお招きを受けまして、これから私たちの過去と現在の姿について概略を申し上げたいと思います。
 私は、利根町布川の高橋牛松です。昭和六十年五月二十四日で満七十二歳になったところです。

 利根町の地形
 これから、利根町付近の古代の姿を概略申し上げます。この付近の地勢というようなものからいきますと、いろいろな書物を見ますと、地殻変動の断層による起伏によってできたというのがこの辺の状況なんです。それで埼玉県方面からの低いところの切れたところが川になってきておる。 それから一部隆起したところが丘になる、低いところはこの布川の台の先まで湖になっておったというのが現実なんです。
 なぜそう言いますかというと、東前から谷原にかけて、土手福木付近にかけて、堤防があったんです。かんざし通り。これは羽中の方面が湖であった時に布川の城下町へ水が入らないように造った堤防なんです。それが不要になったんで今は土をとってしまってあるが、それがはっきりしているわけだ。立崎という地名、崎というのは、この湖の中に出た先をいうんです。竜ケ崎、江戸崎、角崎とかいうのは岬のことを崎というんです。それが地名になって今残っているわけです。 この利根町にも立崎という一地名がある、立木の台からつづいて、現在より、もう少し高かったんだけれども。そういうような状況でおかれておったんです。

 布川城との関係
 平将門が関東を平定して、一時武家政権が立とうとした時に、藤原秀郷に倒され、武家政権が成立しなくなってしまったという時に松戸の小金井城へ平定の根拠基地を置いた。 いわば監視所という代りに布川城というものを築いたんです。布川の城山へ。 これは松戸市史って、松戸市で発行している市誌の中に小金井城の中に記録されています。百五十騎くらい動員できると、布川城は。そういう記録が残っています。
 松戸の小金井城の出城だった。それで、当時として、ここを主宰する人は紀州の豊島一族である紀州の豊島紀伊守を主宰者として布川城の監視に当らせ、ずっと続いていたらしいんです。
 徳川が政権をとるに至って、豊島一族とはあんまりそりが合わなかったらしいんです。それで布川城は廃止されて徳川の直領になって、その名残が今、天地っていう、今は堤防の少し先、利根川になっているが、旧図を見ると天地という字が残っているんです。だから天地っていうのは天領のことで、いわゆる徳川の直領だった、今でいう官地っていうんです。今でも天地、天地って言ってますけどね。明治二十二年に作った図面の字にもなっているんです。天地っていう字。
 豊島一族がここで支配しておったわけですが、おそらくその時に徳満寺も造ったんでしょう。それから布川神社もその時に造った。 それから山王のお宮なんどもみんな造ったわけだ。
 それで徳川も気に入らない連中だから、自分の領地にしちゃって廃止しちゃった。その後、下妻におった多賀谷っていう、多賀谷城の城主がおったわけです。 それが徳川と別懇にしておって、それに文間郷は譲ったわけです。文間郷と野田の梅里城を譲ったわけなんです。
 先祖にあたる三人兄弟は今の水海道市のY地区に住んでいたらしい。 横曽根城に所属して住んでいたんだが。その一人を梅里城に、二人を布川城へ、文間郷へ派遣になって、こちらに移り住んで、それなりにここに住んでいるわけなんです。

 江戸時代の仕事
 長吏職というのは、皆さんご存じだと思いますけれども、現在の警察と刑務所の監視の職、合体にした職業なんです。明治維新になってから、各町村に駐在所を置くようになったんで、失業してしまったのです。 それから、刑務所の仕事は土浦とか水戸に持っていってしまって、完全な失業者に陥ってしまった。こういうのが実情なんです。
 当初、この徳川が支配している時までは、長吏職は豊島紀伊守に仕えていた長吏職がいたわけです。それは、内宿の幼稚図の前辺りに住んでいたんですが、僕らの先祖がここへ来ると同時にどこかへ行ってしまった。現在失業しちゃっているから。僕らの先祖は多賀谷領になってから、ちょうど今の高津屋の跡っていうのがあるでしょう。あそこに住んでおった。その時は二軒しかなかったわけです。 兄弟二人、二家族が住んでいました。それからあと、A地区に移ったんですけれども、その時も二家族しかいなかった。その二豪族でいわゆる警備とか犯罪人の監視とか、そういう仕事をやっておったわけです。牢屋は記念館の南側に宅地があるでしょう、あそこに細長い建物で牢屋だった。あれが犯罪人を入れて置く牢屋だったのです。
 それからーに移ってから、今度はTさんの屋敷へ牢屋を変えたわけです。 明治になって壊してしまった。
 ここの文間郷の刑場というのは押付新田にある鶴殺し山って俗に言っているでしょう、あそこが刑場なんです。刑の申し渡された、死刑の宜告を受けた人を処刑する場所なんです。そういうの、刑場の管理であるとか、牢屋の管理であるとか、あるいは今の交通警察のような、又渡船場等は、夜何時から何時までは鎖かけて鍵かけて、鍵の開け閉めもやる。そういうの全部やっておったわけです。
 それから、徳川時代には馬とか鶴とか、禁制されたものを殺したりなんかするというと、一族郎党死刑になったわけです。 それで、馬の場合など農家では、使えなくなった馬は死ぬまで飼いきれない。 そこで、村々に馬捨て場というのを置いてあったわけです。 これは官地で、そこへ持って行って繋げば政府へ渡したことになる。 それを毎日巡回しながら、いれば使用人を使って処分して、今の東京へ、その当時の江戸へ皮を持って行った。何にするかというと、鞍とか馬具や靴など、今で言えば兵器になっていたわけです。統制してあったわけです。
 私たちの先祖は二家族だったんだが、この文間郷の場合にはそんなに仕事はなかったらしく、何人かの手下を使っていたらしいけど。その手下っていうのは、今で言えば、なにかの罪を犯した場合に罪によっては長吏職預けっていうのがあったわけです。長吏のところで働いて、二年とか三年とか五年という期間が来れば元に戻れるという処分の仕方なのです。

 強制移動
 内宿にいたんだが、ちょうど布川の大火があった、何年か僕忘れましたが、徳川の時代に大火があったわけです。長吏預けになっていた、箸金っていう俗に呼んでおったそうですが、仕事の無い時には箸をこしらえて、竹細工をやっておる人が火元で焼いちゃったというので、その責任をとらせられて、今のA地区、その当時野原になっていたらしい。そこへ移動、強制移動。その時は二軒だった。はっさりわかるのは、最近までその家が建っていたんです。それは現在N君の建て替えた家が一つ、僕の本家なんです。それとS君の本家の二軒だけだったんです。ちょうど内宿に住んでいたものですから、氏神様も近所に祭るし、それから死んだ人間も葬るということになっていたわけです。

 先祖の墓石
 私たちのこの多賀谷領へ来るまでのずっと先祖っていうのを申し上げますと、源頼朝が幕府を建設する時に奥州の藤原を攻略し、そのときに必要な人員を全部捕虜として連れてきて、各城へ配分した。その一員だったわけなんです。なんでそういうことが言えるかというと、口で以って伝えられてきている、代々。それと氏神も八幡様なんです。内宿にある八幡様は私たちの氏神様なんです。今は立派なお宮が建っていますけど、僕らの子供の頃には石だけしか建ってなかった。終戦間際に八参りをして歩き、おさい銭あがるんで、内宿の人らが、それをもとにして寄付をもらって、作り替えたんです。Iさんが肝入りで。その時あのあたりにあった石やなにかみんな、下の基礎に入れちゃってある。
 僕が子供の頃見たときには、家のじい様からずっと口頭で聞いているけど、その時に多賀谷領長吏源ェ門だれそれと書いてある四角な石が建っていたわけなんです。あすこに。それは下に入れているわけなんです。 八幡様の下へ。僕の言うことが本当かどうかは掘ってみればわかるはずです。 あすこに小さい八幡大菩薩って書いた石が二つばかり建っているんです、木の下に。われは明治維新の時に機構が変ったんで、釈放になって帰った人の一族がお世話になったというので、建てた石なんです。あれには苗字と名前刻んであります。あれは八幡大明神て書いてあるから土の中に入れられなかったわけだ。なぜ四角な石に多賀谷だれそれって書いたかというと、僕らの先祖は、先祖がわかることを非常に支配者が嫌がったわけなんです。復讐される恐れがあるから。それで、墓石を建てることを禁じられている。全然墓石が後世に残すものがない。それで、早くいえばキリシタンが隠れキリシタンというように、いろいろな仏様を前にやって裏へキリシタンを祭ったというふうに、四角な石に多賀谷だれそれって名前書いただけなら墓じゃないから。それが完全な墓石なんです。それが僕らの先祖の墓石なんです。だから八幡様も祭ってあるし、死んだ人間もそこへ、戸数が少ないから理めていたわけです。今の八幡様の所がそうなんです。

 白山様  
 白山様っていうのが今、向こうにあるでしょう。あれは徳川の氏神なんです。白山様はね、徳川一家の氏神様なんです。それを、徳川に忠誠尽くすように、ちょうど戦争中に伊勢の大神宮様を祭らしたように、白山様を強制的に祭らされた。それで白山様をまつっているわけなんです。ところが、A地区の方へ強制移住させられても、自分の氏神様を持って行かなかったし、白山様を置いて行くと処分されるから、白山様だけA地区へ祭ってある。わらでちょっと囲って祭っていただけなのです。明治二十何年か三十何年かに、石のお宮を僕のじい様が世話人の時に建てた。内宿にある白山様は明治七年かな、内宿の方が古いんですよ。

 何故、長吏職を
 元々から言いますっていうと、頼朝に攻められた奥州の藤原の一族が、おそらくこの上の方の人達はみんな首切られちゃっている。 これはもうはっきりしているから。下の方全部もう家族諸とも、こちらへ越して各城へ配分して、いわゆるいやな仕事だけれども、なければしょうがないという仕事、一般の町民ではどうしようもないと、やはり刀を持っていた人でなけりゃどうにもならないというような仕事をやらせるようにしたんだと思います。 それで代々世襲でやってきた。ここの場合でいうと、この区域がちっちゃいから、文間郷っていうのは、そんなに人手は要らなかったらしいんです。それで、二家族とそれから多少増えたこの家族でもって、何人かはこの部落預けになった人を使って、やっていかれたわけなんです。
 よその部落の場合はというと、その預けられた人がたくさんいるわけなんです。ちょうど多賀谷領から堀田領に変わったわけなんです。堀田は徳川とは血筋のつながっている系図ですから。 堀田の方へ今度、譲らせられるわけです。で、長吏職はそのまま引さ継がれ、明治に至るという。
 明治前に源兵衛、源兵衛ってこう言ってるんですが、その家から分かれた長男として生まれたのが、せんぞうっていう僕の先祖なんです。長子相続ですから婿をもらってあとたてて、次男坊の傳蔵っていうのがYの先祖になっている。これに源兵衛、それからKの家に半四郎っていった、これは今、系図は三里塚行っちゃっていないが、あとは残っている新兵衛って一番古い半四郎家の新宅なんです。

 収入がなくなった
 それから明治になってからも、給料はオミットされるし、給料っていうのは今でましたから言いますけれども、今の場合だっていうと役場からくれるわけです、あの給料は。当時は農民から出させた。給料はくれないんです。羽中の部落で米、何斗何升に銭幾ら、立木の部落で米なんぼに銭いくら、中谷の部落でいくらというふうにこう割って、この長吏職の給料を、年間の給料を部落に割ってやったんだ。 それを正月に、正月にみんな休んでいるから、その時に、うちわ、太鼓を持って祝いごとを唱えながら集めて歩く。で、そのときの服装はね、ちょうど今の十手を差して、羽織りをちゃんと上に着て、尻をはしょる。岡っ引きの支度だったわけ。それで長吏預けになった人たちに袋をかつがし、それが正式の姿だったわけです。だからもらって歩いたんじゃない。どこの家はいくら、どこの家はいくらって決っていたわけなんです。そんなわけで給料も明治維新によって無くなったわけです。
 収入が無くなっちゃって、収入が絶たれたとこにもってきて、今度は、これは我々のとこだけでなく、日本全国が、子供が生まれたのを間引くことを禁止されたわけです。だからもう子供は生まれ放題、収入が無くなっちゃった。これはもう貧乏の元で、どんなに碩張ったってこれはもう裕福な暮らしはできない。 そのために戸数も急激に増えちゃったわけです。だから子供を育てるために、あるいは、自分らが生きていくために、その時、その時の収入ある仕事をやらざるを得なくなった。山芋が芽出れぱ山芋掘りやる、竹の子が出て皮落ちれば竹の皮買いやると、どじょうがとれるようになると、どじょうとりやる。今度冬になって、何も仕事がなくなったら犬殺しでもやる。 これは明治以後なんです。明治前は生活に追われるような状態ではなかった。今の警察官以上の生活してたと思う。これは、家の造りから見て言えるんです。

 一般から嫌われる
 で、なぜこういうような、差別的なあれが出たかっていうのは、これはもういわゆる支配者の敵なんです。だからこれが、一般民衆について来るなんてことになったら盛り返されるんで、一般から嫌わせるように支配者が指導したというのが根本なんです。 一般の人は何にも知らないから、それに迎合している。 それで、明治以後に貧窮のどん底に入っていた。なお差別以外の嫌われ方もするようになった。
 もともと、百姓でなかったから、明治以後は先程申しましたように、非常に生活に困窮しまして、日雇いをしたり、いろいろなその時その時の商売をして、増えてきた子供はもう、所帯持たせる、一つ屋根に小屋っこのような家を建てて住むというような状況になって、この終戦直後まで、十何軒も人の屋敷通んなきゃ辻路へ出られない家があったわけです。 で、農地解放の時に、農地整理のときにS氏に話して、門口をつけてもらった。今一軒だけになっちゃったけれども、それだっていらねいからっていうのでそのままになっちゃっているわけなんです。だから、ごっちゃりしたところへかたまっている。道路も農地整理の計画を変えて、部落の周りへ道路をつくってもらった。曲がっているでしょう、二・三本。真っ直ぐでなく。曲げてもらったわけです。 そういうような状況が僕らの部落の姿なんです。

 農地解放の影響
 農地解放当時のことを、ちょっと申し上げますと肯うと、大体二十戸の農家が約十一町位の耕作だったんです。 二十二戸。だから寡少農家だったわけです。その各々の農家がいまいったようにいろいろな副業をしたり、ひよどりをしたりして生活してた。純農っていうのは二、三軒ほかなかった。で、それから出る年貢っていうのは、約二百俵。年貢、あの部落から外へ出ておった。 それが農地解放によって、全部中へ残る。諸経費を今の米のあれから換算するというと、五十俵あるというと大体賄えるんじゃないかと思う、自分の士地の中で。だから、百五十俵というものは土地へ残ると。それが三十年間ということになった。 だから相当生活にゆとりはできているわけです。 これはX農地解放のおかげなん℃す。自分の努力じゃない。

 初の行政施策
 今までのこの、Yの都落に対する行政関係の施策っていうのは、初めて小池赫山氏が町長になった時に、今の道路を改修したのが、初めてなんです。 あの当時はあの部落の人は一人もタッチしないんです。なぜタッチしなかったかって、タッチしてもらう金よりも、他の商売した方が金になるんです、兎飼いするとか、鶏飼いする人とか。ほとんど下柳宿、上柳宿の農家の人々が、土運んでこしらえてくれた。
 それがその時に初めて、あの白山様の前のコンクリで造られた橋も、造ったわけです。それまでは木の橋だったんです。なぜ木の橋になっていたかというと、あの周り全部農道からなにから全部石の橘架かっているんです。 これは、徳川時代に石の橋にしてある。なぜ木の橋がかかっていたかというと、管轄違うんです。 長吏の住んでる場所は直接江戸で管轄していたんです。 この文間郷で管理してたんでないんです。だからほら、橋でもなんでも周りはみんな石、三尺の道路でも石かかっているのが木の橋のままなんです。僕ら小学校行くのに木の橋渡って、水出ると浮かんじゃって通れなかったんだから。初めて小池赫山氏が町長になった時に、改修してくれたのが初めてなんです。
 それとこの、区として認めてもらったのは、僕が要請したんてすが、亡くなった今の町長の親、鈴木さんの親が在郷軍人会長している当時に、あの人に頼んで小倉町長にお話ししたんです。 これ下柳宿の一角なんです。下柳宿で管理。ところが下柳宿も大仕事なんです。
 それで、そのころいろいろ渡りをつけたりなんかした結果、いいということになって、独立区として認めてもらった。初めて、その時にA地区と三番割が独立区として布川町内にできたわけなんです。
 で、農家組合関係(農業会関係)は、やはりあの時分一つで、三番割まで猫いらずでもなんでも持って行かなくちゃなんなかったわけで。それだからなんとかしてくれってわけで、久保田さんの今の親父さんの親がね、役員やっていてなんとかA地区はA地区でやって、三番割は三番割でやってもらわなきゃ、どうしようもねって言うわけ、手間くっちゃって。 それで農家組合をつくって、私が初代の責任者になって、独立したんです。 そういうような形なんです。

 何故、差別が
 むしろこの、口頭で差別するとかなんとかなんていうようなことは、僕らの子供の時代にはしばしばあったわけですけど。 で、これは教養水準の低い人ほど多かったようで、こういう事態がわからないから。 教養水準の低い人がほとんどそうだった。だからむしろ、こうだああだって責めたってわかんねような連中ばかり。 これはこのね、部落差別の問題だけでなくね、これは全体的に人間の通用性なんです、人をみくびるだなんて。それが修養を積むに従って、ねれてくるっていうのが、これは。だから水準の低い人なんです。 だからむしろ哀れむべきなんです、そういう人たちは。

 一向宗の寺
 ちょっとお寺に関係したことを申し述べておきますが、お寺の場合は多賀谷領にいた時には、横曽根のお寺の名前ちょっと忘れたが、一向宗の寺があるわけです。水海道市のY地区っていうところに、一向宗の寺が。 そこが檀家なんです。ここで多賀谷氏の長吏として移ってから遠いので、今のように自動車もなんにも車もあるわけで無いから、とてもほら遠いので坊さん来るにしても、容易でないので同じ宗旨の羽中の一向宗の寺へ預けられたわけです。 で、羽中の寺の檀家になっていたわけです。 が、家の隠居の話では、羽中の寺の総代に出てたわけです、一人。半四郎っていう今のK姓なのっている家から、総代出てた、檀家総代。うちと下柳宿の廻船問屋があった。 肥料とか米穀とか扱っている廻船問屋やっている、それが成金になってきたんで、総代に出てきた。 そしてこの、檀家総代の席の下の方なんだ、新しいから。ところが金できてきたんで、上へ座りたくって年中この喧嘩しちゃ、半四郎と年中衝突してたらしいんだ。で、お寺でも困っちゃってしょうがなくって。片方は成金でしょう、お寺としても金の出る方がいいから。それでほら、取手の応仁寺、相野谷にある応仁寺、檀家が少なくて困っているお寺がある、上りがなくって。で、応仁寺に預かってもらいってわけで、向こうへ今度預けられた。そしてそのまま、ずっと続いているわけです。ところが撲ら子供のころにはね。応仁寺の今の坊さんのおじいさんになっている人かな、ほとんどいなかったんですよ。もういろいろな飛んで歩いて、政治家でもって、あっち歩き、こっち歩きして、死人できて頼みに行ってもいなくて、坊さんに拝んでもらえないというので、今度羽中へ頼むっていうと、今の住職のおじいさんになっている人、良くきて拝んでくれる。もともと羽中だから。向こうに移っても羽中に年中来てくれていたわけ。終戦後に、一部の人は羽中へくらがえした人があります。もともと羽中へ預けられた人です。宗旨が一向宗なんです。 でこれはほら、僕なかなか調べて確認する余裕も無いからあれだけどお寺の記録を調べてくれれば、はっきりと分ると思います。
 おそらく家のじさまの言うことに間違いないと思います。僕のじさま学問あるわけでもなんでもない、学校もなんにも行ってないんですから。僕の親父も小学校一年も上っていない。上れる段階でなかった。ちょうど明治維新のきりかえで。

 困窮した生活
 そういうようなわけで、非常に困窮した生活に入っていたから、明治の終りころから大正の初めにかけては周りの人たちの蔑視観というのも強くなってきたと思うんです。 で、部落の人たちもそれに対してどうこうするだけの学問もないし、気力もなし。女の子などは学校へ行ってない子供がほとんどだったんです。もう口べらしのために、子守り奉公に行かせる。 なんとか六年まで引っ張って、そのうち三、四人が高等科へ上ったのが初めてなんです。女の子の上り初めは。
 うちの親父は全然小学校も上げてもらえなかったから自分でもう、一生懸命勉強したりなんかして、死ぬまで日誌を書いていた。 だからもう自分なりの字を。だから僕ら読んだって、読めない字ばっかり書いてあったわけ。そういうような、苦しみを経てきているから、あの貧乏をしている最中に僕を上級学校に上げてくれたわけです。

 新しい職業に就く
 それからこの、就職の状態なんかも、ほとんどが、家にいつくぱって、ひよどりするとか、鶏飼いでもやるとか、兎飼いでもやるとか、向こうの建設省の普請、それがあれぱそれに出るとかいうような仕事で、外へ出て新しい職業への転換はほとんど無かったわけです。 それでこれじャどうしようもないと思ったんで、ちょうどY君と、あと二人ばかり三人、小学校終る時に東京に旋盤工やなにかにでもって、私が採用してもらうようにして、太田区だったと思うんだ、そこへ送り込んだんだ。そしてしばらくして、H君は旋盤工に仕上がった。 Y君はもう途中で帰ってきちゃった。で、H君はあれだな、最近まで旋盤やっていたでしよう。それがまあ新しい職業に就く初めだったわけです。 三人なの。一人は戦争で。これが初めて新しい職業に就かせる時だったんです。 で、一人だけ三人のうち一人だけ新しい職業でものになったわけです。 で、途中でH君もやめて家へ帰ったりして、鶏飼いなんてやってきたけど、終戦後はまたもとの覚えた技術でもって勤めるようになった。
 ただ、問題なのは、これはA地区の都落だけでない、どこでも言えることなんだがね、新しく進出させようとしてもね、途中で帰って来るということなんです、関東の人は。なぜってのは、東北や九州の人のより生活環境が比較的によいんです。 そのためにね、辛泡してそこで 一旗上げるっていう力が不足している。だから必ず帰ってきちゃう、何人も残って成功しないんです。 これは僕らの部落だけの問題ではないが、特にそうなんです。だから戸数はなお増えちゃう。いいあんぱいによそで暮らせるかなと思っていると、戻ってきて住むようになる。これはよそで暮らすというのは容易な努力でなくちゃなんねえんだ。だからそれを乗り切れないんです。そういうののいわゆる面倒とか、指導まで、解放団体が見てくれるようにならなければこれはうそだと思うんです。ただ差別に対する糾弾だけでは、これはもう問題は解決しないんです。

 解放運動の役割
 糾弾というそういう時代は三十年も四十年も前の話です。まだ世間には行政関係もどこも目覚めない時代には、目を開かすために火をつけることも良いが、今日はもうそういう時代ではなくなってきているんです。地道にもうこの部落、部落の細かい点に手を入れて、援護していくという、その先兵が必要なんです。
 ところが最近の解放団体の姿を見るというと、そっちへできた、こっちへできたって、皆別々な理論あるのかなと思うと、皆あるらしい理論は掲げるけれど、 なんのことはない、ただ金儲けだけの話、てんでの懐をこやすだけで。 末端への援助なんてのはほとんどできない。はなはだしいのは、行政関係から援護されている金の上前をはねているという。半端があればその横取りしているとかっていうような連中が、ほとんどです。
 弘法大師がよ、筆の誤りだって、我々、筆の誤りだって。書いた書物見れぱ、ちゃんと人間差別の事実書いてあるんだよ。その誤りだっていって、弘法は伝えているわけなんだ。 だから、今お寺の階級制度があった徳川時代のね、いろいろな記録を、云云して、それを責めたって解決にはならないってことなん℃す。問題は、今その下積みになっている人たちをどう前進させるかが問題なんです。

 農家になった基礎
 布川あたりは、なんで良くなったかっていうと、これは農地解放と、言っちゃ悪いだが水害のおかげなんです。水害のおかげっていうと、これはもう語弊があるから言わないでいるが、水害のおかげ。明治維新後に、たびたび水害があったわけです。それはもう、あっちこっちに沼ができてるんでわかるでしよう。水害があったが、農家自体が自分で農業だけじゃ生活できなくなってきた。金が要るようになっているわけです。肥料にも利子まで取られるし、年貢は取られるとか、自作であっても生活不如意になってくれば、土地売らなくてはならない。 土地売ったって、作る人に売ったんでは自分で生活できなくなるでしよう。作らない人に貸してくれる人に売っていうんで、取手の結城あたりが、銀行から金引き出してどんどん買い占めておったわけです。だから結城さんに売れば、作ってられる。 だからじしん屋も結城だけ持ってけぱ、たんまり銭もらえる。ほとんど農地解放の時に文でも布川でも、大半が不在地主は結城の所有だったんです。 これ見てはっきりわかるんです。そういうような状況であったから地主は金出してある士地、あけとかれちャ困るんです。水害でもって作れないからって、あけとかれちャ一銭も銭入らない。不作になった特には、じゃ作ってもらえるようにしてくろって言えば、Yの人ら日雇っている幾らかできるだろうから。作も少ないから、こっちは二年年間要らないからつくってくれろと、一年ただにするからとか、あるいは肥料なけりゃ肥料、一年分くれるからといって、作らしてもらったのが農家になった基礎なんです。 だからそうでなけりゃ、百姓になれなかったわけなんです。 ただ、百姓になったわけだけど、水害が幸いしたので、農地解放によって生き延びたっていうのがY部落の姿なんです。

 監獄の味
 今日ほら部落運動、分裂しているでしょう。一部分裂して別の団体つくって、茨城なんぞに出てきている。これ何人でもない、少数の人間が金を儲けるだけの話なんです。 その連中はどんなことやってるかっていえば、借りた金の何割かよこせとか、そういうことやっているんだよ、現実に。利子補給までして作業の援助をしているのに、それ何割手数料よこせなんてことやってるんだよ。それが、幹部になっているんだよ。
 過去の部落運動をしていた人たちには、そういうのはいないんだよ、一人も。そういう人たちは何度も投獄されても、それこそ冷飯食っているような人たちでも、そんな人は一人もいないんだよ。いま監獄の味なんて知らないんだっぺよ。監獄ってなんだか。

 開発の区域へ
 今の、部落の関係からいくっていうと、開発の関係は下屋敷の一郎と東前を開発する計画持っているわけでしょう。 そうすると僕の屋敷のとこまで入っているわけですよ。 主力はA地区なんて、字が違うんです。入ってないんです、開発の区域へ。 そういう場合にこの開発へ取り残されないように早く手を打って行かなくちャ、だめだっていうことです。

 おわりに
 私のそうであろうというような考えのもとにお話した点もあると思いますが、疑問な点についてはいろいろ調査してもらうというと、私の話が本当だったっていうことが、わかると思います。

話し手 高橋牛松氏
聞き手 利根町部落問題研究会準備会
日時  一九八五年五月二四日
     午後八時から
場所  利根町老人憩いの家
協力  利根町、飯塚昭氏
文責  全解連茨城県連

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