二本松の武士道
二本松少年隊墓
伴百悦の墓 〜新潟県新潟市大安寺〜
魁塚

諏訪大社
見性院
「会津中街道」その後
お静地蔵







・二本松の武士道

 今夏、二本松を再訪してつらつら思ったのは、二本松の武士道の苛烈さについてです。幕末において、二本松は会津や庄内とは異なり、新政府軍の主要敵国とはされておらず、その気になればいくらでも戦争を回避できる立場にありました。事前に回避できなくとも、中途で旗幟を変更することは可能だったはずですし、事実それを行った藩も少なくありません。むしろ、自らの存亡を考えれば、旗幟変更は当然の帰結だったとすらいっていいのです。
 それを、藩老・丹羽一学は、
「敗戦は必定なれど、三春に倣うべからず。二本松は、城が灰燼に帰し、一族屍を野に曝すとも、武士道と信義に殉ずべきである」 
 として、全藩を徹底抗戦にまとめ上げました。
 それを尤もだとする藩の士風だったからこそ、できたことと思われます。
 いったいこの苛烈さはどうでしょう。
 多少の自惚れをもって会津人の多くは「会津武士道こそ武士道の亀鑑」と任じておりますが、その苛烈さにおいてはあるいは二本松武士道は会津のそれを凌駕するかもしれません。二本松の武士道とはそれほどのものだといえます。

 榊山潤という人が著した『歴史』という作品を御存知でしょうか。
 二本松の戦いをテーマにして書かれた長編歴史小説で、今日では二本松落城をあつかった歴史小説の白眉とされる名著でありますね。
 この榊山潤の義父にあたる人が、佐倉強哉という二本松藩士だったそうです。
 強哉は福沢諭吉を尊敬し、

「昆虫が鉄槌でうたれる時にも、その足を張って抵抗するのに、270年も続いた幕府が、二、三の藩の兵に毫も敵対の意志がなく、和を講じ、哀れみを乞うたのは、世界に例がない。勝が江戸の民を塗炭の苦しみから救ったのは大功かもしれないが、新政府に入って愉快に世を渡っているのは、奇怪である」

 という『痩我慢の説』に喝采を送り、明治政府を評価せず、明治維新は「単に雄藩と徳川幕府の争覇であった」という見解を持ち続けました。
 そして彼の最大の主張は、二本松が戦ったわけは、
「正義感からだった」
 ということでありました。
 正義感。
 ・・・つまり、義に殉じ、武士道に殉じた戦いであった、ということでありましょう。
 榊山潤は、こうした義父を「最後まで田舎武士の目を脱し切れなかった」と哀切をもって評価しましたが、会津にしろ二本松にしろ、田舎武士にこそ苛烈な士風と純粋な武士道が継承されていた、ということなのではありますまいか。

 愛すべき頑迷固陋さは、なにも会津武士の専売特許ではない、ということでしょう(^.^)



05/10/09



・二本松少年隊墓

 今夏、ほぼ6年ぶりくらいに大隣寺を訪れた際のことでありますが・・・
 静かな石段を上り詰め、本堂を正面に見ながら左に折れると、そこには以前と変わらずに整然と少年隊士たちの墓石である五輪塔群が鎮座しています。
 飯盛山の白虎隊士と異なり、二本松少年隊士は仏式で祭られているので、仏教で宇宙の生成要素と説く五大「地・水・火・風・空」を象徴する五輪塔が用いられているのでありますが、
「?」
 何故かそこにわずかな違和感を感じたのです。
 なんだろう?と思ってよく見直してみるものの、位置も、おそらく数も、以前と異なっているとは思えません。
 ま、違和感といっても鰯の小骨がノドの奥に引っかかったような微かなものですから、何かの記憶違いだろうと思って、その場はそれで帰ってきました。

 そして東京の自宅に戻ってから、その「違和感」を思い出して6年前の写真をあらためてパソコンの画面に呼び出してみると・・・
「あっ・・・・!」
 違和感の原因は明らかでした。
 やはり、少年隊の五輪塔は、以前とは「違って」いたのです。
 何が「違って」いたのか・・・
 ま、その画像を見ていただくのが手っ取り早いですね。上が今年の撮影で、下がほぼ6年前に撮影したものです。





 違いは明らかですね?
 最初は「奇麗に掃除して磨いたのかな?」と思ったりもしましたが、よくよく見てみると、笠石の上の宝珠と受花の形状が明らかに違っています。呆嶷は迂闊にも知らなかったのですが、いつの間にか五輪塔は新しいものに取り替えられていたんですねえ。
 呆嶷的には、こういう「歴史」を背負っているものはあまり新しいものに変更してほしくないのですが、石がもろくなって崩れてしまったとか、そういうやむ得ない事情が何かあったんでしょうね、きっと(^_^;)

 それにしても、これだけの墓石を新調するというのは、大変なことだったろうと思います。歴史的な遺物が荒廃するにまかされているところが少なくない中、少年隊士のお墓はとても大事にされているということに他なりません。まこと嬉しい限りでありますなあ。

05/10/10




・伴百悦の墓 〜新潟県新潟市大安寺〜

 会津藩士中、最大の熱血漢といえば、やはりかの佐川官兵衛や町野主水に指を折らねばなりますまいが、会津戦争後にこの主水とともに遺体改葬に尽力した伴百悦も、なかなかの熱血藩士だったようです。
 若き日に藩庁の処置に納得せず、仲間を集めて大騒ぎをしたというエピソードもあるようですし、挙句、物頭から御家老付外様士に格下げされても、どこ吹く風の様相だったとのこと。かなり図太い神経の持ち主だったのかもしれません。
 ま、よほどの図太い神経がないと、自ら士分を捨ててまで埋葬作業にあたる、などということはできなかったでしょうけどねえ・・・(^_^;)

 この熱血漢・伴百悦の墓が新潟県の新津にあります。
 遺体の改葬作業が一区切りついた後の明治2年7月12日、ろくな取調べもしないで若松の町民を処刑したり、平素から容保公に対する罵詈雑言を言って憚らず、会津人士から憎まれていた民政局監察方頭取兼断獄であった久保村文四郎を仲間とともに束松峠で斬殺した百悦は、一人新潟方面へ逃走し、現在の新津にある大安寺村というところの慶雲庵なる小寺に潜伏します。
 そして翌明治3年6月22日、村松藩の捕吏に包囲された百悦は、踏込んでこようとした吉田倉之助を板戸ごと刺し貫き、その気迫に彼らが怯んでいる隙に、返す刀で「従容自刃」見事割腹してして果ててしまったのでありました。
 百悦の遺体は大安寺村の村人の手によって慶雲庵の墓域に埋葬され、小石が数個ばかりの自然石の墓標が建てられたものの、慶雲庵そのものがその後に廃寺となってしまったこともあり、いつしか忘れ去られ、弔う人もないまま雑草の中に埋もれる無縁仏となっていたといいます。
 そしてそのまま100年近い年月が流れ・・・
 昭和41年、この伴百悦の墓を訪れ、そのあまりの荒廃ぶりに仰天したのが、当時の越後交通株式会社の社長であった柏村毅氏です。
 会津人でもある氏は即座に墓所の整備を決断され、墓石も「会津藩士 伴百悦墓」と刻まれた立派なものを建立してくださいました。
 これが現在見ることのできる、伴百悦の墓です。

 去る8月14日、呆嶷はこの百悦の墓を訪れることを思い立ち、若松の実家から車で出発しました。むろん初めての場所ですが、最近はカーナビという文明の利器があり、住所さえ入力すれば、目的地へほとんど躊躇なく連れて行ってくれます(時々裏切られることがありますが・笑)。
 ところで、これより先。
 百悦の墓所が新潟県新津市の大安寺というところにあることは、諸書に記されているところです。ちなみにここでいう「大安寺」というのは、建造物の寺名ではなく、地名です。そこで、とりあえず土地勘をつかんでおこうとインターネットで「新潟県新津市大安寺」と検索してみたところ、「該当なし」と出ました。
「?」
 試行錯誤しているうちに気付いたのですが、現在において「新津市」という市は存在しないのですね。2005年3月21日に、新津市は新潟市に吸収合併されていたのでありましたよ。市町村の合併ばやりの昨今、それを知っていないととんだ混乱に陥ることがありそうです(^_^;)
 いっぽうカーナビは、更新前の旧バージョンなので「新津市大安寺」でちゃんと出てきました。これからいろんなところに行く時、このへんの新旧をちゃんと把握しておく必要がありそうですねえ。

 若松から磐越自動車道をひた走り、途中、前が見えないほどの豪雨に見舞われたものの、1時間ほどで無事に新津インターから「新潟市大安寺」に到着。
 ただし、カーナビには百悦墓所の詳しい住所地番まで入力できていなかったので、大安寺という地名の場所に到着したところで、
「目的地付近です。このあとは現地の交通規則に従い・・・」
 と、未知の路上で放り出されてしまいました(^_^;)
 ここからは、勘しかありません。
 えてして、かつての寺というのは集落のはずれにあることが少なくないので、外周から攻めてみることにしました。集落の周囲に広がる水田から、農道をたどってそれと思しき樹木が茂っている場所を目指します。
 すると・・・

 

 いきなり民家の軒先に「会津藩士 伴百悦先生の墓」という案内板が!
 うーん、「伴百悦先生」となっているあたりが、実に嬉しいではありませんか。
 車を農道の少し広い場所に停め、民家にはさまれた細い道をたどり、途中で農機具の手入れをしているらしい小柄なオジイチャンに「こんにちは〜」とか声をかけ、期待に胸を膨らませつつ、墓域を目指します。

 そこは、思ってた以上に狭い空間でした。
 テニスコートの半面くらいの感じでしょうか。
 しかし、その慶雲庵の跡地の中央には手作りらしき素朴な花壇がしつらえてあり、その花壇の花越しに、目的の墓石が鎮座しているのが見えます。




 墓域は奇麗に整備され、普段からここが土地の方々によって見事に管理されていることがよくわかります。
 墓前に手を合わせたのち、花壇のベンチに腰をかけ、ずいぶんと長いことボケ〜としてしまいました。降るようなセミの声と、周囲の田園から吹き渡る緑色の風が、この狭い空間にある者を精神的な静寂の境地へ誘うかのようでした。
 この地なら、百悦は1人での寂しさを感じることもなく、安らかに眠っていることでありましょう。


                       map

05/10/16



・魁塚

 会津話とはいささかズレますが・・・
 信州下諏訪の地に、「魁塚」なる草莽の志士たちの墓所があります。
 これが「赤報隊」の一番隊隊長である「相楽総三」とのその同志らのものであることは、幕末史に詳しい方ならすでに御存知のことでありましょう。

 ----相楽総三。
 本名、小島四郎将満。下総北相馬郡の富豪郷士である小島兵馬満茂の三男として、江戸赤坂三分坂に生まれる。文化人的な性格の強かった父により、その豊富な資金に任せて若いころから国学・兵学を習熟、若干20歳にして門人をもてるほどの碩学になっていたという。慶応3年、西郷隆盛によって江戸の撹乱が策謀された際に、その主役に抜擢されて西郷の期待に応え、翌年には東征軍の先鋒として「赤報隊」を結成、年貢半減をかかげて人心を収攬しつつ中山道を下るも、新政府の内部事情の変化により「偽官軍」に仕立てられて下諏訪において処刑された。享年29。

 相楽総三の悲劇的な最期については、これを詳述するサイトなども数多くありますのでそちらを参考にしてもらうこととして、ここでは詳述いたしますまい。
 しかしながら、ともすれば「ハネッ返りの金持ちのボンボン」的に見られがちなこの人物が、実は若いながらも教養豊かな人格者であったらしい、ということは付言させてもらってもいいように思われます。

 昨日、全国にある諏訪神社の「総本山」である長野県の上下諏訪大社を歴訪した際に、ついでといってはなんですが、この相楽の墓である「魁塚」を訪れてみました。
 諏訪湖の北岸を通る国道20号「甲州街道」で下諏訪町に入ると、下諏訪駅へ入る道を過ぎたところで、国道は右斜め前方へ緩く分岐します。この分岐を直進したところ左側に、それはあります。



 普通の町並み、住宅地の中に忽然と「魁塚」はありましたが、こじんまりとしたその敷地は奇麗に整備され、このときもオジイサンが1人、敷地内のゴミを拾っていました。
 相楽が処刑された日(慶応4年3月3日)には毎年必ず雨が降り、土地の人たちはこれを「相楽の涙雨」という、とか、明治2年に発生して流行した悪性の感冒を「相楽風邪」といって恐れた、とかいう綺譚が伝わっていますが、それとは関わりなく、この地で非業の最期を遂げた相楽総三という草莽の志士を、土地の人たちが心から悼んでいる、といった雰囲気がこの「魁塚」にはあるように感じました。
 現在でも、毎年4月の3日にここで「相楽祭」という慰霊祭が催され、相楽総三の御子孫の方なども御臨席なさっているとの由。
 2日1晩もの間、縄目の恥辱を受けたまま氷雨に叩かれ続け、挙句何の取調べもないままに斬首された相楽を初めとした8人の者たちの魂魄は、その怨念を鎮めてここに眠っているに違いありません。


05/10/23



・諏訪大社

 すでに御存知でありましょうが、若松の諏方神社は「諏方」であり、「諏訪」ではありません。これについては、以下のような伝説があります。

 永仁元年(1293)、新宮城主佐原対馬守頼連は、本家の蘆名氏に対して反旗を翻します。相続に関するゴタゴタが原因だったようですが、時の蘆名家4代当主泰盛は、すぐさま嫡男の盛宗に対して佐原頼連討伐の軍事命令を発動させました。
 盛宗は大軍を編成し、頼連の居城である新宮城(現・喜多方市慶徳)へ向けて進軍を開始、河沼郡笈川村へ至ります。するとここで、たまたま奥州を巡歴中であった信州諏訪大社の神官の一行に出会ったのでありました。ひどく喜んだのは盛宗です。
「これは瑞兆だ。諏訪明神は軍神である。我軍には諏訪明神の加護があるぞ、この戦さ、勝利間違いない!」
 これに兵たちも奮い立ち、戦いは盛宗軍の圧倒的勝利に終ったのです。
 諏訪明神の神徳に感謝した盛宗は、翌永仁2年8月23日、信州から諏訪大明神を正式に黒川の地に勧進し、「諏方神社」を建立したのでありました。総本社と同じ「諏訪」にしなかったのは、「総本社と同じでは畏れ多い」という意が込められているということです。


 ただ、「総本社と同じでは畏れ多い」という理由は同じながら、「諏訪神社」が「諏方神社」になったのは、江戸時代になってから、というのが事実らしいですね(^_^;)

 さて、その諏方神社の総本社たる諏訪大社。
 信州は諏訪湖のほとりに、湖をはさんでその南北に上下それぞれ2社ずつをもって1大社とする、という変った形態で鎮座しています。
    上社・・・前宮・本宮
    下社・・・春宮・秋宮
 ・・・の4社を総称して「諏訪大社」というのでありますな。
 祭神は、上社が建御名方命(たけみなかたのみこと)、下社が八坂刀売命(やさかとめのみこと)で、この2神は夫婦神です。真冬の諏訪湖に見られる奇景「お神渡」は、夫神が妻神のもとへ通った痕跡が諏訪湖の氷上に残ったもの、とされていますね。
 古事記にもその名が見える諏訪大社は、日本最古の神社の1つで、神功皇后の故事以来軍神として崇められ、戦国期の雄・武田信玄がその本陣に「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗を翻していたのは有名でありましょう。


諏訪大社上社本宮

諏訪大社下社秋宮弊拝殿

 聞けば、会津地方には56社もの諏訪神社があるそうです。
 これは全国に1万社もあるという諏訪神社ですから驚くほどのこともないかもしれませんが、若松にある諏方神社は会津地方にある諏訪神社中では最も古く、そのぶん多くの会津史に関わってきました。蘆名氏に崇敬され、蒲生氏郷の敬信によって郭内唯一の大鎮守となり、保科正之は神仏混合を正してこの神社本来の清冽な厳粛さを復活させ、会津松平3代正容のときには正一位が授けられたのを祝って「授光祭」という祭りが盛大に催され、以降例大祭とは別の恒例行事となって若松の住民たちに平和の喜悦を与え続けました。いっぽう、何度かの戦乱では本殿焼失の悲劇もあり、会津戦争では婦女子の自刃の場となり、激戦地ともなりました。
 それら会津を歴史を見続けてきた諏方神の、本来の鎮座地が信州の諏訪大社なわけです。
 諏訪は、会津松平の発祥の地ともいうべき高遠からも遠くありません。
 諏訪と高遠。
 会津史のルーツをたどる旅、というのも、悪くないかもしれませんねえ。


05/11/06




・見性院

 会津松平家というのは、ほんのかりそめな恋から出発している。

 ・・・というのは、司馬遼太郎『王城の護衛者』の冒頭の一節でありますが、徳川2代将軍秀忠の乳母の侍女であった「しず(=静=志津)」が秀忠に見初められ、この恐妻家にしては珍しく情熱的に彼女を愛したため、当然の結果として「しず」は懐妊し、一度は堕胎したものの、2度目懐妊でついに男児を出生し、この子が後に会津藩祖・保科正之となったということをさして、司馬遼太郎は上の名文をもって小説を出発させたのでありますね。

 秀忠が極度の恐妻家であったため、「しず」とその子は正式に将軍の子として認知されることもなく、幾多の苦労を重ねることとなります。
 そんなおり、この母子を子の誕生前から何くれとなく面倒をみてくれていたのが、見性院という老尼でありました。

 見性院。
 ただの老尼ではありません。かの武田信玄の二女で、生母も正室の三条氏。男子であれば、名門・甲斐武田家を継承していたかもしれない正統なる血統です。
 血統だけでなく、この女性はかなり濃厚に父・信玄の性格も受け継いでいたらしく、物事の洞察力に優れ、先見の明も持っていたようです。秀忠の性格から、「しず」母子がこのまま市井にいたままでは捨て殺しの如きになると判断した彼女は、土井利勝らからの依頼があったのを幸いに、即座に自らが子の養育にあたることを決意、「私は、世にも知られた武田信玄の娘です」という言葉とともに、「しず」母子の正式な庇護者となったのでありました。
 その後も、御台所である於江与の方からのイチャモンにも毅然と対応したりして、さすがは信玄の娘、というエピソードを残しています。

 その見性院の墓が、旧浦和市大牧、現在の埼玉県さいたま市の清泰寺というところにあるのは、すでにご存知のところでありましょう。
 JR武蔵野線の東浦和駅から、おそらく徒歩でも10分から15分。
 周囲にはまだまだ「よき武蔵野」の面影を残している一角に、その清泰寺はあります。墓域を整備し、霊園として拡充しつつある雰囲気ですが、本堂はつつましやかです。

 本堂の前を横切り、案内板にしたがって墓域の奥に進んでいくと、その最深部に周囲とは明らかに雰囲気の違っている区域があり、さらにそこは施錠された門扉と柵で区切られているのですが、そここそが見性院が永眠している場所であります。
 門扉からは、保科正之が建てたたものの倒壊してしまった霊廟の門が正面に見えます。

 本当はここから先には進めないのですが、特別に許してもらって、安政4年(1857)に会津藩が建てたという墓石のすぐ側まで進ませてもらいました。
 この女性がいなければ、おそらく「会津松平家」は存在しなかったでしょう。そういう思いで参詣する見性院の墓は、とても静かでありながら威厳に満ちたものであるように見えました。




05/11/19



・「会津中街道」その後

 今夏、会津中街道を訪れた際のレポをこの「独言部屋」にアップしましたが、その中に以下のような部分がありました。

「 かの会津戦争の折、三斗小屋宿と大峠の戦いからこの近辺まで退いてきた会津青龍足軽四番隊の中隊頭・有賀左司馬が、駒返坂に床机をすえて戦闘指揮をとっている際に敵の銃弾を受け、傍らの古木を鮮血に染めながら壮絶な戦死を遂げました。その故地にあるという「半月型にえぐられた大きな古木」と「宝暦五亥と読み取れる小さな石像」は残念ながら見つけることができませんでした。

 呆嶷にとって「会津中街道探訪」というのは、どちらかというと三斗小屋宿跡を訪れた感動の余韻としての後日談的な要素が強かったのですが、この会津中街道に極めて真剣に取り組まれ、その歴史や存在意義を確かめつつ、確かな時間と労力をかけて踏破しようとしてらっしゃる方々がいらっしゃいます。
 今回、この方々のうちのお1人から、呆嶷が見つけることのできなかった「有賀佐司馬戦死の地」を確認できたこと、わざわざ御連絡をいただきました。
 まことにありがたいことです。
 130有余年前、有賀の壮絶な戦死を見守った小さな石仏は、いまも変らず、街道の傍らで静かに繰り返される季節の移ろいを見守り続けていたのでした。あるいは有賀の魂魄は、いまもこの石仏に宿り、道祖神として悪しきものたちが会津に入らぬよう、祖国会津を護り続けているのかもしれません。
 この石仏のまなざしに、そんな光が宿っているような気がするのは呆嶷だけでしょうか。


 ちなみに、「半月型にえぐられた大きな古木」は、残念ながら枯れてしまったようだとのことでした。

 尚今回、この御連絡をくれた方々の活動は、「会津中街道倶楽部」というサイトで詳しく知ることができます。是非覗いてみてください。


05/11/22




・お静地蔵

 目黒区の「目黒不動」のほぼ真西に、成就院という小寺があります。車1台が通ると一杯になる不動尊参道の一方通行出口にあるこの寺は、その正式の名称よりも「蛸薬師」という通称のほうがよく知られているかもしれません。
 タコ薬師とはずいぶんヒョウキンな名前でありますが、天安2年(858)慈覚大師円仁による建立といいますから、これはなかなか立派な古刹といえましょう。3匹のタコに支えられた蓮華座に乗った薬師如来が本尊であることが通称の由来で、そもそもは円仁が唐に渡る際、荒れた海を鎮めるために海に投じた薬師像がタコに乗って戻ってきた、という伝説が、タコと薬師如来という奇妙な組合せの由縁です。

 この蛸薬師「成就院」に、寛永8年12月頃(中村彰彦『保科正之』中公新書)、時の将軍徳川家光が鷹狩の途中で休息に立ち寄った、という話が新井白石の『藩翰譜』に記されています。このとき家光は、「我々は将軍家の御供の者だが、ここで少し休ませてはもらえぬだろうか」と自らの身分を隠して寺に入ったそうでありますが、その時の寺僧による何気ない世間話のなかで、
「保科肥後守様というのは将軍様の御実弟だというのに、わずかばかりの領地しかもらえずに貧乏な暮らしをしているそうで、おいたわしいことだ。われら下賎の者ですら、兄弟は仲良くするのが人のならいであると知っている。身分の高い人というのは、ずいぶんと情けが薄いものだ」
 という意の言葉を聞き、はじめて保科正之が実弟であることを知った、ということになっていますね。
 では、何故この寺僧が正之公が家光の弟だと知っていたかというと、正之公の母である「お静」が時おりこの古刹を訪れ、わが子の幸せを祈願しつつ、地蔵尊などを寄進し続けていたからで、寺僧はこの母から正之公の出生の秘密などを聞かされていたのでありましょう。

 この地蔵尊が「お静地蔵」と呼ばれ、今でも地元の人の崇敬を集めています。
 過日、呆嶷が現地を訪れた際も、地蔵尊前には新しい花が活けてありました。御影石の石板による、丁寧な説明板も設置されています。ただ寺域内で多少移動があったらしく、あらかじめ見ていた写真とは、明らかに背景が違っていました。現在は、本堂の横に建っています。
 はるかに聞こえる都会の喧騒の中、抜け落ちたように閑静な寺域内の一角で地蔵尊たちの顔を眺め比べていると、親子連れが山門をくぐってやってきて、地蔵尊たちの前で並んで手を合わせてから本堂へと入っていきました。
 それは極普通の、日常的に繰り返されていることがありありとわかる自然さでした。
 子を思う母の心とともに、「お静地蔵」はたしかに篤い崇敬の中にある、と思わず胸が熱くなった呆嶷でありましたよ。


05/11/25