長崎開港の歴史を海路でたどる
長崎開港の歴史を海路でたどる
時津港
鷹島
西海橋
横瀬浦
横瀬浦史跡公園
八の子島
平戸観光資料館
松浦資料博物館
平戸ザビエル記念教会
コルネリア供養塔
and
GoogleMapsEditor
時津港⇒鷹島⇒西海橋⇒横瀬浦港⇒横瀬浦史跡公園⇒横瀬浦港⇒八の子島⇒平戸港⇒平戸和蘭商館跡⇒平戸観光資料館⇒松浦資料博物館⇒平戸ザビエル記念教会⇒コルネリアの塔⇒平戸港⇒時津港
[長崎開港の歴史を海路でたどる]
時津港
長崎県西彼杵郡時津町浦郷
時津町の海の玄関先、高速艇船着き場に、1994年10月、日本26聖人上陸記念碑が建てられた。記念碑前には、26人が旅した京都から長崎までの足取りなど、歴史的な説明板がはめ込まれている。
京都で24人、2人加わって、26人が大阪、堺、岡山、唐津、彼杵を経て時津に上陸。時津街道を長崎に向け、病院(現:山王神社)で1泊した後、西坂で処刑される。
写真:上が記念碑、下は船内で説明を聞いている様子。
[長崎開港の歴史を海路でたどる]
鷹島
長崎県西彼杵郡時津町日並郷
鷹島殉教記念碑。
「殉教者顕彰之碑」碑文
二代将軍秀忠の詰問を受け背教し迫害者となった大村領主純頼は元和3年(1617)5月22日大村郡村のおいてペドロ、マシャド両神父を殺害した。各地で次々に信徒が捕えられ処刑される中で棄教者の増加を危惧した宣教師ナワレト、エルナンド両神父は公然と宣教を始め多くの信徒に秘跡を授け彼らを励ました。それゆえ長与村で捕えられ、すでに獄中にあった伝道者レオ田中と共に、同年6月1日この鷹島の地で処刑された。彼らの遺体は先の二人の宣教師の遺骸と共に水深30mの大村湾に捨てられ今日に至るまでそこに眠っている。主・キリストに命を捧げてその信仰を証した殉教者を顕彰し、彼らと共に主を称え同じ信仰を告白しつつここにこの碑を建てる。なおこの碑は昭和52年(1977)6月1日を当日滑石小教区時津地区信徒によって建立されたものを、老朽化のゆえ善意の方々のご寄付を基に時津小教区信徒によって祭壇を付設し再建されたものである。
1995年6月1日
カトリック長崎大司教区
時津教会信徒会
[長崎開港の歴史を海路でたどる]
西海橋
西海橋
船上から西海橋を望む。手前が新西海橋。
[長崎開港の歴史を海路でたどる]
横瀬浦
長崎県西海市西海町横瀬浦
港を見下ろす教会跡地が横瀬浦史跡公園として1990年に整備されたほか、周辺には長崎の開港にゆかりのある長崎甚左衛門の住居跡、「南蛮船来航の地」記念碑などがある。
写真は、船上から横瀬浦港を写したもの。
[長崎開港の歴史を海路でたどる]
横瀬浦史跡公園
長崎県西海市西海町横瀬浦
1562(永禄5)年、イエズス会神父トルレスは、アルメイダを豊後から横瀬浦に派遣、大村家との折衝で横瀬浦の港の周囲約2里の地を港町とし、その半分を農民とともに教会へ知行地として与える。異教徒の居住を許さず、ポルトガル船来航時にはこれと取引する商人には10年間の税を免ずるとの取り決めが行われた。平戸で船長などが殺害される事件が起こっており、ポルトガル船はこの年、横瀬浦に入港した。
1563年、純忠が洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名になった。教会周辺には下町、上町の商人街が形成され、国内各地から商人も集まってにぎわった。同年8月、後藤貴明とこれに呼応する針尾氏が横瀬浦を攻め、また、この港町に火が放たれ、住宅が密集した繁華街はたちまち炎に包まれた。貿易港としての役割はわずか1年余りで終止符を打ち、舞台は福田、長崎へと移る。
写真:上は史跡公園にある天主堂跡、下は史跡公園から横瀬浦港を望む。
[長崎開港の歴史を海路でたどる]
八の子島
長崎県西海市西海町横瀬
横瀬港の港口にある小さな島。アルメイダ(ポルトガルの修道士)書簡によれば「甚だ良好な港湾があり、港口には高く円い一つの島があり、その頂上には、甚だ美しい十字架があって遠方から望むことができた。十字架を建てたのは、3日間毎日午後空中に十字架があらわれた為である。」 と記している。頂上には、幅4m長さ12mの石垣の跡を偲ばせる十字架塔の台座の石が残っていた。現在の塔は、南蛮船来航400年記念として、19627年に建立された。
[長崎開港の歴史を海路でたどる]
平戸観光資料館
長崎県平戸市大久保町2496
ページへのリンク
江戸幕府は、1641年に平戸オランダ商館を閉鎖。それに先立つ1639年、ヨーロッパの父親と日本人の母親に生まれた混血児をインドネシアのジャカルタへ追放。ジャカルタが当時ジャガタラと呼ばれていたため、彼らが寄越してきた手紙を「ジャガタラ文」という。現存する4通のうち、3通を展示している。他に、観音像でありながら、実はキリストを抱いたマリア像など数多く展示している。近くに、オランダ商館跡があり、そこから山手に登る階段に沿って作られた、砂石でできたオランダ塀がある。
写真:上は観光資料館、下は観光資料館から平戸の港を望む。
[長崎開港の歴史を海路でたどる]
松浦資料博物館
長崎県平戸市鏡川町12
ページへのリンク
肥前の国、平戸藩松浦家の鎌倉時代からの歴史を語る博物館。
[長崎開港の歴史を海路でたどる]
平戸ザビエル記念教会
長崎県平戸市鏡川町269
1931年4月、新聖堂の落成・献堂とともに早坂久之助司教によって設立された。聖フランシスコ・ザビエルの三度の平戸訪問を記念して、聖堂前側面に記念像が1971年に建立されたことにより、聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂とも呼ばれる。
[長崎開港の歴史を海路でたどる]
コルネリア供養塔
長崎県平戸市鏡川町256
鎖国政策の一環として外国人との混血児が追放されるが、それに伴って、オランダ商館やイギリス商館の設置されていた平戸からも、多くの子女が追放される。
このうち有名なのが、オランダ商館長コルネリス・ファン・ナイエンローデを父に、日本人女性を母にもつコルネリアである。正確にはコルネリアは追放されたわけではなく、父ナイエンローデの遺言によってバタビアへと送られた。キリスト教で育てたいという希望を持っていたようである。
その後成長したコルネリアは、オランダ東インド会社商務員クノルと結婚し、多くの子供をもうける。その後クノルが死去した後再婚するが、幸福な晩年とは言い難かったようである。
この他、平戸からも1639年の混血児追放令によって、多くの子女がバタビアへと追放された。
こうした人たちが故郷に宛てた手紙が、いわゆるジャガタラ文とよばれるものであり、平戸にも4通が伝存している。また、瑞雲寺には「コルネリア供養塔」が残されているが、これはコルネリアが、亡父の供養のために、平戸の親類にあてて、献灯を願ったものであったという。