謎の内藤家
私事で恐縮でありますが……
慶応4年、会津真龍寺の次男が「絶家を興し」て独立しました。これが呆嶷家へ続く「内藤家」でありますが、この「内藤」がどこの「内藤」で、いったいいつから絶家になっていたかなどという問題は、まったく伝わっておりません
(^-^;
通常、会津における「内藤」家とは、内藤介右衛門の一統である「内藤家老家」を指し、その家格は名門としてかくれなきものと言っていいものでありましょう。
しかし呆嶷の「内藤家」は、口伝ながら「介右衛門さんのところのものとは違う」とのことであり、藩祖保科正之公によって家老職に取り立てられた系統とは別派であることは間違いないようです。
そもそも、家老家である内藤家は直系のみが「内藤」を名乗ることができ、傍系は「武川」姓になるのが通例なのでありますね。
そういう意味では、会津において「内藤」を名乗るのは、結構オソレオオイものがあったのではなかったかと思うのであります
(^-^;
そこで、この「内藤家」について、連休中の気楽さを理由として、少し記してみることにしました。
まず、そもそも「内藤家」でありますが……
少なくとも、会津藩家老の「内藤家」は、その菩提寺である面川泰雲寺に所蔵せられている「武川頭軒信文小伝」という古文書に、
「会津藩内藤家は修理亮昌豊子孫」
――― とあり、その祖を「内藤修理亮昌豊」においていることがわかります。
そこで、この「内藤修理亮昌豊」とは何者かというと……
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内藤修理亮昌豊(ないとう-しゅりのすけ-まさとよ)
旧姓工藤氏。信虎代の老臣工藤下総守虎豊の二男で、信玄、勝頼に仕え侍大将。天文の初年、虎豊が信虎に強諌して誅されたため、昌豊は兄とともに甲州を出奔、信玄自立後よびもどされて工藤源左衛門を名のり、騎馬五十騎の侍大将に任ぜられた。
御幣を旗じるしとする昌豊は、信玄の期待どおりに成長し、信玄実弟信繁の川中島戦死後は「甲陽の副将」と称されるほどに知略に秀でた武将とうたわれた。『軍鑑』にも山県昌景の昌豊評として「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相ととのう真の副将なり」と記されている。
この昌豊は、永禄三年(一五八八)、これまでの軍功を賞されて信玄の命により甲斐の名族内藤氏を継いだ。信虎代の老臣、内藤相模守虎資が昌豊の父同様に信虎のために諌死して以来、断絶していた。『軍鑑』では昌豊が内藤氏の名跡を受けたのは永禄六年で、同時に上野国箕輪城代になったとしているが、現存する文献などにより同十一年三月、昌豊は工藤源左衛門尉の名で信玄から信州深志城(松本城の前身)普請の督励を命ぜられているし、また箕輪落城は同九年説が有力であるため、内藤氏を継ぎ修理亮を名のったのは同十一年以後と考えられる。
甲軍の副将との評価にふさわく、個人の名誉、功名より全軍的視野に立ち集団統制に力を尽くした。「合戦にのぞみ、大将の軍配に従ってこそ自軍を勝利に導くものである。いたずらに武将首だけを取ろうとする個人の戦いは味方を苦戦におとしいれる」といったエピソードがこれを物語っている。
元亀元年(一五七一)、北条氏康の遺命によって甲斐武田、小田原北条氏が再度同盟を結んだとき、信玄は昌豊に甲相和睦の全権を委ね、氏政との交渉にあたらせた。
天正三年五月の長篠戦では設楽原で甲州武士の最期を飾った。年齢不明だが、五十歳前後か。
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野沢公治郎「武田信玄家臣団人物事典」
(磯貝正義編『武田信玄のすべて』所収 新人物往来社)
内藤修理亮昌豊。
――― なる人物はつまり、武田信玄麾下にあった武将で、所謂「武田二十四将」の一人にも数えられる、かなり有能なる人だったわけでありますね。
ただし昌豊は元来「工藤氏」であり、「内藤氏」そのものは「これまでの軍功を賞されて信玄の命により甲斐の名族内藤氏を継いだ」と先述の「人名事典」にあるところをみると、かなり古くから甲斐にあった氏族だったかと思われます。
さて。
内藤修理亮昌豊が長篠の合戦で戦死した後、あとを継いで箕輪城主になったのは養子であった「昌月」でありました。
昌豊には実子もあったようですが、どういう事情があったものか、養子である昌月が内藤家を相続したのでありますな。
しかし実は、この「昌月」が内藤家を相続したからこそ、のちの会津藩家老家である「内藤家」があるのでありますから、歴史は面白い
(^-^)
なんとなれば、昌月の実父は「槍弾正」の威名も高い、「保科弾正忠正俊」なのであります。
この保科正俊が、会津藩祖正之公の養父である保科正光の祖父であるといえば、会津内藤家が家老職にあった理由もお察しいただけるでありましょうか。
内藤修理亮昌豊のあとを継いで箕輪城主になった「内藤大和守昌月」は、武田家滅亡の後、武田家中で同僚であった真田家に属し、そのまま箕輪城で病死。
内藤氏は昌月の子である「内藤源助直矩(なおのり)」のときに徳川氏に帰属、その命脈を保ちますが、駿河大納言忠長と徳川3代将軍家光との軋轢に巻き込まれた上、「内藤家もその乱に組せし疑いを以って」御家取り潰しの憂目にあってしまうのでありました。
かくて内藤家一統は、流浪の民と化してしまったのであります(T_T)
その後、若き高遠藩主保科正之はメキメキと頭角を現し、ついに山形城主を経た寛永20年(1643)、会津若松23万石へ転封され、名実ともに有力大名の仲間入りを果たしたのでありました。
流浪の内藤一族が保科正之公のもとで食客となったのは、時期未詳ながら「万治年間」とされていますから、仮にその元年だとしても1658年、実に駿河大納言忠長が没した1633年から25年の長き歳月が過ぎ去っていたことになります。
浪人生活25年以上を経て、内藤家の当主も直矩から子の「自卓(よりたか)」に代っていました。
正之公は、「内藤家は養父正光公の傍系である」として、この食客に2000石もの知行を与え、尚且つ会津藩家老職に抜擢します。
もし仮に、内藤昌月が保科正俊の実子でなければ、いかに内藤家が武田家中の名流であったとしても、正之公のこの厚遇はなかったでありましょう。
かくして、「会津藩家老内藤家」が誕生したのであります。
ちなみに、内藤家老家としての初代は「内藤近之助信清」で、この人は内藤家が保科家の食客となったときの当主である「内藤自卓」の孫にあたります。
自卓とその子である「信乗(のぶかつ)」が家老職に就いていないのは、内藤氏が食客になってから正式に保科家家臣となるまでにいくらかの時間があったであろうことと、両人の年齢的のことがあったのではなかろうかと想像されますが、詳しいことはわかりません
(^-^;
――― というわけで。
会津の名門といわれる「内藤家」とは、実は会津松平家家中の名流とされる所謂「高遠以来」の家柄ではないことがわかりました。
呆嶷のところに伝わる「絶家を興した」という「内藤家」は、これまで記してきたことからみて、会津真龍寺と内藤家老家との間に特別の関係でもない限り、まず無関係であると再確認されたと言っていいでありましょう。
内藤家老家が高遠からの系統であれば、高遠時代の因縁がなにがしか推測されないとも限りませんが、内藤家老家が会津で立家されたことが明らかな以上、本流しか名乗れない内藤家に「絶家」は存在しないからであります。
さて。
呆嶷家に連なる「内藤家」を興したのは、真龍寺の次男坊である「貫道」という人でありました。
真龍寺九世である河井善譲に嗣子が無く、順番からいえば次男坊の貫道が真龍寺十世を継ぐはずだったろうと思うのでありますが、「俺は坊主には向いておらん」とか何とか言って、三男坊に跡目を譲ってしまったのでありますね。
結果から言えば、この三男坊は、京都においては会津兵による西本願寺焼き討ちを中止させ、会津戦争後においては秋月悌次郎の謹慎所脱出を援け、東京で会津藩幹部と長州藩幹部の間を東奔西走して会津藩の処罰緩和に活躍する、というなかなかの活動をすることになりますので、跡目を譲った貫道の決断は間違っていなかったということになるかもしれません。
この三男坊が「河井善順」であることは、すでに御存知のところでありましょうか(^-^)
ところで、内藤家老家の系譜を見ると、「内藤得道」という名があるのでありますよ。
真龍寺河井家から独立したのが「内藤貫道」。
いっぽう、内藤家老家の末席に連なっているのが「内藤得道」。
さてこれは…… (^-^;
当然ではありますが、「内藤得道」と「内藤貫道」はまったくの別人であります。
秋月悌次郎の後裔であり、若松市立第1小学校の校長であった秋月次三の「内藤得道翁小伝」によると、「得道」は新潟の出身で、12歳のときに会津若松材木町の渋川家に養子にきたとあります。
修験大正院の分家である吉村家がその出自といいますから、会津若松へ来たのもその関係だったのでありましょう。
得道はその後、善龍寺(なよ竹の碑で有名な寺)で修行し、雲水となって修行の旅に出たりするのでありますが、この人の面白さは、僧籍のまま会津藩軍事方の命を受けて「密偵」となり、鳥羽伏見後の京洛の情勢を探ったりしていることであります。
会津戦争の序盤も会津藩各陣営間の連絡使みたいなことをやっていたようでありますし、相当に肝っ玉の太い人物であったのでありましょうね。
戦争が城下戦になると、さすがに得道も出る幕が無くなり、兄弟子が住職をしている面川の泰雲寺に身を寄せたのでありました。
そして運命の9月17日、得道はこの泰雲寺で内藤可隠(介右衛門の父)をはじめとした、内藤一族19人の壮烈なる自刃を見届けることになります。
会津戦争が城下戦となり、藩家老として藩士たちの指揮を執っている内藤介右衛門信節(のぶこと)以外の内藤家の者たちは、菩提寺である面川の泰雲寺に避難していたのでありますが、9月17日、実に鶴ヶ城開城の僅か5日前、敵襲来の報を聞いた内藤可隠が一族もろとも潔く自刃することを決断したのでありました。
会津ではこれを「内藤一族の殉難」と呼び、かの西郷頼母の一族の悲劇とともに「会津の悲劇の象徴」として語り伝えています。
さて、このとき。
一族の最期を見届け、その遺言や遺品を内藤介右衛門に届けたのが、泰雲寺に奇遇中の得道だったわけでありますね。
得道が内藤一族の最期を見届け、その遺品などを抱えて暗夜の道を西軍から逃走している際、喉の渇きに堪えかねて水溜りの水を手ですくってみたところ、それは人間の血であった、などという凄惨なエピソードも残っています。
得道はまた、兄弟子得英らとともに焼け落ちた泰雲寺の灰燼の中から内藤家の者たちの遺骨を拾い出し、これをねんごろに埋葬などもしました。
得道が「内藤得道」として、内藤家の家譜に記載されているのは、謹慎を解かれた介右衛門が泰雲寺を訪れた際、得道の労を多とし「無禄の分家」として内藤姓を名乗ることを許したからなのでありますな。
――― いっぽう。
わが家祖「内藤貫道」はというと……
謎の家名を立てて、会津戦争に従軍していたようです (^-^;
真龍寺の先代である十二世河井英龍翁の書き残した文書に「貫道は会津戦争に従軍して銃創を負った」という意の記述があるからでありますが、どこの部隊に所属していてどの戦闘で負傷したのか、ということは残念ながら未詳であります。
ただ戦後に斗南へ行っていることは間違いなく、「斗南藩貫属士族 内藤貫道」と記された古い戸籍の写しが我家に残っているのでありますね。
ポリス姿で写っている写真なども残っており、西南戦争へも出かけた気配があるのでありますが、これまたまったく事実関係がわかりません
(T_T)
結局、現在においてなお、わが「内藤」家は、その出自がまったく謎のままなのでありました。
最近呆嶷は、真龍寺河井家の旧姓が内藤だったのではないか、などと思っているのでありますが、いまのところ完璧に想像の域を出ていません
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謎は、これからも謎のままなのかもしれませんなあ。
【参考】有田秀央「内藤介右衛門の家譜と一族の自刃について」
(『会津史談』第50号 掲載)
ところで ―――
徳川宗家においても「内藤家」というのは、いささか特別のものでありましたね。
内藤義清という人が三河松平家の家臣であったことは記録的にはっきりしているそうでありまして、石川・植村・天野・林などという者たちとあわせて「岡崎の五人衆」などと呼ばれていたようであります。
この三河の内藤氏は、先祖が源頼朝の御家人だったなどとも言われ、家康のころには偏諱を与えるほどの密接な主従関係になっていました。いわば、譜代中の譜代でありましょう。
幕末にいたって、その徳川家旗本の名族である「内藤」を名乗った旧幕臣が、会津若松の地を踏んでおります。
内藤隼人。
言わずと知れた、土方歳三のことであります (^-^)/
わが「貫道」が会津城下で土方と出逢い、何かの拍子で意気投合し、「俺あ、内藤なんていう名前なんざいらねえんだ。欲しけりゃ、あんたにやるよ」「捨てるというのなら、拾わせてもらおう」などという会話があったとしたら、実に面白いのでありますがねえ(笑)
そうすると「絶家を興した」という口伝も、ツジツマが合ったりするんだけどなあ(爆)
(02/05/04〜02/05/05)
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