会津松平家の妻たち

夫君 名前 法名 身分 特記事項
初代
正之
菊姫 泰教院殿耀誉天晴凉月大姉 正室 内藤左馬助政長の娘。寛永10年7月6日入輿。同11年12月21日長男幸松を出産
(早世)するも、同14年5月14日逝去。向島霊巌寺に埋葬されたが、明暦3年正月
18日に火災により寺が焼失したため、内藤家の菩提寺である三田二本榎光台院
へ改葬された。行年20。
まん 聖光院殿隠誉寂照清安大師 継室 京都上加茂の神主藤木氏の娘。正頼(18歳で没)、媛姫(18歳で没)、中姫(8歳
で没)、将監(1歳で夭折)、正経(2代藩主)、石姫(20歳で没)、風姫(3歳で夭
折)、亀姫(2歳で夭折)、正純(20歳で没)の生母。万治元年7月「媛姫事件」を引
き起こし、正之から遠ざけられる。元禄3年7月18日、目黒大崎の別邸において逝
去。行年71。墓所は三田の実相寺。
富貴 栄寿院殿妙長日善大師 侍妾 尾州浪人沖友也昌紀の娘。江戸の藩邸に奉公中、正之の寵を得て懐妊し、会津
へ下って三ノ丸の別邸に入る。3代正容の生母。享保5年1月18日逝去。院内の
松平家廟所へ埋葬。行年76。正之の死後、継室の列に列せられた。
しほ 徳性院殿妙体 侍女 牛田氏某の娘。江戸藩邸に奉公中、正之の寵を得て正保2年7月27日菊姫を出
産。同4年、再び懐妊したので鶴ヶ城ニノ丸の別邸に入る。慶安元年1月12日、
松姫(後に加賀前田家へ嫁ぐ)を出産。慶安4年6月25日、25歳で逝去。最初浄光
寺へ葬られたが、寛文4年4月、院内御廟へ改葬された。
(未詳) (未詳) 侍女 万治元年3月15日、金姫を出産。その後のことは未詳。
2代
正経
くま姫 仙渓院殿昌室家桂大禅定尼 正室 加賀中納言前田利常の娘。寛文6年3月31日入輿。天和元年10月3日、正経が
逝去したため、落飾して名を仙渓院と改める。元禄元年7月に初めて会津へ下っ
た際には、身分の上下を問わずに多くの者から会津の話を詳しく聞き、町人や農
民の中に忠孝に優れた者があると聞けばこれに褒美を与え、罪人の処罰が厳し
すぎた場合にはその罪一等を宥し、常に仕置きの正道たらんことに心を砕いた。
ために、仙渓院が在国の期間、牢舎は無人になったという。正徳5年2月8日、御
歳65にて逝去。下谷広徳寺に葬られる。
せん 恵照院智岩松貞大姉 侍妾 会津藩士池原吉左衛門某の娘。承応2年12月18日、会津にて生まれる。鶴ヶ城
の奥に奉公するうち、正純の寵を得て懐妊。延宝4年7月20日すみ姫を出産する
が、公表する前に姫が早世してしまう。正経没後は松貞と改名して法体となり栄
寿院に仕えつつ、城内奥向きのことを取り仕切った。享保14年4月10日逝去。行
年77。建福寺に葬られる。
3代
正容
竹姫 艶陽院殿花光見栄大師 正室 阿部豊後守正武の娘。将軍家からの斡旋により、元禄4年11月15日入輿したが、
翌5年夏より結核を病み、同6年3月6日、16歳の若さで逝去。阿部家の菩提所で
ある下谷泰宗寺へ葬る。
ゆら 栄光院殿鷲峯日華大姉 継室 本多家浪人横山右衛門常定の娘。和州郡山にて誕生。元禄6年11月、おもんの
方らと一緒に女中として藩邸に奉公中、正容の寵を得て元姫を芝邸で出産。元禄
10年12月25日に会津で正甫を、同12年7月3日には再び江戸で栄之丞を出産す
る。宝永3年6月仙渓院の勧めもあって正式に継室の列に列する。元文2年3月4
日、59歳で逝去。
伊知 本妙院殿遠寿日量大姉 侍妾 塩見平右衛門行重の娘。寛永7年1月6日江戸に生まれ、享保8年8月、14歳で
栄光院の女中として召し出されたが、容姿美麗の上、小謡や三味線に堪能だった
こともあり、「君公の寝覚めを慰めよ」と会津へ下されて正容の側に侍ることとなる。
享保9年8月16日長菊丸(後の4代容貞)を出産するも、同10年11月物頭笹原伊
三郎忠義の嫡男与五右衛門忠一の妻として下賜された。同12年には忠一との間
に富子という娘も生まれ、夫婦仲睦まじく暮らしていたが、正房・正甫などが相次い
で他界し、ついに長菊丸が正容の嗣子となったため、急遽若君の生母として城へ
戻された。しかし、第4代容貞となった長菊丸が、自らの生母のことを知ったのは、
彼女が享保17年7月13日23歳の若さで逝去した後であったという。遺体は院内御
廟に埋葬され、後に正式に継室の列に列せられることとなる。
もん 智現院光誉恵照大姉 侍妾 江戸の浪人榎本又兵衛遺倫の娘。女中として藩邸に奉公中、正容の寵を得て元
禄9年4月10日に男児(久千代丸。後の正邦)を出産。同10年、俄かに正容の不興
を買い、懐妊中だったにもかかわらず老女の森田に預けられて会津へ下らされる。
会津では二ノ丁賄所内の一室に幽閉され、そこで男児を出産するも、子は富貴の
方へ預けられて春之助と名付けられた。おもんの方が正容の不興を買ったのは、
男児を生んだことによって増長し、さらに正容の寵愛がおゆらの方に深いと邪推し
て嫉妬に狂い、正容の前で懐剣を抜いて自害するフリなどしたためだったと伝えら
れている。その後、実子の世子正邦も他界し、おもんの方は悲しみの底に沈んでい
たが、江戸城大奥にあった従妹のおりんのとりなしもあり、幽閉を解かれて神尾八
之丞に妻として下げ渡された。しかし、おもんの方の身の不幸を呪う心は消えず、
結局実家の榎本家に引取られて寛延3年に没した。願成就寺に葬られる。行年不
詳。
礼津 珊瑚院殿樹林日果大姉 侍妾 会津藩士篠沢儀右衛門秀全の娘。貞享3年、江戸に生まれる。宝永3年、くま姫
の御小姓として召し出され、正徳元年に正容の側女中となる。同2年、会津で男児
(万吉)を出産。その後も享保元年12月27日には養姫を、同3年5月28日には政五
郎を出産するも、同年7月に山崎左助実方の妻として下賜された。山崎の妻として
一女五男を産んだ後、同13年6月26日没。行年36。墓所は天寧寺。
きち 量寿院釈尼慈鏡 侍妾 尾州浪人小林了丹義昌の娘。元禄6年、江戸の生まれ。はじめ、おゆらの方の女
中として奉公に上がるが、正徳元年春に正容に仕えることとなり、同年12月19日
に会津で男児(徳千代、後の正房)を出産する。同4年11月7日、堀半右衛門長宗
の妻として下賜され、一女二男を産む。享保9年9月、正房が疱瘡に罹ったことを
憂い日々水ごりをして神仏に快癒を祈願したが、それがもとで肺炎を病み、同10年
5月23日に33歳で死去した。長命寺に埋葬。
佐久 唯心院浄林知清大姉 侍妾 会津藩士外島権内定重の娘。元禄15年、会津にて生誕。はじめ外島覚左衛門定
延に嫁したが寡婦となり、享保10年5月御子様付御次女中として召出され、はから
ずも正容の寵を得て同11年9月27日に常姫を出産する。その後も、同13年9月23
日には、後の会津松平家唯一の分家当主となる容章を出産したが、翌14年6月に
自ら望んで暇を乞い、兄の外島左一兵衛敬忠の許へ下がった。正容の死後、密か
に落飾していたところ、おゆらの方の強い希望もあって宝暦3年の正月より容章の
許へ召出される。安永6年1月28日死去。行年76。江戸貝塚春松寺の塔中吟窓院
に埋葬された。
4代
容貞
登茂姫 正覚院殿香雲妙花大姉 正室 松平讃岐守頼豊の娘。享保7年1月13日江戸に生誕。延享元年11月25日入輿。
同3年5月17日、病のために和田倉の藩邸で逝去。下谷広徳寺に葬られる。容貞
より2歳年長ということで、最初はどこかよそよそしい関係であったが、庭へ出よう
とした容貞の草履を登茂姫が手ずから直したことにより、これに感動した容貞が以
後は仲睦まじくすることを誓ったという。
きや 寿詮院殿麗誉浄岳慧亮大姉 侍妾 江戸三田伊皿子の商家館新兵衛の娘。享保13年11月6日生まれ。寛保2年容貞
の側女中として召出され、延享元年1月9日に後の5代容頌を会津で出産し、同3
年10月22日には喜十郎(貞歴)を出産する。鶴ヶ城三ノ丸の御館に住んでいたが、
宝暦2年3月喜十郎が江戸へ上るのに伴って三田の藩邸に入った。同7年10月3
日、39歳で死去。死後、継室の列に入れられる。遺体は三田の実相寺に埋葬。ち
なみに、おきやの方が子供を生んだことに激怒した父・新兵衛は、誰の言葉にも耳
を貸さず「娘を返さねば奉行所に訴え出る」と息巻いていたが、会津藩お抱えの能
役者岡田七右衛門の一喝によって事なきを得た、という話が伝わっている。
そよ (未詳) 侍妾 会津藩士安恵吉兵衛重直の娘。奥女中として城中に奉公していた折、容貞の寵を
得て延享4年の4月11日に吉姫を出産した。容貞逝去後に暇を乞い、高槻藩士の
中村忠右衛門長昌に再嫁した。
きし (未詳) 侍妾 中村某の娘。奥女中として奉公中に容貞の寵を得、延享4年10月2日に員姫を産
む。容貞逝去後に会津松平家を去り、公家の御家人某に嫁いだが、家が没落して
一人身となった老後、三田の藩邸内に長屋を与えられて生涯をそこで過ごした。
5代
容頌
直姫 玉章院殿心月光花大童女 加賀中将前田重照の養女。将来は容頌の正室にとの内々の約束を交わしていた
が、宝暦元年8月18日に僅か9歳で逝去。墓所は庄内の大督寺(実父は酒井左衛
門尉忠寄)。
沛姫 春台院殿宝林智粲大姉 仙台中将伊達宗村の娘。宝暦6年12月25日に結納を済ますも、翌7年1月28日に
病により急逝。墓所は伊達家の菩提寺である高輪東善寺。
銑姫 浄心院殿貞厳紹節大姉 正室 阿部飛騨守正允の娘。宝暦10年9月29日入輿。同13年11月14日、労咳のため逝
去。下谷広徳寺に埋葬。
歳姫 光勝院殿宝純亮鏡大師 再室 毛利大膳太夫重就の養女。長州は萩の生まれ。明和3年9月21日入輿。当初は
誠姫。同7年6月11日、労咳を病んで逝去。毛利家の菩提寺である青松寺に葬ら
れる。下谷広徳寺にも墓碑銘あり。
みさ 得悟院 侍妾 江戸の町人内野喜兵衛の娘。安永4年2月、容頌の御小姓として召出され、その
寵を得る。子を生すには至らなかったが、生涯仲睦まじかったという。
容頌逝去後、盲目の母を養うために江戸にあったが、その母も死ぬと、望んで会
津へ下り、容頌の墓所近くで余生をおくった。
6代
容住
謙姫 寿鳳院殿栄室宗繁大姉 正室 彦根中将井伊直幸の娘。天明4年6月27日、江戸に生まれる。寛政9年2月21日
入輿。享和元年10月23日、長男大炊を出産するも早世。文化2年12月18日、金
之助(後の7代容衆)を養子とする。天保3年7月17日逝去。墓所は下谷広徳寺。
見衛 戒心院 侍妾 江戸の商家石川氏の娘。天明3年5月11日生まれ。享和元年7月に謙姫の御小
姓として召出されたところ、容住の眼にとまり、同2年10月より御側女中となる。
同3年9月15日、会津で男児を出産(後の7代容衆)。嘉永6年、71歳で没。院内
御廟に葬られた。
正甫 艶姫 円珠院殿 正室 松平下総守忠雅の娘。正徳4年12月2日に結納を交わしたが、入輿前の同
5年8月27日に逝去。江戸天照寺に葬られる。
英姫 僊苗院殿 再室 浅野安芸守吉長の娘。享保6年1月21日に入輿したが、同12年3月23日に正甫
が逝去したため、浅野家の強い要望もあって実家に戻った後、相馬因幡守徳胤
に再嫁する。宝暦12年1月8日逝去。墓所は相馬家菩提寺の牛込宝泉寺。
容詮 頴姫 松寿院殿貞操妙幹大禅定尼 正室 加賀宰相前田治脩の養女。実父は中将前田重教。明和3年8月26日、金沢生ま
れ。天明3年12月15日入輿。同5年6月17日、容詮逝去。同年12月27日落飾して
名を松寿院と改める。容詮の遺命により、金之助(後の6代容住)と為之助(後の容
序)を養子とする。実子でない二人の子供に対しても慈しみの心篤く接するその態
度に、周囲の者はみな驚きを隠せなかったという。また、舅の容頌にもよく孝行し、
周囲にもよく心を配ったので、誰からも好かれる賢婦人であった。享和3年閏1月
10日、臨終の床から容頌に暇乞いを述べ、容住には「人の諌める言葉をよく聞くの
ですよ」との言葉を遺して息を引取った。行年38。墓所は下谷広徳寺。
久米 心了院殿専誉常照貞繁大姉 侍妾 容詮が容頌の養子となって会津藩世子となる以前から容詮の側に侍る。安永2年
9月28日に照姫を出産し、その後も同4年8月5日には富五郎、同7年12月20日金
之助(後の6代容住)、天明3年9月23日為之助(後の容序)をそれぞれ出産した。
しかし、容詮が世子になるにあたり、正室を加賀前田家から迎えることとなったた
め、当時懐妊中だったにもかかわらず実家へ戻された。ところが同5年6月17日に
容詮が急逝し、残してきた金之助が世子となったことにより、急遽再び三田の藩邸
に引取られることとなる。世上、容詮の急死は久米の怨みによるものではないかと
もっぱらの噂であったという。寛政元年の春頃から病にかかり、6月の末日に死去
した。遺骸は三田の実相寺に葬られる。
容章 嘉代 長昌院殿本誉重誓貞仁大法尼 侍妾 武州今井村の農民、香取氏の娘。容章の側に侍るうちに寵を得て、寛延3年4月6
日容詮を出産。続いて宝暦5年2月27日には当姫を、同9年12月11日には留姫を
出産した。容詮が容頌の養子となり、会津藩世子の御生母という立場になった。文
化元年5月10日卒し、三田実相寺に葬られる。
7代
容衆
元姫 貞鑑院 正室 将軍徳川家斉の娘。文政4年2月23日入輿するも、同年8月22日逝去。小石川伝
通院に葬られる。行年14。
8代
容敬
節姫 本光院殿瑞岩妙祥大姉 正室 佐竹左京大夫義和の娘「せつ」。文政7年11月に、第8代容敬の正室として入輿す
るも、翌8年12月10日没。行年16。墓所は下谷広徳寺。
厚姫 清仙院殿齢保妙寿壽大禅定尼 再室 前田加賀守斉廣の娘。文政9年2月13日入輿。天保10年に女児を出産するが早
世。嘉永5年8月12日、和田倉の藩邸内で逝去。
いと 侍妾 小寺氏の娘。二女を産むが、いずれも早世する。
すが 侍妾 岡崎氏の娘。四男三女を産むが、五女の敏姫以外は早世。
9代
容保
敏姫 宝鏡院殿鑑室智明大姉 正室 8代容敬の娘。弘化3年4月27日、容保を容敬の嗣子とするにあたり、将来その妻
となることを決められる(このとき4歳)。安政3年9月19日婚儀。しかしわずか4年
後の文久元年10月に19歳で逝去。
名賀 霊光院殿喜誉妙教大姉 侍妾 川村氏の娘。弘化元年1月5日生まれ。美弥姫、恒雄の生母。大正9年8月28日没。
行年72。
佐久 瑞光院殿信誉智貞大姉 侍妾 田代氏の娘。弘化3年生まれ。11代容大、健雄、英夫、12代保男の生母。明治42年
8月29日没。行年63。