白河

白河城(小峰城)
慶応4年5月1日、この城の奪還を目指す新政府軍700は、
守備兵3000を越える奥羽列藩同盟軍をものともせず、
新式火器の威力をもってついに城の奪還を果たします。
同盟軍の指揮系統の不統一も、その敗因の一つとされています。
白河の攻防戦における会津藩兵の戦死者は400名弱ですが、
そのほとんどがこの5月1日に戦死した者たちでした。

櫓から激戦地・稲荷山をのぞむ


戊辰の役古戦場
市内の九番町の西端、ここ松並にあり、
南は水田が開け、北は稲荷山の小丘を、
慶応4年(1868)奥羽諸藩鎮定のために薩長大垣等
の西軍が大挙して三方から白河を攻めた。
東軍の会津・仙台・棚倉の兵は白河城の南西の山に
陣し、これを迎え撃った。この地は白河口での
激戦地で、閏4月25日、会津兵は一旦西軍を
退けたが、5月1日、再び来襲したので、
西郷頼母・横山主税等が稲荷山に陣し
迎え撃ったが、激戦、数十合、弾尽き刀折れ、
戦死者数知れず、ついに敗退のやむなきに至り、
小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。

〜現地の説明板より〜
会津銷魂碑
碑の側面と背面には、会津藩
戦死者304名の名が刻んであります。
左下の画像で、「横山主税」と
あるのがわかるでしょうか。
22歳の青年副総督横山主税常守は
稲荷山を奪還すべく突撃隊を率いて
果敢に出撃しましたが、敵弾により
壮烈な戦死を遂げます。激戦の中、
その遺骸を収容することができず、
従者によって辛うじて
首だけが持ち帰られました。


ちなみに、現地の説明板には
「江戸家老横山主税」
と記してありますが、
これは明らかに先代の
「横山主税常徳」
との混同で、
誤りです。


田邊軍次の墓
会津藩士田辺軍次は、戊辰の役、白河口の戦いで東軍が敗れたのは、
のちに白河県から白坂町取締りを任命された大平八郎が西軍の道案内を
したためであると信じ、この遺恨を晴らすため、
斗南藩(青森県下北郡)から約1ヶ月を要して白坂に着いた。
白坂宿鶴屋にて、八郎を惨殺し、自らもその場で屠腹して果てた。
八郎の養子直之助は養父の仇である軍次の墓を建て、
白坂観音寺に葬った。
のち会津会によりこの地に改葬された。
戊辰戦争がもたらした悲劇の一こまである。
操刃容儀居士 享年二十一歳

〜現地の説明板より〜


皇徳寺  白河市大工町
白河戦争で命を落とした
無名戦士たちの供養碑です。
新選組隊士
菊地央(たのむ)の墓

元津軽藩士で、生まれは
弘化4年(1847)。
俗名は央(英)五郎といい、
慶応3年(1867)6月以降に
新選組隊士となる。
慶応4年閏4月25日に
白河口の戦いにおいて
22歳の若さで戦死した。

〜現地説明板より抜粋〜


常宣寺  白河市向新蔵
会津藩戊辰戦死十二士之墓
寺域に入ると、本堂へ至る
参道の左手が
すべて墓域となっているのですが、
この碑は、
その墓域に入って
2本目くらいの
墓道を入って少し斜面をのぼった
ところの左手に建っています。

12名の戦死者の名は、
まだ判明していないそうです。
笹沼金六の墓
(上の碑の向って右側に
建っています)


笹沼金六
(1838〜1868.6.15) 
会津藩士笹沼主計の三男。
兄金兵衛、弟金吾。米代三ノ丁に生まれる。
日新館に学び、1862年(文久2年)容保の
京都守護職に従い上洛、京都詰先備甲士勤、
翌年春足利将軍木像梟首事件の
犯人浪士逮捕に当たる。
8・18政変や禁門の変にも功あり。
鳥羽・伏見の戦いに奮戦したが敗れ、
68年(慶応4年)帰国、
遊撃隊遠山伊左衛門組に編入され、
白河城を占領したが、敵の逆襲で戦死。
墓は福島県白河市常宣寺。
(『幕末維新人名事典』新人物往来社)


永蔵寺 白河市本町


戊辰役戦死之碑  白河市寺小路
この碑は、当時蛇石・文殊山・桜町地内に
散り散りに仮埋葬されていた東西両軍戦死者十八名の霊を慰めるため、
大正元年十月、
地元有志の手により建立されたものである。
(現地の説明板より)


仙台藩士戊辰戦歿之碑  白河市女石
この地は女石といい、
昔は会津街道(国道294号)と
仙台街道(国道4号)の分岐点であったが、
東軍の最前線基地として激戦が展開された。
この碑は、
白河口の戦いで戦死した
坂本大炊など仙台藩士150余名の慰霊碑であり、
傍らに明治2年地元有志によって建立された
「戦死供養塔」がある。
これは5月1日から7月17日まで
市内田町・向寺・根田・大谷地・金勝寺・飯沢・長坂
等においての戦死者の屍を
集めて埋葬した。

(現地の説明板より)


会津藩士 丹羽新吾の墓
         (中央)

白河市行屋久保 宝積院

※「俊吾」か?
とすれば、
200石
猪苗代隊大砲組頭
慶応4年7月15日戦死。
享年33。
会津藩士 鈴木儀之助の墓
           (中央奥)

白河市白坂 観音寺

※「義之助」か?
とすれば、
16石2人扶持
青龍寄合一番隊
慶応4年5月26日戦死。
享年46。
戊辰戦死供養塔

白河市手水山 薬師堂前
戦死供養搭

関川寺地内
二本松藩士慶応戊辰役戦死之霊

白河市円明寺 丹羽長重廟前
南無阿弥陀仏の碑

5月1日の戦いで捕虜になった
会津藩兵や東軍協力者と
みなされた白河の住民らは、
翌2日、
谷津田川にかかる円明寺橋畔で
次々と斬首され、
そのまま下の川に流されました。
ために川は血で赤く染まったといいます。
この南無阿弥陀仏の碑は、
それらの死者の霊を慰めるために
建てられたものだそうです。


龍興寺  白河市向新蔵
会津藩海老名衛門君碑銘

この碑は会津藩軍事奉行海老名衛門が、
白河口に藩兵を率いて出兵した折、
5月1日の西軍との戦いに重傷を負い、
もはやこれまでと観念し
この地において割腹死したのを悼み
建立したものである。

(現地説明板より)


大龍寺  西白河郡西郷村下羽太 map
戊辰役戦士墓

慶応4年辰年7月1日
戊辰の役下羽太戸の内
地内において合戦となり、
保科旧臣北辰一刀流
千葉周作高弟森要蔵外
会津藩士多数戦死、
ここに埋葬した供養塔で
あります。
(現地説明板より〜原文ママ)



※森要蔵は、会津松平家の縁戚である
下総飯野藩保科家の剣術師範。
千葉周作の門下にあって四天王と評された。
義により脱藩して会津救援に走る。
慶応4年7月1日、
白河西郷村羽太の山間で西軍に包囲され、
激闘の中で壮烈な戦死を遂げた。
このときの戦いでは、森要蔵以下28名が出陣し、
22名が戦死したと伝えられている。