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理学博士 山川健次郎
上人名は善順、別に順と称す。
姓は河井、若松真龍寺第十世の住職にして、第8世住職善教の子なり。
天保七年を以て生る。長兄第九世住職善譲子なし、上人を養ふて法嗣と為す。善譲の歿後住と為る。
上人生れて頴悟、夙に内典外典を学び、略々大意に通ず。年十九越後に学び、留学数年、業益々進む。
既にして京師に上り、本山西本願寺の学寮に入り、研鑽すること年あり。
時に天下多事。
諸藩の志士、京師に集り、尊攘の論紛起し、人心恟々たり。
文久二年、忠誠公京都守護職に補し、居を黒谷に定めらる。而して其の扈従の臣は皆英才達識の士を選て之に充つ。上人之と日夕往来交歓す。
上人人と為り、卓落不羈にして細行を修めず、身は方外に在りと雖も、心は深く国事を憂え、将に大に藩国に貢献する所あらんとす。
上人また言論に雄なり。
其のひとたび口を開けば、俊弁滔々口を衝いて出で、以て敵手を説服せざれば已まず。是を以て交友間に、鬼谷先生の称あり。蓋し鬼谷は弁士蘇秦、張儀の師にして、弁難縦横の術を修めたる者なり。
元治元年七月、京師蛤門の変あり。
この時長州の敗兵にして遁れて西本願寺中に匿るる者あり。会津兵追跡し、寺に就て之を求む。寺僧其の事無きを保して之を辞す。壮士輩之を信ぜず、大に怒りて伽藍を焼かんと欲す。準備既に成る。
衆僧は周章狼狽為すところを知らず、上人が会津の産にして、且つ才弁に長ずるを以て、其の救解を嘱す。
上人乃ち先ず潜匿する所の長兵を諭して寺を出でしめ、直ちに黒谷に往き、藩の公用人野村左兵衛、広沢安任等を見て曰く、本願寺の長兵を隠匿せるは、固より一片の慈悲心に出づるものにして、唯其の急を救ふに在り。窮鳥懐に入る、猟夫も猶之を殺さず。況んや仏徒に於いてをや。公等我が為に藩兵の怒りを解き、以て本山をして兵火の禍を免れしめよと、辞気誠懇、声涙倶に下る。
左兵衛等感動し、之を容れ、馳せ行きて壮士輩を諭し、漸く事なきを得たり。
法主大に之を徳とし、真龍寺の班を進めて院家となし、院号を与えて清涼院と称せしむ。蓋し異数なり。
慶応三年、上人若松に帰る。
翌年、戊辰の役起る。
九月、西軍の参謀奥平謙輔先生、兵を率いて来たり、坂下駅に次す。先生は長藩士なり。吾藩士秋月胤永と旧識あり、乃ち一書を裁して之を贈らんと欲す。時に秋月は城中に在り、西軍四面城を囲むこと数重、先生使者を募るも応ずるものなし。
或る人先生に説て曰く、若松真龍寺の僧善順なる者あり、今や難を避けて城外下新田に在り。其の人任侠にして義風に富む。公宜しく之に書信を託すべしと。
先生乃ち人をして上人を招がしめ、見て大に喜び、胤永に贈るの書を託し、先生は事を以て越後に帰る。
開城の後、胤永猪苗代に屏居す。上人守兵に乞ふて之を訪ひ、先生の書を胤永に交付す。胤永は書を観て先生の厚意に感じ、且つ上人の人となりを奇とし、之に頼りて竊かに先生を訪ひ、藩の為に請嘱する所あらんと欲す。
因て上人及参謀小出鉄之助と謀り、鉄之助は剃髪して僧となり、大盈と称す。胤永は寺僕に扮し、共に上人に従て北行し、越後府に先生を訪ひ、之に面す。
胤永の「行無輿兮」の長篇は、蓋しその帰途の作なり。
是に於て両士会談、意気投合し、先生は郷友前原一誠 、大村益次郎等に説き、会津藩の為に善後の策を講ずべきことを約す。
而して鉄之助は、藩国の為に、書生二人の養成を先生に嘱し、其の承諾を得、共に辞して会津に帰り、藩相に復命し、尋で遊学の書生二人を索め、余は小川亮と共に其の選に当れり。
十二月、上人は余と亮とをして寺童に扮せしめ、之を従へて再び越後に赴く。時に窮陰沍寒、積雪路を没し、加ふるに處々守兵の誰何に逢ひ、苦辛百端名状すべからず。
到れば則ち奥平先生は既に佐渡に赴任し、長州の士高須梅三郎越後府に判事たり。上人乃ち余等を梅三郎に託して帰国す。幾くもなく余等は佐渡に航し、先生に謁し、藩相より贈る所の秋広の刀を呈せり。
後亮は陸軍に入り、累進して工兵大佐に至り、明治三十三年に卒せり。
維新の後、上人東京に出て、会長両藩の間に往来して周旋甚だ力む。
屡々藩相山川浩を藩邸の幽居に訪ひ、或は暮夜奥平先生を此に導き来りて、浩と会談せしむ。
又時々一誠 、益次郎らと酒楼に会見せり。当時政府の要路に在る者、多くは花柳の巷に出入りす。上人も亦法服を脱し、軽衣緩帯、酒肉謳唖の間に追陪周旋して、鞠躬力を復興の事に尽す。知らざる者は、上人を以て藩資を遊蕩に濫費する者と為して、之を嘲るに至る。
上人夷然以て意と為さず、益々藩事に尽す。
居ること二年許り、事略々緒に就くを以て、去て会津に帰る。
後忠誠公上人がが力を侯家再興に尽せることを嘉みし、和歌及古書幅を賜ふ。其の和歌に曰く、
法の人世をすてゝたにすてすして
つくす心のたのもしきかな
明治十一年、上人大講義に補し、十六年京都本山の役僧たり。
上人漢籍に通じ、詩を善くし、智海と号す。(一説に癡塊、又智塊)
二十六年八月二十日を以て歿す。享年五十八、真龍寺榮域に葬る。
(會津会会報第十二号)