新島八重子 (1845〜1932.6.14) 会津藩士砲術師範山本権八・佐久夫妻の娘、兄は山本覚馬、若松米代四之丁に生まれる。1865年(慶応元年)会津援助に来ていた但馬出石藩士川崎尚之助と結婚したが、戊辰戦争の籠城戦で離婚、籠城中は兵に鉄砲を教えるほどの活躍、1871年(明治4年)母佐久らと覚馬を頼って上洛、新島襄を知り、1876年(明治9年)洗礼を受けて襄と結婚、同志社を創立する襄を助けたが死別。墓は京都市左京区若王子新島家墓地。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

【文献資料】
 『福島県史 22 人物』福島県 P381
 『会津会会報 第41号』会津会 P16-18 牧野虎次「新島八重子刀自略歴」
 『同志社校友同窓会報 第61号』同会 「新島八重子刀自米寿記念」
 佐藤戸右衛門『戦跡』著者刊 P64-66 「十八娘の砲術士物語」
西川勝太郎 (1853〜1868.10.8) 会津藩白虎士中二番隊士。若松城下、郭内本二ノ丁物頭300石西川半之丞長男。母せき子。指導力あり、その言には説得力があった。全員が戸ノ口原に出撃したのも、退却の途中、飢えと疲労から自決しようとの意見を抑えたのも彼であった。飯盛山で炎の天守閣を望み、「いまや国に殉ずべきときだ」と勝太郎が叫んだので全員賛成し、その場で自決となった。墓は福島県会津若松市一箕町飯盛山。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

西軍が若松に迫り、藩主容保に従って滝沢本陣に出陣したときのこと。隊を二分し、一方は前進して敵を迎え撃ち、一方は本陣に残って藩侯の護衛に当たるべきである、という意見が出た。しかし勝太郎はこれに決然と反対し、「敵は大軍である。ただでさえ寡軍の我隊を二分してしまっては、攻防いずれにしても益するものは何もない。全隊一丸となってこれに当たるべきである」と言ったので、隊長以下皆これに同意し、全員で戸ノ口原へ出陣することになった。そして翌日の撤退時においても、疲労の極みにあった隊士たちのほとんどが「事ここに至っては、自刃して臣節を全うするのみ」という意見に同意しかけた時、「いまだ弾丸は尽きておらず、刀も折れていない。我々はまだ戦える。死ぬのは、城が落ち、殿が殉ぜられたることを確認してからでも遅くはない」と全員の気を奮い立たせている。飯盛山中腹で燃え上がる城下町を遠望した時、「今こそ義に殉ずべきときである」と最終決断を下したのも勝太郎であった。白虎士中二番隊の実質的な指導者であったかもしれない。(参考:小島一男『町名歴史散歩』歴史春秋社)
二瓶直中 (1788.12.7〜1873.11.10) 若松大町に生まれる。通称は忠五郎、のち五郎右衛門。澤田名垂を師として和歌・国学を学び、それから諸国を歴訪。特に京都に芝山持豊・千種有功・慈光寺実仲を訪ねて、この道を究める。のちに私塾を開き和歌・国学を教授する。1873年(明治6年)に教部省から少講義に補せられた。著書に『都のつと』などがある。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)
丹羽五郎 (1852〜1928.9.6) 会津藩士。会津人による北海道開拓の第一人者。父は野尻代官として著名な族(やから)。宗家丹羽勘解由(1000石)の跡を継ぐ。戊辰戦争では藩主松平喜徳の御使番。敗戦後は邏卒。1877年(明治10年)の西南戦争には田原坂の戦闘で功績があり、後に神田和泉橋警察署長。さらに1892年(明治25年)に郷土の人たちを連れ、未開の北海道に「丹羽村」(現・北檜山町丹羽地区)を建設した。墓は北檜山能教寺。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

【文献資料】
 『会津会会報 第13号』会津会 P16-17 瓜生篠橘「開拓成功者事績」
 丹羽五郎『我が丹羽村の経営』丹羽部落基本財団 付録「丹羽五郎自叙略伝」
 相田泰三『維新前後の会津の人々』会津士魂会 P151-152
 山崎長吉『古武士的校長列伝』北海道教育新報社 P127-132 「丹羽の教育の守護神」
 『福島県史 22 人物』福島県 P378
丹羽 族 (1815〜1868.9.21) 会津藩士。名家丹羽の支族。父能教の五男。戊辰会津戦争のとき、野尻代官兼兵糧総督。越後長岡藩の兵士・難民が八十里越の道を通り、会津入をしたために食料が窮乏し、その手当てに奔走した。しかし戦乱のために意に任せず、その責任を感じて、住民に遺書を残し自刃した。住民は感激し、その後の食料調達は順調に運んだといわれる。会津若松市大龍寺累代の墓所に葬る。(『幕末維新人名事典』新人物往来社)

(慶応4年)5月19日、長岡城が落ちたとき、藩主牧野忠訓は家族とともに会津へ脱れたが、7月29日の再落城のときは、河井継之助をはじめ長岡藩士が大挙この道(八十里越え)を通って会津へ避難した。その数1600人といわれる。おそらく一般市民で焼け出されて逃げ延びてきた者も多数いたはずである。
 丹羽族はこれら避難民の救助補給を命ぜられたのである。彼は属僚を励まし、土地の人々を諭し、百方手を尽くしてその対策にあたったが、なんといっても嶮しい山の中であり、食糧事情も悪く、人家そのものも少ないところに、戦いに疲れ、飢餓に倒れそうになった将兵と避難民が陸続と日夜を分かたず逃げてくるのである。とても手がまわりかねたのも致し方あるまい。また土地の人々も、この状態がいつまで続くのか見通しがつかぬとあれば、たとえ丹羽たちの説得を諒承したとしても、なけなしの貯蔵食料をむやみに供出するわけにもいかなかった。
 しかし丹羽族としては農民の窮乏もさることながら、家を焼かれ、将来の目安もなく、ただ目前の恐怖から逃れようと会津藩を頼ってくる老幼婦女子を見ると、そのあわれさに胸が痛んだ。とくに深層に育ったお姫さまたちが、乗るべき輿もなく、わらじも皮膚を破って堪えがたいためにほとんど裸足になり、息もたえだえに嶮しい山坂をたどり、泊るところといっても屋根の傾いたあばら屋に身分の低い者と雑居し、そのうえ一個の梅干さえ思うようにならず、ひえやあわの粥をすすってわずかに飢えをしのいでいる有様を見ることは、すべて自分の努力の至らなさとして眼に映じた。
 丹羽は心の痛むたびに東奔西走して村人たちを説諭し、倉を開かせて、できるだけの給養に努めたのであるが、とても不足を補うことはできなかった。ついに万策尽きた丹羽は、<断然身を殺して数千の将卒を救はんと決し、公務の合間合間に遺書を認め、深更に至りその日の業務終るを待ち、予て用意の酒肴を命じ、属僚以下を会し莞爾として酒杯を挙げ、談笑の間に奉公の至誠を説きて一同を犒ひ、或は之を慰め、上下歓談時を移して宴を徹せしが、族再び自室に入りて遺書を認め、翌午前2時頃に至りて筆をおき、従容として腹を屠り喉を掻き切りて死す>(『会津戊辰戦争』)
<属僚之を見て驚愕為す所を知らず、遺書を翻読再三して、其忠魂義魄に感激し、各村の代表者を会して之を伝へければ、一同感激措く能はず。各々家を空にして米穀を搬送しければ、給養頓に潤沢となり、漸く大衆を救ふを得たりといふ>(前掲書)(綱淵謙錠『戊辰落日』文春文庫)


【文献資料】
 平石弁蔵『会津戊辰戦争』丸八商店 P192-195 「代官丹羽族職に殉す」
 菊地成彦『野尻代官丹羽族の自害』著者刊
 『昭和村の歴史』昭和村 P119 「近世の人物 丹羽族」


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