石井勇次郎『蝦夷激闘編』


12月22日、五稜郭に於いて入札を行い、それぞれの役職が決まりました。

総裁            榎本釜次郎(和泉守と改名)
副総裁           松平 太郎
箱館奉行          永井 玄蕃
陸軍奉行並裁蕃為頭取
箱館市中取締兼      土方 歳三
海軍奉行          荒井筬之介
陸軍奉行          大鳥 啓介
松前奉行          人見勝太郎


新選組の組長である土方は、箱館取締に任命されました。故に、勇次郎を含む
箱館新選組は再び箱館へと戻り、取締を始めました。そして、陸軍奉行副役相
馬主殿が勇次郎と同じ隊に所属し、一緒に取締をしました。その取締も、町毎
に屯所を設け、夜の巡回を更に厳しくしました。

勇次郎はこの日、教導役から差図役下役になって市中取締を命じられました。
この仕事は町に出向いて色々と取締、糾問し、屯所に居る時には隊中の監察や
他の隊との折衝、応対、そして、「会計や雑事に至るまで、この役職に関わら
ないものは一つもない」と勇次郎は自慢します。

これより前、新政府軍が箱館にいた時に太政官が1金札幣を持ってきて使おう
としました。しかし、榎本軍が使わせない様にし、50万程奪い取りました。こ
の紙幣を流通させては、万民が困る事は必然であったので、速やかに焼き捨て
る事としました。

そこで、市中に布告して市民の目の前で前に奪った50万の紙幣を焼き払いまし
た。榎本軍が蝦夷地を得た後に、色々な物事を寛大にし、物を扱うのにも配当
を払ったので、蝦夷地の人々も榎本軍に大変期待していました。

そして、この日、榎本軍は外国船に朝廷への嘆願書を託しました。

その間にもフランス人のマルランが榎本軍の元を訪れ、「フランス式練兵を教
えましょう」と言います。そこで、教わる事になりますが、毎朝6時から10時
まで弁天岬の砲台で習う事になります。雨の日は、本営で技術を教わる事にな
りました。

28日に、桑名藩士で定敬公のお側に仕えている松岡孫三郎君が、君命により外
国船に乗って密かに横浜へ行き、そこから更に桑名へと向かいました。そし
て、松岡と入れ替わる様に30日に桑名から酒井孫八郎、生駒伝之丞が定敬公の
行方を尋ね新政府軍に頼み込んで舟に乗せて貰い、対岸の青森港から渡海して
きました。


渡海して箱館に辿り着いた桑名藩家老酒井孫八郎が、定敬公の御前で桑名城の
決議を報告します。そして、「桑名藩はお家滅亡となり、その事は定敬公の御
身に関係するので早々に桑名へお戻りになり謝罪された方が宜しいでしょう」
と伝えます。

それに対して定敬公は、「自分の為に多くの家臣達が塗炭の苦しみを負ってし
まった事は、実に忍び難い事である。然からば、謝罪しよう」と仰います。し
かし、追従してきた者達は口々に、「今、君公が桑名にお戻りになられたら、
謝罪したとしても幽閉されてしまわれる事は必然です。そんな主君を敵に差し
出す様なまねは、家臣として忍びなくて出来ません」

そして、「元々が徳川家あっての桑名家であります。今、徳川氏がこうして辱
めを受けている時に義を持って受けて立ち、家臣として死ぬのは尤もな事で
す。仮に、桑名家が滅亡しようとも義の為に戦ったと知れば、世間は解ってく
れるでしょう」と続けました。

酒井氏は、皆が勇気満々なのを見て敢てそれ以上議論する事は避けます。定敬
公は皆の決議宣布には口を挟む事はせず、議論は遂に決まりませんでした。
この晦日に、今まで一緒に住まわれていた小笠原公、板倉公、定敬公の三公は
居所を別れられました。定敬公は、神明神主沢辺一馬宅に遷られました。

年が明け、明治2年1月になりました。
勇次郎は定敬公に拝謁し、年賀の挨拶をします。そして、定敬公から祝杯を賜
り、とても光栄な気分に浸りました。

翌2日、勇次郎らの隊は市内を大巡邏します。そして、15日には陸軍隊の青山
次郎を隊長とした兵士20人、歩兵4人が訳あって新選組に加入、また、彰義隊
からも兵士が8人加入しました。

2月13日、桑名藩の人が加州の帆船に乗り、密かに桑名へと向かいました。同
23日、定敬公は慰安の為に勇次郎ら桑名藩の面々を“蒼海楼”という料亭へと
招待します。この“蒼海楼”は海岸に近い絶景の場所にありました。

ここでは一人一人定敬公から直々に杯を賜り、舞を舞う者、踊る者、詩を吟じ
る者、或いは歌う者など各自十八番の持ち芸を披露し、大変賑やかに過しま
す。8日に勇次郎は市内取締が行き届いている事を称して、土方歳三から金千
疋を与えられました。


(余談ですが、勇次郎は土方歳三に桑名藩士の中でも特に可愛がられたそうで
 す)


明治2年3月になりました。
この月の3日、定敬公は少々具合が悪くなり、勇次郎らを心配させます。しか
し、大事には至らなかった様で直ぐに良くなりました。そこで、勇次郎は定敬
公が以前から乗馬がお好きだった事を思い出し、鹿毛で6才の馬を献上しま
す。定敬公は、大変この馬がお気に召した様子で後にこの馬に乗って市中を遊
歩されました。

10日には、金策などの為に桑名へと密かに潜行していた松岡孫三郎が後藤多蔵
と金子屋寅吉と共にお金を持って箱館に戻ってきました。後藤氏は去年の冬に
江戸から越後を経て庄内へと行き、桑名の雷神、致人、神風の各隊に会ってい
ます。

庄内で桑名隊の面々に会ってから仙台で岡本、九里、中野氏らと会い、共に江
戸に戻り、そこから横浜に行き、箱館に来たと言います。庄内で桑名隊の面々
に実際会っていますから、その実情を彼は詳しく知っていました。

何よりも知りたかった桑名隊のその後を知る人物に会い、勇次郎は漸くその事
を聞く事が出来ました。それによると、桑名隊は白石から庄内へと向かい、9
月には寒河江に到着していたといいます。

寒河江に到着した桑名隊は、同月2日早朝、米沢から来た新政府軍600余人に急
襲されました。濃霧の中、激しい戦いが繰り広げられますが、多勢に無勢…桑
名隊は後退して防戦します。勝敗の決しないまま互いに退き、桑名隊は折越を
経て清川に至りました。

そして、勇次郎はこの戦いで従弟の河村正司が戦死した事を知ります。武士の
習いとして戦死する事は仕方の無い事…、そうは解っていても勇次郎は嘆き悲
しみます。「もし、自分がそこにいたら、どうにかして助けてやったのに。死
んだとしても、屍を敵になど絶対に渡さなかったのに!」勇次郎は悔しさで一
杯でした。

この戦いでは河村氏の他に谷三十郎、山脇仲右エ門、町田鎌五郎、三谷卯之右
エ門、浅井金五郎、岡安栄之進、田中兼五郎、泉錚之介、泉良次郎、森清十
郎、長瀬金太、伊藤喜三郎、宇都野親兵衛、金子覚弥、梅沢宗介、福地亦五郎
が戦死しました。

また、負傷して後に亡くなった者は、不破右門(庄内で死亡)、樋口次左エ門
(庄内で死亡)、長嶋民蔵(翌年8月死亡)。負傷者は服部寅太郎、水野栄
松、成田勝司、小柳勘介(加茂農兵)でした。

これによって、奥羽越の同盟は崩れ去り、会津藩も敗れ、庄内藩が孤軍奮闘し
たものの新政府軍の大軍の前には力及ばず、遂に降伏に決まりました。庄内藩
が降伏した事で桑名隊も共に降伏恭順する事となりました。

この降伏恭順も定敬公の安否さえ分かっていれば、また、違った結果になって
いただろうに…と言う事でした。それを聞いた勇次郎は、大いに嘆き、涙を流
して泣きました。


松岡と共に箱館へと渡ってきた寅吉という人物は、元桑名藩領だった北越刈羽
郡柏崎の在新道村の出身で、定敬公が御役中には御草履役についていました。
そして、今は横浜に住み、唐物を商っていました。

彼はとても忠義者で、定敬公が箱館にいらっしゃる事を聞きつけて大変心を痛
め、何とか尽力したいと思い、遙かなこの箱館までやってきました。勇次郎
は、彼の篤い志に感動します。

松岡氏は、桑名からの書簡を携えて戻ってきました。そして、その書簡は定敬
公に直ちに渡されます。その意を聞いた勇次郎達は自分たちの意見と全く異な
る事を知り、大変怒ります。勇次郎達は議論の上、定敬公に言上しました。定
敬公は、その後ご自身の意を決せられました。

榎本軍が新たに箱館を得た時、榎本武揚は速やかに各国の公使を招き、旧政府
の時の様に篤く国交を結びたい事を説明すると公使達は速やかに承諾しまし
た。その為、勇次郎達は速やかに箱館へ入る事が出来ました。

この時、イギリスとフランスは軍艦で榎本軍を討伐しようとしました。しか
し、既に榎本氏が各国公使と国交を結んでいたので、この二国の軍艦も共に退
き去っていきました。これも、榎本氏が外国との交際に長けていたからだろう
と勇次郎は思います。

又、回天を助ける為に開陽が江差へと向かい、新政府軍を追って大勝を得まし
た。しかし、戦い終わって江差港に停泊していた開陽は、突然起こった暴風に
よって暗礁に乗り上げてしまいます。

乗組員は艦を放棄し、荒れ狂う波を小舟で乗り越えて漸く上陸しました。その
後、開陽は岩に当り遂に砕け散ってしまいます。神速はそれを聴き、助けよう
と江差港へと向かいますが、激しい波に翻弄されて転覆してしまいました。

勇次郎は二艦が壊れてしまった事を聴き、「この二艦があったならば、敵なん
か簡単に蹴散らしてやるのに!」と非常に悔しがり、嘆きます。

勇次郎は蝦夷地を歩き回りますが、毎朝深い霧に包まれて5歩離れたら顔さえ
もわからないと驚きます。そして、寒さが厳しいからか田畑も少なく、あった
としても実らない事に気付きました。

「こんなに広大な土地なのに、開拓されていないのは勿体ない」と勇次郎は思
いました。しかし、魚類はとっても豊富に獲れた様です。箱館から50度、ロシ
アとの国境まで500里ほど有ると聞きました。

この後、勇次郎は中国人が40人程でアメリカ船を襲い奪ったと聞きます。しか
し、彼らは船を奪ったものの激しい風に流されて箱館へと漂着しました。新政
府軍がこの地を治めている時には捕らえて牢獄に入れていました。でも、勇次
郎ら榎本軍が治める様になったので縛する事を止め、土木工事をする人夫とし
て五稜郭の修理に当たらせる事にしました。


3月23日に勇次郎の気持ちを激する事件が起こりました。
その日の夜、密かに回天・蟠龍・二番回天(高雄)の3艦で奥州南部藩領桑ヶ
先に停泊中の新政府軍々艦“甲鉄艦”を奪おうと、陸軍奉行(並)土方歳三と
添役の相馬氏、その他数人と神木隊・彰義隊・遊撃隊の3隊合わせて数百人、
そしてフランス人ニコールとコルラッシが乗艦して出発して行ったのです。

しかし、不幸な事に途中で暴風に遭い転覆しそうになり、回天以外の2艦は何
処かへ流されてしまいます。回天は、25日に桑ヶ先に到着。暁天を衝いて回天
は只1艦で新政府軍々艦8艦の中へ突入し、甲鉄艦を襲います。その勢いは、あ
たかも稲妻が走る様でした。

正に甲鉄艦を覆すばかりの勢いで、回天は五十六斤もある砲を2発撃放ちま
す。その機に乗じて数人が抜刀して甲鉄へと躍り込みました。激しい戦いが続
き、奪還出来そうになりますが甲鉄艦もその装備で応戦します。

他の新政府軍々艦も頻りに発砲してきました。そして、遂に甲鉄艦を奪う事は
出来ず、回天は新政府軍々艦8艦の中を西奔東進して漸く撤退します。命辛々
逃げ延びた回天は、26日に帰港しました。

蟠龍は遅れて桑ヶ先に到着しましたが、回天が撤退するのを見て一緒に帰港し
ました。ところが二番回天(高雄)はこの状態に全く気付かず、桑ヶ先に入り
込んでしまいます。

新政府軍々艦の襲撃を受けた二番回天は、奮戦しますがとうとう力尽きてしま
い艦を自ら焼き、神木隊とフランス人コルラッシュは上陸しました。その後、
彼ら二番回天の乗組員がどの様な処遇になったのか、未だ分からないと勇次郎
は綴ります。

この戦いで回天の威名は新政府軍にも轟き渡りました。その艦長甲賀源吾は艦
橋上で指揮を執っていましたが、股と腕を撃ち抜かれてしまいます。しかし、
その状態でも続けて指揮を執っていましたが、今度は銃弾が彼の胸を貫きまし
た。

副将の矢作沖丸も甲賀と共に戦っていましたが、彼も死亡してしまいます。相
馬氏は甲鉄に乗り移り戦っていましたが負傷してしまいました。その相馬氏を
助ける為に新選組の野村氏が甲鉄へと飛び移り相馬氏を回天へと担ぎ上げま
す。

野村氏はその後も何人か斬り、自分も回天へ戻ろうとしました。しかし、その
彼の背を新政府軍兵士が斬り裂きました。野村氏は背を斬られ、海に転落して
そのまま亡くなりました。フランス人ニコールも負傷、この戦いでの死傷者は
数十人でした。

攻撃を受けた甲鉄艦は、可成り酷く破壊された様で東京へと修理に向かいま
す。しかし、回天は3発もの砲撃を受けたにも係わらず操縦に支障はありませ
んでした。

この時イギリス軍々艦がこの港に停泊していましたが、この艦が回天に向かっ
て発砲してきました。回天は大変怒って直ぐにそちらへと向かい、3発砲撃し
ました。そして、イギリス艦に見事に命中させます。勇次郎は、「全くタチの
悪いものだ」と呟きました。


四月になりました…。
4月2日、戦況は益々榎本軍にとって不利になっていきます。その為、定敬公の
進退問題も再び議論が起こりました。なかなか結論が出せずにいたのですが、
「それならば、榎本氏の意見をお聞きしてみよう」という事となります。

榎本氏は「今は、私的に進退を決める時ではないのではないか?」そして更
に、「家臣と共にこの地において尽力して頂く事が一番良いのだが…」と言い
す。また、家臣からは「密かに桑名へ戻られてはどうか?」という意見も出ま
した。

勇次郎は、「今、箱館の我が軍は海軍は敗れ、陸軍のみが限りある兵力ながら
必死に限りない兵力の新政府軍と戦っている。このままでは負ける事は目に見
えているだろう。自分が思うに、箱館で捕らえられて桑名へ戻られるのも忍び
難い」

「また、潔く死を選ぶ事も無いだろう。そこで思うのだが、一度外国へと潜行
し、時期を見て日本へ戻るというのは如何なものだろうか?」そして、この勇
次郎の意見が採り入れられ、衆議はこれに決まります。

早速この事をメリケン公使に相談すると、親切にも「君公の事は我々にお任せ
なさい」と言ってくれました。しかし、「今は、渡航すべき船がありません。
でも、後日到着するという約束があるから必ず尽力しましょう」と言いまし
た。

この事を榎本氏に告げると、彼も色々と言いたい事があった様ですが遂に定敬
公の洋行を認めてくれました。後12日に船が到着したので、家臣の酒井氏、松
岡氏、寅吉が随従して箱館を出発していきました。

勇次郎ら桑名藩の面々は、定敬公を港までお見送りに行きました。そこで別れ
の杯を酌み交わし、「これでお別れとなりますが、必ずや潔く戦い、死を以て
厚恩に報いたいと思います」と公に言上し、皆、涙を流し、遂に離別となりま
した。

後にこの船は横浜に到着し、船を乗り換えて出発しようとしたのですが、そこ
へ遙々桑名から来た者がいました。その者が定敬公を説得し、とうとう謝罪と
いう事になります。

この謝罪という事は、勇次郎らにとって歯ぎしりをする程悔しい事でした。で
も、遠く離れた場所での事。彼らにはどうしようもありません。勇次郎は「実
ニ遺憾極無キ也」と遙かな君公を思うのでした。


4月6日、イギリスの商艦が奥州の青森から新政府軍の意向を受けて箱館へと来
ました。そして、“かねてよりの布告通り、追討の為に近々新政府軍がこの地
に来る”と伝えてきます。箱館に住んでいる各国の人々は、それを聞いて今か
ら西洋時間でいう24時間の間に家具など荷物を纏めて青森へと運び出し、自分
たちもその船に乗って箱館を発つと言い出します。

勇次郎ら榎本軍は総裁である榎本の命により、警戒を厳重にして尚且つ市中に
立ち退き場を設けて遁去させました。そして、翌7日12時に各国の人々は悉く
箱館を発っていきました。市中の人々も我先に臥牛山の山腹へと押し寄せ、一
時大変な騒ぎとなりました。その為、箱館の町中は閑散としてしまいます。

榎本軍の病院は、箱館市中にありました。アメリカ人ライスがこれを預かり、
国旗を掲げて番兵を配置していました。新政府軍が奪いに来るおそれがあった
のです。そして、新選組も弁天岬の砲台に守備の為に入りました。

この弁天岬の砲台は、ロシア人の設計によって巨石を積み上げ築いた砲台で
す。高さ9間、周囲5丁、その形はあたかも削った様に嶮しいもので、例えネズ
ミと雖も登れない程です。

堤の上には80斤もある巨砲と24斤砲を備え、堅牢な拵えなので甲鉄艦でも破砕
する事は出来ないと言われます。塁の下は広々と果てしない蒼海が拡がり、白
波が岸を打ち、覗き込んだ者は皆戦慄を覚える程でした。

勇次郎は差図役下役と出世し、22人もの兵士を預かる事になりました。勇次郎
らは寒川(西側背面の海岸で要地)、十番の観世音(臥牛山上にあり、箱館を
眼下に臨み入港する船を見張る要地)、東ヴ曹守備する事になりました。ま
た、一分隊は沖の口守備、一伍隊その他は砲を守ります。そして、夜間は益々
市中巡邏も厳しくなりました。

11日、新政府軍は8艘の軍艦を引き連れて江差方面に襲来します。榎本軍は、
僅かな兵で防戦しました。しかし、力及ばず遂に手薄だった乙部村から2000余
人もの新政府軍兵士が上陸を始めます。

上陸した新政府軍は、直ちに総軍江差に向けて進軍していきました。勇次郎隊
と彰義隊が奮戦しましたが、僅かな兵では防ぎきれるものでは無く、遂に敗れ
て江差を奪われてしまいます。

14日、仙台藩士二ノ関源二が見国隊400余人を率いてイギリス商艦エーレン
バックに乗り込み、蝦夷地佐原港(箱館から7里)に上陸します。これには榎
本軍も大いに力を得ました。そして更に嬉しい事に、桑名藩の人々も箱館に来
るという話も聞こえてきました。


4月15日の明け方、勇次郎は箱館へ向かっていると聞いていた桑名藩の面々を
迎えに森駅(箱館より8里程の場所)へと馬を走らせます。12時に到着した勇
次郎は、そこで木村忠次郎、山脇隼太郎、高木剛次郎、土田外真記、長瀬清蔵
の5人に会いました。

土田氏とは初対面でしたが、山脇、高木、木村氏とは友人です。会津での戦い
で別れたきり今日まで安否が分からずにいましたが、こうして遙かな地で再会
する事が出来たので勇次郎は「なんて嬉しい事なんだ」と言います。

再会を祝して杯を傾けながら、ここに来た理由を尋ねました。すると、山脇、
高木の2人は、庄内にいる桑名隊からの内意を受けて来たと言います。彼ら2人
は、新政府軍の目を欺く為に僧形となっていました。

木村、長瀬の2人とは勇次郎らが仙台にいる時、山形城下から隊命で定敬公を
尋ねて来て会いました。しかし、2人が仙台から帰る途中の道々は既に新政府
軍の占領下になっており、帰る事が出来なくなってしまいました。

そこで、仙台に戻り、そこに潜伏して時期を待っていた時、山脇と高木氏が仙
台に来たので共に海を渡って来たと言います。土田氏は、桑名を脱出して仙台
に来ました。そこで、幸いにもみんなと出会い、共に来たそうです。一通りの
話が済んだ後、勇次郎は箱館にある榎本軍の現状などを詳しく説明し、早速彼
らを連れて箱館称名寺にある自分の本営へと帰りました。

17日、江差にあった勇次郎らの軍は奮戦し、新政府軍に占拠されていた場所を
奪還しました。しかし、新政府軍は陸海から猛攻撃を仕掛けてきます。遂に松
前城に籠り防戦しますが、少ない兵士で陸海から攻めてくる新政府軍を撃ち破
る事は出来ずに、とうとう松前城は新政府軍に占拠されてしまいます。

勇次郎らは悔しがりながらも後退し、尻内峠を守ります。この時の戦いで、榎
本軍は多くの死傷者を出しました。新政府軍は、勢いに乗り進軍してきます。
勇次郎らは必死に峠を守りますが再び2里程後退し、木古内を守る事になりま
した。

榎本軍は戦う毎に不利になっていき、軍の一部が福島で新政府軍に囲まれ孤立
して脱出不可能になってしまいました。そこで木古内村にいた勇次郎らの軍が
大いに激励し、尻内、木古内を二方向から夜襲を仕掛けて孤立していた部隊を
救出し、更に占拠されていた場所も奪還します。

木古内村は、3里程進むと嶮しい峠となります。しかし、尻内村は守り易い場
所も無いので後退して当別村を守る事になりました。これは陸軍奉行の大鳥圭
介の発案でしたが、その後、戦いが不利になったので更に後退し、茂辺治村を
守る事となりました。


4月21日、榎本軍の回天、蟠龍、千代田の3艦が榎本軍陸軍部隊の援護の為、尻
内沖で新政府軍の軍艦4隻と戦いました。お互いに砲弾を撃ち合いましたが、
夜になったのでお互いに引き分けという事になりました。

尻内方面の守備は、勇次郎の属する一連隊、陸軍隊、遊撃隊、炮兵隊、額兵
隊、衝鋒隊、伝習隊、会津藩遊撃隊の合計8隊、1、000余人でした。対する新政
府軍は、陸海合わせて10、000余人であると言います。

これより先の12日、新政府軍が江刺から新道を進み、二股村に迫りました。
(この辺りは、箱館への間道です)この地を守る榎本軍は、伝習士官一小隊、
歩兵一小隊、衝鋒隊三小隊の合わせて僅か200余人。それに対して新政府軍
は、薩摩、長州、津軽、福山、松前、備前の計6藩で人数は500余という事で
す。

勇次郎たちは、ここから果敢に攻めて行きます。そして、嶮しい場所に胸壁を
築き、落ち着いて守りにつきました。また、五稜郭からも一小隊が援軍として
来たので、更に戦う意欲が沸いてきました。

新政府軍もしばしば攻めてきますが、土地勘のある勇次郎たちに理があり、そ
して、土方歳三が将を務めているので更に気勢が上がります。新政府軍は大軍
を送り込んで来ましたが、勇次郎ら榎本軍は死を懼れず果敢に攻めまくり、接
戦を繰り返します。この戦いは2日3夜の激しい戦いとなりましたが、遂に新政
府軍を撃退します。

22日には、有川村方面の戦いに敗れてしまいました。この方面が負けると、二
股口を守る事も出来なくなってしまいます。しかし、非常に遺憾ではありまし
たが、やむを得ない状況だったので遂に引き上げる事になりました。

撤退していく榎本軍があまりにも厳整だったので、新政府軍も追撃してくる事
はありませんでした。そのお陰で、この撤退時に一人も失う事はありませんで
した。この戦いで数少ない兵力であったにもかかわらず、新政府軍の大軍と同
等以上に戦えたのも土方歳三の指揮があったからだろうと勇次郎は言います。

24日、新政府軍の軍艦5隻が箱館の砲台に迫ります。榎本軍は80斤の巨砲、24
斤の砲、合わせて7門で迎撃しました。回天、蟠龍、千代田形も出撃し、10丁
を隔てただけの距離で激しく砲撃し合います。しかし、結局勝負を決せないま
ま12時に新政府軍軍艦は撤退していきました。

しかし、午後再び軍艦が迫ってきます。互いに数百発の砲弾を撃ち合います
が、また、勝敗が決まらないまま4時に新政府軍軍艦は引き上げていきまし
た。この海戦で、榎本軍軍艦は2箇所に被弾し、死傷者が4〜5名でました。

そして、この戦いの流れ弾によって市中の男女数人が死傷してしまいます。
勇次郎は「実ニ憐ムベシ」と一般人の死傷者に哀悼の意を表わします。砲台も
3〜4発被弾しましたが、こちらは死傷者無しでした。

榎本軍の軍艦が放った砲弾も、新政府軍軍艦に4〜5発命中していました。この
時の海戦には、新政府軍の甲鉄艦も参加していました。甲鉄の放った巨大な砲
弾は見た所長さ3尺、丸さは2尺余もありそうです。

これを発射する為には10人の力を必要とし、撃ち出す時には蒸気の力を利用す
るので1時間に3発しか撃てないと勇次郎は聞いていました。甲鉄に搭載されて
いる砲は、メリケンからの渡来品で日本一だという事です。そして、この弾丸
が破裂する時の音は、天地さえも震動する程だといいます。


4月26日、新政府軍の軍艦数隻が襲来し、榎本軍も応戦して互いに砲を撃合っ
たものの勝負がつかないまま退却していきました。翌27日、再び新政府軍は陸
と海から茂辺地村に迫りました。榎本軍三艦が陸軍援護の為に新政府軍五艦と
戦闘状態になりますが、榎本軍の陸軍は次第に不利となってしまったので有川
村へと退却してそこで守備につきます。海軍は、勝負のつかないままお互いに
退却して行きました。

28日、新政府軍は再び陸海両方から襲来してきました。勇次郎ら陸軍は戦う度
に不利となって退却を繰り返し、亀田新田と七重浜を守備する事になりまし
た。この戦いは26日から3日間昼夜無く続き、死傷者が多数でました。

29日暁天、千代田形艦の操舵手が誤って弁天岬の暗礁に乗り上げてしまい、操
縦不能になってしまいました。そこで、乗組員は艦の器械類を壊して海に投げ
入れ、艦を捨てて小舟で退却し上陸しました。

軽くなった千代田形艦はそのお陰で暗礁から離れましたが、新政府軍の艦に近
づいて行きます。新政府軍艦は“敵襲”と勘違いして頻りに砲撃してきました
が、乗組員のいない千代田形艦は応戦して来ません。

不審に思った新政府軍艦は千代田形艦に近づいて見てみましたが、人影は全く
見えません。そこで、彼らはこの艦を奪って行きました。後に、この千代田形
の艦将はこの不始末を恥じて死を乞いました。しかし、これは許されずに獄に
入れられてしまいます。

そして、勇次郎は千代田形の副将某は自刃したと聞きました。数少ない艦だと
いうのにこんな事になって、全く何てついてないんだ…と勇次郎は嘆きます。
この後2時頃に新選組は有川村へ進撃するとの命令が下りました。そこで、
所々に番兵を出し、速やかに引き揚げて出陣していきました。

亀田新道で諸隊と合流して勢揃いしました。勇次郎ら新選組は先鋒です。ここ
を守備するのは、彰義隊・遊撃隊・陸軍隊・伝習隊の5隊、総勢300人、総指揮
は大鳥氏がとり、夜12時に速やかに進撃しました。

新政府軍は、100人余が七重浜に駐屯していました。そこへ勇次郎ら大鳥軍が
攻撃を仕掛けます。少しの戦闘時間で新政府軍は慌てふためいて散乱し、有川
村の民家に放火して逃げていきます。

大鳥軍は大声で叫びながら進軍します。有川村に近付いたところで少し辺りの
様子を監察しました。有川村という所は海岸にほど近い平地で要地はありませ
ん。一時はこの有川村に深く入り込みましたが、海岸に近いという事で、も
し、新政府軍海軍が海から攻撃を仕掛けて来たら一溜まりもありません。

そこで、少し退却して七重浜・亀田新道に守備兵を置き、各隊は引き揚げる事
になりました。勇次郎ら新選組は一度五稜郭へ戻り、隊を整えた後に再び箱館
に戻って行きました。

この時、新選組は手負2人、戦死1人を出しましたが、新政府軍の屍12人を捕ら
え、人足12人も捕らえました。そして、四斤砲1門と弾薬を少しですが分捕り
ました。


5月3日に新政府軍の軍艦が襲来してきました。砲台から応戦する為に弾を撃ち
出そうとしましたが、弾は無く、しかも火門に釘が打ち付けてあり発射する事
が出来ません。これには皆驚き、ただ周章狼狽するだけでした。

しかし、色々と手を尽くした結果、漸く6門共発射する事が出来る様になりま
した。この時の勇次郎の心中は、嬉しさを隠しきれないという状態だった様で
す。そして、彼らの烈しい反撃が始まります。

新政府軍の烈しい艦砲射撃がありましたが、勇次郎らの方が少し有利だったの
で遂に新政府軍軍艦は退いて行きます。その後、火門に釘を打った者を糾弾し
ようと探していると、砲兵の中に怪しい者が紛れ込んでいる事が判明します。

その怪しい人物を捕らえ、東風泊で鳩首に処しました。その者は、元の松前藩
士で、新政府軍の間者だったのです。勇次郎は、こんな所にまで間者が入り込
んでいる事を知り「本当に恐るべき事だ」と呟きます。

7日、新政府軍軍艦5隻(甲鉄艦・春日艦・陽春艦・丁夘艦・朝陽艦)が明け方
に侵攻して来ました。榎本軍の蟠龍艦は先日の戦いで“ケートル”が傷付き、
未だ修復中で動かせません。

新政府軍は、回天艦を続けざまに狙い撃ちます。回天艦も死力を尽くして奮戦
しますが、新政府軍軍艦5隻に対して榎本軍は回天艦只1隻のみ。多勢に無勢で
は、勇次郎達に勝ち目は無さそうです。しかも、砲台の射程距離の遙か沖にい
る新政府軍軍艦には、全く着弾しません。ただ、切歯扼腕するだけでした。

お互いに連射する大砲の音は、正に天地が震動するかと思うほどの凄さです。
新政府軍の撃った巨大な弾が数十発も回天艦を貫き、回天艦はあたかも蜂の巣
の様な有様になってしまいました。更に、甲鉄艦の300斤に回天艦は車軸を砕
かれ、操縦不能になってしまいます。

その為に、回天艦は遂に沖ノ口番所前の浅瀬に乗り上げ、それでも屈せずに応
戦します。その姿は、まるで海に浮いている城の様に見え、勇次郎らはこれを
“鬼回天”と称しました。

榎本軍の巨大な弾も数十発新政府軍軍艦を貫きましたが、榎本軍には多数の死
傷者がでました。そして、3時過ぎに漸く新政府軍軍艦は去っていきます。こ
の日の回天艦の働きは、称えるに値するものでした。

11日、新政府軍は陸・海から同時に大挙して箱館に侵攻して来ました。砲声は
霹雷の様に海上に轟きます。勇次郎が砲台に登って見ると、天は未だ明けてお
らず、ただ、砲撃の火と光と艦影しか見えませんでした。そこで、直ちに海の
守りを厳重にする様に進言します。

箱館港の前面は伝習士重二小隊が守備し、尻沢辺村には砲兵半小隊、三本川は
新選組半小隊が守備します。森常吉は、新選組半小隊を率いてこの砲台に留ま
りました。また、関広右エ門も砲兵二小隊を率いてここに留まります。堤防上
には備え付けの80斤と14斤砲がありました。


箱館奉行の永井玄蕃は、砲台の総督となり共に協力して戦い続けます。榎本軍
の海軍には蟠龍艦只1艦しか残っていませんでしたが、新政府軍には今なお8艦
もありました。

大森浜には延年艦が、砲台には陽春艦が、頻りに東風泊に砲撃したり、斜めに
砲台へと砲を放つものは春日艦、七重浜上陸部隊を援護している蟠龍艦に対峙
するのは電龍艦と朝陽艦、三本川には飛龍艦と豊安艦です。

甲鉄艦は、只1艦、湾の中央で隠然と留まっています。そして、150斤砲をもっ
て蟠龍艦を砲撃し、300斤砲で砲台を攻撃しているのです。あちこちの戦いも
頻りに砲撃戦が繰り広げられ、少しの間も砲声が止む事は無く、その音はまる
で山岳を崩す様で煙が漲り艦影も見えません。

両軍共に未だに雌雄を決する事は出来ず、三本川へと向かいます。飛龍艦と豊
安艦の2艦は、上陸兵を乗せた小舟を数十も出しました。榎本軍の小隊も必死
に防戦しますが、多勢に無勢、右を守ろうとすれば左を攻められ、勇次郎らは
危うくなります。

そして、その隙を衝いて忽ち1000余人もの新政府軍兵が上陸しました。(新政
府軍は、この辺りの海をイギリスの手助けで測量したと言う事です)砲台は、
この事に全く気付いていません。

山の峰から小銃の音が聞こえました。仰ぎ見ると、新政府軍兵が忽然と臥牛山
へと登り、三本川守備の榎本軍兵を撃ち下ろし始めました。守備兵は奮戦しま
したが、僅か数人で数百人を相手にするのです。更に地理も分からなくなり、
遂には敗れ、砲台へと退きました。そして、ここに籠城する事となるのです。

前面からは滝川充太郎率いる伝習士官隊が七面山へ登って砲撃します。しか
し、多くの死傷者を出し、援兵も無く、遂には五稜郭へと敗退して行きまし
た。新政府軍は忽ち足下を抜け、1隊は箱館と五稜郭の道を絶ち、1隊は砲台を
襲います。砲台の諸隊は柵の外の民家へと火を放つと、炎は天に漲り、まるで
昼間の様な明るさで必死に防戦に勉めます。

四方に散っていた新政府軍艦も、全艦湾内に集まってきました。蟠龍艦は砲台
と共に新政府軍艦を砲撃します。その砲弾は新政府軍の朝陽艦の弾薬庫を砕
き、艦は忽ち粉砕されて木っ端微塵となって沈没していきました。その音は雷
の様に海に轟き、炎と煙は天に満ち、乗艦していた兵は有る者は空へと吹き飛
ばされ、有る者は海中へと没し、生きて海岸へと辿り着いた者は僅かでした。

これを見た榎本軍は快哉を叫び、諸隊長は「この機を失うな!」と大声で渇を
入れ、兵は奮戦しました。蟠龍艦は死を決して東に進み西に馳せて新政府軍艦
と戦っていましたが、十数発の砲弾を受け、遂に操縦不能となってしまいま
す。そこで、岸に乗上げて浮き砲台となって戦い続けましたが、遂に砲弾も尽
きてしまいました。

乗組員は小舟に乗り移り、艦に自ら火を付けて砲台へと向かいます。この艦の
副将松平時之介は、艦上で命令を出していました。甲鉄艦の150斤砲がその胴
を貫き、艦体は木っ端微塵に砕けました。

蟠龍艦の艦将は松岡盤吾といい、彼は海軍の技術に優れ、艦を自分の手足の様
に自由自在に動かす事が出来ました。だからこそ、蟠龍1艦で新政府軍の8艦を
相手に戦う事が出来たのです。これは、実に称えるべき事でした。

回天艦は、先の戦いで傷付いてこの戦いでは動かす事が出来ず、浮き砲台と
なって戦いましたが、遂に五稜郭へと退きます。今までの戦いでは、海軍の働
きが大きく、戦いも巧みでしたが蟠龍艦、回天艦の2艦共が使用不可能となり
ました。これで、榎本軍の海軍は終焉を迎えました。

しかし、陸軍の戦いは更に激しさを増していきます。砲台が籠城戦に突入する
間際、陸軍奉行添役大野氏が援軍要請の為に五稜郭へと向かい、戻った後に勇
次郎らは五稜郭の状況を詳しく聞きました。

大野氏は「千代ヶ岡で新選組隊長兼陸軍奉行の土方歳三君に会った。彼は砲兵
二小隊を率いて砲台を助けようとしていたので、自分も又馬首を巡らして彼に
従い共に一本木関門へと向かった。士官隊がここへ来て、“我が軍は七面山を
支えきれずに撤退した。ケガはしているが、まだ戦う事は出来る。我が隊は君
に全てを託そう。もし、怯懦振舞をする者があったならば、直ちに斬捨ててく
れ」と呼びかけられます。呼びかけた人の顔は赤く眼光は鋭く人を射るかの様
で、流れ出る血も真っ赤です。その人は、士官隊の滝川充太郎でした。


勇次郎らは士官隊と合流して速やかに進んで行きます。しかし、敗退してきた
兵士達は、既に戦意を失っていました。その時、土方歳三が「自分は、この柵
に留まり退く者を斬る」と言います。

勇次郎は兵を率いて戦いますが、新政府軍は勝ちに乗じて銃を放ちながら戦い
を挑んできます。額兵隊は市街地の左側を進み、士官隊は海岸と市街地に展開
して進みます。

新政府軍もそれにあわせて少しずつ移動します。士官隊は巧みに銃を扱いなが
ら戦い、そして、新政府軍兵の間近に迫ると銃を投げ捨てて刀を抜き、白刃を
煌めかせ、身を躍らせて進み戦います。

しかし、後ろを守っている筈の額兵隊が恐れて進まず、隊伍を乱します。尻沢
辺を過ぎて行く新政府軍は喧しく、勇次郎隊の退路を断つ様だと伝令が届きま
した。勇次郎は兵を叱咤しますが、一歩進んでは十歩退く状態で勢いづきませ
ん。

ここで勇次郎は、「土方さんが柵に留まっている筈なのに、兵は柵を通り過ぎ
て退いて行く」と不審に思いますが、「自分はここに留まって戦うと土方さん
と約束したんだ!」と必死に戦います。しかし、遂に千代ヶ岡に退く事になっ
てしまいました。

千代ヶ岡で陸軍奉行添役大嶌虎雄と安富才介に会い、ここでさっき勇次郎が不
審に思った土方の事を聞きます。彼らは、「馬に跨り柵にいた土方さんは、新
政府軍兵士に狙撃され…亡くなってしまった…」と勇次郎に告げます。

砲台にいた新選組の隊士は、土方が亡くなった事を聞くとまるで子供が母を
失って嘆き悲しむ様に悲嘆にくれました。勇次郎は、「ああ、なんて惜しい人
を失ってしまったんだ…」と言います。

勇次郎は悲嘆にくれながらも馬を走らせて五稜郭へ向かい、榎本総裁に会って
事細かに箱館の敗戦を伝えました。榎本は、「新選組と砲兵が砲台に取り残さ
れている。これをどうにかして助け出さねばならない。これは、諸隊に委ねる
のではなく、自分自身が行って救わねばならん!」と言い、馬にムチを打ち、
駆出そうとします。

それを見て皆は慌てて馬を止め、「総裁が砲台に向かわれてしまっては、他の
方面の指揮はどうなりますか!?総裁は、ここから動かないでください!」と諫
めました。副総裁の松平太郎が、「自分が総裁に代わって砲台へ行き、戦いま
しょう」と駿馬にムチを打ち、千代ヶ岡の諸隊へ指令をとばしました。

海岸の砂山を廻り進むのは額兵隊と見国隊です。士官隊は本道を進みます。榊
木隊は人員が少なく、隊長の酒井良祐は鍬ヶ崎の戦いで亡くなっているので士
官隊と合流して進軍しました。

新政府軍は既に一本木の街に陣を敷き、柵の間に兵を散開して待機していま
す。


榎本軍、新政府軍、両軍入り乱れ、集まり、離れ、侵出し、支えながら、起き
て銃を放つ者、伏せて銃を放つ者と総力を挙げて戦います。小隊は銃を放ち、
大隊は大声で命令を叫びながら数刻戦いましたが、勝敗を決する事無く、榎本
軍は退いていきます。

新政府軍はぐんぐんと進み、諸隊は全て千代ヶ岡に集結しました。この間にも
見国隊の隊長関源二が死亡し、亡骸が運ばれて来ます。額兵隊の隊長星恂太郎
は剣を抜き放ち「我が隊は何て情けないんだ。全く、諸君に面目ない」と嘆き
ます。彰義隊隊長渋沢誠一郎は髪を振り乱し、酷く悪い顔色をしています。

遊撃隊隊長柏崎才一は黙して語らず、一人千代ヶ岡総督の中嶌三郎之介は歳60
余で眉も髪も半白、怪我を負いながらも未だに意気軒昂です。夕日が西に傾く
頃、松平副総裁は千代ヶ岡の守りを厳しくする様言い残して五稜郭へと帰って
いきました。勇次郎は、彼と共に五稜郭へと行きます。

その後、中嶌父子3人は千代ヶ岡がいよいよ陥落するという時に堤の上へと登
り、白刃を煌めかせながら大声を放ち、新政府軍の大軍へと斬込んで行きまし
た。そして、父子共に死んでしまったという事です。彼ら父子の勇気は、憾す
るに余りあるものでした。

この日の戦いで五稜郭の西南にいた隊は、伝習歩兵隊、一連隊、遊撃隊、工兵
隊、衝鋒隊、春日隊です。激戦は暁天から続き、両軍鋭く侵攻しあい、大小の
銃弾は息をを吸う間も止む事はありません。

夥しい数の死者、負傷者を出しましたが、日暮れになって両軍とも停戦となり
ました。川を隔て、塁を造り陣を張ります。ここで榎本軍の指揮を執るのは陸
軍奉行大鳥圭介とレシメン隊長の本多幸七郎です。

伝習歩兵隊を率いる者は大川正二郎、一連隊は松岡四郎次郎が率い、遊撃隊は
澤録四郎が率い、工兵隊は吉沢勇四郎が率いています。衝鋒隊長の古屋作左エ
門は死亡、春日隊長春日左エ門も死亡していました。

この時、五稜郭を守っていたのは凡そ900人余。千代ヶ岡を守るのは、400人と
いう事でした。そして、箱館の砲台を守っていた200人は、五稜郭との間が新
政府軍によって寸断され、砲台で孤立してしまいましたが必死で戦い続けてい
ます。

12日、砲台は終日烈しい銃撃戦が繰り広げられましたが、勝敗は決まりません
でした。


13日の早暁、新政府軍は海と陸から大挙して柵の外に迫りました。押し寄せた
大軍は、烈しく大小砲を撃ち放ちながら砲台を奪おうとします。その勢いは破
竹の如く、砲声は霰や雷の様でした。

勇次郎らは少ない人数ではありましたが海岸へと突出して巨砲を配備し、一番
の要衝を守り抜く為に鼎峙の勢いを為しています。その勢いを恐れ、ここは抜
けないと思ったのか新政府軍は夕方に退いていきました。

この砲台は守りが難く、抜く事は難しいと言われましたが、只一つだけ弱点が
ありました。それは、小さな井戸が一つしか無く、水に乏しかったのです。こ
れは、きっとここを築いた人の誤算だったと思います。

その事が分かっていたので、今回の籠郭の際には二方に入れ物を造り水をたっ
ぷりと溜めていました。しかし、不幸な事に先日の戦いの時、海軍の放った巨
弾がその水を溜めている器を砕いてしまいました。

その為に今日水が尽き、米があっても焚く事が出来ず、怪我人のキズを洗う事
も出来ませんでした。一番可哀想だったのは乗馬で水が無くて遂に死んでし
まったので、兵士はその肉を食べました。

昔も水が無くて苦しんだ事があると言います。今日、勇次郎も喉がカラカラに
なってしまい、「この苦しみは、書表わせない」と悲鳴をあげます。しかし、
砲台を守っている皆で力を合わせ、必死の勇気を振るわせて戦いました。新政
府軍兵士は死傷者を多数出し、力で押しても敗れない事を知った様です。

14日、榎本軍の病院医師高松凌雲と執事小野権之丞が薩摩藩の池田次郎兵衛と
榎本軍負傷者諏訪常吉の病床にて事細かに話した事を書き記し、ケガをして入
院していた高橋与四郎、伊奈半二郎を小舟に乗せ、白旗を掲げて砲台の下へと
向かわせ、新政府軍の意を伝えられてきました。

その携えていった書には、“諸々の長が議論し、書を以て答える。砲台は支塁
である。決定は、五稜郭に於いて議する”という様な事が書かれていました。

翌15日、砲台にいた陸軍奉行副役兼箱館市中取締相馬主殿と蟠龍艦艦長松岡盤
吾が共に五稜郭へ向かいました。薩摩藩の永山友右エ門が自ら先に立って諸軍
に行く手を空ける様に命令を下します。

途中、永山氏は「今日のこの事は、実に正しい判断である。今までの戦いに悪
者はいない。君たちは限りある兵であり、限りのない朝廷の兵に手向かい続け
るという事は、1日の勝ちがあったといっても敗れる事は必定なのだ」と相
馬、松岡両氏に言います。

永山氏は、兄弟ともいえる者達なのだから、この国が万国と並び立とうとして
いる今、共に力を合わせようではないかとその意を説いてきます。彼は、和睦
を心から願う者の様でした。


相馬、松岡の両氏が榎本総裁と松平副総裁に会い、高松、小野両氏の手紙を渡
しました。手紙を受け取った榎本、松平の2人は、「我々二人が今、お二人か
らの手紙を受け取っても、蝦夷地に来た理由は昨冬提出した嘆願書が全てであ
る。今更改めて言うべき事は無い。我らが嘗て嘆願した事を再び今嘆願し、認
められない時には寧ろ死を選ぶ」と一つの返答書を送りました。

総裁は「この返答書を新政府軍が承知した時には烽火を上げ、空砲を轟かせて
砲台へ報そう」と言いました。議論は、既に定まっている様でした。そこで、
2人は砲台へと帰っていきました。

永山氏が帰りも砲台まで先導してくれました。その時、相馬氏が永山氏へ「榎
本、松平の両氏は日暮れまでには必ず書を以て高松、小野の2人に送ると言っ
ていました。2人がこれを参謀執事に達するでありましょう」と伝えました。

翌16日、永山氏は夜明けを待って砲台の柵の外へと来ました。そして、永井公
と相馬氏に会い、「榎本、松平氏らの答えでは戦は収まらない。今、再び考え
直す様に…」と誠心誠意をもって説きます。

永井公、相馬氏、河邑氏が永山氏と共に五稜郭へと向かい、両総裁に会って議
論しましたが、依然として二人の考えは変わりません。榎本総裁は永山氏に千
代ヶ岡側の橋の上で会いました。

永山氏は降伏する様に説きますが、榎本総裁は「貴殿が我々を心から思ってく
れている事は良く分かりました。しかし、降伏する事は…やはり出来かねま
す」と告げました。永山氏は榎本総裁に降伏の気持ちが無い事を知りました
が、再び説得をします。

永井公らが榎本総裁に「総裁が戦い続けると仰れば、砲台の指揮官らは必ず総
裁に従います。しかし、五稜郭と砲台の間に新政府軍が入り込んでいる今の現
状では、共同して戦う事は不可能に近いと思われます。各々が独自の戦いを挑
むしか無い今、総裁の命を違わずに行う事は不可能でしょう」

永井公らは馬を並べて戻っていきました。永山氏は「これ以上、多くの血を流
す事は無益な事です。外国との交渉がこれから多くなるというのに、朝廷には
そういう人材が乏しいのです。榎本君の事は実に惜しい」と嘆き、戻っていき
ました。


この日(16日)新政府軍から砲台諸隊と五稜郭へ酒と食料が送られました。こ
れは、榎本総裁がオランダから持ち帰った貴重な本を戦災で無くすのを惜し
み、新政府軍へと贈った為でした。

更に、滝の様に弾が乱れ飛ぶ中でも白旗をうち振って進み来る者があった時に
は、これを殺傷してはいけないという事も伝えてきます。勇次郎は、「これ
は、実に元亀天正の遺風の様である」と感心しました。

勇次郎らが新政府軍からの酒を酌み交わしながら決戦への決意を固めている
と、馬に鞭をうちながら永山氏が駆けてきます。そして、砲台の総指揮官であ
る永井玄蕃と会い、話し合いを始めました。

永井公は諸隊に向かって、「我らが今降伏しなければ、大軍が侵攻して来ると
いう。武士たる者、そうなっては戦わねばなるまい。我らに罪は無い。そうで
はあるが、天朝の兵と戦ったからには謝罪せねばならぬ。皆は、どうしたら良
いと思うか」と言いました。

皆は決断を下す為に色々と議論します。「降伏するなら、死んだ方がまし」と
いう意見もありましたが、永井氏は「いたずらに死んではいけない」と言いま
す。「新政府軍の勧降書に従うか?」との言葉に、台場の人々は皆、首を垂れ
て答えませんでした。

暫くたった後、「この膝を一度屈したならば、則ち刀を帯びる事は出来ない。
いやしくも刀を帯びているからには、総裁の命に従う」と言います。しかし、
自ら兵器を捨てて投降するという事は、四肢を斬られるかの様に思えるのでし
た。

永井氏が和議という結論を出した事を聞くと、五稜郭の榎本・松平両氏は死を
決します。しかし、兵士達は室蘭へ脱出しようとする者、総裁・副総裁の首を
携えて新政府軍へ投降しようと議論する者など様々な行動を起こします。

こうなっては軍としての機能は全く衰え、降伏は時間の問題となってきまし
た。永井氏は永山氏と話し合った時に、約定を交わしていました。それは、刀
だけは帯びても良いが他の兵器は全て召し出す事。新政府軍に恭順の意を表
し、謝罪する事というものでした。

日暮れになり、新政府軍の軍監が参謀の書を砲台へと持参してきました。そこ
には恭順の為の実効三章の令として、

恭順実効三章之ヶ条

一  長官之者陣門へ罷可出事
一  願之通台場内ニ恭順、追而朝裁ヲ相待可申事
一  双刀之外兵器悉皆差可申事

と書かれていました。皆、不満そうな顔をしましたが、武士としての道を失っ
ていない事で自らその心を慰めました。しかし、年若く血気盛んな者達は憤慨
やるかたなく歯を噛みしめていました。


5月17日、遂に五稜郭は降伏しました。
榎本・松平両総裁は自決しようとしますが、皆にそれを止められます。
18日になり、新政府軍の前田某という軍監が砲台に来て降伏・謝罪の為の二ヶ
条を実行する様に迫ります。

その二ヶ条とは、

一  長官ノ者陣門ニ降伏可致事
一  帯兵兵器悉皆可差出事、其余ハ寺院ニ於テ謹慎罷可有事

…というものでした。

且つ、前田軍監が密かに言う事には、「千代ヶ岡も五稜郭も降伏した。榎本君
は両刀を既に差し出しているというのに、諸士が両刀を差し出す事無く帯びて
いると降伏の条項に違反している事になる。

確かに、刀を手放すというのは忍びない事ではあるが、それは榎本君の為に良
い事では無いのだ。榎本君の為にも忍んでくれ」皆、それを聞いて愕然とし、
心中穏やかではありません。

永井公が「話し合った後にお答えします」と返事をし、諸隊が喧々囂々、声を
嗄らす程に話し合いました。「粟は10旬を支えられるだけ有り、弾丸は10余戦
出来るだけは有る。1勝も出来ないとしても、潔く戦いたい」という意見が出
ました。

しかし、新政府軍が信義を以て対応してくれたからには我らも信義を以て応じ
なければならない。そう決し、遂に恭順を為すに至ったのです。戦おうと戦わ
ないと、刀を帯びようと帯びまいと恭順にかわりは無いだろうという意見も出
ました。

それを聞いた永井公は諭す様に「恭順する事を分かってくれたのは有難い。し
かし、恭順したからには全て従わねばならぬのだ。今、軍監の意に逆らえば則
ち罪が一等重くなるだけなのだ」と言います。

諸隊長は皆永井公の意に従って、各隊士を説得します。しかし、隊士達は黙っ
たままで答えません。それに対して永井公と諸隊長は怒りながらも諭した所、
皆は涙を拭きながら、「総督や諸隊長が刀を差し出されたというのに我々が差
し出さなくては新政府軍や総督、諸隊長の意に逆らう事になってしまいます。

忍び難きを忍んで、これらを差し出します。しかしながら、これは我々が生き
延びたいが為ではありません。そう思われる事は、只遺憾な事です」と言いま
した。それを聞いた永井公は台場から出て、軍監に会いました。

そして、「謹んで謝罪し、全ての刀を差し出します」と答えました。五稜郭か
ら榎本・松平・大鳥・新井の4人が、砲台からは永井・相馬・松岡の3人が陣内
に下り、その寺へと入りました。

この時までに何人が亡くなったのか勇次郎らは知りませんでしたが、新選組か
らは栗原仙之介・粕屋十郎・武部銀次郎・永嶋五郎作・津田牛五郎・歩兵祐二
郎が亡くなり、谷口四郎兵衛・寺井主税・鳥羽多喜松・五十嵐伊織・角谷糺が
負傷していました。

諸隊は津軽青森へ行き謹慎すべしと言う命令が下り、21日10時にイギリス鑑ア
ラヒオンに乗り込んで箱館を出発、5時に青森の港へ到着しました。しかし、
海が荒れていたので上陸する事が出来ず、そのまま鑑中に泊まりました。

22日に漸く上陸して蓮華寺へ入りましたが、黄昏時に勇次郎ら新選組は青森か
ら1里程の油川宿にある明誓寺へ移りそこで謹慎します。警備は、驚くほど厳
しかった様です。


6月9日になりました。
弘前へ行く様にとの命令が下り、明誓寺を出発して青森の蓮華寺で休憩した
後、夜12時過ぎ頃に11里ほど離れた薬王院に入りました。この日は激しい雨が
降っていましたが、途中から晴れてきました。13日に生国、役名そして旧藩を
書いて提出しました。この薬王院でその後長く謹慎する事になります。


7月20日に再び弘前を出発し、夜2時に青森蓮華寺へと向かいます。途中雨に降
られましたが、少しすると晴れてきました。この後、この蓮華寺で長く謹慎す
る事になりました。


10月22日夜12事頃に勇次郎たちを東へと護送する為、大坂艦が入港してきま
す。23日、旧徳川家家臣、仙台藩家臣は蝦夷地へと向かいました。勇次郎には
東行きの命が下ります。24日12時に東北へ向かう者達は全員乗艦しました。そ
して、25日に出発して箱館に到着、北行きの者達は全員上陸して砲台へと入り
ました。風向きが悪く、この港で暫く停泊する事になりました。


11月4日、早朝に箱館港を出発、海は波も静かで何事もなく無事に8日品川沖に
到着しました。翌日小舟に乗り換えて漸く上陸、人員を整えた後に夜になって
芝増上寺境内にある最勝院へと入ります。11日に旧藩へ引き渡すという命令が
下り、桑名藩公用人と共に兵部省において『其の方、箱館において朝廷に抵抗
し、ついには降伏したと言えども其の罪は軽くはないが格別の沙汰により旧藩
へ差し戻す事とする』との命令書が読み渡されました。

それと同時に旧藩へも、『別紙に名前が挙がっている者達を旧藩へと差し戻す
ので早々に国元へと送り、謹慎させる事』との御沙汰書が渡されます。謹慎所
の門を出た勇次郎らは、迎えに来た旧藩の人たちと旧桑名藩の仮邸となってい
る深川霊巌寺に向かいます。

霊巌寺では定敬公より今までの謹慎中の労をねぎらわれ、酒肴を賜り、更に金
や衣服も頂きました。13日、いよいよ桑名へ向けて出発です。そして、10日後
の23日に漸く桑名に到着しました。

勇次郎は、加茂で別れたきりの母の安否が分らずにずっと案じていましたが、
監察によって「2日前に北越から無事に到着され、今は親戚の家にいる」と告
げられました。これを聞いた勇次郎は、「あの戦いを乗り越えて再会出来るな
んて」と大喜びしました。

桑名では現藩主から密かに生魚を賜うと共に、今までの艱難を慰める言葉と無
事に桑名へと戻って来てくれて安心したと言う言葉を告げられます。そして、
庄内へ向かった藩士達が勇次郎達よりも先に桑名へ戻り、寺院で謹慎していま
した。この後、勇次郎と庄内から戻った者達とお互いに今までの事を語り合い
ました。


                  (了)


【参考・『別冊歴史読本特別増刊 歴史読本セレクト 幕末維新シリー
    ズ(1) 新選組 「戊辰戦争見聞略記」』/石井勇次郎・『箱 
    館戦争史料集』/須藤隆仙 編】



【石井勇次郎の回想録】は、これをもちまして終了となります。
読んでいた本で名前を見掛けた事から気になってしまった桑名藩士石井勇次郎
クン、彼との付合いは随分長かった様な気がします。(途中、PCの不調なども
ありましたから…ーー;)

書き始めた時には、ホンのかる〜い気持ちだったんです。しかし、江戸-北関
東-北越-東北-蝦夷と勇次郎クンは戦い続け、「そ〜かあ、こんな長かったの
かあ」と思った事もありましたが…本日漸く桑名に辿り着きました。(途中ま
では別連載の『桑名藩』と同時進行、しかも同じ所で戦うといった状況もあ
り、頭がグジャグジャになりました)

彼は、ホントに熱血漢です。喜怒哀楽がとってもハッキリしています。そんな
所も彼の愛すべき所だと思います。でも、そんな勇次郎クンを皆さんにちゃん
とご紹介出来たかが心配です。(^^;


毎度の事ですが、変換ミスや私の勘違いで文字が違っている場所もあるかもし
れません。更に、訳し方が違っていた所も有りそうですし、分かり難い部分も
たくさん有ると思います。そんな文章を最後までお読みくださった皆さん、本
当にありがとうございました。<m(__)m>



                 珠美でした

もどる