相沢勇吉 会津藩士、7石2人扶持。会津戦争においては朱雀隊寄合組に所属。慶応4年8月23日、急遽籠城戦に入った鶴ヶ城内で、手薄の城の南面を防禦すべく城内にいた藩士のみで応急部隊が編成されたが、勇吉はこれに参加。応急部隊はよく戦い、遂に敵を撃退することに成功する。世にこれを天神橋の激闘というが、勇吉はここに戦死した。享年28。
青山勇之進 青山清之助倅。戊辰の役(1868)の際、白虎二番隊寄合組太田隊に編入され、城を守って籠城したが、9月14日の戦いで小田垣において戦死した。法名を仁光院善誉義雲居士という。享年17。同僚安恵助三郎もまた同日同所で戦死、共に飯盛山上の白虎隊墓地に合祀されている。(小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社)
赤井重兵衛 4石2人扶持。会津藩主松平容保の京都守護職時代、番頭山内蔵人隊与力として京都にあった。元治元年(1864)7月18日、禁門の変に従軍して戦死。享年40。(小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社)
赤岡大助 (1824〜1878.9.28) 名は忠良、字は子誠、三余堂・三友と号する。玉木氏の二男に生まれ赤岡姓を称す。会津藩江戸邸の目付職を勤め、薙刀を照姫に指南した。書・歌に優れ、『文久文雅人名録』にその名が出ている。戊辰戦争の前に禄をはなれ、坂下の玉木家に寄寓していた。維新後は青森から函館に移り、そこで初めての牛鍋屋を開店していたという。墓は北海道上磯郡清川寺。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

江戸常詰の御徒歩で、11石2人扶持。和歌と書にすぐれ、また武芸にも達していたので藩主の養女照姫(容保の義姉)の薙刀指南役をつとめていたという。江戸では相当に著名な文人として認められていたらしく、文久元年(1861)版の『当時現在公益諸家人名録』に「歌書」としてその名があり、同3年版の『文久文雅人名録』にも会津藩士として載せられている。会津戦争で戦死した中野竹子は、大助について書と武芸を学び、後にその養女となったが戊辰の年に赤岡家を去って中野家に帰っている。大助の甥との結婚をすすめられた竹子が、これをきらったためだといわれている。橋爪(哂斎)撰の「赤岡小竹墓」には「赤岡忠良に従って書および薙刀八相小剣一刀流刀術を学び、皆室に入る」(原漢文)とある。大助は維新後、北海道に移住し、明治11年9月28日、函館において没す。55歳。法号は迎雲院聖誉楽音衆来居士。清川寺に墓がある。(間島勲「会津藩士人名小事典」 歴史春秋社『幕末会津藩』所収)
縣 左門 縣岩之進の長男として弘化元年(1844)、若松に生まれた。戊辰の役では青龍一番中隊半隊頭を命ぜられ、御霊櫃口へ出張、4月に白河へ転戦して手傷を負って帰国した。開城後は塩川に移され、明治2年高田藩へ御預けとなって謹慎。同年10月、斗南藩立藩となり五戸七ヶ崎へ移住した。明治6年、北郡三本木原野に再移住して開墾に従事していたが、同8年5月の屯田兵募集に応募して琴似村に移り、5月23日屯田兵を仰せ付けられると共に、その人材を認められて即日伍長代務を申付けられた。明治10年4月9日、西南の役で熊本県下に出征し、6月4日の人吉攻撃戦では険路を冒して賊巣を突く大功をたて准陸軍曹長に進められた。その後は専ら屯田兵として開墾の任務に尽くす傍ら、18年には屯田兵中尉、24年には大尉に任ぜされ、明治27年には日清戦役に召集されて最後の軍務に服した。講和後は琴似に帰り、晩年は旧友らと謡曲や囲碁を楽しむ生活を送っていたが、明治34年2月13日死去した。享年58。

【文献資料】
 山田勝伴『開拓使最初の屯田兵』著者刊 P158-159
赤塚武盛 (1852〜1879.4.7) 旧会津藩士、のちに権少警部。赤塚治定の子。戊辰戦争に参戦後、斗南に移住し、72年上京して警察官となる。二等巡査、警部補を経て西南戦争の際は陸軍少尉試補兼権少警部に任ぜられ、別働第一旅団第5大隊小隊長として従軍、宮之城の戦いで戦功をたてた。その後、管内を巡視中、凶賊と格闘し、逃亡する賊を追跡していたところ、駆けつけた巡査らに誤って殺された。墓は東京都台東区谷中霊園。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

旧会津藩士。戊辰戦争後東京に出て警視庁に入り、第二方面第五分署(品川警察署)権少警部となった。西南の役(1878)の際には警視隊として出動した。4月13日、豊後口警視隊は阿蘇外輪山の坂梨峠の累によって守る薩軍を攻撃したが苦戦となった。当時四番小隊什長警部補であった赤塚は、単身挺進して敵累に飛び込んで勝機を開き、別働第三旅団第五大隊第八小隊長に任命された。6月21日肥薩国境を越えて薩摩領川内川畔において薩軍と対峙したが、薩軍は舟を全部自分の陣屋の岸に繋いでいたので渡河することができなかった。これを見た赤塚は身を躍らせて激流に飛び込み、敵前の急流を抜き手を切って対岸の舟を確保し、味方の大勝利の原動力となって警視隊は宮之城を占領することができた。役後、第二方面第五分署(品川警察署)に勤務していたが明治12年4月7日夜、管内巡視中に凶賊と出会い、突如として斬り付けられて重傷を負った。だがひるまず格闘となり、逃げようとする賊を追跡中巡邏中の巡査に凶賊と見誤られ、急報によって駆けつけた十数名の巡査に取り囲まれて警棒で滅多打ちされて非業の死を遂げた。葬式の際は、非業の死を悼む同僚巡査の数1000人を超えたという。谷中の墓地に葬られた。享年28であった。(小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社)

【文献資料】
 相田泰三『斗南藩こぼれ草』柏村敬刊 P80-81
 『会津会会報』会津会 P25-28 村松武太郎「赤塚武盛君の伝」
 『会津史談』会津史談会 P194-197 塩谷七重郎「再び西南戦争について」
赤埴平八 松平譜代の臣で、祖先は保科正之に従って会津に来住し、280石を拝領した。平八は20石を減じた260石扶持を給され、日新館の北通りに住した。戊辰の役には力士隊として各地に転戦した。力士隊は3月ころに編成をみ、閏4月、東部国境の警備に配置された。5月25日、第1次白河城奪回作戦に当たり平八の力士隊は須賀川より矢吹に進み、翌26日柏野村に集結した蜷川友次郎率いる青龍三番足軽隊・小池帯刀率いる土工隊とともに白河城外雷神山の西軍を攻撃した。6月11日の第4次奪回作戦では大平口総督原田対馬を主将とする赤埴平八の力士隊、大立目武蔵率いる仙台藩士、森要蔵率いる飯野藩士(36人)、農兵、それに横山主税家臣らは夜半に羽太村(西郷村)を発し、翌早朝白坂に屯する黒羽藩兵を急襲した。さらに7月1日の第6次奪回作戦では激戦のうえ遊撃隊頭の遠山伊右衛門が戦死し、後任の三宅小左衛門は平八を遊撃隊の組頭に任命し、力士隊隊頭と兼務させた。のち、遊撃隊と共に越後口戦線へ転じた力士隊は、原早太率いる白虎寄合一番隊らと共に赤谷で激戦を展開したが、8月14日、ついに平八は戦死した。享年34。墓は会津若松市大龍寺。(小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社 より要略)
赤羽伊織 御供番(200石)。慶応3年(1867)12月9日、王政復古の政変で京都守護職を退いた会津藩主松平容保は京都二条城に入り、ついで12日大坂に下ったが、伊織はその供をしていて翌年正月3日の伏見の変には参戦しなかった。容保の江戸下向にもお供し、また7月28日の野沢への巡行や8月22日の滝沢への出陣の際もお供をした。翌23日、西軍大挙して若松の城下に押し寄せるや城に入って籠城し、同26日、北追手堀の狭間から敵情を窺っているところに敵弾飛来し戦死した。(小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社)

【文献資料】
 『にろく 第20号』にろく会 P227 荒木久左衛門「鶴ヶ城烈士略伝」
赤羽衛門 直次郎兄。250石。慶応3年(1867)物頭から不時御備組の組頭となり、翌4年2月11日の軍制改革によって朱雀1番寄合組一柳四郎左衛門隊の小隊頭となり、4月中、猪苗代土湯口に出陣。四郎左衛門とともに仙台藩との融和を計っていたが、4月21日の白河落城によって25日払暁の作戦にも敗走する結果となった。そこで28日、仙台藩と一緒に白河へ集結し、仙台藩には棚倉口方面を委ね、赤羽は白河に踏みとどまっていたが、5月1日の西軍の早朝作戦によって味方は不運にも総崩れとなり、せめて仙台藩の兵力だけでも遅滞なく退却させようと援護射撃を行い、自らは西軍の真っただ中に斬り込んで壮烈な戦死を遂げた。享年29。(小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社)
赤羽庄三郎 (1807〜1894.4) 会津藩の文学者。仁兵衛利和の子。号は松陽、東湖。名は恪。少壮にして江戸の遊学し牧原半陶に学ぶ。性英敏にして詩作に特に優れていた。その中で「鎌倉懐古」「鴻台懐古」は雄渾悲壮にして一代の傑作である。幕末から維新にかけて多くの門人を育てた。のちのオランダ特命全権公使赤羽四郎は、その子。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

【文献資料】
 『北陽史談 第4年6号』喜多方史談会 P2
 『若松市史 下巻』若松市役所 P523,556-557 人物編

 『福島県史 22 人物』福島県 P18
 『続会津史料叢書 下巻』歴史図書社 P233
赤羽八百吉 赤羽庄三郎弟。戊辰の役で西軍若松の城下に侵攻するや籠城し、内願によって小室金吾左衛門組の小隊頭に任じ、物頭席に列せられた。8月29日、西名子屋町長命寺裏の西軍を撃退し、北小路町・七日町付近まで進撃したが力戦中戦死した。享年54。(小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社)

【文献資料】
 『にろく 第20号』にろく会 P219 荒木久左衛門「鶴ヶ城烈士略伝」
秋月悌次郎 (1824〜1900.1.5) 胤永・韋軒と号す。日新館・昌平黌に学ぶ。1862年藩主松平容保、京都守護職就任に従い上洛。公用人として機密に参画、公武の融和を図るが、鳥羽・伏見の戦いに破れ会津に帰る。会津戦争では軍事奉行役添役。降伏後幽閉され、72年特赦。のち太政官に出仕、東京大学予備門・第一高等中学校・熊本第五高等中学校に奉職、漢学を教授した。墓は東京都港区青山霊園。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

名は胤永、号は韋軒、字は子錫。丸山四郎右衛門胤道(家禄150石)の二男。秋月氏を冒す。藩校日新館に学んで秀才の誉高く、19歳のとき江戸に出て松平謹次郎(慎斎)に師事し、大きな影響を受ける。のちに幕府の昌平坂学問所に入り、書生寮の舎長をつとめた。文久2年(1862)、京都守護職となった藩主容保に従って入京し、公用方として諸藩との交渉にあたり、また公武間の融和のため尽力した。この頃、薩摩藩士の高崎左太郎(正風)と親交を結ぶ。戊辰の役には軍事奉行添役として越後方面に出陣し、降伏に先立って君命により米沢藩に使いした。開城の際は調印のための使者をつとめ、役後、戦争責任者として終身禁錮の刑を受ける。明治5年特赦となり、太政官に出仕したが、のちに大学予備門、各高等学校の教職につき、明治28年、熊本の五高を最後に退職した。同33年1月5日東京に没す、77歳。東京港区青山霊園に墓がある。五高時代に同僚であったラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、悌次郎を「神のような人」と呼んでいる。(間島勲「会津藩士人名小事典」 歴史春秋社『幕末会津藩』所収)

安政6年(1859)、藩命により九州などの西国諸藩を遊歴し、列藩の政治制度や風俗などを観察しているが、この旅の途中で長岡藩の河井継之助としばらく行動をともにしている。のちの会津戦争の際、長岡藩侯を会津へ退避させたらどうか、という秋月の進言を河井が受け入れたのも、このときの交誼が根底にあったからと思われる。
秋月を公用方に抜擢したのは家老横山主税常徳で、長年昌平黌にあって他国の藩士たちとの交流が深かった点と、卓越した観察眼や知性に裏打ちされた渉外能力を横山が高く評価したからであった。事実、足利将軍木造梟首事件で関係浪士たちを大量捕縛した際、この逮捕の正当性を朝廷に説明しきったのは秋月である。さらに薩摩から高崎佐太郎などが極秘に「会薩同盟」を持ちかけてきて、これが8.18の政変を成功させる原動力となるなどにおよび、藩内外における秋月の立場が急上昇した。しかしこれが一部保守派の反発を生み、後ろ盾であった横山が病を得て帰国し死亡してしまったこともあり、登ってきたハシゴをはずすようにして蝦夷へ左遷させられてしまう。彼に再び京へ戻るよう書面が届けられたのは、薩摩藩があからさまな敵対行動をとるようになっていた慶応2年の12月のことであった。
会津戦争終結後、若松真龍寺の僧河井善順の従僕に変装して謹慎地の猪苗代を脱走、越後で旧知の長州藩士奥平謙輔に面会して会津藩救解のための助力を依頼するが、この帰途に作った「北越潜行」の詩は「会津人の三絶句」の一つとして有名である。(参考:松本謙一「秋月悌次郎」 『幕末・会津藩士銘々伝』新人物往来社 所収)


【文献資料】
 広沢安宅『幕末会津志士伝』著者刊 P84-90
 『会津史談会誌 第8号』会津史談会 P13-19 秋月胤永「応徴日礼」
 『会津会雑誌 第51号』会津会 P38-40 佐治秀寿「教育家としての秋月韋軒先生」
 『維新前後の会津の人々』会津士魂会 P1-27 相田泰三「秋月胤永」
 『会津会々報 第77号』会津会 P38-48 近藤啓吾「秋月韋軒」
秋月登之助 (生没年不詳) 江上又八の長男。太郎と称す。武術の達人。父又八は南山御蔵入奉行、16石3人扶持。藩主松平容保が京都守護職のとき、先備甲士として容保の身辺を守る。鳥羽・伏見の戦いの後、会津藩を脱藩、秋月登之助と変名。幕府の第7連隊に入り、洋式訓練を受ける。後、大鳥圭介の率いる伝習隊に入り、第1大隊長となる。旧幕兵と共に江戸を脱走、関東、会津の各地で戦う。10月8日(旧暦8月23日)を最後に不明。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

田島代官江上又八嫡男(16石3人扶持)。太郎と称した。勇志に富み、将の器であった。幕末、江戸にあって広く幕府や他藩の要人らと親交を結び、会津藩の名誉回復につとめたが事ならず、幕軍の第7連隊に転入した。大鳥圭介らとはかって江戸城立て籠もり義兵を挙げて西軍を江戸から追い払おうと計画したが、これも果せなかった。やがて大鳥圭介が幕軍2千余名を率いて会津へ向け北上することになり、登之助は推されて伝習第一大隊長となり、新選組副長土方歳三は彼の下にあって参謀役をつとめた。総野の戦い、特に宇都宮城の攻防戦において大いに活躍したのち、藤原口から田島に入り、若松城に入った。8月23日、母成峠破れ西軍が若松の城下に殺到した際、登之助は二の丸にあって馬上から「君恩に報ずるのはこの時である。婦人は内へ、男は外へ出て戦うべし」と絶叫しながら遊軍を叱咤激励する姿を間瀬みつに目撃されているが、その後の消息は知られていない。(小島一男『会津人物事典(武人編)』歴史春秋社)

【文献資料】
 早川喜代次『史実会津白虎隊』新人物往来社 P101-103
秋山左衛門 (1812〜1868.11.6) 性学を好み少壮で藩命を受け江戸昌平黌に学ぶ。最も『春秋左氏伝』に詳しい。藩校日新館教授、医学師範。戊辰の籠城戦で防戦に尽力したが、城中で降伏の議の噂を聞き、「信じられない、城下の盟は春秋左氏伝では恥とするところ」と反対したが、降伏が決まったと告げられた11月5日(旧暦9月21日)夜半過ぎ、銃を胸に当てて自決した。墓は会津若松市七日町阿弥陀寺に合祀。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

【文献資料】
 『男爵山川健次郎遺稿』山川健次郎記念会 P166-169
 『福島県史 22 人物』福島県 P20
 『若松市史 下巻』若松市役所 P525
 『会津会会報 第44号』会津会 P54
浅羽忠之助 (1831〜1897.11.9) 名は茂徳。浅羽寛兵衛茂実の長男。家禄100石を継ぎ、小姓頭として主君松平容保に近侍する。鳥羽・伏見戦争後、将軍慶喜に従って急に東帰した容保の後を追い、容保が孝明天皇から与えられた宸翰を携えて江戸に至る。戊辰戦争時は軍事奉行添役として従軍。戦後は謹慎生活を経て容保と行動を共にして日光東照宮に出仕した。『浅羽忠之助筆記』を残す。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

名は茂徳。寛兵衛茂実(家禄100石)の子。京都守護職となった藩主容保に従って上洛し、小姓頭として常に近侍した。鳥羽・伏見の戦いの際は命によって戦況を視察し、大軍を一方より進めることの得策でないことを進言した。前将軍慶喜が幕軍を残したまま、極秘裏に海路、江戸に帰ったとき、容保は重臣たちにも告げる暇がなくこれに従って行ったため、忠之助は神保修理と共にその跡をたずねて陸路を江戸まで帰って来た。このとき、容保が孝明天皇から与えられた宸翰を忠之助が携えてきたという。戊辰の役には軍事奉行添役として従軍し、また主命によって各地に使いした。開城後、謹慎生活を経て容保と行動を共にし、宮司となった容保に従って日光東照宮に出仕した。明治30年11月病死、67歳。彼の書き残した『浅羽忠之助筆記』は、戊辰戦争前後の貴重な証言である。葬所・法号(霊号)等は詳らかではない。(間島勲「会津藩士人名小事典」 歴史春秋社『幕末会津藩』所収)
安達藤三郎 (1852〜1868.10.8) 白虎士中二番隊士。若松城下、米代一之丁物頭400石小野田助左衛門四男。母ミサ。幼少のころ安達家を継ぐ。温和だが勇気があり秀才の誉れが高かった。戊辰戦争の起きた1868年7月下旬、白虎隊出陣の建議書を隊員37名の代表として軍事奉行萱野権兵衛のもとへ隊の嚮導篠田儀三郎と出向く。戸ノ口原で奮戦後、飯盛山で自決。墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

某年4月8日、友人たちと若松城下から北方4キロほどのところにある木流村へ馬頭観音堂の祭礼を見物に馬を駆って出かけたときのこと。あとわずかで観音堂というところで、堂宇付近で酔漢が馬を麦畑に乗り入れて大騒ぎになっているのが望見された。藤三郎はすぐさま馬首を返し、もと来た道を引き返してしまった。慌てて後を追ってきた友人たちが理由をたずねると、「李下に冠を正さず、瓜田に沓を入れず、だよ」と笑って答えたという。慎重な藤三郎は、現場に馬で乗りつけて村人からあらぬ疑いをかけられることを避けたのである。婦人のような優しい容貌を持ちながら、ひとたび事にあたると驚くほど凛然とした態度で臨む若者であったと伝えられている。慶応4年の7月のある日、若殿喜徳に従って福良に出張してきた藤三郎ら白虎士中二番隊は、宿の入口にある関門で警衛の任についていた。するとそこを馬上のまま通過しようとする洋装の武士があった。藤三郎が銃を構え「待てっ、何者か!」と制止しようとしたが、武士は馬を止めようとする気配がない。ついに藤三郎は銃を2発威嚇発射をした。さすがに武士は驚いて馬をとめ、馬首をめぐらせて藤三郎の前まで戻ってきた。武士はいかにも歴戦の勇士たる貫禄を漂わせており、そのにじみ出る迫力たるや並々ならぬものがある。しかし藤三郎は、これに臆することなく「姓名を名乗られよ」と銃を擬したまま言った。武士はうっすらと微笑み、「これは失礼した。新選組の土方歳三である。急用のためまかり通る」と応えたため、その勇名を聞き知っていた白虎隊士たちは仰天した。「これは失礼致しました」「いや、無礼なのは当方であった。許されよ」 そしてその夜、宿舎に土方を訪ねた藤三郎ら白虎隊士たちは、土方から興味深い話をいくつも聞かせてもらえたという。(参考:宗川虎次『補修會津白虎隊十九士伝』会津弔霊義会 他)
安孫子倫彦 (1857〜1942.2.5) 会津藩士岡本丈助の子として若松城下鳥居町で生誕、1867年我孫子家を継ぐ。戊辰戦争で実父丈助は自刃、兄岡本芳彦は白河で戦死、戦後斗南藩に行き、1875年北海道屯田兵に応募、5月叔父岩崎貞五郎らと琴似(札幌)に到着。開墾に精を出す。1877年西南戦争に出征、人吉付近の激戦で負傷し琴似に帰還、日清・日露戦に応召、陸軍中尉、後は琴似地区の発展に尽くした。墓は札幌市平和霊園にある。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

【文献資料】
 山田勝伴『開拓使最初の屯田兵 琴似兵村』著者刊 P167-168
安部井寿太郎 (1841〜1921.8.25) 会津藩歌人・医者、和歌を野矢常方に学んで日新館和学取締方となり、京都守護職勤番中は香川景樹の歌風を学んだ。しかし江戸の西周の塾で仏語を学び、仏式練兵や築城法を学んだ。戊辰戦争では総野の戦いから参戦、北越で戦い熊倉に転戦して負傷。戦後塩川監禁中に学校講師となり、斗南から若松へ帰った後は西洋医学を研究、杉田村で医師開業。墓は福島県安達郡本宮町石雲寺。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

【文献資料】
 『会津会会報 第19号』会津会 P75-76
 相田泰三『斗南藩こぼれ草』柏村敬 P82 「安部井寿太郎」
安部井政治 (1836〜1869.6.9) 会津藩士香坂源吾の次男として若松城下に生まれ、安部井仲八の養子となる。藩校日新館から1861年江戸昌平黌に学んだ秀才。洋式築城学を研究、戊辰戦争では江戸引揚げ後も留まって敵情を探り、後は奥羽列藩同盟結成のため各藩を遊説中、仙台で母成峠敗戦の報を聞き、帰城できず榎本武揚軍に参加、会津遊撃隊差図役として矢不来の激戦で戦死。遺作「海潮到枕・・・」が有名。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

明治2年4月28日、すでに松前を新政府軍に奪われ、箱館での「本拠地決戦」の様相が色濃くなってきているおり、箱館軍総裁の榎本武揚は居並ぶ将士らに向かって次のようなことを言った。「近来、会津人士の臆病さは目に余るものがある。彼らはただ逃げるのみだ。これではまったく頼みにならない」 政治はこれを聞き、あまりの悔しさに拳を握り締めて涙を流した。そしてその翌日、新政府軍が矢不来に攻め来り、政治はこの防衛最前線にいた。兵を叱咤激励し、銃弾が驟雨のように降り注ぐ中を駆け続け、崩れかかる味方を何度も立て直して敵の進軍を押し止めたが、圧倒的に有利な火器を有し、沿海から軍艦による艦砲射撃の援護を受ける新政府軍の勢いを止めることはついにできず、退却のやむなきに至る。しかしそれを進言する部下や他隊の将に対し決然と首を振り「君らは還って榎本氏に我が死を告げよ。我が隊は刀も折れ、弾も尽き、もはや為すすべもないが、この安部井は一歩たりとも退かぬ。はたして本当に会津人士が臆病者かどうか、逃げるばかりであるのか、君らは我が死様を榎本氏に告げるのだ」と言い残し、激戦の中に身を投じて壮絶な戦死を遂げた。後にこれを聞いた榎本は、「失言で、我が俊良を失ってしまった」と悵恨痛惜し、戦後に至っても「私が安部井政治を殺したようなものである。今に至っても自分の不徳が恥ずかしく、返す返すも彼の死が惜しまれてならない。存命であれば、明治政府にあって重要な地位を占めていたであろうに」と語り続けたという。(参考:稲林敬一「安部井政治」 『物語・悲劇の会津人』新人物往来社 所収)

【文献資料】
 『会津会会報 第4号』会津会 P29-31「安部井塔厳先生略伝」
 『会津会会報 第5号』会津会 P41-43 荘田秋村「安部井政治逸事」他
 広沢安宅『幕末会津志士伝 孤忠録』著者刊 P118-120
 『北陽史談 第3年第11号』喜多方史談会 P2-3 「安部井政治伝」
 『若松市史 下巻』若松市役所 P512-513
 『維新前後の会津の人々』会津士魂会 P112-114 相田泰三「安部井政治」
 『会津会会報 第77号』会津会 P10-12 相田泰三「維新史雑感」
安部井仲八 (1818〜1868.10.8) 会津藩士130石、儒学者安部井帽山の養子、安部井政治の養父にあたる。藩命で江戸の昌平黌に4年学び、古賀門であったが、松庵と号した。豊岡社火番を命じられたこともある。戊辰戦争では戸ノ口原で戦い、戦死した。養子の政治は箱館戦争で戦死。墓は不明、会津若松市阿弥陀寺に合祀。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)
安部井 浩 (1836〜1859) 通称茂松、会津藩儒学者安部井帽山の実子。藩校日新館官舎で生まれた。父の儒学を継承することを自任し、若くして日新館大学生を終えた秀才。1855年安政大地震直前に水戸を訪ね、地震で事故死する藤田東湖に会って詩文を贈った。その詩文は当時の評判となり、よく読まれた。58年藩命で江戸の昌平黌に入って林門だったが、翌年、不幸にも早世し、藩中から惜しまれた。墓は大窪山。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

【文献資料】
 『会津会会報 第6号』会津会 P19-20
 『若松市史 下巻』若松市役所 P505
 『福島県史 22 人物』福島県 P4
天川深右衛門 (1836.11〜1877.6.25) 会津藩士。戊辰戦争後は斗南に移る。のち会津に帰る。上京して警視局に勤め警部補心得となり、西南の役が起こると、別働第3旅団第5大隊に所属し伍長勤務となる。1877年6月鹿児島で戦死する。墓は鹿児島市祇園洲公園内にある。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

【文献資料】
 『会津史談会誌 第43号』会津史談会 P15-18
荒川梅二 (1804〜1867.8.20) 会津藩家老北原釆女の臣。勝国と称し年少より俳諧を好む。孤芳庵・幸国・桂石と号し芭蕉の正風をしたい、江戸の宗匠らと交わり一家をなす。根本精器と並び若松俳壇の中心的人物であった。句作2千余があり、息子勝茂が「梅二発句集」を編んだが、多くは戊辰戦争の兵火に遭い焼失した。墓は中六日町宝昌寺(現在はなし)というが戦火に焼かれて不明。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

【文献資料】
 『北陽史談 第5年第9号』喜多方史談会 P2「荒川梅二伝」
 上野敬二『会津俳諧史』イハクモ吟社 P25-27 
 『会津史談会誌 第44号』会津史談会 P29-30 春日部規「新編会津俳諧史(5)」
荒川類右衛門 (1833〜1909.2.5) 会津藩士。父は俳人の梅二。130石で北原家家臣団20人中の筆頭。1869年11月本人の書いた身上書によれば、戊辰戦争時は進撃隊席御供番。敗戦後、塩川に謹慎し、1869年2月に越後高田藩に幽閉される。斗南藩に移り藩再興に尽くす。その間の「明治日誌」4巻は貴重な史料。廃藩後、会津に戻り、教育者としての功績が大きい。墓は会津若松市正法寺。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)
有賀織之助 (1853〜1868.10.8) 会津藩士。白虎士中二番隊士。若松城下、本三之丁目付250石有賀権左衛門二男。母いく子。両親から厳しい薫陶を受ける。武芸に優れ腕力強く剣を振るうとうなりを生じた。しかし、度量が広く思いやりがあり友人は彼と交わり遊ぶことを望んだ。戊辰戦争のとき、戸ノ口原で敗れ飯盛山から黒煙に包まれた鶴ヶ城を見て、もう陥ったものと思い自決した。墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

ことのほか腕力が強く、わずか9歳にして薙刀を縦横に振り回し、日新館の道場で剣を振ると太刀風が起こったという。ある日、友人たちと城下南方4キロばかりのところにある岩崎というところへ鶴沼川の遊泳に出かけたときのこと、折から河は雨後ということもあって濁流が渦を巻く、という状態であった。誰もがこれは無理だと諦めかけた時、1人織之助はくるくると着物を脱ぎ捨てると、一気に濁流の中に身を躍らせたのである。友人たちは呆然とし、次いで口々に岸に戻るよう大声をあげたが、織之助はかまわず泳ぎ続け、十数メートルも流されながら、ついに対岸にまで河を泳ぎきった。友人たちは安堵し、陸を伝って戻ってくるよう喚き勧めた。しかし、なんと織之助は呼吸を整えると再び濁流に飛び込んだ。そしてほとんど溺れかけた状態で、ようやくこちら岸に泳ぎ着いたのである。「何故、こんな無謀なことをしたのか」という友人らの譴責に対し織之助は、「男児は困難にあたって胆力を練るものだからだ」と平然と答えたという。嵐の日にすら約束の時刻を違えずやってくる織之助の信頼度は高く、多くの日新館生徒たちが織之助との交誼を望んだと伝えられている。(参考:宗川虎次『補修會津白虎隊十九士伝』会津弔霊義会 他)