ほうぎょく愚譚シリーズ2
・『真武根陣屋の怨霊』
・『大奥開かずの間』
・『抹殺された月』
・『星の話』
・『時刻』
(掲載:00/02/26〜01/07/08)
『真武根陣屋の怨霊』
さて。
ちひろさんの御尽力により、来たる6月には「富津オフ」が行われる運びとなりました。まことに祝着であります。
ところでこのオフにおいて、「上総義軍」として名高い、旧幕遊撃隊に参加した林昌之助率いるところの請西藩の陣屋である、「真武根陣屋」の跡地を訪れることになっておりますね。
かつてこの陣屋跡をめぐって怨霊騒ぎがあったこと、御存知でありましたでしょうか(^^;
これについては、中村彰彦氏が『還らざる者たち』の中で詳しく紹介されています。
それによれば、この陣屋跡の土地の所有者が「真武根陣屋遺址碑」を私有地の中に囲い込んでしまったため、これを怨んだ上総義軍の霊たちが怨霊となり、夜な夜なこの所有者を苦しめた、ということだそうであります。
霊能者の託言によって「30数名の怨霊」の存在を知り、震え上がった土地所有者氏は、あわてて旧請西藩戊辰戦没者の慰霊碑を建立し、先の遺址碑とともに見晴らしがよくて人目につく場所に移転設置したのでありました。
以来、所有者氏は怨霊に悩まされることはなくなったとか・・・
怨霊によって設置された「慰霊碑」。
見るのが楽しみでありますねえ(^^)
【参考】
中村彰彦『還らざる者たち』角川書店
『大奥開かずの間』
和宮。
といえば後の静寛院宮であり、公武合体政策がもたらした悲劇のヒロインとなりながらも、夫家茂との仲睦まじい夫婦関係はいまだに人口に膾炙するところであります。
その和宮が嫁いできた江戸城の大奥に、見るからに意味ありげな「開かずの間」があったそうでありますね。
なんでも、大奥最深部に近い、仏間の隣が、その「開かずの間」であったとのことで、噂では、かつてこの部屋で5代将軍綱吉がその正室に殺害された、という忌まわしい事件があったとか・・・・・。
以来この部屋には「将軍の亡霊が出る」とか「正体不明の黒い幽霊がいた」などという奇怪な話があとを絶たず、ついに「開かずの間」とされたそうなのでありました。
事実、12代将軍家慶がこの部屋の前を通ろうとした際、暗がりの中に見覚えのない者が平伏しているのを目撃しており、家慶はそれから程なく死を遂げることになります。
黄泉の国から亡霊が将軍を迎えに来た、と噂されても仕方のないことだったでありましょう。
さて、時は慶応4年の4月11日。
ついに江戸城は無血開城され、この日が城明渡しの日でありました。
伏兵がないことを証明するために、すべての襖や障子が取り払われ、柱のみが林立している江戸城内に入ってきたのは、一応徳川家の心情を思いやって薩長藩以外から指名された尾張藩士であります。
受城使たる尾張藩士は、役目がら城内を検分します。
そして当然ながら、いまだ締め切ったままにされている「開かずの間」を見つけることになったのでありました。
「あれは?」
「あれは、宇治の間と申しまして、開かずの間でございまする」
「開かずの間とは奇妙である。即刻開けさせよ」
そして「開かずの間」は、ついに禁断の時を経て開けられたのであります。
「こ、これは・・・・・!」
受城使が絶句した「開かずの間」の正体とは・・・・・・!?
【参考】
稲垣史生『幕末武家奇談』時事通信社
開かずの間には、その周囲の襖に、狩野派の手によるそれは見事な「宇治の茶摘の絵」が描かれていたそうでありますよ。その絵を守るため、わざわざ意味ありげな「開かずの間」にしてあったんですと(^^;
気持ちは分かりますが、人騒がせな話でありますなあ(笑)
『抹殺された月』
富山の薬売りは上杉謙信のスパイだった、という話があるそうでありますが、スパイとか諜報部員とかいう人々は、戸籍からなにから「抹消」されていて、その存在自体が「消去」されているとも聞いたことがあります。
実はそういう諜報部員宜しく、歴史から「抹殺」された月があったのでありました。
それは、明治5年。
この年の「12月」こそが、史上から抹殺された「幻の12月」なのであります。
明治5年といえば、ようやくにして松平容保・喜徳父子が赦免されたものの、辛酸をなめた斗南藩もすでになく、会津人士たちはそれぞれに新生活へのスタートを切っていたころでありますが、新政府はこの年の「12月3日」をもって暦法を改革、太陽暦を採用したのでありました。
ところで、単純に「12月3日」が明治6年の元旦に変更されただけなら、明治5年の12月は1日と2日の二日間だけでありますが、それでも厳然と「12月」が存在していることになりますね。
ところが。
セコイと言おうか、賢いと言おうか、新政府はたったの二日間で1カ月分の給料を官吏に払わねばならないことに気づき、たまたま前月の11月が旧暦の小の月で29日までしかなかったのを幸い、この二日間を「11月30日・31日」として11月に繰り込んでしまったのであります。
かくして、明治5年の「12月」はきれいさっぱり抹殺され、11月31日の翌日が1月1日となったのでありました。
大晦日が突然なくなって商売人たちが苦労したとかいう話が残っていますが、除夜の鐘を撞くべき寺々が、どういう対応をとったのかは残念ながら知りません。?(゚_。)?(。_゚)
【参考】
綱淵謙錠『幕臣列伝』中央公論社
『星の話』
かつて。
というのは、どうやら天文年間(1532―1554)あたりのことらしいであります
が、会津出身の足利伝助義近なる人物が浪速にいたそうであります。
足利幕府第11代将軍足利義澄の遠縁にあたるという話でありますな。
―――ある夜。
この足利義近は、南の水平線に大きな星が現れて、自宅の門前まで飛んでくる、という夢をみました。
すると翌朝、門前に捨子があり、「星のお告げか」とその赤ん坊を育ててみたところ、とても優秀な人物に成長し、やがて僧侶になりました。
この人物こそが、後の「天海大僧正」なんだそうでありますよ。
天海が「南光坊」と号したのも、そういう謂れがあったからだということでありますが…… (^^ゞサテ?
ところで、星といえば。
西南戦争のころ、天空に赤い巨大な星が出現し、人々はこれを「西郷星」と呼んで大騒ぎをした話は有名でありますね。
西郷死して星となる……という、一種の英雄不死伝説でありますが、しまいにはこの「西郷星」の傍らにある黄色い星が、「桐野(利秋)星」とまで言われるようになったそうであります。
一時は、望遠鏡でのぞくと「星の中に西郷さんがいるのが見える」というほどの騒ぎでしたが、逆に言えばそれだけ庶民の間では西郷人気が高かったということでもありましょう。
しかし実際のところ。
この「西郷星」の正体は、地球に大接近した火星であり、「桐野星」はこの火星と接近会合をしていた土星だったのでありますね。
アメリカあたりでは、この火星の大接近の際に火星の2個の衛星(フォボスとディモス)を発見していますが、こういう場合、科学とは何ともロマンのないものでありますなあ(笑)
『時刻』
まだ懐中時計が日本に入ってきて間もない頃。
時刻を言うのは「五じ、ですな」というふうに現代と一緒でありましたが、
これを書面にすると「五字、ですな」というように、文字の「字」を時刻の「時」にあてておりましたね。
司馬遼太郎の『燃えよ剣』でも、懐中時計を持った土方歳三が、嬉しそうに上記の如く言っている場面があったと思います。
―――さて、そこで明治の役所。
住民から何か相談を受けるような窓口があったようで、そこの張り紙にはこう書いてありました。
「相談は十字まで」
これを見た某人、「いかに優秀な人物とて、十文字で相談などできるものか」と憤慨したそうでありますが、たしかにそう見えますわねえ。
そんな混乱があり、時刻は「10時」というように「時」の文字を充てるようになったんでありましょうな (^-^)