信松院しんしょういん

姉・見性院とともにお志津母子を援けた会津藩の恩人信松院が開き、そして眠るところ


                          信松院(1561〜1616)
 信松院(信松尼)は、もとの名を松姫といい、武田信玄の4女(6女とも)として生まれました。
 永禄10年(1567)、松姫7歳の時に織田家からのたっての願いにより、織田信長嫡男の奇妙丸(のちの信忠)と婚約。
 しかし、上洛を目指す信玄と、その途上を阻む位置にある徳川家康との関係に緊張感が増すにつれ、その徳川の背後にいる織田信長との
関係も悪化し、それはついに元亀3年(1752)に武田・徳川の主力が激突した「三方ヶ原の戦い」が起きるに及んで決定的なものとなり、松姫と
奇妙丸との婚約は自然解消となります。
 翌年、京へ武田菱の旗を立てるのを目前にして信玄が死去し、武田家は松姫の異母兄勝頼が継いだものの信玄時代の威勢を維持できずに
次第に衰退、天正3年(1575)長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に完敗し、武田家の劣勢は避けがたいものとなりました。
 天正10年(1582)、松姫のかつての婚約者である織田信忠を総大将とした織田軍が甲斐になだれ込んでくるにいたり、松姫の同母兄で普段か
らとても仲のよかった仁科盛信が高遠城で史上稀に見る激戦を展開した後に自刃、追い詰められた勝頼も天目山で自刃し、名門武田家はここ
に滅亡したのでありました。
 この際、松姫は勝頼の強いすすめによって甲州街道を八王子にまで逃れ、心源院に隠棲します。そしてそのまま随翁舜悦卜山禅師に師事、
仏門に入って信松尼と称することとなります。
 天正18年(1590)、大久保長安の援助を得て、現在の位置に信松院を建立。
 以降、信松尼は近在の者たちに養蚕や絹の織物を教え、子どもたちには手習いなどを教えて暮らしました。後世、八王子市が織物の町として
発展したのは、この信松尼の存在があったからこそといっても過言ではないそうです。

 この信松尼が会津藩祖・保科正之公の母であるお志津(お静)の方を知ったのは、おそらく慶長15年(1610)のころ。
 当時、お志津の方は徳川秀忠との間に2度目の子を身ごもり、一族の悲壮な決意のもとに赤子の出産を決意したところでありました。なんとな
れば、最初に身ごもった子は、秀忠の正妻である於江与の方の悋気に触れることを恐れ、水に流してしまっていたからです。
 しかし、将軍の子を2度までも水に流してしまっては畏れ多いことこの上もない、このうえは一族磔にされても、この子は無事に出産させてやろう、
というのが、お志津の方の父や弟の決意でした。そして、この悲壮な決意を知ったのが、信松尼の姉である見性院。父信玄の豪放で緻密な性格を
受け継いでいたこの賢女は、即時にお志津の方の援助を決意し、妹信松尼にも協力を依頼したのであったろうと思われます。
 見性院の意を呈した信松尼は、身重のお志津の方を見性院の知行地である武州安達郡の大牧村へ連れて行き、ここで無事に赤子を出産させ
ました。この子こそが、のちの保科正之、会津松平家の祖であることは、あらためて申すまでもありますまい。

 幼い幸松(のちの正之公)の成長を温かく見守っていた信松尼が、その性格のままの優しい笑みを浮かべつつ逝去したのは元和2年(1616)の
こと。享年56。法名は、信松院殿月峰永琴大禅定尼。

 ちなみに、幸松は翌年の元和3年に信州高遠の保科正光の養子となりますが、高遠といえば信松尼最愛の兄であった仁科盛信の縁地であり、
保科正光の父正直はその盛信の副将を努めた勇将でありました。
 正之公が保科家の養子となった背景に、信松尼の小さくない意志があったと考えるのは、あながち穿った見方ではないように思います。


信松尼の墓所

信松尼の墓所は、
本堂裏の墓域の高台にあります。


「松姫さま、東下之像」

門前に、松姫が八王子へ
落ちてきたときの姿の像があります。
当時21歳。甲州一と謳われた母の
容姿を受け継いだ、まことに見目麗しい
姫であったそうです。


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