明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来

 
 七日町阿弥陀寺境内明治戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来を、当時このことに関してもっとも尽力せられたる町野主水氏の実話を乞い得たれば、これを以下に要録せり。然れども、詳細なる点に至りては聞き漏らしたること、及び忘失したることも多かるべく、且つ記事中誤謬の点等なきにしもあらざれども、これ皆筆者の粗漏の罪にして決して老公殿の伝えられしところに誤りありたるにあらざるを以てここに附言す。
 抑々明治戊辰の戦役は実に悲惨を極めたるものにして、当時の惨状、まことに戦慄せざるを得ざりしなり。西軍は東は白河、郡山、本宮、二本松、西は越後高田、新発田、村松、南は日光方面より進撃し、我軍亦随これらの各方面に分出防禦の任に当たり、激戦に激戦を重ねて遂に衆寡敵せず、各所ともども退陣のやむなきに至り、次第に軍を引きて会津鶴ヶ城に入り、八月二十三日を以て籠城せり。然れども尚高田(現・会津高田)より飯寺方面の間、南町、材木町より面川、一ノ堰、七日町、坂下方面等の激戦絶えずして彼我の死屍堆をなし、空しく犬烏の餌となるの惨憺たる有様なりしなり。
 然るに九月二十三日降伏するに至り、藩公御父子は滝沢妙国寺に御謹慎遊ばされ、一般藩士は猪苗代及び塩川の二ヶ所に、老職其の他の重臣四十余名は滝沢村において謹慎の身となれり。
 時に官命は彼我の戦死者一切に対して決して何等の処置をもなすべからず、もしこれを敢えてなす者あれば厳罰すというにてありき。されば誰ありてこれが埋葬をなす者なく、死屍はみな狐狸鳶烏の意に任せ、あるいは腐敗するの悲惨を極めざるべからざるなり。

 ここに於いて、身は仮令監禁謹慎の中にありといえども、義に富める会津武士として戦友殉死者幾千の屍を空しく山野にさらすに忍びず、且つこれもと忠君愛国の本義に基づきしかも君国のために白骨を晒すに至りたる者、如何にかしてこの惨を救済せんとの義心禁ずるあたわず、遂に町野・高津の両氏率先して西軍の屯営本部(当時大町融通寺)に交渉の任に当られ、誠心誠意を尽くして以て幾十回となく死屍集収並びに埋葬の件を請願せられたれども、何時も官命未だ許諾なければ手を下すべからずと頑として聴許せられず。両氏を始め、一同の苦心も今や水泡に帰せんとするに至れり。
 この時に当り、両氏最後の交渉をなさんと固く決心覚悟せらるるところあり、今一度嘆願して尚願意の聴許せられざるに於いては只敵の隊長と刺違えて死せんのみと、遂に最後交渉嘆願せられしに、その誠意漸く彼に通じ隊長の三ノ宮某氏(三ノ宮氏はよほど常識に富み物の道理に明敏なる人なりしと)は遂に城西薬師堂川原及び小田山麓の二ヶ所に会津五郡及び東部(中通地方)沿道における穢多を糾合して広く四方の町村落各地における死屍を集収せしむべしとの返答を得て、滝沢村に帰られ、この旨を一同に通ぜられたる時の喜は実に憂愁中の喜なりしとなり。(もとより謹慎中にあらるることなれば、宿舎の出入自由なるべくもあらず、毎回看守人付添なるは言うを俟たざるところなり)
 然るにその後、無心の穢多どもの死屍を取扱う模様の甚だ残忍過酷なることを聞知せらるると共に、苟しくも国事に殉難せられし戦友の犬馬の死屍あるいは死罪囚の棄捨場にこれ等と同じく取扱わるることの如何にも遺憾の極みなればとて、ここに再び両氏等交渉の任に当たられその次第を細陳して、苟くも君国を思うの一念遂にここに及べる誠忠者の死屍を犬馬同様穢多輩に取扱わしむることの甚だ不面目なれば、是非これを普通人民をしてその任に当らしめられんことを乞われしに、三ノ宮氏は死屍捨場付近に寺院ありやと問われしを以て、穢多町の近傍に阿弥陀寺並びにその付近に長命寺あることを答えられしに、許可せられしとにはあらざるも、以心伝心とや言わん、黙許せられし如き感ありて、その日はそのまま別れられたるに翌日に至りて、死屍は前二ヶ寺に埋葬することを許容する旨申し渡されたるなりと。

 ここに於いて今の地を選びて埋葬の場所と定め、穢多をしてここに屍を集収せしめたるることとなり、阿弥陀寺は墓所となるに至りしなりと。而して穢多どもを以て死屍の取扱いを丁寧ならしめんことに苦心せられしも、当時藩士は穢多と語を交うること厳禁せられ(勿論卑業者なれば誰も交際せず)あれば誰ありてこの交渉に行かるる人なかりしが、御鷹匠を務めらるる伴氏は鷹の餌として鳥獣を得んがために特に穢多より買入るることを許可せられありしを以て、伴氏を介して交渉せられしに当地の者のみならば兎も角も、すべけれど諸方より集合せる烏合の穢多どもなれば如何ともせん様なし。然れどももとより金銭を得んがために集まり来たれるものなれば、金だにあらば兎も角もなり申さんと云うを以て、何程を要するかを問えば、三千両とのこと故直ちに帰宿一同にこのことを計り、一同にて百方苦心漸く三千金を調達せられたるも、これを配分して与える方法なく、妄りにこれが配分を穢多頭に託するには甚だ危険のことなれば如何にせんと、一同苦心の結果詮方なければ、誰か穢多の如く変装して彼等と同様その仲間に交じりて同様の仕事をなしつつこれを使役するに如かずとの議となり、この任に当たるべき人を志願せしめられたるに、何も君のお為戦友の為なればとて二人の志願者を得たれば、直ちに屯営本所に至り、その旨申入れ許可を乞われしに(もとより密かに混入し得べきことならねば)公許はなけれども委しく両者の人相を問われ黙許せらるるものなること、以心伝心により知られければ、町野氏等はそのまま帰られ直ちに両人をして変装せしめ、穢多どもの仲間の如くして入込ませ、適宜に金銭を配与しつつ従役せしめられたるなりと、その苦心の程実に想像の及ばざるところなり。

 如斯して四方遠近より死屍を集収するに戦後散乱の中とてこれを運搬すべき器具なく、あるいは菰に包みて担い又は叺につめ込み古長持の破れたるに入れ、もしくは板戸の棄あるを拾いてこれを用い、甚だしきに至りては水風呂桶をさえ用いたりと。然ればこれを其の儘に埋葬すべくにあらず、且つこれ等雑多なる器具のまま埋めんには広漠たる土地を要すべく、到底阿弥陀寺の境内を以てしては埋め得べきことにもあらざりしなり。依てやむを得ず境内(現墓所)八間四方の地を椀形に掘り(深さ数間)その中に菰を敷き死屍を運搬し来たれる器中より取り出で、各人を北枕に臥し、その上をツタ菰にて被いさらにその上に死屍を横臥せしむる様堆積せられたるに、もとより幾千という屍のことなれば、積みて地平を抜くこと数尺の高さに累々たりしも、尚残余少なからざるの有様なれば、その残りたるを長命寺境内に埋らるることとなし、これを同寺に葬送し、前者には四方より土砂を運搬してこれを被い一大塚を設け、ここに大庭氏の手になる「殉難之霊」と書したる墓標を建て、付近の市民に命じてささやかなる拝殿を建てしめ、一日にして墓全く成れり。
 然るに翌日に至りて、敵の屯営本部より墓標及び拝殿を建てたることの不可なるを以て大至急取除くべしとの命あり。如何に嘆願するもこれのみは許諾せられず、遂にこれを除去するのやむなきに至れりと。(而してその後に至り漸く有志相計り今日の如きになすを至れりと)
 然れども戦友を思い武士の体面を重んじ、義に強き誠心誠意を以て事に当られたる一念は天に通じ、地を貫きその進捗にここに至り、山野に晒して狐狸鵲鴉の意を縦にすることを免れられたる幾千の忠臣の魂魄為に迷うところなく上天して瞑せられ、その偉蹟の長へに伝わるに至りしこと実に当事者諸賢の賜なり。
 その後有志相計り今日の様をなすに至れりと。


 町野老公附言して次の如く語られたり。

 戊辰の戦役我会津は賊名を負いたれども、決して天朝に敵せんの微意ありたるにもあらず、況や先主容保公の前後七年に渉る禁裏守護の職に当りて誠忠既に世に顕然たるに於て、何ぞ一朝にして不忠の臣とならるるの理あらんや。また叡聖文武なる上御一人の御聖旨一視同仁を以て本とせられ、四海等しく臣子として愛撫し給うに於て何ぞ先帝陛下に誠忠無比なりし会津公を叛逆の臣と覧わすの理あらんや。
 この戦たるもとより名を朝廷に仮りたる西軍の心より出でたるものにして、所謂私闘たるなりしなり。
 然れどもこの期を画して王政復古、維新大政の一大基礎の確立せしめ給わんとの御聖慮以て、会津藩をしてこの犠牲たらしめられたものに外ならざるなり。これを以て名は朝敵たるも、その実や決して朝敵にはあらざること明らかなることを忘るべからず。
 故に大隈伯は曰く、戊辰の戦役会藩は単り朝敵を以て目せられたるも、これ当時の事情を知らざる者の視るところにして、吾人の如き寧ろ会藩のこの犠牲となり、しかも義に厚き誠忠深きその本領を尽くしたるものの、この名を負うのやむなきを憐れむと。この言に視るも、会藩の決して事実に於て賊軍たるにあらざるや明らかなるべしと。
「拙い解説」
 これは『會津史談會誌 第三十三号』に所収されている「明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来」という文章を、呆嶷が若干手を加えて少しだけ読み易くしたものです。
 体裁は「町野主水・談」ということになっていますが、その実は石川寅次という人の代話であり、この時から既に30年以上前に亡くなっている主水の「ナマの言葉」ということではありません。
 その点、内容に誤りがあるかもしれないことは、冒頭で筆者が予め断っています。

 さて、お読みいただければわかりますが、ここに多くの会津人が未だに憤慨してやまない「会津藩士の遺体埋葬禁止」のことが書いてあります。会津戦争後、そこかしこに散乱している会津藩士たちの遺体を、時の民政局は「賊は禽獣と同じであるから、埋葬する必要はない」と埋葬することを禁じ、獣や鳥に食い荒らされるまま、腐乱していくままに放置させられた、という話ですね。
 これは今でも多くの書や小説に「実話」として語られ、このことこそが会津悲劇の最たるものと受け止められ続けています。
 しかしながら、すでに大塚實氏が『歴史春秋 第55号』の「伴百悦と束松事件をめぐって」にて記されているように、この「埋葬禁止令」は上記の「戊辰戦役殉難之霊奉祀の由来」と柴五三郎の『辰のまぼろし』にしか出てこないのです。
 それどころか、当時の民政局の達し書の写しなどを見ると、かなり早い時期から遺体処理の指示を出しているのですね。そして無論それは西軍だけのものではなく、会津藩士の遺体についてもです。

 そのつもりで上記の「〜由来」を読んでみると、「彼我の戦死者一切に対して」遺体処理が禁じられたと記してありますね。決して会津藩士の遺体だけが埋葬禁止にさせられていたわけではないようです。おそらく、遺体の身元が判明するまで、ということではなかったでしょうか。

 思うに。
 町野主水らが尽力したのは、おそらく埋葬の場所と方法の是正だったでありましょう。すでに穢多と呼ばれる非人階級の人たちの手によって遺体の埋葬が始まっていました。しかし会津藩士のそれは「罪人」として罪人塚へ埋葬されつつあったわけです。
 町野らが問題にしたのは、まさにこの点です。
 つまり「〜由来」の後段部分こそが事実で、前段の部分はおそらく何らかの誤聞が混入してしまったものではありますまいか。ことによるとそれは、白虎隊士の遺体をいち早く埋葬して民政局から咎められた吉田伊惣治の件と混乱しているのかもしれませんね。