

| 二本松。 ・・・といえば、誰もが最初に想起するのは「二本松少年隊」ではありますまいか。 愛する祖国を守るため、胸のうちに燃えさかる武士道の義に殉じるため、身は少年にありながら迫り来る大軍をものともせずに 立ち向かっていった誇り高き勇者たち。 時に会津白虎隊と並び称されることがあるものの、白虎隊士の構成年齢が16〜17歳だったことに対し、二本松少年隊のそれは 最年少隊士の年齢がわずか12歳でした。現在でいえば、まだ小学生でしかない彼らが激戦区の最前線で戦い、時には単独で雲霞 のごとき大軍の中に斬り込み、壮絶な戦死を遂げたりしているのです。 会津武士道の昇華を白虎隊に例えるのなら、二本松少年隊はまさしく二本松武士道の昇華そのものと言っていいでありましょう。 |

| 「二本松少年隊」エピソード1 慶応4年7月27日、木村銃太郎隊長に率いられた少年隊士23名、大壇口に出陣。 出陣に先立って、少年らは普段の稽古用の大小刀を新たな両刀に換えて初陣に臨みましたが、 経済的に苦しい扶持取の家庭ではこの刀の調達にずいぶん苦労したようです。 上崎鉄蔵(16)の家庭でも、戦争用の刀はすでに父親が持って出陣しており、とても鉄蔵用の刀 を用意しておくような余裕はありませんでした。しかし鉄蔵の母は、我子の初陣を辱めぬべく実家の 父に懇請し、相州物の名刀をどうにか間に合わせることができたといいます。武家において、嫁に 出た以上実家を頼るのは恥ずべきことであり、敢えてそれをなした母の心が切実に伝わります。 |
| 「二本松少年隊」エピソード2 出陣に先立ち、岡山篤次郎(13)は母に頼んでその所持品すべてに 「二本松藩士 岡山篤次郎十三歳」と記名してもらいました。その理由はというと、 「自分で書くのは字が下手で恥ずかしいから母に頼みました。書いてもらった理由は、 戦死した時に、その屍を探しやすいようにするためです」と答えたそうです。 |

| 大壇口の戦い 木村銃太郎の率いる少年隊は、城下西口の要衝である大壇口に布陣。慶応4年7月29日午前9時ころ、 隊伍を組んで進軍してくる西軍に向かい、銃太郎の号令一下、轟然と火を吹いた少年隊の大砲によって、 ついに戦史に残る激戦が開始されたのでした。 「敵は俄に散乱して左右の山林に駆け入り、巧みに所在を暗ますよと見る間に大砲小砲を雨霰と打出しぬ。 大砲の高きものは付近の松林に命中し、凄じき勢ひもて松の木を中断し、低きものは眼前の畑地道路に落 ちて土砂を巻き揚ぐ。小銃の遠きものは「クーン」、それより近きものは「シウー」、最も近きものは音無くして 耳辺を掠め去る。敵の動作は敏活なり、巧みに正法寺町の民家に隠れて射撃最も勉む。之を見下せる吾等 は、「悪むべき仕業かな目に物見せてくれんす」と大砲にて其民家を射撃すれば見ん事命中し、其五軒を打 貫く(今尚壁に貫通の跡あり)敵の狼狽して四散する様手に取る如し、一同之に力を得ドット鯨波の声を揚げ つつ益奮闘す。今迄暁霧に眠れる霞城の天地は忽ち叫喚大叫喚修羅の街とそ化しにける。血を迸らして倒 るるあり負傷して呻くあり、鬨の声と鉄砲の声と相和して山野に響く、互の目は血走り、口は噤みて物云ふ事 も意の如くならず、火薬に汚れし両の手は墨もて染めたらんか如く、其の手もて顔に流るる汗を払ふにより少 年隊面々の顔は目ばかり光る海坊主に異ならず。古書に見えたる「流血杵を漂はす」も目のあたり、余等の 命と頼みたる弾丸除けの畳も今は敵弾の為に四分五裂して用をなさず、やむを得ず畑中に全身を露はして 応戦最も勉めたり。然れども砲弾の雨注には堪へ難く、傍らの竹薮に駆け入る。竹薮に一弾入るや、竹幹に 当りて所謂外れ丸となりカラカラと物凄き音を立て飛び去るを以て危険更に増さりぬ、余鉄砲を取直して打た んとすればこは如何に先に竹薮に、駆け入りし時敵弾に引金を打貫かれて用をなさず、如何はせんとためらふ 不図見付けたるは、砲車の側は横はれる一大木材なり、一抱えもありて長さは四五間に余れり。是れ屈竟の 物なりと直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いざ戦況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたり と云ふ声あり」(「二本松少年隊記」より。ただし、濁点をつけ、若干の文字を新字に直してあります) |

| 「二本松少年隊」エピソード3 二の腕に銃弾を受けた隊長・木村銃太郎は、迫り来る西軍を睨みつつ周囲の味方の陣の様子を窺ってみると、驚いたことにいつの間にか 味方はすでに退却した後で、少年隊は孤立の危機に直面していたのです。 「今はこれまで」 と銃太郎は即座に少年たちに退却を命じました。そして大砲の火門に釘を打ち込んで使用不能にした後、集合した彼らにおそらく退却の道 筋か次の集合地点を指示しようとしたのでしょう、口を開きかけたその刹那、飛来した敵弾が銃太郎の腰を貫いたのです。 腰から崩れ落ちるように倒れた銃太郎。しかし次の瞬間には起き上がり、自らの負傷の程度を確かめ、それが思いのほか重傷だと知った時、 直ちに彼は死を決意しました。 「この傷では到底入城できない。早く我が首を斬れ」 仰天した少年たちは、互いに顔を見合すばかりで動くことすらできません。 「何をしておるか、早くこの首を斬るのだ」 「隊長の傷は軽いです、私たちの肩につかまって退却してください」 「いたずらに押し問答している場合ではない。早く斬れ、早く!」 このとき、なおも銃太郎を説得しようとする少年たちを割るように前に出たのは、副隊長の二階堂衛守でした。 「しからば御免仕る」 「かたじけない。あとは頼みます」 「心得て候」 しかし二階堂も緊張の極みにあったのでしょう、銃太郎の首を斬りおとすのに、3回刀を振り下ろさねばならなかったといいます。 周りを取り囲んでいた少年たちは「隊長死んじまった、どうしっぺー」と号泣しながら、それでも棒や素手で土を掘り、銃太郎の遺骸を葬った のでした。 |
| 野津道貫の回顧談 兵数不詳の敵兵は、砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが、 敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。 我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退 することを得たが、怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう。(『近世国民史』) |
![]() 大壇口古戦場からの眺望 |
| 「二本松少年隊」エピソード4 斬りおとした銃太郎の首は思いのほか重く、とても少年の身では1人で運ぶことができなかったので、 頭髪を二分して2人で手に下げて運びました。 しかし、この間に少し時間をかけすぎました。いよいよ退却に移ろうとしたとき、すでに陣のすぐ間際ま で肉薄してきていた西軍の一部隊が、ついに陣脇の藪から突入してきたのです。 少年たちは隊長に続く自らの死を覚悟し、それでも武士の矜持を果たさんがため、即座に白刃戦の 態勢に入りました。 ところが、先頭きって突入してきた黒い獅子頭(しゃぐま)を被った隊長らしき人物は、少年たちとその 様子を見るや、足を止め大刀を持った両手を広げて後続の兵の突進をとどめ、さらに刀をおろしてこう 言ったのです。 「おはんら、子どもじゃったとか。おお、隊長さんは戦死なさったか。よう戦いもしたのう。さあ、早う退くが よか」 辺見十郎太ではなかったか、といわれるこの武士のおかげで、少年たちは大壇口から退却することが できたのでした。 |
| ニ勇士の碑 | |
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| ニ勇士の奮戦 二本松藩士の青山助之亟と山岡栄治は、城下へ向って進軍してくる薩摩兵の隊列に、 たった2人の斬込みを敢行しました。 不意をつかれたとはいえ、薩摩兵は忽ち9人が斬り倒され、 一時は全軍が後退するほどの混乱に陥ったといいます。 しかし、衆寡敵せず。 ついに2人の壮士は壮絶な戦死を遂げたのでありました。 ところが実は、この2勇士の奮戦を知る二本松人はおらず、 二本松の人がこの英雄譚を知るのは、 明治31年に野津道貫大将が当時の回想を語るまで待たねばならなかったのです。 野津はその追懐談の最後で、こう語っています。 「これは敵ながら天晴れな勇士で、敵側には第一の殊勲者と言わねばならぬ」 |
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| 二階堂衛守・岡山篤次郎戦死の地碑 銃太郎の首を下げてきた2人は、 ここ大隣寺の門前まで来たところで狙撃され 戦死しました。 副隊長の二階堂は33歳、篤次郎は13才でした。 |
| 「二本松少年隊」エピソード5 狙撃され、腹部貫通の重傷を負った岡山篤次郎は、その狙撃した土佐藩の兵によって野戦病院にあてられていた 本町の称念寺に運び込まれます。 土佐藩の隊長は広田弘道という人だったと伝えられていますが、この隊長が篤次郎の勇敢さに感動し、何とかこの 少年を生かそうとしたからだそうです。なおかつ広田は、 「できることなら、わしの養子に貰い受けたい」 とまで言い、看護の者に全力を傾注するよう命じたといいます。 しかし篤次郎は意識不明のまま、ただうわごとに、 「銃をよこせ」「残念だ」 と繰り返しながら、その短い生涯を閉じたのでした。 広田は、篤次郎のその最期まで決して屈しなかった魂に、さらに感激を熱くすると、反(かえり)感状を少年の遺骸の 枕元に残して、再び戦いの巷に出て行きました。 その反感状の全文が、蓮華寺という寺の石碑に刻まれていますが、その碑文に曰く・・・ 「今年十三才にて戦死岡山篤次郎敵ながらも甲斐々々敷美少年一色残し置次第 薩州土州の者憐みいたはりしかども蘇みかへらず依てさしおくる一首 岡山尊公の名は幾世残れかし 君がため二心なき武士は 命はすてよ名は残るらん 」 事実、篤次郎は眉目秀麗な美少年であったそうです。 篤次郎の義姉の言葉が伝わっています。 「なかなかめんごい顔をした利口者で、又、きかん坊であった」 |
| 「二本松少年隊」エピソード6 二本松藩には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっています。 これは、『忠臣蔵』の浅野内匠頭が吉良上野介を討ち漏らしたことを聞いた二本松藩初代藩主丹羽光重が、 「何故、浅野公は斬りつけたのか。斬りつけずに突けばよかったものを!」 とひどく悔しがった、という話からきているそうです。 以来、二本松においては「斬らずに突け」が伝統となっていました。 成田才次郎が出陣の時に父から訓されたのも、この「斬らずに突け」だったといいます。 その才次郎。 大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまい、単独でなんとか郭内まで戻ってきましたが、尚戦意は 旺盛でした。 「必ず敵将を斃してやる」 そこで一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに立派な武士が一隊を率いてやってくるのが見えました。長州 藩士・白井小四郎が率いる長州藩の部隊です。 才次郎、隊列が目前に来るまで充分にひきつけ、ここぞ!というところで、大刀をまっすぐに構えるや、一気に先頭 の白井に向って突進していきました。 しかし、歴戦の長州兵は、この遮二無二突っ込んでくる小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出ようと します。 「子どもじゃ、手を出すでない」 白井はさらに、突っ込んでくるのが子どもであると瞬時に見抜いていました。子どもの剣などかわすのは容易なこと と思ったのか、ここに来るまでに数多く見てきた少年兵の遺骸に胸を痛めていたのか、彼は護衛の兵を下がらせたの です。いずれにせよ、おそらく殺さずに生捕りにするつもりだったろうことは間違いないでしょう。 しかし、必殺の殺気をはらむ才次郎の剣は、白井が思っていたよりも数段鋭かったようです。 才次郎が突き出した刀は、身体を捻ってこれを避けようとする白井の反応よりも早く、狙い違わずこの敵将の脇の下 から胸部を見事に突き刺していたのでした。 白井、どうっと落馬。 驚愕した長州兵たちは慌てて才次郎を捕えようとしますが、刀を振り回す才次郎に近づくことができず、やむを得ず鉄 砲を使い、ようやくこの小さな勇士の息の根を止めることができたのです。このとき才次郎、わずか14歳でした。 現在、この白井小四郎の墓が真行寺という寺に残っています。 明治3年に長州藩から香華料として金2両が納められたとのことですが、それとは関わりなく、少年への一瞬の憐憫が 自らの死を招いたこの長州の将の墓前には、今でも一般の人からの香華が絶えることはありません。 |
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![]() 白井小四郎の墓 |
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| 大隣寺 | |
![]() 戦死郡霊塔 |
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![]() 少年隊士の墓(左) |
![]() 少年隊士の墓(右) |
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![]() 戊辰戦役供養塔(二本松で戦死した会津藩兵・仙台藩兵の慰霊碑) |
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| 霞ヶ城 | |
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大城代 内藤四郎兵衛戦死之地 大城代として城中にあった内藤四郎兵衛は、 西軍が城下に迫ったと聞くや、 「我は城の主将たり、むなしく内に在って死すべきにあらず」 と城門を開いて討って出、奮戦激闘の中で 見事な最期を遂げました。 この内藤四郎兵衛の最期は、 二本松藩士の鑑と称されているそうです。 |
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丹羽和左衛門・安部井又之亟 自刃の碑 和左衛門は、床机に腰掛けて割腹し、 膝上に広げた軍扇の上に 自らの内臓を引き出して 立亡していたといわれています。 |
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丹羽一学 自刃の碑 「敗戦は必定なれど、三春に倣うべからず。 二本松は、城が灰燼に帰し、一族屍を野に曝すとも、 武士道と信義に殉ずべきである」 と、藩論を徹底抗戦にまとめ上げた 家老・丹羽一学は、 城の中腹にある土蔵奉行宅で 郡代見習・丹羽新十郎、城代・服部久左衛門とともに 壮絶な割腹自刃を遂げています。 丹羽一学の辞世 風に散る露の我が身はいとはねど 心にかかる 君が行末 |
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